110話~あたしはただ、答えが聞きたいんだ!~
蔵人が目を覚ますと、先ず木目状の天井が目に入った。
少し見慣れた天井の模様。
布団から起き上がって部屋を見回すと、誰1人としていない大広間が、ガランと広がっている様子が目に入り、心が静かになる。
畳の匂いが、一層に心を落ち着かせる。
同室で唯一残っているサーミン先輩の布団は、部屋の隅で小さく折り畳まれており、主の不在を小さく訴えかけていた。
蔵人は枕元の携帯を手に取り、スリープ状態を解除する。
そこに現れた時刻は…5時13分か。
サーミン先輩は、既に起き出している訳では無い。
昨夜は結局帰って来ず、蔵人は一瞬、探した方が良いのか迷った。
そして、部長に聞きに行ったら、呆れた様子で「放っておきなさい」との命令を頂いた。
まぁ、他のファランクス部員は全員帰ってきているので、彼だけ朝帰りを決め込んでいるのだろう。
サーミン先輩が連れて行った人達は全員、応援しに来ただけの娘達なので、試合にも影響はない。
今頃彼らは、最後の千葉県を楽しんでいるのだろう。
なんせ、今日の決勝戦に勝っても負けても、東京特区に帰らないといけないから。
とは言え、今日は大事な関東大会決勝である。
そんな大事な日の前でも遊び倒すサーミン先輩に、部長も頭が痛かったに違いない。
何せ、彼は本日もスタメンなのだ。帰ってきたら雷が落ちる事は確実だろう。
そう、今日は大事な試合の直前である。
自身の体調は万全であるが、何時でも動けるように最終調整をしなければならない。
蔵人は一瞬、誰も居ないならこの部屋で、魔力循環をしてしまおうと考えた。
だが、まだ日が高くない内に、外で軽く体を動かそうと思い直した。
後1時間もしてしまうと、太陽が肌を焼き焦がさんと頑張ってしまうからね。外でしか出来ないことを先にするべきだ。
蔵人は、急いで朝練の準備をする。
家の訓練でいつも着ている黒いTシャツに、黒いキャップをしっかりと被る。
片手には新鮮な水が入ったペットボトルと、ポケットには熱中症対策の塩飴も入れておく。
よし!これで準備万端!
そう意気込んで、外へと続く襖を静かに開け、大広間を出た。
出ようとしたのだが、襖を開けた瞬間、目の前が白銀一色に染められた。
…雪…の壁?
「ボス」
違う。白銀の壁と思ったのは、鈴華の髪の毛だった。
大広間の襖の直ぐ目の前に、鈴華が背を向けて直立していたのだ。
その彼女が振り返り、蔵人を真っ直ぐに見つめた。
顔色が悪いな。元々色白の彼女だが、今は少し青く見える。目の下には、大きなクマが横たわっているぞ。
蔵人は驚きながらも、何とか挨拶をする。
「おっ、おう。おはよう。鈴華。どうしたんだ?こんな朝早く。いや、もしかしてお前さん、寝てないのか?」
「ボス、答えてくれ」
蔵人の問に、しかし、鈴華は答えてくれず、ずいっと体を更に近づけて、蔵人に強い視線を浴びせる。
あまりに近いので、その白く透き通った肌のキメまで見えそうだ。
「ボス。昨日、翠にこくったのか?」
鈴華の問に、蔵人は脳みそがゆっくりと回転するのを感じる。
うん。みどりって……あっ、鶴海さんのことか。こくった…黒った?告った?ああ、告白したのかって聞きたいのか。
えっ、どういう事?!
「なっ、なんだって?何で、何故そんな…。鈴華、お前さんは一体、何を言って」
言葉が纏まらず、驚きが口からポロポロと漏れ出してしまう蔵人。
鈴華の寝不足で真っ赤な瞳が、慌てふためく蔵人を容赦なく照らし続ける。
いつの間にか、蔵人の両肩は、鈴華の綺麗な手でガッシリと掴まれていた。
「あたしも入れろ」
…うん?
