299話〜2番目の美しさだよ〜
「おっ、そうだ。ボスに渡す物があったんだ」
お爺さんが作ってくれた芋羊羹を堪能した鈴華がそう言いながら、背中に回していたポーチを正座していた膝の上に置いた。そのポーチから出て来たのは、白い封筒…じゃないな。口が短辺じゃなく長辺についている。チケット入れかな?
差し出されたチケット入れを手に取り、中身を確認すると、何枚かのチケットが出て来た。
その内の一枚には、こう書かれていた。
〈3/22 10:05 東京特区・羽田 → 12:20 沖縄特別地域 〉
これは、航空機のチケット。だが、何故こんなものを寄こす?
訳が分からんと、蔵人がチケットを覗き込んでいると、鈴華が少しだけ声を張り上げる。
「クリスマスプレゼントだよ、ボス。鈴華サンタからボスに3泊4日の沖縄旅行をプレゼントだ!春休み入って直ぐの出発にしてるからな」
「お、おお。そうか。ありがとう。だが、こんな高価な物を貰ってしまって良いのか?俺は何も用意していないのだが」
「そんなの気にするな。クリスマスに女から男に贈り物をするってのは、当たり前の事だろ?」
おお。そういう所まであべこべなのだな。という事は、他のイベント…バレンタインとかも男からチョコを渡すのか?
蔵人がカルチャーショックを受けているのを見て、鈴華は安心しろとでも言うように、言葉を続ける。
「大丈夫だ、ボス。ボスだけじゃなくて、他の奴らにも渡してるからな」
「他の奴?」
「ああ。先ず、そこにいる2人だろ?翠に祭月、あと早紀(伏見さん)にも渡してる。ファランクス部のお楽しみ会みたいなもんだ」
そうか。そういう事か。
納得しようとする蔵人。でも、そんな大人数の旅費をポンと出してくれる鈴華の懐事情に、やはり驚きを隠せない。
そんな蔵人の袖が、横からツンツン引っ張られる。
うん?桃花さん、どうしたんだい?
「く、蔵人君!僕も、あの、用意してて…プレゼント、それで」
噛み噛みのままに、両手を突き出して来る桃花さん。その手には、手のひらサイズの平たい袋が乗っていた。
もしかして、3人ともこれを行う為にここまで来たのだろうか?そうだとしたら、とても有り難い反面、何も用意していなくて申し訳なくも思う。
蔵人は、お礼を言いながらプレゼントを受け取り、心の中では頭を下げた。
この試合が終わったら、彼女達にお返しをしなければ。
「開けて良いかな?」
「う、うん。ホントに、大した物じゃ無いんだけど」
袋を傾けると、そこから赤系統のヒモが出てきた。何本もの刺繍糸が合わさって出来たそれは、切れると願い事が叶うミサンガであった。
おお、懐かしい。中高生が好んで着けていた覚えがあるぞ。
「ありがとう、桃花さん。大切にするよ」
「うん!あ、でも、あんまり大切にすると、糸が切れないかも。ワザと切るのはダメだけど、切れないと願い事が叶わないから」
そうか。色々とルールがあるのだな。
蔵人は桃花さんから、ミサンガの事を聞く。
ミサンガは一度着けたら外さないのが原則であり、自然と切れる事で、それまで貯めてきた願いが解放され、成就するのだとか。
また、着ける位置も大事で、利き手首は恋愛。反対の手首は勉学の成就が期待できるらしい。
「そのミサンガは赤とオレンジ色で組んでるから、勝負事に良いんだ。だから、着ける位置も利き足首だとより効果があるらしいよ」
そいつは良い。
全日本の真っ最中である今、1番欲しい運気である。
「ありがとう、桃花さん。まさに今、俺に必要なものだ」
「うん!」
蔵人が早速、右足首にミサンガを巻き付けると、今度は若葉さんが前に出てきた。
背負っていたリュックから、一冊の分厚い本を取り出す。
その厚い本の表紙には〈ALBUM〉と金字が躍っている。
開いて見ると、そこには所狭しと沢山の写真が詰まっていた。
桜城の入学式から、ついこの間のコンビネーションカップまでが、時系列順に並んでいる。写っているのは蔵人が中心だが、仲間達の微笑ましい瞬間も混じっていた。
蔵人は暫くアルバムをめくり、出てくる写真の数々に目を奪われた。そして、首を振りながら静かに閉じる。
イカンイカン。こいつは時間泥棒だ。眺めるだけで一日が終わってしまう。
