離れた街のあなたに手紙を送ります 5
翌日、アビーは朝から散歩に出かけた。ジュードと顔を合わせるのを避けたのだ。
スケッチブックと朝食のパンを持って、バーネット家の敷地内の農園の隅で、隠れるように絵を描いていた。
ここでしばらく時を過ごしていれば、アビーが屋敷に戻る頃には、彼はローメリナにむかって旅立っているだろう。挨拶をしなかったことについては、きっと父や兄が失礼のないようにうまく理由をつけてくれる。
葡萄の葉をスケッチしようと思ってここにやってきたのに、アビーは気付くとまた、まったくこの場所と関係のない絵を描いていた。
没頭しはじめると、周囲への注意を怠ってしまうのが、アビーの悪い癖だ。
「――そのスケッチブックを見てもいいだろうか」
声を掛けられて、はっとしてスケッチブックを閉じる。
姿を見せたのは、ジュードだった。
アビーは立ち上がりながら、スケッチブックを隠すようにしたが、あわてすぎて落としてしまった。
「そんなに驚かないでくれ。ただ、出立の前に別れの挨拶をしようとしただけだ」
言いながら、ジュードはスケッチブックを拾おうとしている。
「だめ!」
アビーは思わず大きな声を出してしまった。
「ごめんなさい。……これは、見せられません」
自分でスケッチブックを拾い上げたアビーは、それを抱え込む。その必死な様子にジュードは驚いた顔をしていた。
「あっ、あの、違うんです。……見せられるほど上手くないから……」
隠したのは昨晩、父から注意を受けたからではない。
スケッチブックの中身は、短時間で描いたデッサンばかりだ。ジュードはアビーが絵を描いていることをもう知っているのだから、デッサンくらい見せても今更、なんとも思わないだろう。
しかし、このスケッチブックの中には、許可をもらわずに描いた、金の髪の青年の絵が、すでに二枚もある。
秘密を見られたら恥ずかしいという感情ではなく、相手を不愉快にさせたくないおびえから、アビーは萎縮して、うつむいた。
「そうか、悪かった」
がっかりしたような、気を悪くしたようなため息をきこえてくる。
「いつか、お見せしても恥ずかしくないものが完成したら、見てくださいますか?」
おずおずと、アビーが申し出ると、ジュードの顔がぱっと明るくなった。
その顔を見れば、アビーはできもしない約束をしてしまった罪悪感は吹き飛んでしまう。
「だが、いつかとは具体的にどれくらい先の話だ?」
ジュードは、父や兄の前では、とても丁寧な口調で会話をしていた。
しかしアビーだけになると、心なしかツンとした、ぶっきらぼうな話し方になる。
こちらが彼の飾らない姿なのだろう。そういう姿を見せてくれることを、嬉しく思ってしまう。
「いつかは……いつかです」
「アビー……」
ジュードはアビーの名を呼んだ。親しみをこめて。そうして、アビーの片方の手を握った。
「君のような女性は……都にはいない」
「はい、私……自分のことちゃんと知ってます。変な娘だと思われていることも」
「違う! いい意味でだ。君のピアノは素晴らしいし、歩き回る姿は、とても……とても健康的だ。それに、絵の具のついたエプロンも斬新で……それから」
「ありがとうございま……す?」
「とにかく、そのままでいい」
「はい」
「君は、昔クルバーツにいたことがあるのでは?」
「……一時期、母の療養先でした」
保養地として有名なクルバーツに母と滞在していたのは、短い間だったはずだ。
身体の弱かった母が少しでも元気になればと、ある年の夏の間、涼しいその場所で過ごしていたのだ。あれはアビーが六歳くらいの時だったから、詳細までは覚えていない。
翌年からは、やはり家で過ごす方が落ち着くからと、クルバーツへ行くのをやめてしまったので、それっきりだ。
本人もあやふやな記憶をなぜジュードが知っているのか、首をかしげていると彼は力強い声で言った。
「私たちは、昔会っている」
「えっ?」
「憶えていないだろうね。君はとても小さかった」
ジュードの声が悲しみを帯びていたので、アビーは申し訳ない気持ちになった。
「……忘れてしまって、ごめんなさい」
「言葉さえ交わせなかったから、当然だ。だが、私はまた会えてうれしく思う。だから、手紙を書いてもいいだろうか」
ジュードは真剣な眼差しを向けて言った。
「手紙?」
「ああ、君に。ここと都は遠い。他に交流できる手段がない」
それはこれっきりではなく、アビーとの繋がりを持ちたいということだ。でも……
「…………手紙」
「嫌なのか?」
「いえ、そうじゃないんです。でも、私……ちゃんとしたお返事が書けないかもしれません。……あまり得意ではなくて」
「私が送りたいから送るんだ。返事なんて気にしなくていい」
「だったら、もちろん……嬉しいです」
顔をほころばせると、ジュードも優しくわらいかけてくれる。
昨日と同じように、手の甲に口づけをしてから、ジュードはゆっくり手を離した。
「また会おう。約束だ」
「はい……また。必ず」
今度は、言えた。「また」という言葉を。
ジュードはそれからすぐに、都に向けて旅立って行った。
アビーは去って行くジュードの姿がみえなくなるまで、何度も手を振った。
§
ジュードからの手紙が最初に届いたのは、それから数日後のことだった。
青い封筒をあけると、花の箔押しが施された美しいカードに、一言だけ文字が書かれていた。
二通目はそれから二週間後。数行に増えた言葉は、少々まわりくどかったが、アビーのストロベリーブロンドの髪を褒め称えるものだったらしい。
三通目からはカードではなく、倍の大きさの便箋に変わっていた。四通目、五通目、そこにははっきりと、アビーへの好意をしめす言葉か綴られていた。
父も長兄も、ジュードから届く手紙に気付いてはいるのだろう。よくは思っていないはずだが、取り上げたり禁止したりはしなかった。
「私は、お前がいずれ傷つくのではないかと、それだけを心配しているんだよ」
突然前向きに、世の令嬢らしい所作の練習などをはじめたアビーをみかねて、父はそう言って苦い笑みをこぼしていた。
* * * * *
親愛なるアビー嬢
あなたと出会ってから三ヶ月
毎日、あなたの顔を思い出す
あなたの髪の色も
あなたの瞳の色も
あなたの頬の色も
決して忘れないように瞳に焼きつけたはずなのに
私の記憶は、色の鮮やかさを失いかけている
せめて夢で会いたい、毎晩そう願う日々だ
あなたが、同じ月を見ていればいいのに
私は自分が嫌いになりそうだ
穏やかな海を求めて、――ジュードより
* * * * *
六通目で便箋二枚になった手紙の内容は、七通目でまた一枚におさまるほどになっていた。