鈴華の言葉に、一瞬、目が点になる蔵人。
えっ?何処に?何処に入れろって言ってるの?この娘さんは?
大広間?大広間に入りたいのかい?
もしかして、鶴海さんが昨晩ここに泊まったとでも勘違いしているのか!?
「ち、違うぞ!勘違いだ鈴華!」
蔵人は声を上げ、襖の淵に手をかける。
「ここには俺1人だ。サーミン先輩すら居ない!中に誰もいませんよ!?」
蔵人は襖を更に開けて、少し部屋の中に入り、部屋の中を無茶苦茶に指さして、誰も居ないことをアピールする。
あ、パンツがリュックからはみ出してる。準備を焦り過ぎたな。
しかし、鈴華の目は変わらずに血走っている。大広間の中を伺う様子すら無い。
彼女が見ているのは、蔵人。
蔵人の顔を、ただただ真っ直ぐ一直線に、ガン見し続ける。
「翠を、恋人にしたなら、あたしも、恋人にしろ、そう言っている!」
なんだって?恋人だと?あたしも?どういうことだぁ?!
一語一語分けて、分かりやすく喋る鈴華の言葉を、蔵人は全く理解出来なかった。
いや、理解せねばなるまい。こんなにも彼女が必死なのだから。
蔵人は、発せられた言葉の意味を、頭の中で咀嚼する。
鶴海さんを恋人にしたという誤情報。これが何処から来たものなのだろうか?
そして、あたしも恋人にとは、どういう意味だ?
あたしを恋人にしろなら分かるが、”も”って、なに?
「す、鈴華。すまんが、もう少し詳しくだな。出来れば根本的な部分から解説を賜りたく思う所存でして…」
蔵人が、しどろもどろになりながら、鈴華に事情を聴こうとする。
だが、鈴華はそれには構わず、蔵人から視線を外して、後ろを向いて大きな声を出した。
「桃!起きろ!お前もちゃんと言ってやれ!」
「ひゃぁっ!ね、寝てないよ!」
蔵人が声の方を見ると、額に腕枕の跡を付けた西風さんが、寝ぼけ眼で立ち上がる姿を目にした。
そして、鈴華と取っ組み合っている蔵人を目にした西風さんは、慌ててこちらに駆け寄った。
「く、蔵人君!ミドリンに告白したって本当!?先輩達が昨日の夜から、その話で持ち切りだよぉ」
先輩。
その言葉で、蔵人の頭に中には、あの時の光景が映る。
人垣の中でこちらを凝視していた、桜城の先輩方が。
ああ、彼女達が誤情報の発信源か。
蔵人は奥歯で苦虫を噛み潰す。
そんな蔵人の肩を、鈴華がガクガクと揺する。
あわあわあわ…。
「どうなんだよ、ボス!あたしも彼女にするのか!?それとも恋人にするのか!?どっちなんだよ!?」
なんか、選択肢が全く一緒の気がするんだけど!?
驚く蔵人の斜め前で、これまた慌てた西風さんが、手をワチャワチャと振り回す。
「す、鈴華ちゃん!か、か、か、彼女って、なに、言っちゃって!?」
「何って、お前だって一緒なんだろ?彼女にしてくれって言いに来たんだろうが。昨晩、あんなに取り乱してただろうがよ。翠が顔真っ赤にして帰ってきた時はさ」
「ち、ちがう!いや、違わない…いや、でも彼女とかそういうのは、早いんじゃ…蔵人君の彼女?僕も、蔵人君の彼女?」
必死に頭を悩ませ、目をグルグルさせる可愛らしい西風さん。だが、それと同じくらい、蔵人も目を白黒させていた。
なんだ。何を言っているんだ、この娘達は。
あたしも彼女に?僕も彼女に?
どういうことだ?
この世界では、それが常識なのか?
1人の男性が、複数の彼女を持つことが常識?
今まで、そんな世界があったか?