蔵人は無理やり顔を引き上げ、若葉さんに笑みを向ける。
「ありがとう、若葉さん。これは凄い。君の集大成だ」
「気を付けてね。黒騎士のオフショットが満載だから、外に流出したら争奪戦が発生するよ」
うっ。それは、否定出来ない。
蔵人は、夏休み明けの生徒達を思い出して、顔を引き攣らせる。
校内新聞の写真を巡り、高額オークションを始めたからな、彼女達。
蔵人は、アルバムをもう一度しっかりと掴み直す。
そんな蔵人を見て、鈴華がグッと顔を近づけて来る。
「な〜んか、あたしのプレゼントだけ喜びが薄い気がすんだけどなぁ」
「そんな事はないよ、鈴華。ただ、君のプレゼントは高価過ぎるから、嬉しさよりも驚きが勝っただけだ」
「本当かよ?」
ジト目を向けてくる鈴華に、蔵人はうんうんと頷く。
実際、彼女のプレゼントは嬉しい。それは、お金をかけたからと言う以上に、鈴華が蔵人自身の事を、そして周りの娘達の事も考えて行動してくれたからだ。やろうと思えば、蔵人との2人旅だって計画できるであろう鈴華が、ライバルである伏見さんまで誘ったのは、彼女の思いやりだ。
入部当初の鈴華だったら、こんな事出来なかっただろう。だから、この8ヶ月の間で彼女が大きく成長した証拠だと思う。
「そうか。まぁ、今回は良いか」
鈴華は渋々といった感じで、顔を引く。
うん?
「今回?」
次弾があるの?と、蔵人は恐る恐る聞く。
すると、鈴華はニカッと笑った。
「バレンタインの時は、あたしが腕によりをかけて作ってやるよ。超特大の、チョコレートケーキをな!」
ああ、バレンタインは史実と同じ流れなのか。クリスマスは逆なのに、これもゲーム世界を元にした変化なのだろうか?
そんな風に蔵人は、謎のやる気に満ち満ちている鈴華から視線を反らせ、ついでに現実からも思考を反らせるのだった。
それから暫く、蔵人は3人と他愛ない会話で楽しい時間を過ごし、3人は家路へと着いた。
最初は、あまりのボロ屋に心配そうだったみんなだったが、蔵人の様子が普段通りだったので、安心したみたいだ。
3人がそろそろ帰るという事で、蔵人は3人を登山道まで見送ることにした。
その道すがら、蔵人は若葉さんに大会の現状を聞いた。すると、
「Aブロックの優勝候補は、蔵人君と安綱副会長かな。神奈川1位の北条さんも残ってるけど、次の試合で安綱先輩と当たるから、そこまでだと思う」
「そうか。では、Bブロックはどんな感じ?風早先輩とかは勝ち進んでいるのかな?」
「勝ってるよ。飛行系は強いからね。一方的にアウトレンジから攻撃して、着実に勝利を重ねてる。流石は桜城ランキング1位だね」
「そうか。やはり相性も大きな要素だな。このままいけば、決勝戦は彼女と当たる事になりそうってことか」
風早先輩と一対一でやり合ったことは無い。今までの選手とは戦闘スタイルも大きく異なるから、特段の対策を考えるべきだろう。
そう思った蔵人の呟きに、若葉さんは「どうだろう」と言葉を濁す。
「Bブロックには延沢選手もいるからね。彼女と風早先輩のどちらが決勝に進んでもおかしくはないよ」
延沢選手とは、確か東京都大会でも3位に入った実力者だ。海麗先輩と同じフィジカルブーストで、海麗先輩よりも強いとされる選手。間違いなく強敵だろう。
蔵人が闘志を燃やしていると、軽い口調で若葉さんが謝って来た。
「ごめん。知ってる風に言ったけど、Bブロックの情報はテレビからだけなんだ。だから、間違いや足りない情報もあると思う」
若葉さんも黒騎士の試合を中心に見ているから、どうしても対面のBブロックは目が届きにくいみたいだ。
それでも、テレビすら見られない蔵人からしたら得難い情報だ。
「助かるよ、若葉さん。護衛達が厳しすぎて、なかなか自由に動けない俺からしたら貴重な情報だ」
「白百合会の妨害かぁ。いい大人達が、中学生相手に何やってるんだろうね」
おっと。若葉さんもこの一連の妨害工作を、白百合会の仕業と考えているみたいだ。
彼女の言う通り、大人げない人達だとも思う一方、仕方がないと理解できる部分もある。
