二度と言うなよ
ナディアの心臓の音しか聞こえない。
視界は、柔らかい肌に塞がれて、真っ暗。
温かい……いや、熱い。
火照った体からにじむ、汗の匂いにクラクラした。
……女子って汗まで、いいニオイなの?
石鹸か何かでできてるのかな?
……あ。
来た。
昨日の、あの感覚。
頭がブレるような、衝動。
ぼくは、のどがカラカラになって、唇を舐めようとした。
「んっ……」
ナディアが、聞いたことないような声を上げて、体をこわばらせた。
スベスベの胸の谷間に、舌が当たってしまって、石鹸を舐めたような味がした。
頭の内圧が上がる。
緊張は、MAXで、頭がぼうっとした。
どこか、遠くの方で、早く離れろって声がするけど、体が言う事を聞かない。
唐突に、昨日、キスした直後の、リーファの恥ずかしそうな顔が浮かんで。
そして、今日ママにぶたれて、泣いていたナディアの顔が浮かんで、我に帰った。
また繰り返すのか?
ぼくは、ナディアを押し返そうとした。
ぼくは、右手を彼女のお腹に、左手は……
彼女の右胸を押してしまった。
ナディアのくぐもった悲鳴に、また、体が固まる。
柔らかくて弾力のあるバストが、布地の向こうからぼくの掌を押し返してくる。
ぼくの意思に関係なく ―マジで― 左手が動いた。
「んっ」
ナディアが、何かを我慢するような声をもらす。
柔らかい。
「んっ、んっ」
でも奥の方に芯があって……
「リン……痛い」
その苦しげな声を聞いて、一気に血の気が引いた。
ぼくは、声にならない絶叫を上げながら、光速で体をはがし、滑り込み土下座をした。
何を……なにしてるんだ、ぼく!?
「ゴメン! ゴメンっ……もう、ホントごめん!」
緑のじゅうたんに、頭をこすり付けながら、
ぼくは、死にたくなった。
昨日はリーファにキス、今日はナディアの胸を揉む。
一体ぼくは何してるんだ?
はっきりわかった。
ツいてないとか、呪われてるとかじゃない。
悪いの僕じゃんか。
いま、ナディアにやってることなんか、チカンだぞ?
結局、ぼくのいい加減さが、周りを振り回して、こうなったんだ。
平伏する僕の耳には、冷房の音しか聞こえない。
クスクス笑う声。
そして。
「やっぱ、ダメじゃの」
いっそ、朗らかな声に、ぼくは驚いて顔を上げた。
ナディアが、じゅうたんの上に、ぺったり座り込んで、笑いながら泣いていた。
「うちなんかが、リーに敵うわけないんじゃ…… 迷惑な真似してごめんの」
あきらめたような、スッキリしたような顔。
ぼくは……理由はわからないままあせった。
「うち……こんな日が来る事、わかっちょったから、ママと取り決めしとったんじゃ。『最後の悪あがきする時は、協力して』っての」
意味がわかるまで、数秒かかった。
「えっ? それって……」
ナディアは、涙を、拭きながら頷いた。
「全部、芝居じゃ。カッとなって、リーを、割とマジで殴ってしもたけど……右手じゃ」
あっ、そうか!
リーファ、左頬、冷やしてたもんな?
むき出しの肩が、輝いてる。
綺麗だ、そう思った。
「ママ、うちの為なら、どんな泥でもかぶってくれる、最高のママじゃ。けんど……こんなずんぐりの裸、タダの公害じゃ……ゴメン、ママ」
ナディアは、口許を必死に笑いの形にしながら……失敗しながら、ぽろぽろと、涙を流す。
「リーと……キス……したんじゃろ? もう、うち、やれるだけ、やったし……邪魔せんけん……」
ぼくの中で、どす黒いものが……
怒りが湧き上がった。
時々、実感するけど、ぼくはカッとなりやすい……みたいだ。
でも。
なんでそこまで、自虐するんだよ?
ぼくは、パルテナみたいに綺麗だって思ってるのに。
公害……?
ぼくは、歯ぎしりした。
自分の立場もわきまえず言った。
「やめろ」
怒りに満ちた声に、ナディアは、ビクッとして、うなだれた。
「……ごめん。もう、二度とやらんけん……」
「微笑みながら、泣くなよ……」
「……ゴメンなさ……」
「ドキドキするだろ」
数瞬後、ナディアが驚いて顔を上げた瞬間、近寄って、思い切り抱きしめた。
硬直する、ナディアの、頭に。
頬に。
耳に、首に、思うまま、何度も口づけた。
その度、電流が、流れたみたいに、体を引きつらせ、短くて、鼻にかかった悲鳴を上げる、黒髪ボブ。
ナディアは、ぼくをすがる様に見上げた。
「林……堂……?」
「誰が公害だって? 俺はパルテナみたいに綺麗だって思ってるのに……」
驚いた様に、見開いた眼から、涙があふれ出した。
「俺以外、誰の評価がほしいのさ……二度と言うなよ?」
ナディアは、何度も頷いて……
夢が覚めるのを怖がるみたいに、自分の唇を。
泣きそうな顔で、もどかしげに、指差した。
「……リーとおんなじ事……して」
催眠術にかかったみたいに、ナディアの震える唇に吸い寄せられる、ぼく。
「そこまでや、エロ息子」
頭頂に、何かが叩き込まれ -ぎっしり中身の詰まった買い物袋だったって、後で知った- ぼくは、あっさり、闇の中に落ちた。