…あったな。一夫多妻制。
寧ろ、一夫一妻制の歴史の方が短いくらいだ。
19世紀の終わり頃でも、上流階級の男性達の中には複数の妻を持つ者が多く、キリスト教の貞操観念が普及するまでは続いたとされている。
つまり、100年とちょっと前までは一夫多妻制も普通に横行していたのだ。
だが、あれは上流階級の限られた人間だけが関わる制度である。
それに、この世界は100年前の世界大戦までは史実通りに歴史が進んでいる。なので、1898年に重婚禁止規定が設けられ、一夫一妻制が取られている世界のはずなのだ。
では何故、鈴華達はこのような言動を取るのか。
考えられるのは、重婚禁止規定が改正されたとかだろうか。
だが、そんなことあり得るのだろうか?
この世界でもキリスト教は広く信仰されている。そのキリスト教が許さない…いや、キリスト教は明確には一夫多妻制を否定していなかったか。
ならば、あり得るのか?
蔵人が思考の海に潜り、押し黙っていると、鈴華が心配そうな顔で覗き込んできた。
「なんだよボス。彼女も恋人もダメか?じゃあ妻で良いよ。正妻で良い。もしかして、翠を正妻にする気なのか!?じゃあ、側妻でも良いぞ!」
「うぇええっ!?ちょっと何言っちゃってんの!鈴華ちゃん。さすがにそれは、早すぎるよ!」
蔵人の意識が無いところで、話が広がっていく。
だが、蔵人はその言葉のお陰で、若干冷静さを取り戻した。
正妻。その言葉のお陰で。
やはりそうかと、蔵人は考える。
側妻と言う言葉は聞いた事無いが、仮に側室と同意であると考えると、この世界では一夫多妻制が復活していて、彼女も複数人容認されている、若しくは黙認されている可能性がある。
それで、蔵人が鶴海さんを彼女にしたと思い込んで、この2人は直談判しに来たのだと理解出来る。
まぁ、西風さんは、巻き込まれ事故っぽいけど。
どちらにせよ、彼女達は今、まともな思考回路ではない。
特に、鈴華は徹夜した様子だ。
先ずは、冷静に話し合う必要がある。
蔵人は、がっしりと自分の肩を掴んている鈴華の右手に、自身の右手を優しく重ねる。
「鈴華。少し、俺の話を聞いてくれないか?」
「話?あたしはただ、答えが聞きたいんだ!」
静かに語りかける蔵人の言葉にも、鈴華は鼻息荒く話の先へと進もうとする。
ダメか?一旦冷静になるまで、彼女を拘束するか?
蔵人は一瞬、物騒な選択肢を頭に思い描くが、直ぐに思い直す。
ここは、根気強く、冷静になろう。
こちらが焦ると、相手も焦ってしまう。
クールな頭脳だ。
「大丈夫だ、鈴華。俺は逃げない。時間もいっぱいあるだろ?先ずは座って、ゆっくり話そう」
蔵人はそういうと、膝を折って畳の上に座る。
鈴華は、一瞬不満そうな顔をするが、手を置く相手が座ったので、仕方なく彼女も座った。
こういう時も、キレイな正座をするところを見ると、やはり彼女は良いところのお嬢様みたいだ。
釣られて座った西風さんが、慌てて正座に座り直している。
別に胡坐でも良かったのだがね。スカートじゃないし。
蔵人は視線を鈴華に戻す。
「さて、では先ず、俺の話を聞いてくれるかな?」
蔵人の問いに、今度は素直に頷く鈴華。
座ったからか、彼女の感情も少し落ち着いたのだろう。
心なしか、彼女から放たれていた圧も、幾分か収まったような気もする。
心の準備は出来たみたいだな。
蔵人はゆっくり話し出す。
「ありがとう。先ずは昨日の夕方にあった出来事から、簡単に説明させてもらうよ」
蔵人は、昨日の出来事をかいつまんで話す。