長い間、男性達に虐げられた女性達が、漸く表舞台で活躍出来ているのだ。その権利を手放したくないという思いから、こうして男性を虐げようとする考えは、如何にも人間らしいと思える。
それが良いかどうかは別として。
蔵人が微妙な顔で頷くと、若葉さんが心配そうな顔で覗き込んできた。
「蔵人君、気を付けてね?運営の周りで怪しい動きをしている人が居るって情報が入ってるから」
「ほぉ?そうなのか」
皇帝を倒してしまったからね。妨害を仕掛けている人達からしたら、切り札を切ったのに勝負が続いている状態だろう。そうなると、なりふり構わず出てくる可能性が高い。
「分かった。”アレ”についても十分注意する」
「うん。それだけじゃなくて、あの人形にも気を付けてね?もしかしたら、夜な夜な動いているかも知れないから。もし動いたら、私に知らせてね」
若葉さんは、相変わらず市松人形…文子ちゃんも気にしているみたいだ。
きっと、ミステリーハンター魂に火がついてしまったのだろう。
う〜ん。若葉さんには悪いが、文子ちゃんが動けることは最後まで伏せておこう。でないと、文子ちゃんが丸裸にされてしまうかも。
3人を見送り、蔵人は宿まで戻って来た。
辺りを見回していると、急に静まり返った気がする。
木枯らしが、少なくなった木々の葉を揺らし、遠くから鳥達の甲高い鳴き声が聞こえる。自然の音は心を落ち着かせるが、今は何処か物悲しい。
彼女達との触れあいで、人の温かさを思い出してしまったみたいだ。
蔵人は、感傷に浸る己に対して苦笑いを一つ零し、リアカーに乗ったままだった原木を薪割り小屋に移し始める。
すると、
「なんだい?何時から黒騎士は、木こりになったのさ?」
突然、背後から声を掛けられた。
振り向くと、そこには艶のある黒髪を頭の上でお団子にした女の子が、頬を引き上げてこちらを見ていた。
いつの間に。
蔵人は原木を下ろして、その人に向き合う。
「こんにちは、蜂須賀さん。まさか貴女にも来ていただけるとは」
「ああ、まぁねぇ。試合では無様な姿を晒しちまったから、どの面下げて行くか考えたんだけどねぇ。やっぱりあのままじゃ終われないんだよ」
終われない。
その言葉と同時に、蜂須賀さんの体から数本の透明な腕が生えてきた。
サイコキネシスの腕。ここで再戦しようって事か。サポート無しの状態で、埼玉1位のAランクと決闘。危険だが、彼女の思いは無視できない。
「分かりました。では、場所を変えましょう」
「なに、勘違いしてんだい?」
ニヤリと笑う蜂須賀さん。彼女のサイコキネシスの腕が、こちらへと伸びてくる。そして、蔵人が置いた原木を巻きとって、それをポンポンとお手玉の様に空中で弄ぶ。
「別にあたしは、ここで再戦しようなんざ思っちゃいないよ。そりゃ、ヤレたら最高だけどねぇ。あんたは明日も大事な試合が控えてんだ。そんな選手に、無理させられる訳ないだろ?」
「えっ、じゃあ、どうしてこんな所まで?」
「このまま地元に帰るのは癪だからねぇ。あんたの強さを探りに来たのさ。Aランク1位をぶっ潰す程の強さを持つ、黒騎士の秘密特訓をねぇ」
なんと。
修行をしに、わざわざこんな辺鄙な所までいらっしゃったのか。
それは、嬉しい。
「分かりました!では、自己流で恐縮ですが、僕と一緒に訓練を致しましょう!」
蔵人が張り切って提案すると、蜂須賀さんは作り笑いを引っ込めて、若干遠い目で蔵人を見た。
「あー…あたしは何か、間違った選択をしちまった気がするよ」
不安そうな彼女。
蔵人は大丈夫ですよと、曇り顔の彼女に向けて輝く笑顔を振りまいた。
…余計に引いてしまった気がするけど、気のせいだよな?
「なるほどねぇ。こいつは、確かに、キツイよ」
蜂須賀さんは額から汗を流しながら、途切れ途切れにそう言った。
その言葉の合間合間で、彼女が手にする斧が勢い良く振り下ろされる。
すると、スカーンッ!と小気味いい音が山の中に響き、薪が真っ二つになって地面に転げ落ちた。それを、サイコキネシスの腕で拾い上げ、断面をしげしげと見下ろす蜂須賀さん。
蔵人もそれを見る。
むむっ。とても綺麗に切れている。初めてと言っていたのに、1週間近くやり続けている自分よりも綺麗だぞ?センスか?やはり自分には、刃物を扱うのセンスが無いのか?
