ドキドキしてる?
『左手がこれじゃけ……チャドル……脱がせてくれんかの?』
その意味を理解した瞬間、頭に浮かんだのは、なぜかソニックの煽り文句だった。
『遅すぎだぜ?』
「い、いやいやいや! ぼぼぼく、だれか呼んでくるから、ま、まってて、て!」
林堂!
その声から逃げるように、僕は、部屋から逃げ出す。
スニーカーをつっかけ、お化けから逃げるみたいに、玄関を飛び出して、エレベーターホールで盛大に転んだ。
掌と顔がしびれる。 スマブラで、ケンが画面にべったり叩き付けられたイメージが頭をよぎった。
次の瞬間、むくりと上体を起こし、非常階段に向かってケンケンではねつつ、靴を履く。
逃げろ、逃げるんだ、ぼく!
非常階段を、最高速で駆け下り、エレベーターホールを抜け、駐車場にたどりつく。
ちょうど、リーファの四駆が出て行くとこだった。
「リーファ!」
僕に気付いて止まってくれた後部座席から、リーファが降りてくる。
中途半端なとこで、左折のウィンカーを出したままだから、急がないと。
「どうしたの、凜?」
僕は、ゼェゼェ息を切らしながら、近づき、両肩に手を掛けた。
軽く見上げる角度で、心から言った。
「オマエ……帰る前に……頼む……」
リーファの不思議そうな顔が、みるみる赤くなっていく。
「ちょ……だ、ダメだよ、こんなとこで! みんな見てるし! ナーにも……」
アレ?……
僕はやらかしたことに気付いた。
リーファに頼めるわけないじゃん、今のケンカしてる状態で。
え、どうしよう、どうしよう。
荒い呼吸のまま、まとまらない知恵を絞る。
リーファが、キョロキョロしながら、早口でささやく。顔は真っ赤だ。
イミフな事を言ってるけど、こっちは、それどころじゃない。
「イ、イヤじゃないんだよ? うれしいけど! けどぉ! もう、一回許したら、男子は何度もって、ホントなんだ……式、あげる場所もまだ、絞りきれて……どど、どうしてもなら、そこの陰で……」
他に何か……そうだ!
「リーファ、生理用品くれ! 一枚……いや、一本? でいい!」
『一本でいい』
………なんて、変態度の高い言葉だったんだろう。
ぼくは、柵から身を乗り出して、自由世界にテイク・オフしたくなる衝動をこらえつつ、とぼとぼと、うちに帰った。
ナディアの着替え、どうしよう。
母さんが帰ってくるまで待て、ってのはひどいよな、風邪引いちゃうよ。
そうっと玄関に入ったのは、まだ心の準備が、出来てなかったからだ。
「……あせってて、ぶちかわいかったけ、笑いこらえんの、必死じゃった……ほんまに、やんのん? うちみたいな、ずんぐり……ヤじゃ! うち、絶対あきらめん!」
あれ? 誰か帰って来た?
もしかして…… 母さんが!?
てれれ、てってってー
ドラクエのレベルが上がったときの音楽を脳内で聞きながら、急いでドアを開ける。
「母さん? 助かった……」
ぼくのホッとした笑顔は、扉を開けた途端、心臓と一緒に、凍りついた。
スマホを耳にあてたまま、言葉を途切れさせたナディア。
それはぼくも同じだ。
お互い、見開いた眼で瞬きもせず見つめ合う。
午後になったばかりの逆光が、ナディアのしなやかな下着姿を神々しく見せた。
スマブラで、パルテナ様が登場する時みたいだ。
レモンイエローの、下着の上下からのびる手足はバランスが取れ、胴が短いから、脚がスゴく長く見える。
少し褐色のかかった肌はつややかで、ブラを押し上げる、大きな胸の谷間から、眼が離せなかった。
「……っ!!」
押し殺した悲鳴をあげて、しゃがみ込んだのは、ナディア、みっともない大声を出して、部屋から飛び出そうとしたのは、ぼく。
我ながら、どんな器用な閉じ方したのか、アタマを挟んでしまって、飛び上がった。
悲鳴を上げて、じゅうたんの上を、たうち回る。
「いってえ!」
「林堂!?」
慌てて、駆け寄って来る気配。
横倒れで、丸まっている背中を、抱き起こされた。
心配そうに、覗き込んでくる、優し気な二重の眼。
少しだけ、濃い眉がひそめられた。
「なんじゃ、この頬? 誰にぶたれたんじゃ、うちらより、腫れちょるぞ!?」
「リーファに……あの……」
怪訝そうな顔から目をそらし、ボソボソと言った。
「ちょっと……分けてくれっていったらグーで殴られた。その……生理用品」
ぼくを横たえた膝が、揺れ始めた。
え?
上を向くと、明るくて黄色い布地に包まれた胸の谷間から、横を向いて、震えているナディアの黒髪が見えた。
こらえきれず、明るい声で笑いだした。
サトシに笑わされた時みたいに、体を前後に揺すって、笑う。
ぼくは、体の力が抜けていくのがわかった。
良かった、いつものナディアだ。
思わず、つられて笑ってしまう。
「んだよ、そんな笑わなくても」
「あほじゃ……あほすぎじゃ。そりゃ、殴られるわ」
あんまり、体を揺するから、その、胸が顔に当たって、ぼくは、息が止まりそうになる。
え、こんな柔らかいものが、人間の体であるの? ってレベルの感触に、ぼくは、慌てて叫んだ。
「ナ、ナディア、当たってる、当たってるって!」
押しのけようとする手をいなして、ナディアは、笑いを引っ込めた。
「……当ててるんじゃ」
……は?
ぼくは耳を疑う。
ナディアが、そっとぼくを、のぞき込む。
頬が紅潮して、細めた両眼は潤んで……
見た事の無い、ナディアの表情から眼が離せなくなった。
「うち……恥ずかしくて死にそうじゃ。じゃけん……」
ナディアが震える声で呟く。
「林堂もちょっとは、ドキドキしてくれんと……不公平じゃ」
そう言って、ゆっくりと、ぼくを抱きしめ……
ぼくの顔を、胸の谷間に埋めた。
皮膚が裂けそうなくらい、早鐘を打ってるナディアの鼓動を直に感じて、思考がフリーズした。
「うち……こんなにドキドキしちょるもん」