ロビーで鶴海さんと若葉さんの3人で試合の話をしていた事。
鶴海さんがフィールドでプレイしながらの指揮に不安を感じていたので、元気づけたこと。
その後浜辺で、鶴海さんが蔵人の非常識な言動を指摘してくれたこと。
勿論、いきなり浜辺を走って逃げ帰ってしまった事は伏せておく。
そんなこと言ったら、鈴華は分からないが、西風さんは何かを勘づくかもしれないから。
「それだけか?」
話が終わると、不満そうに呟く鈴華。
蔵人は、それにしっかりと頷く。
「ああ、これだけだ」
「告白の話は何処に行ったんだよ?隠しているのか?」
「隠してないさ。強いて言うなら、彼女を励ました言葉が原因かもしれない。俺はこう言ったんだ『俺達前衛が、貴女達後衛を守ります。だから安心して指揮を執ってください』と。それを聞いた周りの人達が拡大解釈して、さも色恋沙汰と聞こえるように広めたのかも知れない。もしくは、噂が広まるにつれて、尾ひれがついたとも考えられる」
「本当かよ?」
鈴華がじっとりと前に出て、蔵人に詰め寄る。
充血した目が、蔵人をじっと見据える。
「ああ、本当だ」
蔵人も、その目を真っすぐ見つめる。
しばらく、彼女はただ蔵人の瞳を真っすぐに見つめた。
少し青色が入ったその瞳は、時折不安そうに揺れていた。
そして、
「そうか」
そうつぶやくと、いきなり蔵人に覆いかぶさるように倒れこむ鈴華。
いきなりの事だったので、一瞬体が強張った蔵人だったが、何とか膝立ちで彼女を受け止めることが出来た。
彼女のサラサラで銀色の光を返す髪が、蔵人の視界を遮る。
蔵人の鼻孔を満たす甘い香りは、ホテルのお風呂場にあったシャンプーとは違う香り。
「良かった~。あたしは、また、楽しい時間が無くなるかと、思って、めっちゃ焦って…」
吐息を吐く鈴華。
柔らかい彼女の体の感触と、ジャージ越しでも伝わる暖かい彼女の体温。それらが段々と強く感じられる様になっていき…
重くなっていく。
蔵人に覆いかぶさり、体の力を抜いていっているのだろう。段々と全体重が掛かりつつある。
蔵人は徐々に支えるのが苦しくなる。
「鈴華さんや。心配かけたのは済まない。だが、少しだけでも体を起こしてくれないか?ちょっと、この態勢、俺、キツいんですけど?」
「…、…、…」
鈴華の返事がない。
小さな吐息が、蔵人の耳に掛かるだけ。
重さは、鈴華の吐息が漏れる度に、蔵人へと押し寄せる。
「蔵人君」
西風さんだ。
西風さんが蔵人の後ろに回り込み、鈴華の顔を覗き込む。
そして、
「鈴華ちゃん、寝てるよ」
衝撃の一言。
蔵人は叫ぶ。
「起きろ鈴華!このままじゃ、共倒れだぞ!」
「…、ぐふふふ…、ぼすぅ~」
「あ、鈴華ちゃん、よだれ垂らしてるよ」
「助けて!西風さん!」
その後、西風さんの協力を得ることが出来て、何とか鈴華を蔵人の布団に寝かせた。
寝かせたのだが、蔵人の肩には、見事な世界地図が出来上がっており、Tシャツを洗い直す羽目になった。
だが、これは鈴華が悪い訳ではない。
昨日の自分の行いのせいであると、蔵人は反省するのだった。
久我さんは積極的ですね。
主人公がアタフタしていますよ。
「そうだな。それに、良い所のお嬢様の筈だが、随分と謙虚でもある。一般家庭の子に、正妻を譲ると何の気もなく言えているからな」
ああ、確かにそうですね。
一夫多妻制かもしれない事は、確定なのでしょうか?
イノセスメモ:
・この世界は一夫多妻制?←1898年に重婚禁止規定が出来てからは一夫一妻制となっている筈。詳しく調べる必要あり。