239話~それはまるで、二人三脚みたいね~
「イノセスさんって、どなた?」
そう言って、暫くこちらを不思議そうに見詰めていた鶴海さんは、大きなお目目をパチパチさせた後、小さく笑みを作った。
「うふふっ。ごめんなさい。驚かせるつもりはなかったの」
そう言われて初めて、黒戸は、自分が眉を上げている事を自覚した。
しまったな。
黒戸は、自分がいつの間にか弱気になってしまい、相棒の名前を漏らしてしまった事を恥じた。
居るはずのない友を求める程に、弱気になってしまったのだな。
気付いたら、手が首の後ろを摩っていた。
「いえ、こちらこそ…恥ずかしい所を見せてしまいました」
黒戸がバツの悪そうな顔で返すと、鶴海さんは少し悲しそうな目で、それを受け取る。
「別に良いじゃない?蔵人ちゃんはホント、"我慢し過ぎ"よ」
鶴海さんのその言葉で、黒戸は彼女の後ろに誰が居るのかを察した。
そうか、親友よ。君は、この人に相談したのか。
そんな薄眼で、よく周りを見ているじゃゃないか。
黒戸は、親友の笑顔を思い浮かべ、口の端が少し持ち上がった。
おっと、また表情が崩れてしまった。
黒戸は頬の筋肉を硬直させ、バレないように小さく俯いた。
「ははっ。皆さんがご心配するほど、僕は我慢などしていませんよ」
「そうかしら?最近の貴方は、何処か上の空よ?何処を見ているか分からない目をしている時があるし、名前を呼んでも、ほんの少しだけ反応するのに時間があるもの。まるで、自分の名前を忘れそうになっているんじゃないかって、心配になるわ」
名前を忘れる、か。
黒戸は内心で舌を巻く。
本当に、この娘は人をよく見ている。人の動作、仕草を見て、その人の心理状態を的確に把握しているのだろう。
本当にこの娘は、中学1年生なのだろうか?俺達と同じように、前世の記憶を持っていたり、死に戻りでもしているんじゃないだろうか。
そう思ってしまう程に、この娘の精神はしっかりとしている。
海麗先輩の不調を真っ先に察し、伏見さんの迷いを的確に導き、岩戸戦の大攻勢を防ぎきった。
この人なら、俺の事を…。
そこまで考えて、黒戸は首を振る。
何を考えているのだと、今考えた事を頭から振り払うかのように、強く。
そんな黒戸を見て、鶴海さんは何かを言いかけて、口を噤み、
再び、口を開いた。
「ねぇ、蔵人ちゃん。偶には一緒に帰らない?蔵人ちゃんが良ければ、だけれども」
「喜んで」
つい、黒戸は反射で答えていた。
しまった。感情の赴くままに答えてしまった…。
反省する黒戸だったが、鶴海さんが既に先を歩み出していたので、慌ててその隣に並ぶ。
宵闇の中、儚げな影が2つ、寄り添って大通りを歩む。
特区の夜は静かだ。商業設備が連なる場所であれば、若い女性達が秋の夜を謳歌しているのだろうが、桜城の周辺は住宅街となっている。
その為、音を発するのは草陰に隠れた鈴虫たちの声ばかりであった。
暫くの間、2人の間に会話は無い。淡々と、明るく照らされた街路樹の間を進み続ける。
青春を謳歌する学生にしては、味気ない姿。
そう思う人もいるかもしれないが、黒戸にとってはこの空間が、この時が、とても心地良かった。
それは、周りが暗闇であるからと言う事もあるだろう。元々黒戸の居た世界は真っ暗闇だ。ホームに帰ってきた感覚もする。
だが、それだけでは無い。
隣に居る人が、鶴海さんである事も大きいのだろう。
彼女が別の人であったなら、こんな感覚は覚えないかも知れない。
彼女があの子に似ているからだろうか?
