291話〜でもやっぱり少し心配だよ〜
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
日曜日に臨時投稿しております。
まだの方は、そちらからお読みください。
「蔵人君!」
1回戦が終わり、拍手喝采の中を退場した蔵人が選手入場口まで戻ってくると、心配そうな声が降り掛かってきた。
海麗先輩だ。
「大丈夫!?怪我してない?」
彼女は蔵人の前まで駆け寄ってくると、凄く心配そうな顔で覗き込んできた。
今にも泣きそうな雰囲気だ。
「はい、大丈夫ですよ。あの時、海麗先輩が応援してくれましたから」
蔵人は彼女を安心させる為、兜を脱いで笑みを見せる。
先輩に、少しでも感謝を伝えたいと思ったから。
彼女があの時、声を掛けてくれなかったら、紫電に勝つ事は出来なかった。何も成せないままに終わってしまっただろう。
その悪い流れを、この人は断ち切ってくれたのだ。
本当に、感謝しかない。
そう思ったのだが、蔵人が感謝を述べた途端、彼女の顔は険しくなった。
ええっと…何か、気に触りましたか?
「やっぱりおかしいよ」
「おかしい、ですか?」
蔵人が首を傾げると、海麗先輩は「うん」と力強く頷く。
「だって、今の試合、観客が紫電ファンしかいなかったじゃん。こんな事、聞いた事がないよ。そりゃ、地方の大会とかだと、地元の応援団しか来なかったりするけど、全国大会の、それもシングル戦でこんな偏り方はしないよ」
どうも、彼女は紫黒の壁について怒っているみたいだ。
通常、観客席は事前予約のチケット制となっており、1試合毎に席が決定される。1回戦、Aブロック第3試合の12列8番席といった具合で。
それが地方大会やマイナーな競技であれば、ファンの買い占めが起こることも稀にある。
ファランクスの関東大会決勝戦で、紫電ファンが大挙したのがいい例だ。
だが、今回の全日本は日本中が沸き立つ程のメジャーな大会。その中でもAランク戦となれば、世界からも注目されるほどの人気度を誇る大会である。無名選手の1回戦だったとしても、かなりの倍率で椅子取りゲームが繰り広げられるだろう。
そんな中、この試合では全ての席が紫電ファンで埋め尽くされた。
これが偶然に起こる確率は、天文学的数字となる。
だから、
「なんかさ、大会運営の対応がおかしい気がするよ」
海麗先輩も、大会運営の挙動に不信感を抱いていた。
うん。直接的な被害を受けていない先輩でも、気付くレベルか。
蔵人は腕を組む。
本当の所は、その運営の後ろに白百合会が糸を引いていて、男を表世界から排除しようとしているのだろうけど、そんな事を海麗先輩に教えることは出来ない。
この人は優しいから、知ればきっと無茶をしてしまう。大会そっちのけで、運営に抗議してしまうかも。
そんな事はさせられない。これは、彼女にとっても大切な大会なのだから。人生を左右するかもしれない、大きな岐路である。
蔵人は彼女の話に合わせようと、今思いついた風に声を上げる。
「確かに。思い返せば、運営が紫電に肩入れしていた様にも見えますね。かの…彼が有名人で、集客率が僕よりも見込めたからでしょうか?」
「それだけじゃないよ。蔵人君に対しても、なんか冷たい気がする。そもそもね、昔から異能力運営って、男性が活躍する事をよく思っていないんだ。大会は女性の為にあるみたいな考えがあってさ。ほら、ビッグゲームのMVPだって、あれだけキル数を稼いだ黒騎士をワザと選ばなかったでしょ?あれもそうだよ」
ああ、なるほどね。
確かに、史実のスポーツ業界でも、女子選手が冷遇される競技が幾つもあった。
男子のチームじゃないから、全国には出場させないとかって話も聞いたことがある。
海麗先輩は、自分がそんな差別を受けているのでは?と危惧しているみたいだ。
いや、もしかしたら、彼女の考えが正解なのかもしれない。
