150話~おやすみなさい、蔵人~
8月23日。午後6時55分。
お昼は千客万来であった蔵人は、今現在サーミン先輩と一緒に歩いている。
後ろには桜城の先輩達の他に、サーミン先輩のハーレムメンバーも一緒だ。
メンバー的に、カラオケ直行に見えるだろうが、今日はそうではない。
本日の目的は…。
「おおっ!ココだココだ!」
サーミン先輩が、嬉しそうに指示したのは、お風呂屋さんだ。
…そういう意味ではないぞ?
本当の意味でのお風呂屋さん、所謂スーパー銭湯だ。
普段はホテルの大浴場を使う桜城メンバーだったが、今日はサーミン先輩がお勧めしたこちらの銭湯を利用しに来た。
早速、受付を済ませて中にはい…。
「申し訳ございませんが、お二方は少々お手続きがございます」
何故か、受付で止められる蔵人とサーミン先輩。
他の女性陣がすんなりと通されるのを横目に、別室へと通される。
少し訝しむ蔵人だったが、隣のサーミン先輩は平然と係の人に付いて行っているので、蔵人もそれに倣う。
これも、特区ならではの事情なのだろうか。
「それでは、こちらで身体検査をさせて頂きます」
受付の裏の別室で、そう言ってお辞儀する男性の係員。彼の両隣には、屈強な女性の警備員が立ち並ぶ。
男性はそう言うと、ジッと蔵人達を睨みつけた。
何となく、彼から弱い魔力の波動を感じる。
きっと、透視か何かで蔵人達を調べているのだろう。
「はい。お二方とも間違いなく男性でいらっしゃいます。ご協力いただき、誠にありがとうございました。どうぞ心行くまで、当館の温泉をご堪能下さいませ」
そう言って、係の人達は入ってきたのとは別のドアを開いて、深々とお辞儀をした。
どうも、蔵人達が本当に男性なのかを調べたみたいだ。
男装して、男湯に入ろうとする女性がいるのかもしれない。
間違いなく、女性の数が多い特区特有の事情だな。
今度こそ、蔵人達は更衣室に通されて、その後大浴場へと赴く。すると、
「おおっ。すげぇ…」
サーミン先輩が、思わず呟く。
それも仕方がない事。
目の前には、壮大な光景が広がっていた。
白い大理石で囲まれた大きな湯舟。
真ん中に大きな男神の銅像が建てられた、豪華な湯舟。
お湯の色が白濁としていて、効果がありそうな温泉。
ブクブクと泡が湧き出す、魅惑のタイル式お風呂。
ゴツゴツとした岩肌から一本のお湯が勢いよく落ちている、打たせ湯。
ヒノキ材で囲まれた、最新式のサウナ室。
見ているだけで楽しめそうな、様々な湯舟の数々が蔵人達を待っていた。
こんなに豪華な温泉は久しぶりだ。
まるで、登別の高級ホテルに来たみたいだ。
流石は特区の温泉。
「っしゃぁ!遊ぶぞぉ!」
いきなり大声を上げて、サーミン先輩が温泉に突撃した。
公共の場ではしたない。
そう思う蔵人だが、止めはしない。
何せ、蔵人達以外に客は居なさそうだからだ。
これだけ高級な銭湯だが、需要で言うとそれ程でもない。
特区の男性と言うのは、女性を怖がる傾向にあり、このような女性も利用する公共の場所は好まないのだ。
それは、ホテルでも言える事。
ホテルに泊まる男性客の殆どは、部屋に備え付けのお風呂を使う傾向にある。
2階にある大浴場を使う人は、本当に稀。
それ故に男性の大浴場は、大浴場と呼ばれておきながら、ちょっと湯舟が大きいだけのお風呂であった。
なので、サーミン先輩はこれ程はしゃいでいるのだ。
こんなに大きな温泉は久しぶり。そう思って。
これは、お風呂に限ったことではない。特区では、男性に不便な面も結構あるのだ。
先ず挙げられるのがトイレ。女性用のトイレは結構見かけるのに、男性用のトイレはかなり少ない。感覚で言うと、女性5に対して男性1である。
WTCですら、1施設に1個男性用のトイレがあればいい方であった。
他にも、アパレルショップで男性用の衣類を取り扱っていなかったり、中規模のスーパーだと、男性用の日用品が売っていなかったりする。
男性の数が圧倒的に少ないが故なのだろうが、少し悲しい事だ。
そう嘆きながらも、蔵人も温泉を堪能する。
電気風呂に肩まで浸かり、日ごろの疲れを取り除く。
あぁ~…いい湯だぁ…。
「おい、蔵人、おっさん臭いぞ?」
サーミン先輩に突っ込まれてしまった。
おっと、声に出していたかな?
