バーカ
心臓の高鳴りにあわせて、視界の中の、白い顔が揺れる。
切れ長の二重の向こう、怯えた様な瞳。
半開きで震える、桜色の唇。
ぼくのお腹も、玄関のチャイムも鳴らなければ、ジャスミンが、間近でガン見していたってことも無い。
つまり……何も邪魔してくれない。
こんなに、考えがまとまらないのは、生まれて、初めてだ。
リーファの後頭部を支える、左手が震える。
自分のやろうとしてる事に、ビビリはじめてる。
……そもそも、何するつもりなのか、自分でも全くわかってない。
リーファが、ぼくから眼を離さないまま、太ももに巻きつけていた腕をそっと解いた。
おずおずと、ぼくの肩と、胴に手を回して……ちょっと泣きそうな顔をしてる。
頭が真っ赤になって、揺れた。
俺……
誰にも言ってなかったけど。
実は、コイツの表情の中で一番……
その……
カワイイって思ってたの、泣き顔だったから。
吸い寄せられるみたいに、顔を寄せる。
後になってぼくは、自分を、世界一の卑怯者だと思った。
僕はリーファに顔を寄せただけだった。
眠るように、目を閉じるリーファ。
ぼくの唇のすぐ横に、世にも柔らかいものが触れた。
真っ赤な鼓動が、視界も、脳みそも支配する。
頭が実際に動いてるんじゃ、って言うくらい、
激しく視界が揺れた。
僕は鼻先が触れる距離で、リーファと見つめ合う。
お互いの、浅く速い呼吸がうるさい。
ぼく達は……理由もわからないまま、震えていた。
その時。
「リーファ、帰ったわよ?」
廊下を歩いて来る声。
慌てて、離れようとするぼくを許さず、黒髪ショートの同級生は、一瞬だけ、つつく様にぼくの唇にキスし、囁いた。
それは。
lineで送ってくる、オヤスミ代わりの、決まり文句。
「バカ凛……オマエなんか、スキの反対」
潤んだ瞳で、恥ずかしそうに笑う顔は、世界一の美少女だった。
素早く、ドアに駆け寄るリーファの、後ろ姿を見ながら、考えた。
ヤッちゃった。
六年来の相棒に、あんなことを。
これは……
相棒って、『誓い』への裏切り……なのか?
京子叔母さんが、帰ってこなかったら……
どうなってたんだろう。
リーファに抱きつかれて悲鳴を上げる、京子叔母さんをぼんやり見ながら、その先は考えないようにした。
翌朝10:00過ぎ。
ぼくとジャスミンは、京子叔母さんと、リーファに見送られて、エントランスに立っていた。
挨拶をして、去ろうとする僕らに、リーファが言った。
「凛。今日は、無理して連絡しなくていいから……ゆっくり休んで」
「お、おう」
ちょっと、虚勢を張る僕に反して、穏やかに微笑むリーファ。
ジャスミンの、一瞬、突き刺す様な視線が、文字通り、ぼくの横顔に突き刺さる。
駅に向かって歩きながら、何度も振り返って両手を振る、ジャスミン。
そうしながら、話しかけて来た。
「ベルさん……ねえねも、京子叔母さんも、いい顔してますね」
「オマエのお陰だ。思ってた事、全部言えたみたい」
「良かった……ねえねも、京子さんも……ベルさんの、どうでもいい名誉も」
「死なすよ?」
昨晩、リーファと、京子叔母さん、抱き合って、泣きながら謝りあってた。
でも。
京子叔母さんが、出ていくのは変わらない。
来る相手が、リーファのお母さんに、なるかもしれない人だから。
「叔父さんにも、未来があるもの。もちろん、リーファにも……いい? 嫌な事はイヤって言って。必要な時は言ってね? 京都から、夜中でも駆けつける」
「ありがとう。叔母さん……ずっと、大好きだったよ……やっと言えた」
その時のリーファ達を思い出して、温かい気持ちのぼくに、ジャスミンが、弾んだ声で言った。
「ベルさん、ニチャニチャ笑ってキショイです! 通報しますよ?……痛い」
ソムリエの様に、ぼくのアイアンクローを味わっていた、ジャスミンが、そのまま爆弾を落とした。
「ベルさん……昨日の夜、ねえねと何かあったでしょ? 一線を超えたとか……マジイダイ」
身を引いて、ボサボサの金髪イラン人を見つめてしまった、ぼく。
「……ヤッちゃったか」
「へへへんな言い方すんな! な、なんにも無かったわ」
「へーヨカッタ。アンシンシマシタ」
1ピコも信じてない棒読み。
日曜日、少ない通行人が行き交う中、ジャスミンは半眼で続ける。
「わたしが、『ヤッちゃった』って言ったのは、クララさんの事です。ねえねが『行って、連絡する』って言ったのは、隠れてエロい事するためだった、ってとられちゃうでしょ?」
その意味を、理解した2秒後、ぼくの背中は冷たくなった。
「いや……フツーにしてれば」
ぼくの反論は瞬殺された。
「いや、ムリ。ねえねの、今日は連絡要らない、とかのあふれる余裕、ベルさんの、あふれる不審者臭……ってか」
ぼくは、次の言葉で、頭を割られた様な気分になった。
「ねえね、多分、隠す気ないでしょ。ライバル蹴落とすチャンスなんだから」
「ふざけんなよ、二人はチームメイトで、次は全国大会なんだぞ!?」
ジャスミンが、すっごく小バカ、いや、大バカにしたように言った。
「ハアぁ? もしもーし、この頭の中、何か入ってますかぁ? おっと……ザンネン、よけるの得意なんですよ……何回でも言いますよ? そんな風にニブイから、周りが疲れるんです」
ぼくの頭をノックする、ジャスミンをハタこうとするのをかわし、それどころか、ぼくの鼻先にまで、顔を近づけ、断言してきた。
「全国大会ぃ? 女の子ですよ、恋の方が100倍大事なコトくらい、理解しときなよ、バーカ!」