蔵人は、腕を組んで考え込む。
そんな前で、
「ああっ!暑っついねぇ。ちょっと上着脱いで良いかい?」
そう言って、蔵人が返答するのも待たず、蜂須賀さんは服を脱ぎ始める。
いやいや。なんで上着って言ったのに、肌着も脱ごうとしているんです?
蔵人は、下着姿になろうとしている彼女から慌てて背を向ける。
そんな蔵人に、蜂須賀さんの面白がる声がかかる。
「なんだい?急に後ろを向いてさ。天下の黒騎士様が、女の裸にビビってる訳じゃないだろ?もしかして、女性恐怖症だったりするのかい?」
「いえ。そういう訳では無いのですが」
「だったらこっちを向きなって。ちょっとあたしの体を見て、アドバイスをおくれよ。あんた、筋肉の事にも精通してるんだろ?」
まぁ、少しは分かるけど。
だがね、なんで上半身真っ裸なんだ?
蔵人は、背中をこちらに向ける蜂須賀さんを見て、ヒヤヒヤしてしまう。
蜂須賀さんの背中は、流石は県1位を取るだけはある立派な背筋をしていた。この筋肉があったから、薪割りも直ぐに出来る様になったのかも。
だが、あくまで彼女は15歳のうら若き乙女。肌はみずみずしい柔肌で、運動した事で健康的な朱色が薄ら白い肌を染めていた。
ハッキリ言って目の毒だ。
この世界があべこべ世界だから事案になっていないが、史実ならタイーホである。
蔵人は、背中を見せる彼女に幾つかアドバイスと、素晴らしい筋肉である事を伝える。
それが嬉しかったのか、蜂須賀さんはそのままのポーズでこちらを振り返るものだから、蔵人は慌てて目線を空に上げる羽目になった。
なるほど。確かにこれは、目のやり場に困る。あの時、海麗先輩には悪い事をしたなぁ。
今更になって、蔵人はあの時の事を反省した。
「へぇ…こいつはなかなか、良いもんだね。今まで見た中でも、2番目の美しさだよ」
山頂で、蜂須賀さんが小さく言葉を零す。
薪割りの後、蔵人達は登山に赴いていた。
海麗先輩の時と同じ様に、足に盾スパイクを履いた蜂須賀さんは、アイスバーンもなんのそので山頂まで辿り着いて、山頂の景色に目を細めていた。
ただ、やはり海麗先輩とは違い、異能力無しの冬山はそれなりにキツかったみたいで、ここまでかなり時間が掛かってしまった。蔵人達の目の前には、かなり傾いた太陽が見えており、あと1時間もしない内に山の向こうへと沈んでしまうだろう。
「蜂須賀さん。遅くなってしまってすみません。ここから飛んでいけば、駅まで直ぐなのですが、どうされますか?」
「なんだい?黒騎士が飛んで送ってくれるのかい?そいつは豪勢なタクシーだね」
蜂須賀さんは声を上げて笑い、笑い終えると小さく首を振った。
「やめとくよ。明日も試合があるあんたに、無駄な魔力と体力を使わせる訳にはいかないからね。それに、麓には迎えも来てるんだ。あたしの事は心配しなくていい」
なるほど。それなら下山だけサポートしたら大丈夫かな?
だが、あまりグズグズもしていられない。
蔵人は蜂須賀さんを連れて、絶景の余韻もそのままに、下山を開始する。
真昼間とは違い、薄暗くなりつつある山道はなかなかに厄介だ。足元を確認しつつ、蔵人は背後にも気を配る。
「蜂須賀さん。足元に」
足元に注意して下さい。
そう言おうとした蔵人のセリフは、途中で遮られた。
蜂須賀さんの悲鳴によって。
「きゃっ!」
普段の彼女から出たとは思えない可愛らしい悲鳴が、背後から上がる。
蔵人が慌てて振り向くと、躓いて今にも転びそうな彼女の姿があった。
蔵人は直ぐに盾を生成して、倒れつつある彼女の体に貼りつかせる。すると、何とか彼女の転倒を阻止することは出来た。彼女が地面に手を着く前に、蔵人の盾が彼女を包み込んでいた。
蜂須賀さんが状況を理解し、目を見開いてこちらを見た。
「す、済まないねぇ。黒騎士。盾を使わせちまっ、つぅっ!」
盾から起き上がり、立ち上がろうとした蜂須賀さん。だが、右足が地面に着いた途端に蹲ってしまった。
しまった!足を捻挫したか?
