287話〜いらっしゃい〜
いつもご覧いただき、ありがとうございます。
今話こそ、300エピソードです。
なのですが…。
「少々、趣向が異なる回だな」
グロ…ではないです。
大会運営に連れてこられた宿が、既に宿の体裁すら放棄している事について。
蔵人は暫く、その場で腕組みをして考え込んでいた。
これが、白百合会の策略なのだろうか?
大会を勝ち上がらせない為に、宿の提供を拒否して風邪でも引かせようとしているのか?
確かに、試合の外で負った怪我や病等では、大会の医療チームによる施術を受ける事が出来ない。
だがそれでは、招いた選手に宿を提供する大会運営の責務を果たさなかった事になる。そうなれば、彼女達の立場すら危うくなる可能性がある。
第一、自分は飛べるのだ。
このまま、麓の適当な宿に泊まるも良し。雷門ホテルまで行くも良しである。
そんな事は、白百合会の面々であれば知っているだろう。
今まで、散々邪魔してくれていたし。
という事は、このボロ宿は経営している可能性が高い。
そうであれば、運営は幾らでも言い逃れが出来る。女性から隔離する為には仕方なかったとか何とか言って。
まぁ、本当にそうなのかは、この建物を探索した後に考えよう。
蔵人は探索の為に、ボロ小屋に近づく。
傍から見たら廃墟の様だが、近づくと余計にそう思えてしまう。
崩れた部分は、まさに解体途中の家屋。屋根も壁も木片となって床に散乱し、柱だけがかろうじて宿の雰囲気を支えている。
その室内には、棚とか机とかがそのまま放置され、昔はここも使われていた事を訴えかけていた。
ここはやはり、倒壊した廃墟か。
蔵人は胸を撫で下ろし、まだ家の形を留めている右側へと回る。
するとそこは、かなり古い木製の看板と、入口の戸に端々が黄色くなった1枚の張り紙が貼られていた。
その紙には、こう書かれている。
〈ようこそ、地蔵温泉へ。入浴、宿泊の受付はこちら〉
…受付か。しかも、宿泊とある…。
蔵人は、引き戸を開けようとする。
相当古いのか、建付けが悪いのか、かなり力を入れても少しずつしか開かない。
やり過ぎると壊れそう…。
蔵人は半分ほど開いた所で諦めて、滑り込むように室内へ入る。
そこは玄関だった。
右手には靴箱があり、その上には熊の置物や、黄色く変色した気色悪い絵が飾ってある。
目の前にはホコリが薄らと堆積した廊下と、ツギハギだらけの障子戸がお出迎えしていた。
こいつは…廃墟じゃなくて、幽霊屋敷か?
「すみませーん!」
……誰も居ないのか?
蔵人は少しの間、玄関で待つ。だが、一向に障子の向こう側から気配が動かないので、靴を脱いで廊下に足を掛けた。
その時、
「いらっしゃい」
背後から声。
飛び上がりながら振り向くと、右手に斧を持った子泣きじじいが立っていた。
悪霊!やはり幽霊屋敷か!
蔵人は構える。
だが、老人は蔵人から視線を切って、持っていた斧を靴箱の下に置く。
そして、少し曲がった腰を叩きながら、こちらにしわくちゃの顔を向けて、ニンマリと笑った。
「ええっと。温泉に入りに来たんかね?中学生以下は300円じゃよ」
ほぉ。俺を1発で中学生と見抜くか。
ゆっくりと喋る老人に、蔵人は変わらず構えながら首を振る。
「異能力大会運営からここに宿泊する様に指示を受けました。宿泊は可能なのでしょうか?」
恐らく、宿部分が台風か何かで潰れてしまい、今は温泉だけの経営なのだろう。
そう期待して聞いた蔵人の問いは、老人の嬉しそうな顔を前にして崩れ去った。
「おおっ!聞いとるよ。何でも凄い選手が泊まるから、特別なもてなしをするようにと言いに、綺麗な着物を着た偉い人が態々ここまで来てのぉ。そんじゃ、お前さんがあの有名な黒…黒…なんじゃったかな?黒ヤギさん?」
