キスより簡単
ハスマイラの反応が一番早かった。
紙コップを受け取ったのは、彼女を引き摺って来たうちの一人。
ハスマイラは、そいつから、素早く腕を引き抜くと、もう片方の腕を捕らえている、兵士の両目を、指先で薙いだ。
体勢を崩した相手を突き飛ばし、両耳を塞ぎ、身を沈めた刹那、閃光が炸裂。
一瞬遅れて、辺りを揺るがす大音響が響き渡った。
40メートル以上離れて耳を塞いでいても、フラッシュ・バンの威力は凄まじい。
旧式のスタングレネードは、至近距離なら大火傷を負う。大丈夫なのか?
一瞬見てしまったおかげで、視界に大きな白い穴が残っているが、ピンクのトラックスーツの蹴りが、シンの膝を横から蹴り折った瞬間は見えた。
シンの絶叫を無視し、ジェーンは間髪入れず、ダッシュ。
まだ、踞っているハスマイラを小脇に抱えて走り出した。
「アジズ!」
「アイサー!」
私が言い終わらないうちに、こちらに駈けてくるジェーンへの援護を開始。軽快な射撃音が連続し、フラッシュバンの効果が薄い、2階の敵を斃していく。
「総力射撃、 叩っ殺せ!」
俺は、鬱憤を晴らすように絶叫した。
………随分やってくれたじゃねえか?
俺の大事な部下に恥をかかせてくれた上に、人間が出来る最悪の事をやろうとしたな?
あの娘がどれだけ頑張ってるかわかりもせず、おもしろ半分に壊そうとしたな?
オーライ。
今夜は、人殺しを心から楽しめそうだ。
俺は咆えた。
「テメエら、皆殺しだ!ミンチになりやがれ!」
完全に狂った、俺のヘッドセットに、待ちかねた声が届く。
『ガネーシャ、現着。伏せてください』
「ジェーン、M2花火だ、伏せろ!」
即座に、ジェーンが身を投げ出し、ハスマイラの上に被さった。
下ろしたズボンもそのままに、銃を構えようとした、連中が表情を変えるのがわかった。
伏せた私の、背後の門。
出現したピックアップに度肝を抜かれたのだ。
北京語が無限の怒りを込めて、ヘッドセットに流れた。
『射撃を開始します――殺』
私も応えた。
「殺」
地の底から響く重低音と共に、玄関口の兵士の群れが、血飛沫を上げて爆ぜた。
私と、ジェーン達の、頭上を死神の大群が通過していく。必死に地面にしがみつく。
頭を上げたら首から上が消える。
着実に送り込まれる死が、兵士を、建物を思うがままに蹂躙していく。
ピックアップの荷台に固定された、ブローニングM2重機関銃が、瀟洒だったシンの邸宅を、真っ赤な肉塊が張り付いた、弾痕とガラスの破片を敷き詰めた廃墟に変えていく。
2階から銃を捨てて、伏せる兵士を見て、私はヘッドセットに、叫んだ。
「撃ち方やめ!少女達の所在が不明、撃ち方やめ!」
間髪おかず、死神の咆哮が止んだ。
キーンという耳鳴りと、体中の銃創を無視し、私はなんとかして立ち上がった。
ハスマイラも、ジェーンに一瞬、礼を言って立ち上がる。
「ハスマイラ!」
「ボス!」
足を引き摺って進む私より、遥かに速く、下着姿の元陸上選手は、一気に走り寄る。
涙に目を眇め、こちらに走り寄るハスマイラ以外、私の視界から消えた。
私は……今。
多分、この世で一番幸運だ。
彼女が生きているのだから。
死なせずに済んだのだから。
私は、今、全財産も何もかも無くしてもいいと思っている。
娘のように思っていた部下。
私に想いを寄せているなど思いもしなかった。
私は……
最後の二歩をハイヒールで踏み切ると、私に飛びつき、両手両足でしがみついた。
私は死ぬ気で踏ん張ると、いい香りのする黒髪をいい方の腕で抱き寄せ目を閉じた。
柔らかな感触が、彼女の確かな生を伝えてくれる。私は、仲間に、ジェーンに心から感謝した。
「ボス、ボス!……夢みたいだっぺ」
しゃくり上げながら、彼女は私に頬擦りする。
擦り付けられる涙、鼻水すら、私には嬉しかった。
私はその体勢のまま言った。
「総員前進、投降した捕虜を確保。おかしな素振りを見せたら殺せ。シンを捕獲、この後始末をさせて、少女たちを開放しろ。警戒を続けろ」
「ラジャー……ボスは今しがみついてる、爆弾の解除を頼みます。下手打たんで下さいよ」
私の返事を聞かず、アジズは、3人を従え建物に向かった。
ハスマイラは、今は声をあげて泣いている。
彼女の震えるのが伝わる。
今頃恐怖が押し寄せてきたのか。
私は少しだけ腕に力を込めた。
きっと。
私達の関係を、少しだけ危うい方に傾けた瞬間だったろう。
私はハスマイラに優しく言った。
「ハスマイラ、お前にあげたいものがある。受け取ってくれるか?」
ハスマイラは、我に帰ったように固まると、慌てて、私から降りた。
「う、うん……じゃなぐで、はい!」
ハスマイラは、慌てて居住まいをただし、忙しなく、髪を手ぐしで梳いたり、涙を拭う。
鼻水を流してるのに気づき、真っ赤になって後ろを向いた。
「ち、ちょっとまってくんろ」
胸を隠し、持ち上げたブラジャーで顔を拭くと、咳払い。
両手で口許を隠しながら振り向くと、上目遣いにチラチラと私を見上げた。
……これくらいはいいだろう。
私は彼女の頬と耳を撫でた。
凍結するハスマイラ。
「あ……ウチ、キスも初めてだべさ、したっけ……なして、笑うん!? ひどぐね!?……あ……」
顔を寄せると、ハスマイラは、薄く目を閉じ睫毛を震わす。
いいとこまで引っ張っると、私は艷やかな黒髪、頭頂部に拳骨を叩き込んだ。
「な、なしてぇ!?」
頭を押さえ、涙目で喚くハスマイラ。
これくらいは、いいよな?