バイト君、オリガ
退場するまではなんとか耐えた。
無理やり笑って観客に手を振り、オリガとも握手した。
オリガの顔も、舞台袖で待ってたリーファ達の顔も見ずに、速歩でトイレに駆け込む。
清潔なのが救いだった。
個室の鍵も掛けずに胃の中のものを戻す。
戻すものが無くなってもえづき続けた。
歯がキシキシする。涙が浮かぶ。
駄目だ。
被害者ヅラだけはイヤだ。
オリガに失礼過ぎる。
これ以上、自分もスマブラも嫌いになりたくない。
個室の外からユンファさんの声がした。
「おい……そりゃねえだろ?」
尖った声。
「分かってます。すぐ行くからほっといて」
「勝負しろって言ったのはテメェ自身だ。忘れんな」
「分かってる、ほっといてくれって言ってるだろ!」
ユンファさんは鼻を鳴らして出ていった。
チクショウ、なんでこんな目に。
涙が流れたのは、吐いたせいだ。
絶対そうだ。
……分かってる。
じゃあどうすりゃ良かったんだよ?
オリガが相手だって分かってたら、こんな事するかよ…
顔を洗い、鏡を見る。
真っ青だ。追い詰められた顔。
僕がまとまらない頭のまま、トイレを出ると、静まった廊下に、不安そうなナディアとリーファ、そして表情を消したオリガが立っていた。
オリガ、メイクも崩れてない。白い顔に青の衣装が映える。
僕はまっすぐにオリガを見据える。
最後のケジメだ。
口を開こうとした。
口の端が僕の意志と関係なく歪む。
泣くな。論外だ。
言うんだ。
対戦ありがとうって。
その時、オリガが微笑んだ。
澄んだ笑顔。
それで分かった。
こうなる事は、とっくに覚悟してたんだって。
「リンドウ、本気で戦ってくれてアリガトね」
視界が歪んだ。
限界だった。
僕は大声をあげて泣いた。
手に持ったペットボトルを落とし、顔を覆って泣いた。
ゴメンな、ひどい事して。
その言葉を、何度も心の中で繰り返しながら。
僕は泣いた。
こんな事したくなかった。
オリガじゃなかったらどれだけ良かったか。
顔を覆う手の甲にプラスチックのカード入れが当たる。
オリガが首からぶら下げてる関係者用のパスケースだ。
抱きしめられ、彼女の頬が僕のおでこに当たる。
何かロシア語で呟き、僕を強く抱きしめた。
あやす様に体を揺らし背中を叩いてくれる。
僕を落ち着けるため。
自分の方が辛かったろうに。
その時、聞き覚えのある声が、人気のない廊下に響いた。
「いいザマだな、小僧…… だってよ。久しぶりだな」
オリガが振り向く気配。僕も驚いて、顔を上げる。
いつかの通訳と……ナディアの親戚だ。
スーツ姿は、前と同じ。
「オマエラ…… 二度と関わらんいうちょったじゃろが!」
「俺だって会いたくなかったっつうの…… うちのメイドを引き取りに来ただけだ。今日で契約は終わりだが」
通訳を聞き、僕はギョッとして訊いた。
「それって…」
体を離したオリガが、代りに答えてくれた。
少し、涙が浮いてる。
「チガウヨ。勝ち負けは関係ナイ。だって、ナディアも帰ってこないし、私の役目はオワリ。前言ったジャン」
そうだった。
ナディアが苦しそうな顔をした。
「……小僧。勝ったのはお前だ。望みを言え。お前のかけたものと引き合う程度のな」
親戚は、表情を険しくして続けた。
「オリガは裸になると言ったらしいが、それは認めん。この愚かな娘は、まだうちの人間。どうしてもと言うなら……戦争だ」
「オイ、ワタシに恥カカスキか?」
僕は笑ってしまった。
慌てて涙を拭う。
僕ら三人を、見回しながら言い切る親戚を、大分好きになった。
「そんなの要りません」
「……失礼ダゾ、オイ。見たくないのカ」
「もっと大事なことがあるんだ…リーファ、ナディア、いいね?」
二人が頷くのを見て僕は親戚をまっすぐ見た。
「オリガを日本にいさせて下さい。それが望みです」
親戚は眉一つ動かさずに答えた。
「……契約は、今日で終わりだ。好きにすればいいだろう」
オリガはポカンとしていたが、説得するように笑った。
「リンドウ、ワタシもそう出来たらホントにウレシイ。でもムリだよ。次の仕事探さナイト」
そう言うのは分かってた。
実はナディアの両親は、アリ家と契約が切れるなら、オリガを引取っても構わないと言ってるんだ。
でも、そうすると、オリガの故郷の家族の面倒を見るためお金を払わないといけない。
そんな、情けをかけられるようなマネ、オリガが認めるわけがない。
だから。
「仕事ならあるよ。ナディアのパパのビジネスの手伝い」
「…ハ?」
親戚の形相が変わった。
「オリガにバクチの手伝いなどさせるものか!……だってさ。そなの?」
通訳が、不思議そうに僕らを見比べる。
ナディアが顔をしかめた。
「そればっかりは同意じゃ…」
ナディアのパパの職業は、ギャンブラーだ。
職業か、ソレ?
って声が聞こえて来そうだけど…
台湾に来る3日前。
僕は、ナディアパパと、ナディアんちの物置の前でトランプした。
まだ、敷居は跨がせて貰えないらしい。
僕の知る限りの遊び、七並べ、神経衰弱、ババ抜き、オイチョ株……
20回やって1回も勝てなかった。
悔しいとかより、正直なとこ、キモかった。
「声が聴こえるんだ。イスラムではギャンブルは重罪なのにね。あんな母だけど、僕を使って金儲けしようとした事は一度もない。ボクは噂を聞いた地元のギャング達に、拉致られかけた事もあった。それからは、適当に、負ける様にしてる。ホントはね……」
ナディアパパは7月の赤くなり始めた空を見上げた。
「母が僕らを、バロチに閉じ込めようとする気持も分かる。ボクはバクチを止めないし、いつこんな力消えるかもわからない。カオリも僕の稼ぎは出来るだけ貯金して、当てにしないよう心がけてる。
母はあんなだけど、僕らを本気で心配しているんだ。でも母の中では神がいるっていう前提だから、そのレールに沿った生き方以外は認めない。カオリ達一般の人間とは相容れない。だからああするしかなかったのさ」
遠い目で夕焼けを見つめる横顔。
ちょっと開いた物置きの扉の向こうに寝袋と大量のポテチ、炭酸水の容器、
モバイルバッテリー。
確実にエンジョイしてるよね?
初めて思った。
こんなテキトーな人の家族……お婆さんも大変だったろうな、って。
ナディアが、凄くイヤそうに言った。
リーファにそういう顔をしろと言われてたけど、演技ではなさそうだ。
「オリガ、ウチ、お前と、またみんなで遊べるなら、なんでもいい。けんど、これ、全然オススメでけん。カタギのやることやないけ」
続いてリーファ。
「こっちにも仕事はある。3ヶ国語イケて、肚の据わった小学生、しかも、中東の辺境に詳しい……正直、家の仕事にはうってつけ。でも、やってほしくはない」
オリガの眼がギラギラと輝き出した。
思った通り、『やってほしくない、割に合わないから』ってワードに喰いついた。
それって情けをかけられるのと逆だから。
「ノープロブレム!そもそもガキを働かせてくれるとこなんか、マトモなわけナイヨ!」
お前がいうなって。
……でも、そう、うまくは行かないみたいだ。