黒ヤギ。
蔵人はズッコケて、構えを解く。
それを見て、お爺さんは再び考え始める。
「違ったかの?ええっと…黒…執事じゃったか…」
「ああっ、良いです。黒ヤギで」
色々と問題になる呼び方になりそうだったので、妥協する蔵人。
「ではのぉ、黒ヤギさん。支払いは偉い人がしてくれてるから、早速部屋に案内しようかね」
お爺さんはゆっくりとした動作で、蔵人を廊下の先に誘う。
2人は、薄暗い廊下を進んで行く。
天井は低く、軽く手を伸ばすだけで届きそうだ。
壁は漆喰だが、至る所で穴が空き、向こう側が見えている。
廊下は歩く度にギシギシと音がして、偶に深く沈み込む床がある。
蔵人は一瞬、床が抜けたのかとヒヤリとしたが、他にも踏み跡があるので、以前からこんな感じだったのだろう。
「ここが、黒ヤギさんの部屋じゃ」
お爺さんがそう言って示した場所は、古臭く冷えた部屋だった。
部屋の広さは9畳程。なのだが、薄暗くてもっと狭い印象を受ける。
床は畳張りで、所々が黒っぽく変色している。腐っているのか、少し酸っぱい匂いが鼻を突く。
壁も薄らと黄色に変色しており、廊下と同じで小さな穴が幾つもある。そして何故か、柱という柱に朱書きの御札が何枚も貼られていた。
本当に、悪霊でも封じているのか?この宿は。
蔵人は、御札をよく見ようと手前の柱に近寄る。すると、壁際にタンスが置いてあることに気付き、その上に市松人形が乗っているのが見えた。
人形の目が、こちらを見下ろしている。
少し離れても、目が追ってきている様に見える。
何となく、魂の様な者が宿っているのかもしれない。だが、悪意は感じられない。
取り敢えず、先住者の魂だろうと判断し、蔵人は市松人形に深々と頭を下げた。
『ふふふっ』と頭の中に女の子の声が聞こえた気がした。
うん。何とか好意的に受け取って貰えたらしい。
「布団はこん中に入れといたよ」
お爺さんが部屋に入ってきて、市松人形の反対側の襖を開けた。そこから、薄い煎餅布団を引っ張り出して、変色していない畳の上に広げてくれた。
「すまんの。宿泊客なんて久しぶりじゃから、殆どがカビてしもうて。まともなもんがこれくらいしか残っとらんかったんじゃ」
お爺さんが悲しそうな顔を向けてくる。
蔵人はそれに、静かに首を振った。
「お気遣いありがとうございます。多分大丈夫ですよ」
「そうかい?だが、ここらの夜は寒いぞ?すきま風も入って来るし、ヘヤコンはずっと昔に壊れちまった。どうしても夜中寒かったら、居間までおいで。薪ストーブがあるから」
エアコンが壊れてても薪ストーブはあるのか。
客が久しぶりと言っていたし、設備を直せないくらいに経営難なのだろうな。
蔵人は頷く。
「分かりました。もし可能なら、ダンボールとガムテープを頂けませんか?」
「そりゃ、構わんが…?」
お爺さんは不思議そうな顔をしながら、ダンボールを取りに行った。そして、すぐに帰ってきて、両手いっぱいのダンボールとガムテープを置いていった。
「では、作るか」
蔵人は、部屋の真ん中にぶら下がっている豆電球を引っ張り、心許ない明かりの下でダンボールを組み立てる。
シールドカッターで裁断し、ガムテープでくっ付けていく。
暫く熱中していると、ダンボールの棺桶が出来上がった。
早速、中に煎餅布団を敷き詰めて、入ってみる。
蓋を閉じれば、完全にドラキュラ伯爵の気分だ。
保温性は…多分良いと思う。
蔵人が手製棺桶に満足していると、部屋のドアを叩く音が聞こえた。
うん?何だろうか?
