楽しかったな
「……え、長期出張に、出られてたって聞いたッスけど」
駒口さんは、深いため息をついた。
落ち着いた色で、統一された応接間に、ユーウツさを吐き出し、深刻な病状を告白するみたいにシブく呟く。
「禁断症状との戦いです。私の専門はイランの東部なんですが……イノダコーヒーを何とかせん事には、海外には行けません。長期出張って言っても、滋賀ですし」
通おうよ、京都から!?
ジャス子パパは、斜め上を見て、ボヤく。
「いっそ、閉店してくれたら、諦めも付こうってもんなんですが、イノダコーヒー……ジャスミン、下着が丸見えだ、やめなさい」
ジャス子が、震えながら、自分の右膝を、両腕で抱え込んでいる。
ジャス子、エライぞ。
右足が、勝手に暴れ出さないためだな?
………スゲェ。
ここまで、自分の事しか考えてない、大人なんか、パキスタンの、ならず者達ぐらいだぞ?
ハスマイラさんが、柏手を打つみたいに、パンパン、手を叩く。
若干、表情がカタイ。いつの間にか、口調も、体育会系に戻ってる。
「話が反れたっス。ジャスミンちゃんの希望は?」
「にいにの事は、大好きだけど、ジャス子、家を出たい。ジャス子に気を遣って、別居してる、自分のお母さんにも、最近会ってないみたいだし」
駒口さんの眉が、ピクリと動いた。
「……そうなのか」
駒口さんが顎をさすりながら、声を落とした。
………大変だなあ。
うちは、特に、夫婦仲は悪くないみたいだから。どっちも、変人だから、気が合うのかな。
なんにせよ、ぼくは恵まれてる様な気がしてきた……
ぼくは、軽く咳をした。
しばらく、考えていた駒口さんは、少し険しい口調で言う。
「ジャスミン……」
「……んだよ」
「イノダコーヒーで働きなさい」
飛びかかろうとする、ジャス子の細い胴にしがみつく。
「ジャス子、ストップ!」
暴れるオカッパ・ブロンドの背中を、推してやりたい気持ちをこらえて、ぼくはソファに引き戻そうと、頑張る。
ジャス子が、顔を真っ赤にして喚く。
「テメエ、マジメに話すって事が出来ないのかよ!?」
えっ。
こないだ、どこかで、それ感じた……
そうだ、サトシだ!
大会の時のサトシと、駒口さん、語りの間がソックリだ!
ぼくは、ある事に気付き、カミナリに打たれたような、衝撃を受けた。
それと、この、駒口さんの身勝手さ、ジャス子ソックリじゃん!
いや、口には出さないけどさ?
血は争えないな!?
ハスマイラさんも、さすがに、ちょっと、口もとをヒクつかせている。
駒口さんは、ジャス子を制するように、手を挙げた。
「いや、話が飛んだ。将来、そうしてくれたら、私と暮らすのに都合が良いからな……私専用のコーヒードリッパー……決まりだ」
「テメエなんかと、暮らすかよ、どあほう! 茨城県に、めったに使ってない、家があるんだろ!? そこで……」
「無いぞ? ずっとネカフェと、研究室で寝起きしてるし」
「ソレ、大学から、叱られたって言ってたよな!? スーツ姿でネカフェとか、失業者にしか見えねぇから、ヤメロって言われたよな!?」
「……マァ、そうなんだけど」
駒口さんは、大昔の少女漫画みたいに白目になってる、ぼくとハスマイラさんの前で、照れた様に微笑む。
「それなら、失業者に見られれば、問題無いかなって…… それらしく、外出時には、競馬新聞を尻ポケットに突っ込んでみたりとか……フフ、父さんも、色々考えてるんだぞ?」
「凛くん、離せ! コイツが吸う分の、酸素が無駄だ!」
これ、アカン!
ぼくでもキレるよ?
ジャス子、そりゃ、世の中をはかなんだ、性格になるわ!
ぼくは、さすがに口を出した。
「いい加減にして下さい! ジャス子、真面目に話してるんですよ!?」
「いや、私だって、私なりに……」
「ああ、もう! いいや、ジャス子、スマン! 駒口さん、これ、聞いちゃイケナイの分かってますけど……サトシが小6、ジャス子が小5って……」
皆の動きが止まる。
ああ、もういいや、言ったれ!
だって、コレ、みんな思ってる事だよな?
聞かないと始まらないよな!?
「……家庭が2つあったって事なんですか?」
全ての物音が止んだ。
……ような気がした。
時間が止まったような気がした。
空気清浄機と、クーラーの音。
ぼくの小さな咳が響く。
鋭くなった、駒口さんの顔。
たしなめない、ハスマイラさん。
力が抜けたように、ソファに崩れる、ジャス子。
答えは、腰に回していた手を放したばかりの、ジャス子が言った。
「……そうだよ、母さんは、ナイエンの妻って奴さ。去年まで、ジャス子と二人で暮らしてた」
ジャス子は、うつむいて続ける。
「学校では、ホームステイしてる事になってっけど、事実はそれだよ。学校のヤツら、見た目、完全白人のジャス子と、にいにの血がつながってるなんて、誰も思わんし……ゾッとするよ、こんな野郎の、血が入ってるなんて」
さすがに、何か言わないわけには……
「ジャス子……言い過ぎ」
「な訳、ねえだろ!? サイテーじゃねえか、やってる事!」
こちらに、つむじが見えるくらい、うつむく、駒口さん。
セットした髪はバラけ……失業者に見えるくらい、疲れきっている。
背筋を伸ばし、それを見つめるハスマイラさん。眼には……何かを待つ色。
駒口さんの答えを、待ってるのか……な。
「私は……」
憑き物が落ちたように、ポツリと呟き、ジャス子の父さんは、スーツの内側から、何かを取り出した。
それを、高そうな、ローテーブルの上、冷めた湯呑みの隣に置く。
パスポートだ。
「楽しかったな……オマエのいる生活が」