「そんなビリビリな奴よりもさ、外に行こうぜ!向こうの方に露天風呂もあるんだとさ!」
そう言うが早いか、腰にタオルを巻いたサーミン先輩は既に走り出しており、なかなか来ない蔵人に向かって手招きをする。
露天風呂か。夏の夜空を見ながら入るのも悪くはない。
出来たら、熱燗が欲しいところだけど。
無いものねだりをしながらも、蔵人はサーミン先輩を追う。
外へと繋がるガラス張りの扉には、大きく〈注意!女性風呂と隣接しています。覗き対策は万全ですが、女性の話し声が聞こえるので、不快に感じる方はご利用をお控え下さい〉と警告文が貼られていた。
なるほど。サーミン先輩が嬉々として走り出した理由が分かった。
そう思いながらも、蔵人はその扉を越える。
そこには、木目調の屋根の下に、味わいある大岩に囲まれた温泉が佇んでいた。
これは良い物だ。
蔵人は早速湯舟に浸かり、先ほどと同じようにトロけ出す。
あぁ〜…疲れが染み出るぅ…。
すると、
「おっさんみたいな声出すんじゃな、黒騎士は」
岩陰から現れた少年が、呆れた様に声を掛けてきた。
先客が居たとは。
蔵人は姿勢を正し、少年に向かって小さく会釈する。
「これは失礼しました、魔王様」
そう。そこに居たのは、広島呉中の魔王だった。
グラサンもアクセサリーもしていない、髪がペシャンコな魔王は、かなり幼く見える。
きっと、あのイキリスタイルは、自分を大きく見せる為のファッションなのだろう。
魔王は険が取れた微笑みを見せる。
「ええて。オモロかったからな。それより、お前らもこの近くのホテルなのか?」
「ええ。ここから徒歩10分くらいの所です。今日はサーミン先輩に連れられて来ました」
そう言って、先輩の方を見るも、彼はこちらに背を向けて、壁を見上げていた。
「おーい!みんな聞こえるか!?俺だぞー!」
「あぁっ!サーミン!」
「みんな!サーミンが露天の方に居るよぉ!」
「サーミン君、聞こえる?」
「おー!聞こえるぞ!」
なるほど。その壁の向こう側が女風呂なのか。
サーミン先輩は初めから、これをやる気満々だったのだろう。
彼は、はち切れんばかりの笑顔で、こちらを向く。
「おい!蔵人!お前空飛べたよな?晴明戦でやってたやつで、俺を壁の上まで飛ばしてくれ!」
自信満々のご様子で、覗きの相談をされてしまった。
出来るかっ!そんな軽犯罪!
蔵人の隣で、魔王も呆れた声を上げる。
「大した奴じゃ。自ら女風呂に行こうとするとは。さっすが、ハーレム王さんのやる事は違うのぉ…」
「げぇっ!魔王!?」
今、気付いたのか。
サーミン先輩の顔が、見る見る険しくなる。
「お前っ、どうしてここに!」
「俺様が何処に居ようと、お前に何か言われる筋合いはない」
「そんな事言って、また美原先輩や蔵人を勧誘しに来たんじゃないだろうな?」
睨むサーミン先輩を、魔王は余裕の笑みで受け止める。
「あれだけ見事に負けたんじゃ。今回は大人しく引き下がっちゃる」
「ほぉん。強欲な魔王様にしちゃ、殊勝な心掛けじゃねえか」
「ふんっ。俺様にはまだ来年があるからな。魔王軍を再編成して、来年こそはお前らを潰す。そして、黒騎士。お前を魔王軍に迎えるからの」
どうやら、まだ俺を奪う事は諦めていないらしい。
蔵人が疲れた笑みを浮かべていると、サーミン先輩も呆れたように首を振る。
「なんだよ、全然諦めてねぇじゃねえか」
「当り前じゃ。美原も、米田も得られんからな。最強の魔王軍を編成するには、黒騎士、お前が必要じゃ」
また鋭くなってしまった視線を受けて、蔵人は話題を変えようとする。
「おや。美原先輩だけでなく、米田さんも諦めたのですか?」
「まぁの。お嬢に言われちゃ、俺様でも手が出せん」
お嬢。
その言葉に、蔵人の心臓が嫌な鼓動を刻んだ。
まさか、この人、紫電の正体を知っているのか?