「黒ヤギさん。夕餉の支度が出来たんだがのぉ。部屋で食べるかい?居間の方が暖かいから、居間で食べた方がええよ。そうしなさいて」
「はい。居間に行きます」
蔵人が返答すると、お爺さんは「それが良い。それが良い」と言いながら、足音も小さく戻っていった。
あれだけ軋む床を、どうやったら軋ませずに移動出来るのだろうか?不思議な人だ。
そう思いながら、蔵人は棺桶から出た。
居間とは、玄関の目の前にあった障子戸の向こう側だった。
そこを開けると、随分と古めかしい部屋が広がっていた。
部屋の中央は掘り炬燵となっており、年季の入った黒い机が1つ、その上に覆いかぶさっていた。
床は蔵人が通された部屋と同じ、所々黒っぽく変色している畳が敷かれていた。
部屋の一角はレンガが敷き詰められており、その上に、これまた年代物の薪ストーブが置いてあった。
ストーブの中で、新鮮な薪がコトリッと落ちる。
そのストーブから発せられる熱が、部屋全体を温めていた。
なるほど。確かに暖かい。
蔵人は少し懐かしい気持ちが湧き上がり、暫くその炎のダンスに目を奪われていた。
「古臭いじゃろ?」
黄昏る蔵人の後ろから、声が掛かる。
見ると、手にお盆を持ったお爺さんが、しわくちゃの苦笑いをこちらに向けていた。
「温泉へ入りに来る客はみんな、そう言うとる。じゃが、儂にとっては心強い友なんじゃ。頑丈で、手入れさえしたら何十年と働いてくれとる。薪は裏でこさえればええから、ヘアコンみたいに金も掛からん。寒い冬を越すんに、こいつ程頼りになるもんは無い」
なるほど。確かにそれもそうだ。
この山奥であれば、薪ストーブの方が便利かも知れない。
蔵人が再び炎の動きに魅了されていると、お爺さんが配膳する音が聞こえてきた。
見ると、縁が欠けたお椀を幾つも並べていた。
そのラインナップは…。
「これは、精進料理?」
お寺等で一般客に出されるメニューにそっくりであった。
けんちん汁に野菜のおでん、キュウリとニンジンの漬物にカボチャの煮物、それに胡麻豆腐まである。
肉や魚、卵等を一切使わない不殺の料理が、目の前に並んでいた。
蔵人の呟きに、お爺さんは首を傾げる。
「おや?聞いとらんかったかの?ここは元々、修行僧の通り道で、儂が若かった頃は何人ものお坊さんが泊まっておったんじゃ。じゃから、着物の偉い人も、黒ヤギさんに是非食わせてくれっと言っとったんじゃが…はんばーぐとかの方がええかの?」
「とんでもない。有難く頂かせて貰います」
蔵人はお爺さんに感謝して、机の前に正座する。
姿勢を正し、手を合わせ、五観の偈(僧が唱える食事前のお経みたいな物)を唱えてから、静かに食事を進めた。
黙食。それが精進料理を頂く際のルールだ。
一口、一口、食材に感謝を。命を頂くことへの重さを心の中で感じ取る。
食べてみると、ご飯が麦飯である事や、漬物以外がかなり薄味なのに気付く。
普段、如何に贅沢な食生活を送っていたかが思い知らされる。
修行僧はこれよりも、遥かに質素な物を口にしていると言うのに。
堕落していたな。
蔵人は己を恥じ、口にする命に感謝の念を抱きながら、静かに箸を進める。
何故か、食を進める内に心が洗われ、体が軽くなった気がした。
「大変、美味しゅうございました」
「お粗末様でした」
ごはん粒一つ残さずに食べ終わった蔵人が膳に深く礼をすると、隣に座ったお爺さんも小さな体を畳んで、頭を畳に着けた。
そして、頭を上げると、皺だらけの笑顔をこちらに向けた。
「綺麗な所作じゃったの。黒ヤギさんのご実家は、住職さんなのかい?」
「いえ。昔、経験した事があるだけでして」
「そうかい、そうかい。お前さんのその姿を見とると、ずっと昔、この宿が繁盛しとった頃を思い出してしまったのぉ」
そう言いながら、お爺さんは遠い目をする。
その目は何処か悲しそうで、でも輝いて見えた。
しかし、すぐに目を皺の中に隠してしまうと、作った笑みをこちらに向けた。
「さて、それじゃあいよいよ、温泉に入って貰おうかね。この宿自慢の温泉じゃ」
あのお爺さんが気合いを入れていたので、今度はどんな凄い温泉が来るのかと期待した蔵人。
だが、そのガラス戸を開いて見ると、年季の入った檜風呂が現れただけであった。
なんというか、普通だ。
もっとボロボロだったり、五右衛門風呂でも出てくるかと思っていた。
「黒ヤギさーん!お湯加減はどうだい?もっと温めようか?」
お爺さんの声が、外から聞こえた。
蔵人が少し高い位置にある格子から外を覗くと、周囲は真っ暗闇であった。
山の中だからね。夜になると、明かりなんて月明かりくらいなものだ。
そして、視線を下へと下げると、笑顔のお爺さんがこちらを見上げていた。
もう慣れてきたけど、ちょっと心臓に悪いな。夜中のトイレは気を付けよう。
「お爺さんは、そこで何を?」
「これじゃよ」
蔵人の問いに、お爺さんは1本の薪をフリフリする。
あっ、お風呂の沸かし方、それなんだ。
蔵人は急いで湯船に戻り、湯加減を確認する。
うん。かなり温い。
蔵人はお爺さんにお願いし、何本か薪を投入して貰った。
すると、みるみる暖かくなる温泉。
「丁度いいです!ありがとうございます!」
「もっと熱くなるから、水を入れてくれよ!」
そういうスタイルなのね。
蔵人は懐かしい気持ちでいっぱいになりながら、温泉を堪能した。
そして、部屋に帰ってきたのだが。
「…寒っ」
身震いした。
お爺さんが言っていた様に、部屋の至る所から隙間風が入って来ており、外と変わらない室温となっていた。
こいつは、早く暖を取らないと。
蔵人は急ぎ、棺桶の中へと入ろうとする。
だが、
「おや?」
布団の上に、市松人形が置いてあった。
寒くて避難して来たのかな?