元々異能力競技は女性の物だと考える運営に、女性の権利を主張する白百合が付け込んだ。
どちらも保守的で似た思想を持っているから、利害が一致してもおかしくはない。
考えられる話だ。
蔵人が考え込んでいると、海麗先輩が更に顔を近づけて来て、蔵人の瞳を覗き込む。
「蔵人君、大丈夫?運営にホテルを移る様に言われたけど、もしかして酷い仕打ちを受けているんじゃない?例えば、そう、ホテルの設備が酷かったりとか、変な食べ物しか出さなかったりとか。海外のオリンピックでも聞く話だよ?選手村が酷かったとかってさ」
ああ、それは史実でもあったな。
某オリンピックでは、海外選手達はエアコンも使えない、食事も制限させられるホテルに押し込められて、みんながコンディションを落としてしまった。その反面、地元選手だけが良いホテルを宛てがわれて、大会でも良い結果を残したという、酷い事案が。
あれは凄かったなぁと、蔵人は少し懐かしく思い、海麗先輩に向けてしっかりと首を振った。
「いいえ。そこは本当に大丈夫です。確かに宿はボロいですが、店主のおもてなしは格別ですし、僕の性に合っている環境だと思っています」
これは本音だ。お爺さんを庇っている訳ではない。
トレーニングには最適だし、忘れていた感覚も少し取り戻すことが出来た。
何せ、紫電の暗殺剣を察知出来たのも、そのお陰だと思っている。
大自然の中で、雑念を取り払うことが出来るあの環境に身を置いていた事で、彼女の殺気をいち早く気付いて動くことが出来た。もしも高級ホテルに泊まっていたら、彼女の暗殺剣を防げたか怪しい物だ。
だから蔵人は、自信を持って海麗先輩に返答した。
すると海麗先輩は少し目を瞬かせて、顔を元の位置に戻した。
「そっか。そんなに良いホテルなんだ。でもやっぱり少し心配だよ。蔵人君ってさ、何処かお人好しって言うか、これくらいなら良いかって、我慢しちゃう所があるでしょ?」
う〜ん…そうか?
蔵人は少し考えて…思い至る。
ああ、そう言えば海麗先輩には2度も拳を潰されて、その度に大丈夫だと言っていた。そんなのを見ていたら、我慢していると思われてしまうかも。
蔵人が合点のいった顔をすると、海麗先輩も「うん」と目を輝かせる。
「決めた。私、蔵人の滞在先に行ってみるよ」
「えっ、試合はどうするんです?」
「勿論、時間が出来たらね」
海麗先輩が顔を輝かせるとほぼ同時に、アナウンスが次の試合が始まる事を告知した。
『全日本Aランク戦、Bブロック1回戦第1試合が始まります。両校の選手は入場を開始してください』
「あっ、もう行かなくちゃ」
「頑張って下さい、海麗先輩!」
「ありがとう。蔵人はもうホテルに帰るの?」
「ええ。ちょっと医務室に寄ってからと…」
蔵人がそう言うと、海麗先輩の顔がまた怖くなった。
「待って。何処か怪我したの?」
「えっと、この胸の傷が…」
「もうっ!そういう所だよ、蔵人君!早く行きなさい!」
思いっきり、怒られてしまった。
蔵人は医務室で治療して貰ってから、宿に戻ってきた。
現時刻は、朝の8時を少し回った頃。
試合開始も早かったから、帰りもかなり早くなってしまった。
何をしようか…。
取り敢えず、お爺さんに挨拶をする為に居間に行く蔵人。
「ただいま戻りました」
「おや、その声は黒ヤギさんじゃな?」
蔵人が居間に向けて声を掛けると、直ぐにお爺さんの嬉しそうな声が返ってきて、次いでドタドタという足音が聞こえた。
そして直ぐに居間への障子ドアが開き、お爺さんのくしゃくしゃの笑顔が出迎えてくれた。
「お帰り、黒ヤギさん。試合はどうじゃった?」
「辛勝ですね。手酷くやられました」
「勝ったんかい。凄いのぉ。大きな大会なんじゃろ?」
「ええ、まぁ、それなりに」
「そうかい、そうかい。男の子なのに、ようやったのぉ」
そう言って、自分の事の様に喜んでくれるお爺さん。
出会い頭で、何故この人を子泣きじじいなどと勘違いしたのだろうか?