蔵人が嫌な汗を流していると、サーミン先輩が疑問を口に出した。
「お嬢?誰だ、それ?」
「あっ?音張さんの事じゃ。俺様達の中では、そう呼ばれちょる」
「音張?あの如月の大将だろ?何でまた?」
首を傾げるサーミン先輩に、魔王はこちらに視線を寄こしてから、話し出した。
「俺様達の住んどる所で、ずっと昔に大きな災害が起きたんじゃ。その災害の慰霊式典に、元陸軍大将の雷門様が毎年来てくれとる。以前はそれに、あの音張嬢も来とった。じゃから、俺様達はあの人の事をお嬢と呼んどる。きっと、あの雷門様の親族じゃろうからな」
なんと、音張さんは雷門様の血縁者だったのか。
道理で、若葉さんでも情報を得られなかった訳だ。
Sランクが関係している家族の情報なんて、一般人では得られる訳ないからね。
蔵人が納得している横で、サーミン先輩が嬉しそうな声を上げる。
「おい!もしかしなくても、お前も雷門様のファンなのか?」
「あぁ!?当たり前じゃろ!広島であの方を慕っておらん奴は潜りじゃ!」
「俺もファンクラブ会員なんだよ!番号は8580だ」
「ほぉ。1万以下とは、なかなかやるのぉ」
そう言う魔王の表情も、一気に明るくなる。
共通の趣味を見つけて、親近感が湧いたのだろう。
それは良い。
良いのだが、
それから暫く話し込んだ2人は、何故か女風呂と隔てる壁に取りついていた。
何故?
「おいっ!蔵人!早く足場を出してくれ!」
蔵人が2人の背中を見ていると、2人してこちらを振り向いた。
蔵人は首を振る。
「良く分かりませんが、犯罪に手を貸すことは出来ませんよ?」
「犯罪じゃねぇ!これはみんなの為だ」
「家来のモチベーションを上げんのも、俺様達の役目じゃからな!」
魔王までそんな事言っている。
サーミン先輩に乗せられたのか、最初からこういうキャラだったのか。
どちらにせよ、女風呂を覗いたら犯罪だ。
それは、この世界では適用されないかもしれない。
だが、様々なハラスメントが厳しい世界を知っている蔵人からしたら、大丈夫だと言われても、覗きに加担するのは恐ろしかった。
故に、お湯の中でだんまりを決め込む蔵人。
それを見て、2人はやれやれと首を振る。
「おいおい。いつものお前はどうしたんだよ?鎧に守られてないから、女にビビってんのか?」
「片腕飛ばされても動いとった奴とは思えんの。裸見られんのが嫌か?」
おっと、どうやら2人とも、俺が女性に裸を見られるのを怖がっていると勘違いしたみたいだ。
こちらはただ、女性の裸を見てしまって、その後の罪悪感が嫌なだけなのだが。
そう思った蔵人だが、勝手に勘違いしてくれたのならラッキーと、そのまま目を瞑る。
「仕方ない。一騎打ちと行くぞ、魔王」
「ほぉ。いい度胸じゃ。お前が先に上りきったら、俺様の魔王軍に入れちゃる」
「誰が入るかよ!」
「勝つ自信がないか?」
「言ってろ!」
楽しそうに言い合いをする2人の声が、徐々に高い位置へと変わっていく。
登っているみたいだ。
蔵人は、取りあえず万が一を考えて、彼らの足元に盾と膜を置いておく。
そして、少しすると、
「「「きゃぁあ!魔王さまぁ!」」」
「「「サーミンくん!大胆!」」」
女性陣の歓声が聞こえて来た。
登り切ってしまった様だ。
タオル一枚腰に巻いてはいるが、ボロンしたりしないだろうか。
蔵人は、壁とは反対方向に視線を向けて、思考する。
音張さんが雷門様の関係者。
もしもそうであるのなら、彼女にする質問は決まっている。
少し悪い顔をする蔵人。
その視線の先には、半分に欠けた月が夜空にのぼっていた。
その後、蔵人達はホテルへと戻り、明日のミーティングを行った。
温泉で騒いだサーミン先輩達は、従業員に注意されてしまった。