蔵人は彼女を布団の端に寄せて、布団の中に入る。
うん。風が来ないだけでかなり暖かい。流石はダンボール。
そう思いながら、ポケットから携帯を取り出す。
アラームをセットして、明日に備える。
と、そこで気付いた。
ここ、圏外だ。
「辺鄙だなぁ」
クスリッと笑う蔵人。
「お休み」
誰に言う訳でもなく、そう言って目を閉じた。
『お休みなさい』と声が返ってきた気がしたけど、夢だったかもしれない。
翌朝。
蔵人は奇妙な音で目を覚ます。
カーンッ…カーンッ…と言う甲高い音だ。
携帯を見ると、時刻は午前4時半。
起きようと思っていた時間よりも30分早い。
だが、目覚めはスッキリだ。
昨日寝付くのも早かったし、何よりも悪夢を全く見なかった。
「お嬢さんのお陰かな?」
蔵人は、いつの間にか布団の中に潜り込んでいた市松人形を脇に避けてから、棺桶を出る。
途端、冷気が襲ってきた。
ぅぅ。
蔵人は身震いする。
部屋の中は凍える程の寒さだ。
これは、棺桶がなかったら風邪を引いていた。お爺さんが居間に来いと言っていた理由が分かる。
外に出ると、辺りはまだまだ真っ暗闇だ。
今は12月の下旬。関東では7時近くにならないと日が昇らない。
そんな状況だからか、甲高い音が室内よりも鮮明に聞こえる。
カーンッ…カーンッ…
裏手だ。
蔵人は、盾で周囲を探りながら宿の裏手まで来る。
すると、そこには小さな掘っ建て小屋が建っていて、暗闇の中で何者かが動いていた。
その何者かが、棒の様な物を振り上げると、一瞬だけ星あかりで先端がキラリと光る。
刃物…斧だ。
スカーンッ!
「あたたたっ…」
小気味良い音の後に、お爺さんの呻き声が聞こえた。
ああ、なるほど。
蔵人は納得して、遠くから声を掛ける。
「おはようございます、お爺さん」
「うん?おお、黒ヤギさんかい。もしかして起こしてしもうたか?それは、済まんことをしたのぉ」
「いえいえ。日課の朝練で起きただけですので。それよりも薪割りですか?」
段々と目が慣れてきた蔵人は、お爺さんが片手に木の破片を持ち、傍らに昨日玄関に置いた斧を持っているのが分かった。
昨日、蔵人を出迎えた時に、きっと薪割りをしていたのだろう。だが、蔵人が来てしまったから、仕事を中断して接客に回ったという事か。
「もし宜しければ、お手伝いさせて頂けませんか?」
「はっはっは。そりゃ有難いがの、お客人にさせる訳にはいかんよ」
「いえ。その方が僕も助かるのです。良い訓練になりますから」
薪割りは全身運動だ。腕は勿論、足腰も鍛えられるし、何よりも背筋に効く。ただ筋トレをするよりも、薪割りという目に見えるタスクをこなす方が効率も上がるというもの。
蔵人が熱弁すると、お爺さんも「そうか?そんなら、ちょっと頼もうかね」と斧を貸してくれた。
という事で、蔵人は薪割り訓練を開始する。
先ずは薪を作業台代わりの切り株まで持ってくる。
それだけでも、なかなか足腰に来る。
薪の表面はササクレ立っていたので、手のひらに膜を貼った。
そして、切り株の上に置いた薪を盾で固定して動かない様にし、斧を思いっきり振り下ろす。
スコッ
うぅ。途中で止まってしまった。
蔵人は盾の支えを外し、何度か薪を切り株に叩きつけて割る。
3回程叩きつけると、漸く最後まで割る事が出来た。
うむ。お爺さんの様には上手く出来んな。
「上手いもんじゃ。それじゃ儂は、朝食の準備をさせて貰うからの。何かあったら、居間の奥にある台所に居るんでな」
「分かりました!」
蔵人は新しい薪を担ぎながら、お爺さんに答える。
お爺さんはそれを見て、うんうん頷いた後、宿の方へと帰って行った。
「さて、修行だ」
蔵人は斧の柄を握りしめる。
それから暫く、蔵人は無心で斧を振り下ろし続けた。
最初は、なんとも情けない音を鳴らしながらの薪割りだったが、次第に振り方のコツが掴めてきた。