蔵人は内心で反省する。
その罪滅ぼしではないが、お爺さんに何か手伝える事は無いか聞いてみた。
すると、
「実は、薪割り用の原木が少なくなって来てのぉ。麓から買って来んといかんのじゃが…」
「お手伝いします」
という事で、蔵人はリアカーを引いて麓まで降りる事にした。
紅葉した木々が天然のアーケードを作り出す下で、キィキィと金属部分が擦れる音を響かせながら、蔵人は古いリアカーを引く。宿から麓までの道は広く、アスファルト舗装されているのでリアカーでも通れるが、道は小石や溝で凸凹していて、結構揺れる。今は空身だから何ともないが、登りはかなりキツいかもしれない。
蔵人がそんな心配をしている前で、道案内をしてくれるお爺さんは「こっちじゃ」とハイペースで下山する。
お年を召していても、流石は山で暮らす方だな。
蔵人はお爺さんの様子に、目を開いてついて行った。
「ここじゃ、ここじゃ」
麓に降りてすぐ、お爺さんは1軒の家を指さした。
そこは、大きな倉庫が併設した、木組みのペンションであった。
その建物の前にも大きな広場が広がっており、そこには倒木が綺麗に並べられていた。
ここは、木材工場なのかな?
蔵人はお爺さんに連れられて、ペンションの中に入る。
リアカーは入口近くに駐車場があったので、そこに停めさせて貰った。
ペンションの中は工場の事務所みたいになっており、無機質な机が幾つも並んで、そこで数人の女性がオレンジ色の作業着姿でパソコン作業に従事していた。
お爺さんは、受付の机に乗ったベルを何度か鳴らす。すると、奥の方の机に座っていた女性が慌てた様子でこちらに駆け寄って来た。
お爺さんは、彼女に軽く手を振る。
「やぁ、田丸さん。また原木を買いに来たんだが」
「何時もありがとう、雲厳さん」
田丸と呼ばれた女性も、嬉しそうに手を振り返す。
彼女の見た目は30代後半で、長い黒髪を後ろに纏めた太い眉毛の凛々しい方だ。だが何よりも注目すべきは、彼女のガタイ。作業着の上からでも分かるくらい筋肉が盛り上がり、捲った袖からは大木の様に太い二の腕が見えていた。
流石は林業に携わる人。鍛え方が違う。
蔵人が田丸さんの腕を熱心に見ていると、向こうも蔵人を驚いた顔で見返してきた。
「雲厳さん…この若い子どうしたの?受付のアルバイトでも雇ったのかい?」
「ははっ。そんな余裕は無いよ。親戚の子が遊びに来てくれてるんだ」
「へぇえええ…優しい子だねぇ。あたしの娘に紹介して欲しいくらいだよぉ」
田丸さんが目をまん丸にして、蔵人を凝視する。
冗談ぽく言ってるけど、目がマジだからちょっと怖いんですけど?
今にも縁談が始まりそうな雰囲気の中、お爺さんが引き戻す様に机のトレーにお金を置いて、田丸さんに話しかける。
「何時もと同じくらい欲しいんじゃが、これで足りるかね?」
「あ、ああ。十分だよ。今、持ってくるから、駐車場で待っていてくれ」
そう言って、田丸さんは無理やり蔵人から視線を引き剥がし、倉庫の方へと駆けて行った。
蔵人達も外へ出て、田丸さんに言われた通り、リアカーを準備して駐車場で待機する。
すると直ぐに、玉切りにされた原木を両肩に担いだ田丸さんが倉庫の方から現れて、軽々とそれらをリアカーに荷積みしてくれた。
軽そうに見えるけど、乗せた時にリアカーの車体が大きく沈んだから、相応の重さだろうな。
案の定、蔵人がリアカーを引こうとすると、殆ど動かなかった。
これは、軽く100kgは超えている。
蔵人が気合いを入れ直してリアカーのハンドルを握ると、後ろから田丸さんの笑い声が上がった。
「はっはっは。重いだろ?木ってのはね、水分をいっぱい含んでいるから、こんな細木1本でも30kgはあるんだよ」
そう言いながら、田丸さんが蔵人の前に周り込んできて、そのゴツゴツとした働き者の綺麗な手でリアカーのハンドルを掴んだ。