「蜂須賀さん!」
「大袈裟だよ、全く…。ちょっと、捻っただけだから。これくらい、訳ないって」
そう言いながら立ち上がろとする彼女だが、明らかに右足を庇っている。
彼女の足首を見ると、少し赤くなっている気もする。折れたりした訳じゃないみたいだが、神経を痛めているかも知れない。
きっと、足元が暗い中で、浮石か何かを踏んでしまったのだろう。夕方とはいえ、周囲は木も鬱蒼と茂っているから、余計に夕日が差し込みにくくなっている。
判断を誤った。下山を急ぎすぎて、登山初心者に十分な気を回せていなかった。下山は登山よりも難しいのだ。もっとスピードを落として、事前に危険個所を示しながら歩みを進むべきであった。
いや、それよりも、やはり最初から飛んで帰れば良かったのだ。
「蜂須賀さん。やはり飛んでお送りします。僕の背中に乗ってください」
今度は、有無を言わさずにしゃがみこむ蔵人。それに、暫く躊躇する蜂須賀さんの気配を感じる。
だが、やがて蔵人の背中に暖かく柔らかい感触が広がった。
「分かったよ。これ以上ワガママを言うのはあんたの迷惑になるだろうからね。大人しく、あんたの好意に甘えさせて貰うよ」
蜂須賀さんが、蔵人の背中に乗っかった。
うむ。見事なスタイルではあるが、先日海麗先輩を乗せているから、そこまで理性に問いかける必要は無さそうだ。
蔵人は安堵して、顔を上げる。
背中に羽を出そうとして、その前に蜂須賀へ声を掛ける。
「蜂須賀さん。今から浮遊しますが、落ちないようにしっかり掴まっていて下さい」
「ああ、悪いね。こんな感じかい?」
そう言って、蜂須賀さんは蔵人の首を鷲掴みにする。
いやいや。馬じゃないんだから。
そう突っ込もうとした蔵人だったが、それは出来なかった。
声が、出ない。
蔵人の首に掛かる圧が一気に跳ね上がり、驚きで声が出せなかった。
首に、彼女の指が食い込む。
蔵人は、それを剥がそうと己の首に手を伸ばす。だが、そこにあったのは蜂須賀さんの指ではなかった。もっと細い、糸の様に細い、
極細の、サイコキネシスの腕だった。
「なっ!がぁっ!」
蔵人の首に、物凄い圧が掛かる。
タダでさえ強力なAランクの腕が、接地面積を極限に減らしたことで、より深く蔵人の首へとくい込んでいる。
確実に、蔵人を絞め殺しに来ていた。
その糸の発生源である蜂須賀さんは、
「キッシィイ!!」
蔵人の背中から飛び降りると、思いっきり極細の糸を引っ張った。
途端に、蔵人の体が浮遊感に包まれ、視界がギュンと持ち上がる。次いで、背中に衝撃が加わり、頭上で木の枝が揺れた。
後方にあった木の幹に、背中をぶつけた。どうやら、木の枝にサイコキネシスの糸を引っ掛けて、一気に吊り上げたみたいだった。
今の蔵人はさながら、絞首刑を受ける罪人。
蔵人は、首筋に巻き付く糸を何とか外そうと、爪で己の首を掻いて、首にかかる圧力を緩和させるために、足をバタつかせて空へと逃れようとした。
だが、それは無駄だった。
強靭なサイコキネシスの糸は、嘲笑うかのように圧力を強め、蔵人をより高い位置へと誘う。
そんな滑稽な姿の蔵人を、蜂須賀さんは糸を引きながら長い舌で口元を濡らし、熱い眼差しでジッと見上げていた。
その目は、今までの彼女の瞳よりも輝いていて、頬は恋する乙女の如く、朱色に染められていた。
「ああ、良いねぇ。やっぱりあたしには、これが1番美しく見えるよ。死の恐怖で引きつった、人間の表情ってのがねぇ。キシシッ」
恍惚とした表情を浮かべる彼女に、蔵人は手を伸ばそうとする。
だが、少ししか上がらない。全身の感覚が無くなりつつあり、体が言う事を聞かなくなっていた。
意識が、保てない。
息、が…。
やがて、
蔵人の体から、全ての力が抜けた。
……えっ?
そんな…なんで、こんな事に…?