…分からない。
分からないが…。
「鶴海さん」
黒戸は知らず、言葉を発していた。
発して、暫く言葉を続けて良いのかと吟味をする。
だが、喉元まで出かかった言葉を、止めることは出来なかった。
「俺が生まれた時、俺の心の中には、もう1人別の人間が居たんです」
喋ろうと思って出た言葉じゃない。ただ、ずっと心の中にあった言葉だ。
もしも相棒がここに居たら、こんな風に相談していたのではないかと、妄想を重ねていた思いが言葉となり、腹の底から湧いて出て来た。
黒戸のその言葉に、鶴海さんは小さく首を傾げた。
「それは、もう一つ別の人格があったってことかしら?」
「えっと…そう、ですね。二重人格。それに近い状況でした」
あながち間違っては居ないだろう。
多重人格。後に解離性同一症と呼ばれる心の病は、人格が複数に分かれてしまって統一出来ない病気だ。
同じ体に魂が2つ入る転生と、似ている所がある。
転生云々よりも、そちらの方が分かりやすいだろうと考え直し、黒戸は話を続ける。
「この体に居たもう一つの人格。それが最初に居た人格であり、主人格です。ですが、俺が物心つく頃には、その主人格は居なくなっていました。きっと、僕が消してしまったんです。まだ赤子だった蔵人君は、声を上げる事すら出来ずに押し潰されてしまったんです。俺という、侵略者によって。俺は…」
黒戸は言葉を切り、こちらを見下ろす星々を仰ぎ見る。
黒戸は初め、この転生は創成転生だろうと思っていた。
神様が態々用意してくれた新しい体が、巻島蔵人だと思っていた。
双子という事にしてしまえば、その後の辻褄合わせも楽になるから、頼人の劣化コピーとして作ったのかと考えていた。
だが、実際は違った。
巻島蔵人は実在する人物であり、黒戸が来なければ別の人生を送っていた事だろう。
慶太や、西濱のアニキみたいに、Eランクでも活躍出来ていたかも知れない。
今の頼人みたいに、原作よりも幸せな道を歩めたかもしれない。
黒戸が来たことでストーリーが大きく変わり、他の人達が幸せになったなら、その可能性は十分にあったのだ。
ディザスターなんてものにならない、新たな蔵人君の人生が。
「そうだったのね」
黒戸の要領を得ない独白にも、鶴海さんは質問もせずに、ただ静かに聞いてくれていた。
黒戸はそれに、何処か安心した。
少しでも拒絶されていたら、きっと笑って誤魔化していただろう。
そう言う作り話だと言って、話を切ってしまっていただろう。
でも、彼女なら大丈夫だと安心した。
安心して、夜空を見上げていた顔を下げると、自然と弱音が口から漏れてしまう。
「俺は過ちを犯しました。知らなかったからと許される事ではありません。蔵人君は、何ら罪を犯したことの無い、小さな赤ん坊でした。まだ空も見たこともない、そんな純粋な子供を、俺は殺してしまいました。そんな俺は…」
黒戸はそこで、言葉が詰まった。
そんな自分がどうするべきなのか、その先の答えを出せないでいた。
本来なら、直ぐにでも体を持ち主に返すべきであろう。
だが、返す相手が居ない今、どう生きるべきかが問題だった。
この世のバグを全て取り除く。
それは黒戸の役割であり、都合だ。それをするのは当たり前。
ではその先は?
蔵人として生きるのか?
殺した相手に成り代わるなど、厚顔にも程があるだろう。
かと言って死ぬ訳にはいかない。それこそ死んでしまった蔵人君への冒涜でしかない。
成り替わって生き続けることも、奪った命を粗末にすることも出来ない。
抜け出せない無限ループだ。
道の先に、答えが見えない。
そう、悩む黒戸。
その横で、
「う〜ん…そうなのかしら?」
鶴海さんも悩んでいた。
「私はね、蔵人ちゃん。その主人格さんがまだ、蔵人ちゃんの中に居るんだと思うわ」
「…主人格が、俺の中に?」
「ええ。だって、気付いた時にはもう居なかったってことは、蔵人ちゃんはその人の声を聞いていないのよね?」
小首を傾げる鶴海さんに、黒戸は頷く。
確かに、蔵人君の声を聞いた事は無い。聞いていれば、真っ先に気付けていた。この転生が創生などではない事に。
だが、
「ですが鶴海さん。主人格君は声も出せなかったのだと思います。本当に小さな、赤子だったのですから」
「なら、尚更じゃない?」
「尚更?」
「そうよ。だって赤ちゃんだったら大泣きすると思うわよ?自分に危険が迫っているなら特にね」
そう…かも知れない。
黒戸は顎に手を当て、眉を顰める。
相手が赤子だから、抵抗力が無いから、何の反応も無く、為す術もなく黒戸という強大な存在に押し潰されたと思っていた。
だが、果たしてそうなのか?
赤子でも、いや、赤子だからこそ、生きる事には必死でしがみつこうとするのではないか?