肩に余分な力が入ってしまっていたので、もう少し軽くする。その分、背筋に意識を注ぎ、もっと思いっきり振り下ろす様にした。
スカーン…スカーン…
うん。まぁまぁマシな音になってきた。
一撃で、薪も真っ二つになるようになったし、最初の頃よりは良くなっている。
まだまだ、お爺さんが奏でていた小気味良い音には到達出来ていないし、切り口がササクレ立っている。
まだ余分な力が何処かにあるのだろう。探して、改善せねば。
「おおぅ、黒ヤギさん。上半身裸で寒くないんか?」
いつの間にか戻ってきたお爺さんが、目をまん丸にして蔵人を見る。
そう。蔵人は薪割りの最中に上のジャージを脱いでいた。
やっている内に暑くなり、今でも身体中から湯気が立ち上っているのだった。
本当は下のジャージも脱ぎたいくらいだが、流石に外でパンツ一丁は不味い。通報される。
「暑いくらいです。いい鍛錬になってますよ」
「それは良かったけどもよ、朝餉の前に風呂に入んな。薪ももう十分だ。1週間分くらい作ってくれたわ」
「では、お言葉に甘えて」
蔵人は斧を返して、干してあった上着で汗を拭く。
すると、そこに朝日が差し込んできた。
ひんやりとした地面を、暖かな太陽が温めると、地面からも湯気が立ち上る。
遠くに視線を送ると、山々から狼煙の様な筋が幾つも上がっているのが見えた。
荘厳な風景が、目の前に広がっている。
言葉に表せない程の感動が、ジワジワと心の中を満たしていく。
薪割りは疲れたが、とても気持ちのいい朝を迎える事が出来た。
それから蔵人は、朝風呂を堪能し、朝食を頂いた。
朝食のメニューは、麦飯と豆腐の味噌汁。お漬物と厚揚げのお浸し、それに納豆であった。
お肉は無いが、ソイプロテインたっぷりの筋肉に優しいメニューであった。
お陰で、背中の筋肉が喜んでいる気がする。
「そろそろお迎えの時間じゃな。気ぃつけてな」
朝食を食べた後、居間でゆっくりしていると、お爺さんが柱時計を見て教えてくれた。
蔵人は立ち上がり、準備していた荷物を持つ。
「ありがとうございます。行ってきます」
「夕餉はぶろっこりーを買っとくかんな」
玄関でお爺さんと別れる。
夕餉のリクエストを聞かれたから答えたけど、大丈夫だよね?カリフラワーと間違えたりしないだろうか?
「黒騎士選手!」
蔵人がお爺さんの心配をしていると、前から緊張した声が聞こえた。
見ると、昨日別れたテレポーターがソワソワして立っていた。
ああ、待たせてしまったか。
「すみません。よろしくお願いします」
蔵人が早足で駆け寄ると、女性は一瞬体を固くするが、蔵人の顔に笑みが浮かんでいるのを見て、ポカンとした。
うん?なんです?
蔵人が不思議そうに彼女を見ると、女性は慌てて言葉を漏らす。
「えっ?あっ、えっと…なんか、普通と言いますか、もっとこう、愚痴を言われると思っていましたので」
ああ、そういう事か。
蔵人は後ろを振り返り、昨日泊まった宿を改めて俯瞰する。
確かに、あそこから出て来たら、ゲッソリしている方が普通である。
そして、彼女達はそれを望んでいる。
黒騎士を弱らせるために行った作戦が、十分に効いていると思いたいだろう。
もしもそれが叶わなければ、更なる策に出てくる。
だとしたら、正直に答えてしまっては不味いな。
蔵人は、喉に小さな膜を張り、大きく咳き込む。
「ゲッホ、ゲッホ!(低音)あ~、すみません。ちょっと、喉の調子が悪くて、あんまり喋りたくないんですよ…」
蔵人の様子に、テレポーターは「大丈夫ですか?」と心配した風の言葉を掛けてきた。
だが、随分とホッとした表情になっている。
化かし合いも苦手な娘なのかな?有難い。
蔵人は顔を伏せ、彼女に見えないように笑った。
分かってはいましたが、ボロ宿程度では揺らぎませんでしたね、蔵人さん。
「寧ろ、喜んでいる様に見えるぞ?」
ええ、確実に喜んでいますよ。修行と言って、山籠もりをしていた時期もありましたから。