「代わるよ。あたしはフィジカルブーストだから、君達2人も一緒に荷台へ乗せて、宿まで送って行ってあげる。ああ、運賃はいつも通り、君たちの笑顔で頼むよ」
なるほど。彼女の異能力は身体強化だったのか。だからあんなに、軽々しく原木を持てたのだな。
そして、彼女の言動から、普段はこの田丸さんが原木を宿まで運んでくれているみたいだ。
優しい人だ。
こういう人達と交流があるから、お爺さんも宿を閉めたくないのだろうな。
田丸さんに感謝の念を抱きながら、蔵人は首を振る。
「ありがとうございます。でも、もう少しだけチャレンジさせて下さい」
「おおっ、ガッツのある子だね。でも、君は男の子なんだから、あんまり無理をして手とか怪我しちゃだめだよ?」
田丸さんが心配そうに眉を歪めながらも離れてくれたので、蔵人は周囲に小さな盾を生成する。
水晶盾。それを、蔵人の足腰と、リアカーの後方に貼り着ける。
そして、思いっきり引っ張りながら、リアカーの後ろからも盾で押す。
すると、リアカーはゆっくりと動き出した。
それを見た田丸さんが、大きな声を上げる。
「うぉっ!動いた!嘘でしょ!?」
彼女は暫くその場で固まっていたが、思い出した様に走り出し、お爺さんと一緒に蔵人の横に付いた。
暫くはジッとこちらを見ていた彼女だが、堪らずに言葉を漏らす。
「君の異能力もあれかい?フィジカルブーストなのかい?」
「いえ、シールド、です」
余裕があまりないので、端的に答えてしまう蔵人。
それでも、田丸さんは気分を害した様子もなく、頻りにリアカーと蔵人の間で視線をさ迷わせて「シールド?まぁ確かに、あれは盾の形をしている…けど…」と言葉を失っていた。
それから暫くして、蔵人は宿までたどり着く。
下山の時に思っていたことだが、やはり道の凸凹は難敵であり、曲がり角もかなりの労力を必要とした。
だがその分、鍛錬にはなった。
足腰もそうだが、全身満遍なく鍛えられた感がある。
この仕事も、定期的に受けよう。
蔵人が新たな訓練メニューに心躍らせていると、口笛を1つ吹きながら、田丸さんが久しぶりの声を上げる。
「ヒュゥウ!凄いねぇ!結局、最後まで登り切っちまったよ。君、本当によくやったよ。もしかして、何かのスポーツ選手だったりするのかい?」
「いえ。特には。ただ、異能力の使い方を工夫しているだけですよ」
「工夫ねぇ。確かに、今まで見た事ない使い方だったよ。シールドに、こんな使い方があったなんてさ」
田丸さんはそう言いながらも、暫くリアカーの後ろで水晶盾を観察していた。
そして、急に思い出した様に「あっ、忘れてた」と言って立ち上がった。
「ごめんね、雲厳さん。本当なら温泉とか入りたかったんだけどさ、今から会議だから、また今度入らせてもらうよ」
「うんうん。いつもありがとうね、田丸さん。またよろしく頼むよ」
「それはこっちこそだよ。薪が足りなくなったら、何時でも来てくれよ」
「ああ、ありがとうね」
「君もね」
「ありがとうございます」
蔵人達が手を振る中、田丸さんは後ろ髪を引かれながら下山していった。
仕事があるのに、心配で最後まで着いてくる辺り、本当に優しい人だ。
彼女が帰った後、蔵人は早速リアカーから原木を降ろし、薪割りを開始する。
最初は上手く割れなかったが、何度か繰り返していると、直ぐに昨日の感覚を取り戻す。
そこからは、如何に上手く割るかを考えながら、ただ木と筋肉の動きに集中していた。
カーンッ…カーンッ…カーンッ
無心になって、薪割をする。
原木を取って来て、切り株にセット。斧を構えて、一心に振り下ろす。
それを繰り返す事暫く。そろそろ昼食かな?と、お腹の具合が気になりだした、丁度その時、
背後から、悲鳴が上がった。
「きゃぁああ!」
かなり本気な悲鳴。
何が起きた!?