何故か、蔵人も一緒だったのだが、それはもう覚悟していた。
「まったく。大事な勝負の前に何やってるのよ…」
呆れた部長の言葉に、しかし、サーミン先輩はそれ程悲観的な顔をしなかった。
恐らく、温泉で魔王と仲良くなったことが、彼のモチベーションを上げているのだろう。
また遊ぼうぜと、魔王と約束しているのを蔵人は見かけた。
数日前まで殴り合っていたのに、流石は男の子だ。
ミーティングを終えた選手達は、各々の宿舎へと戻っていく。
ロッジで会議を終えた時に見たテレビでは、明日の試合についての短い説明があった。
ただ、紹介されたのは主に決勝戦の事だけで、3位決定戦については、
『明日は午前11時から3位決定戦。決勝戦はそのすぐ後。予定では正午12時スタートとなっています!チケットの転売は禁止されていますので、くれぐれも違法な業者からの購入目的で現地に行かないように気をつけて下さい!』
と、決勝戦のおまけ程度に扱われていた。
そこには、彩雲の名前も、ましてや桜城の名前も出ることは無かった。
先輩達はショックを受けていた人もいたが、仕方がない事だ。だって、放送局は関西テレビであり、そりゃ地元の獅子王に注視するだろう。
だが、いい面もあった。
どうやら獅子王は準決勝で相当疲労しているらしい。相手だった彩雲に多くの主力メンバーが小さくないダメージを負わされて、決勝戦のスタメンが大幅に変わる可能性があるとの事。
それはつまり、彩雲もかなり消耗している可能性があると言う事だ。
蔵人もテントに戻る。
流石のサーミン先輩も、今日は大人しくテントで寝る。
と思いきや、蔵人がさて寝ましょうかねと照明器具に手を伸ばすと、じゃあ俺は用があるからと、テントの入口ファスナーに手をかけるサーミン先輩。
「先輩。流石にそれは不味いのでは?明日は彩雲戦ですよ?東日本勢初の表彰台が掛かっているんですよ?」
「済まない蔵人。だがな、男同士の約束を、反故には出来ねぇんだ」
あっ、魔王との約束、今夜なんだ。
蔵人は、2人の友情の前に口を噤んだ。
そして、先輩はその隙にテントから抜け出し、夜の闇に消えていった。
蔵人は少しの間、テント入口から顔を出したまま、闇夜を見つめていた。
信じられない気持ちもあるが、どちらかと言うと、サーミン先輩の新たな出会いに拍手を贈りたい気持ちだった。
昨日の敵が、今日の友。
青春の一ページを垣間見た気分だ。
でも、それって明日でも良かったんじゃないかな?
閉会式が終わった後も観光する時間があるのだから、その時でも十分に約束を果たせる。
明日はあの戦闘狂集団、彩雲との闘い。多くの先輩方が、緊張で寝られるか心配していた。
そんな中で…鋼の精神をお持ちの先輩である。
蔵人はシュラフにゴロンと横になりながら、ふぅと一つ、ため息を吐く。
まぁ、どちらにせよ、明日の試合にサーミン先輩は出ないだろう。
明日は本当に力と力のぶつかり合い。小細工無しの全力勝負だ。
蔵人は高ぶりそうになる気持ちを抑え、ゆっくりと息を吐き出して眠りへと入ろうとする。
だが、その時、テント外で足音が近づいて来た。
ここは女子先輩達のコテージからも少し離れているので、多分サーミン先輩だろう。
忘れ物かな?財布でも忘れたのだろう。せっかちな人だ。
蔵人は、起き上がり、入口のファスナーに手を掛ける。
「自動ドアでございます」とでも言ってやろうと思っていた蔵人だったが、先に声を掛けたのは向こう側だった。
「蔵人、起きてる?」
うん。サーミン先輩じゃない。明らかに部長の声。
「はい。今寝るところでした」
そう言いながら、蔵人は入口を開けて、部長を見上げる。
部長の顔は、少し強ばっていた。
「さっき神谷の背中を見た気がしたんだけれど」
やべぇ。
部長さん、点呼取りに来たのか!
