ナディアの実家
邸内に入り、耳鳴りのような砂嵐から切り離され、安堵する。門から案内してきた見張り達は戻っていった。入れ替わりに、赤い開襟シャツの男が砂を払うように身振りで命じる。
言われたとおりにしている私達を、警戒に満ちた顔で眺めている。
腫れた顔を上げた林堂くんが、面を上げ、たどたどしい英語で言った。
「アッサラームアレイクム。ナディアからの伝言です。裏庭に来るシーザーは元気でしょうか?」
赤いシャツの男は髭面に笑顔を浮かべると、頷いて親指を立てた。
私は意外に思った。
香咲ナディアたちは、この屋敷から逃亡したと聞いたが、それについて憎まれては無いのだな。
それとも、この邸宅に来るという猫達の話は歓迎なのだろうか?
何であれ、ツバをかけられるよりはいい。
私はさり気なく、後ろ髪を束ねる髪留めを指で3回叩いた。無事の知らせだ。
1度、発振器が震えた。
「遠い所をよく来た。来るべきではなかったがな…私の名はムハンマド」
林堂くんの腫れた顔を見ながら、表情を険しくして続ける。
「我らの客人に危害を加えるのは、我らを侮辱するのと同じ。本来ならあのハーシムの犬共の手を斬り落とすとこだが…」
廊下の曲がり角を振り返り、言った。
「それも、この話し合い次第だ。奥でお館様と、辺境警備隊が話している」
「オリガは無事ですか?」
私がムハンマドの英語を通訳する前に、林堂君が訊ねた。ムハンマドが肩をすくめた。
「無事だが、人の言うことを聞かない君には会いたくないとさ」
単純な英語だから、理解したらしい。
林堂君は少し項垂れ、頷いた。
ムハンマドは、ため息を付くと、そっぽを向きながら言った。
「これは独り言だが、泣いてる顔を見られたくないんだろ。何日も泣きっぱなしだ…そのくせ、君が無事かどうかは気になって仕方がないらしい」
林堂君は、ショックを受けた様だ。
突然、ムハンマドが言った。
「このガキ、刺されてるぞ!」
その途端、金色の髪が思ったより近い扉から飛び出してきた。
「あ、オリガ」
民族衣装の様な麻の上下。泣き腫らした顔を歪めて、林堂くんに駆け寄ると、両腕を掴み、忙しく全身をチェックする。
青い顔でムハンマドを見上げる。肩を竦めるムハンマドをみて、担がれたことに気付いたロシア人少女は、罵声を上げて男を突き飛ばした。
ムハンマドは顔を顰めて言った。
「静かにしろ、見つかるぞ…居るのはバレてるだろうが」
林堂君は慌てて言った。
「オリガ、大丈夫か?怪我は…」
「大丈夫ナワケない…っ! 顔? 殴られたノカ!?…このっ、アスホール!」
「いっでぇ!」
理不尽な平手打ちを林堂くんに喰らわし
-しかも腫れている方-
「帰れ、バカ!」
と抑えた声で喚くと、扉を叩きつける様に閉めた。
ムハンマドは呆れたように扉を見てたが、イッテエ、ナンダヨアイツ!とか蹲って喚いている林堂君に一言。
「オマエが悪い…ここで待ってろ」
ムハンマドは、そう言ってオリガの後を追った。
その時、奥の扉が開く音、喚き声が近づいてきて、曲がり角から肥った軍服姿が現れた。
その後を追う様に出てきた男が喚き続ける。
残念だが、私はここの言葉は分からない。
林堂君が呟く。
「あ、オスマンさんだ」
オスマンとやらが喚くのに取り合わず、アーリア系らしい軍服姿が、眠そうな顔で何かボヤいた。訛は強いが、英語なので聞き取れた。
「… 引き渡せないなら邸内を捜索する。オリガ・エレノワを早くつれて来い。もう待たんぞ…余所者か?どこから来た」
軍服が、胡乱な眼で私達を見る。
私が何か言うより早くオスマンが英語で言った。
「雑貨屋の親子だ。関係ない…なあ、シン。ハーシム家以上に払う。幾ら欲しいか言え」
シンと呼ばれた軍服は、黒い顔に嘲笑を浮かべた。
「ハーシムには跡継ぎがいる。ランボー気取りのアホであってもだ」
軍服は、振り返って歯ぎしりするオスマンを正面から見た。
「跡継ぎが、逃げた時にマフディ家は終わったんだよ…孫達にも逃げられたそうじゃないか」
「成人したら戻ってくる!」
「それまでマフディの家があればな。明日だ。見えるところにオリガ・エレノワを用意しておけ」
「ホントにくるとはね…日本人はみんなこうなのかい?」
年季の入ったソファにもたれた老婆が言った。
かなり疲れている様だ。
私が英語を通訳すると、
林堂君はじれたように言った。
「知りません。そんなことより、オリガに何かあったんですか?」
老婆は答えず重ねて問うた。
「隣の男は父親かい?」
「父さんはパスポート切れてるから、リーファのお父さんにお願いしました。父の友人なんです」
奥の大部屋に通された私達は、この館の主と対峙していた。
老婆、オスマン、護衛が数人、そして私達だ。
金回りが良いのか。最新式の家電と伝統的な調度品…絨毯、柱時計などが大理石の暖炉と共に部屋を彩っている。年季が入ったそれらは、重厚で威圧的だ。空調が、香の匂いを循環している。
部屋の連中から、敵意は感じられない。私達どころではないのだろう。
この館の主はチャドルを着てるものの、顔は隠していない。きつい顔立ちに刻まれた皺の中で、鋭い眼光はまだ闘う意思を示している。
「下がってな…と、言いたいとこだけどね」
老婆は顔を逸らし、窓越しのぼんやりと霞んだ景色に目を向けた。
「こちらから言い出した事を、何一つ守れなさそうだ。情けない限りさ」
老婆は頭を下げた。
全くだ。
私は心の中で吐き捨てた。
面倒な手続き、第三国特有のお役所仕事のルーズさ、
そのくせ、無限に続くパスポートチェック。
ここに来るまでに3日消費した。
赤茶色を基調とした、ディーゼル臭いこの地を、今日中に発っても、娘達の出る大阪大会に間に合うかどうか…
娘の晴れ舞台を邪魔する奴らは1000回殺しても足りないが、元凶である林堂君を殴ったら、娘は私の事を「パパ」ではなく「オッサン」と呼ぶようになるだろう。
それだけは駄目だ。
「一族の頭領として、心から謝罪するよ、お若いの。オリガが日本に行きたいと言ったら連れて行ってくれるかい?」
私の通訳を聞いて、林堂君が眉を寄せた。
「何があったんですか?教えて下さい」
「…言い訳程、恥ずかしい事はないんだ」
「いい加減にして下さい!事情を説明する事の何が恥ずかしいんですか」
老婆の後ろに立っているオスマンが口を開いた。
「お館様、私が説明します」