蔵人が慌てて振り返ると、そこには顔を手で覆った海麗先輩の姿があった。
海麗先輩、早速来て下さったのか。
でも、そこで一体何を?
「く、く、蔵人君!なんて、なんて格好で…」
格好?
彼女の指摘に、蔵人は自分の体を見下ろして、理解した。
ああ、暑かったから半裸になっていたけど、うら若き乙女には刺激が強かったか。
「すみません、先輩。お見苦しい物をお見せしました」
「い、いや、そんな…寧ろご褒美で…」
そう言いながら、海麗先輩は目を覆っていた指を少しだけ開き、蔵人の様子を伺う。
そして、蔵人が相変わらず半裸で仁王立ちでいるのを見て、再び悲鳴を上げる。
「蔵人君!隠して!お願いだから!」
「隠す…こうですか?」
「指で乳首だけ隠すの止めて!余計にエロくなってるから!」
難しい物だ、貞操観念逆転世界とは。
蔵人は汗を拭いた後、渋々ジャージの上着を羽織り、海麗先輩に向き直る。
「ありがとうございます、海麗先輩。わざわざ、こんな山の中まで来て頂いて」
「いや、全然。電車も…麓まで通ってたし、私、フィジカルブーストだから、山道も全然、余裕だったし…」
未だ真っ赤な顔を伏せながら、海麗先輩が言葉を紡ぐ。
視線がチラチラと、ジャージの間から覗く蔵人の腹筋に吸い寄せられているけれど、これくらいは許して欲しい。
薪割りで体が火照っているので、ジッパーを上げたくないんですよ。
「でも、やっぱり思った通りだったね」
海麗先輩はそう言うと、後ろを向く。
見上げて、廃墟1歩手前の宿屋を視界に収めて、小さく息を吐き出した。
「こんなボロボロの民宿に泊めた挙句に、重労働までさせるなんて。やっぱり大会運営はおかしいよ。絶対、蔵人君を勝たせない様にしているんだ」
「海麗先輩。それは、ちょっと違いまして…」
蔵人の発言に、海麗先輩はこちらを向く。
腹筋に吸い寄せられそうになりながらも、何とか視線を蔵人の目に固定する先輩。
「違うって、何が?」
「確かに、運営は僕を勝たせたくないと思っており、この宿を提供したんだと思います。ですが、僕がこの宿を気に入っているのも事実なんです。ここでは、最高の環境で訓練が出来ますし、勘も取り戻す事が出来ました」
「訓練って、もしかして、それの事?」
海麗先輩が、蔵人の持つ斧を指さすので、蔵人はそれを持ち上げて、大きく頷く。
「これもそうですね。お爺さんが薪割りをしていたので、無理を言ってやらせて貰っているんです。そのお陰で、ほら、背筋が喜んでいるでしょ?」
「蔵人君!分かった!分かったからジャージを脱がないで!いい笑顔で私に背中を見せつけないで!お願いだから!」
うむ。そうか。
蔵人は肩を落としてジャージを着直す。
海麗先輩であれば、この筋肉の素晴らしさを分かってくれると思ったのだが、先に羞恥心が勝ってしまうのか。
難しいなぁ。
真っ赤な顔を必死に冷まそうと、両手で風を送る海麗先輩を見ながら、蔵人は腕組みをする。
彼女は回復すると、再び宿を見上げて、首を傾げていた。
やはり、信じられないみたいだ。
仕方がない。自分もこの宿を見た当初は、営業しているとも思えなかったのだから。
ならば、こうしよう。
「海麗先輩。今日はこの後ご予定はありますか?」
「予定?ううん。ディナーまでには、ホテルに帰ろうと思ってるだけだよ」
「それでしたら、この宿がどれだけ素晴らしいか、是非ご案内させて下さい」
蔵人の提案に、海麗先輩は何度も目を瞬かせた。
試合後のお話でした。
海麗先輩に怒られてしまいましたね。
「まともなツッコミ役が出てきたことに、我は安堵している」
蔵人さんは少々、他の方からズレている所がありますからね。
「少々、だと?」