ジャスミントは夏の香り
海みたいに真っ青だった空が、今は橙色に燃え上がっている。
セミの声が貫通してくる窓。
密集した民家とビルの間に、夕陽が近づいて行くのが見えた。
病院食が、配膳される匂いが漂ってくる。
ぼくは、横になったまま、窓の外を見ていた。
ぼくの左腕には、点滴のチューブ、右手には、ジャス子の手のひらと、頬が乗っていた。
ジャス子のハミングが、狭い室内を流れる。
ぼくは、ちょっと、いや、かなり気まずいので、あれから口をきいてない。
年下にあやされて、呼び捨てにされてちゃあなあ……
でも今更、年上だぞ、とか言える空気じゃないし。
ジャス子も何も話さず、ただ、透き通ったメロディを奏で続ける。
点滴もそろそろ終わる。
ぼくは、窓の外を眺めたまま、ずっと気になってた事を尋ねた。
「ジャス子が、来た時、誰かいた?」
ベッドに上半身を預けたまま、優しい声で答えてくれた。
「ん? いなかったよ。だって、面会禁止だもん」
「え! ナニソレ!?」
驚いて、ジャス子を振り返ると、机で居眠りしてるポーズで、クスクス笑う。
少し赤い頬。
熱っぽい眼差し。
こんなに表情豊かなジャス子、見た事ない。
「ハスマイラさんが、そうしたんだろ、きっと。じゃなきゃ、ねえね達であふれかえってるよ、ここ」
「いや……じゃあ、オマエは?」
「忍び込んで来た」
「あかんやろ!?」
「……だね。アカンよね」
目を細めぼくを見つめる。
シーツに短めの金髪が広がり、映画のワンカットみたい。
……コイツ。
微笑むとまるっきり別人じゃん。
ボッチとか、ウソだろ?
変な意味じゃなく、誰もが寄って来たくなるような柔らかさだ。
「……オマエさ」
「ん?」
「笑ってた方が絶対いいぞ?」
少し、驚いてから、さっきより、大きく笑った。
「……そ。なら、凛の前ではそうするよ」
あ、呼び捨て。年下のクセに。
「いや、サトシ達の前だろ、そこは」
突然、不機嫌な顔になると、こっちに後頭部を向けた。金髪が踊り、知らない香りが広がる。
「いま、にいにの話してない」
「はあ? なんだよ、一体」
返事なし。
「……おい。何、怒ってんの?」
「マジ、ノンデリ」
不満そうな呟き。
なんじゃ、そりゃ?
「意味ワカンネーわ」
しばらく院内放送と、夕食のトレーが立てる音に耳を澄ます。
「イテッ! 何すんだよ」
手の甲をつねられたぼくが、文句を言うと、
「早く寝ろ。カエレないじゃん」
こっちを見ずにボヤく。
「いや、点滴終わったから、看護師さん来るぞ? カエレって」
その途端。
なんか、不機嫌オーラが視えたような気がした。
「ふーん、そんな事言うのかよ?」
「え……今、キレられる要素あった? イテ!」
もっかい、ぼくの手の甲をつねると、ジャス子はサンバイザーを被って立ち上がった。
「帰る」
何怒ってんだよ。
ホントに女子は理解不能だ。
ムカついて……
ダメだろ! そうやってジャス子の首を絞めたんじゃないか。
ぼくは、一瞬で冷静になる事が出来た。
「ん、ああ、気をつけてな。サトシ達にありがとうって言っとい……」
ガラガラと、カートを押す音が、ドアの前で止まった。
やべ、看護師さんだ!
ゴンゴン、とノックの音がすると同時に、ジャス子が、足もとの夏掛けを引っ張り上げ、ベッドの中に転がり込んで来た。
「おい!?」
ぼくに抱きつきながらささやく。
「しっ! 一体化するんだ」
しねえよ!?
「はーい、こんばんは。点滴終わった?」
若い女の看護師さんが、ぼくに話しかけながら、カートを押して入ってきた。
「はい、お願いします!」
ぼくは、上半身を起し、夏掛けの下の両膝を立て、なんとか丸まったジャス子の膨らみを誤魔化そうとした。
看護師さん、一瞬、ぼくの顔を見ただけで、気分は悪くないですかー? とか尋ねつつ、点滴を外してテキパキ、処置をしてくれてる。
ぼくは生きた心地がしない。
女子と個室のベッドで、二人。
しかも年下。
誰にバレても、悲惨な未来しか視えない。
「歩けますか? 夕食、ここに持って……ん?」
看護師さんが、動きを止めた。
次の言葉で、ぼくの心臓も止まる。
「……女のコの匂いがしません? ミント系の」