生きる為に精一杯、産声を上げる様に。
「それにね、蔵人ちゃん。本当にその子を感じたことはない?嬉しかった時、悲しかった時。自分ではない別の感情を感じたことはない?」
「別の、感情ですか?そんな事は今まで…」
そう言いかけて、黒戸は言葉を切る。
思い出す。
つい、この前の事を。
元母親を追い返した、あの夜を。
あいつを殺さずに逃がした時、心のどこかで安堵を感じた。
あれは、面倒事にならなかったことを喜んでいるのだと思ったが、今思い返せば、あれが蔵人君の感情なのではないか?
心の何処かで、黒戸が母親を殺さなかったとに安堵した彼の感情が、浮き上がったのではないか?
「あれは、蔵人君の感情だったのか…?」
黒戸は俯く。
その視線の先に、自分の両手があった。神に懺悔するように組まれていた両手が。
その黒戸の手を、鶴海さんの柔らかい手が優しく包み込む。
いつの間にか強く握っていた手は、鶴海さんの手の暖かさで、少しだけ力を抜くことが出来た。
「蔵人ちゃん。貴方はきっと、そのもう1人の人格と共存しているのよ。貴方が今、その子の存在を感じ取れないのは、それだけ貴方との共存が心地いいから。貴方が歩む道が、その子と同じ道だから一緒に進んで行けるの。それはまるで、二人三脚みたいね」
二人三脚。
その言葉で、黒戸の脳裏には桃花さんとの体育祭が思い浮かんだ。
最初は、互いに息が合わず、歩き出すことも出来なかった2人。でも、最後は2人の体が、まるで自分の体の様に思えて、自由に走り続けることが出来た。
違う魔力が混ざり合い、新たな力が生まれていた。
「私もね、小さい頃に自分が嫌になった時があるの。本当は喜びたいのに、怒ってしまったり。悲しみたいのに、笑顔を作ってしまったり。私の中に色んな私が居て、なかなか思うように行かなかったわ。今でも、偶にはあるけれど、少しはみんなとも付き合えるようになった。そうやって、少しづつ成長することが出来たの」
鶴海さんは黒戸の手を包みながら、こちらを見上げる。
大きな瞳を潤ませながら、優しい微笑みを向けてくる。
「そうやって、人は成長していくんだと思うわ。蔵人ちゃんもきっと、そうして成長している最中なのよ。その過程で、一緒に居た人達を感じなくなっちゃうのは寂しい事だけど、居なくなった訳じゃないわ。きっと、貴方のその胸の中に、一つになって生き続けているわ」
鶴海さんの言葉に、黒戸は笑みを浮かべる。
自虐的な笑みを。
ああ、本当だ。
俺はいつの間にか、自分が完成した者だと思い込んでいた。幾つもの世界を渡り歩いたその経験から、誰よりも強い精神力を持っていると。
だが、そうではなかった。
人を完全に消せる程の、強い存在などでは無かったのだ。
人と共存できるだけの、弱い心を持っていたのだ。
俺は俺だ。修復屋の黒戸だ。
だが、蔵人でもある。
黒戸であり蔵人である。それが、この世界の巻島蔵人なのだ。
「鶴海さん。俺は…ここに居ても、いいのでしょうか?」
蔵人の中に居ても。
蔵人の体を使っても。
縋る黒戸の目を、鶴海さんは泣きそうな顔で迎える。
「蔵人ちゃん。私は、貴方に居て欲しいと願うわ。まだ出会って半年くらいだけど、貴方と一緒に過ごせた半年は、私の中では濃厚で、掛け替えのない物になったもの。きっと、他のみんなもそう言うわ」
「鶴海さん」
蔵人の体の中で、彼の心臓が大きく鼓動する。
今まで忘れていたかの様に、強く、確かに。
ここに俺が居るんだと、示すかのように。
黒戸は、笑った。
いや、蔵人は笑った。
目の前が薄っすら霞んで、ぼやけて、折角の彼女の微笑みが見え辛い中で、上に重なっていた彼女の手を取る。
「俺も、貴女に出会えて良かった。今日、貴女に話せて、良かった」
蔵人はしっかりと、鶴海さんの手を握る。
鶴海さんは、蔵人に掴まれていない方の手を伸ばして、その頬に触れる。
そこを流れる雫を、優しく救い上げる。
「お帰りなさい、蔵人ちゃん」
鶴見さんの一言が、優しく響いた。
鶴海さん。ありがとうございました。
蔵人君は、死んでなんかいなかったんですね。
「正しくは、あ奴と混ざり合っているのだろうな」
それが、今の主人公なのですね。