ああ、終わった。
蔵人は、それが分かっていたら、意地でもこのファスナーを下ろさなかったと、丸見えのテント内を振り返って反省した。
そのテントの様子を見たのか、部長は小さくため息をついた。
「まったく。あいつったら、今がどんな時なのか分かっているのかしら!」
仰る通りで。
蔵人は小さくなって、入口の横に避ける。
テントの中を見やすくする為だったが、何を思ったのか、部長はそのままテントの中に入ってきた。
あれ?部長?
「蔵人が大変な時に、独り残して何処か行っちゃうなんて!」
ああ、そっちか。
部長はどうやら、試合前で大変な時、という意味ではなく、蔵人が怪我で苦しんでいる時に、1人遊び歩くサーミン先輩に憤慨しているみたいだった。
いえ、全く苦しくはないですよ?本当に、過保護になられましたね。
蔵人は苦笑いを浮かべる。
「部長、僕は大丈夫ですよ。お陰様で、今日は特別メニューで安静にしていましたから。もう体力も血も、元に戻りました」
「ダメよ。ちゃんと一晩休まないと」
部長はそう言って、蔵人の手を取って、シュラフの中に誘う。
あっ、シュラフのファスナーは開けておいて下さい。このシュラフ厚いんで、軽く足に掛けるだけでお願いします。
「さぁ、明日も早いんだから、目を閉じて。貴方は…その…大事な戦力なんだから、ちゃんと休むのよ」
そう言いながら、部長は蔵人のお腹辺りを優しく叩く。
いやいや。まるで赤ん坊に接する母親みたいですよ?
蔵人は、心の中で訴える。
何時からこんなに、部長は優しくなったのだろうか?俺が腕を飛ばされてから?
違うな。あの時、そう、バーベキューの準備をしている時に、既に兆候はあった。
そして、新幹線を降りた時までは、比較的厳しい部長であったと思う。
つまり、変わったのはホテルフロントでのやり取り後。部長が俺に抱きついたあの時辺りから、この娘の態度は軟化した気がする。
「蔵人?もう寝た?」
ええ。もう寝ましたよ。だから早く、部長もコテージ戻ってお休み下さい。
優しく語りかける部長に、蔵人は心の中で返事をする。
「……不思議よね。貴方って」
部長の声。
それは、蔵人に語りかけると言うより、自身に問うているかのような語りぐさ。
だから、返答はしない。
「試合ではどんなに強い相手にも挑んで行くし、自分の怪我よりも仲間を優先する。ホテルの受付でだって、私を助けてくれたし。あんなにカッコイイ貴方が年下なんて、とても思えなかったわ」
何時から、誰かにも言われた気がする。
そんなに老けて見えますかね?俺って。
「でも、こうして見ると、貴方の寝顔を見たら、そうなんだって思い出したわ。うふふ。可愛い寝顔」
部長の甘い声が、蔵人の耳元で聞こえた。
部長の香りがする。
昼間、部長が蔵人の横に座った時に香った甘い香り。
そんな香りをすぐ目の前に感じた蔵人は、
唇に、柔らかい感触を拾う。
甘い香りが、一層に広がり、部長の熱も感じる。
それは、ほんの一瞬のことだったろう。
でも、蔵人には、ゆっくりとした時の中にいる様に感じた。
「カッコよくて可愛いなんて、ズルいわ」
部長の熱も、香りも遠のく。
「おやすみなさい、蔵人」
そう言ってファスナーが一度降りて、再び上がる音がして、テントから離れる足音を聞いた。
少しして、蔵人は起き上がる。
暗闇に慣れた目が、誰もいないテント内のシルエットを拾う。
蔵人の唇には、まだあの熱と感触が居座っている。
「う〜ん…」
蔵人は腕を組んで、独り、唸った。
「…どうしてこうなった?」
その問いに、答えてくれる者はいなかった。
「まさにファーストタッチだな」
ドヤ顔で言わないで下さい。
「ふははは。まさか、あの娘が先手を取るとはな。予想外だったぞ」
主人公が予期せぬ方向に、物語が動いていそうな気がします。
「人の心までは、我でも見通せん。故に面白いものよ」
本当に、面白がっていますね。