離れた街のあなたに手紙を送ります 4
「何を弾いたらいいのかしら?」
アビーは今、令嬢としての技量を試されている。でも、自分では何を弾けばいいのかわからなかった。きっと父や兄が決めてくれるだろう。演奏のための椅子に座り、彼らのほうに視線を向ける。
「レクイエムは……」
「レクイエム?」
真っ先に曲の要望を出してきたのは、父でも兄でもなくジュードだった。
「アディンセルのレクイエムは弾けますか?」
「はい……でも、失敗しても笑わないでくださいね」
それは、ピアノや宮廷音楽に接する機会がある人間なら、誰でも一度は聞いたことがあるだろう名曲だ。
だが、アビーは最近その曲を練習していない。失敗しないように緊張しながら、慎重に鍵盤の上に指を置く。
(大丈夫。ジュード様は音楽の専門家ではないもの)
多少間違えても、きっと気にしない。
大切なことは強ばらずに演奏すること。アビーは大きく息を吸ってから、最初の音を弾いた。
あとは頭と指先に刻まれた記憶が、勝手に音を奏ではじめる。
この曲は、幼い頃に病で亡くなったアビーの母が好きだった曲だ。癒やされるような美しい旋律の中に、時折現れる悲しみの音色をしっかりと表現していく。
集中力が高まるにつれ、アビーの心はここではないどこかに旅立ってしまう。この曲の場合、大きな教会とステンドグラス、そして青い絨毯がある場所にいつもたどり着く。遠い昔の記憶なのか、勝手な想像の世界なのか定かではないが、懐かしさを感じる場所だ。
最後の音がゆっくり消えていった頃に、部屋には大きな拍手が鳴り響いた。
そこで、アビーは現実に引き戻される。
三人の観客の反応を確認すると、拍手をしているのは父と兄だけで、肝心のジュードは、なぜか呆然とした表情でその場に立ちつくしていた。
「やっぱり君だ……」
ジュードは突然、ひとり言のようなつぶやきを漏らす。
「ジュード様?」
演奏は失敗だったのだろうか。アビーが不安になりながら彼の様子をうかがうと、その視線に気付いたジュードが、遅れて拍手をくれた。
「失礼いたしました。私にとって、思い出の曲だったもので……素晴らしかったです」
賞賛の言葉を聞き、マニギスは誇らしげに蓄えたひげを撫でた。そこでようやくアビーは、ほっと胸をなで下ろす。
「よかった。この曲を弾いたのは久しぶりで、ちょっとおかしなところもあったかもしれません」
「とても、自由で君らしい演奏だった」
ジュードも、アビーの演奏を賞賛してくれた。「自由で君らしい」という評価に、アビーの心情は、喜びのなかに少しの不安が入り混ざる。
いつも自由に弾きたいと思っている一方で、できることなら、この場ではお手本のような完璧な演奏をしたかった。
アビーは最近、きちんとしたピアノのレッスンを受けていないのだ。だから、知らない間に表現が自己流になってしまっていた可能性がある。
きっと、ジュードのように都で一流の「正しい音楽」を聞いている人には、わかってしまうのだろう。もしも、今後誰かの前で演奏することがあるのだとしたら、注意しておかなければならなかった。
小さな演奏会のあと、就寝の挨拶をして部屋に戻る。
寝支度にとりかかるまえに、父のマニギスが訪ねてきた。
「アビー、少しいいかい」
「はい、お父様」
マニギスは開口一番に、アビーに問いかけてくる。
「アビーは、あの金髪の青年が気になるのかい?」
「いえ、そんなこと……」
いきなりの質問に、すべてが顔に出てしまったようだ。
気になると言えば、気になる。まず、彼はとても美しい。アビーは美しいものを見ているのが好きだ。そして彼はアビーに優しくしてくれる。何より、自分の絵もピアノも褒めてくれた。人はたったそれだけでと笑うかもしれないが、アビーにとっては意識してしまうに十分な理由があった。
動揺して頬を赤らめたアビーを見て、父の顔が曇っていく。
「彼はいい青年だと思う。この街にはいないような、洗練された男だ。アビーの自然な心を咎めたりはしない。しかしね、もう関わらないほうがいいだろう。あの青年は、何の用事でメイナード氏を訪ねたのか聞いたかね?」
「いいえ」
「サインのない絵についての調査だ。スティーヴからの知らせがきている」
「……そうですか」
それだけで、親子の会話は終わった。マニギスはこれ以上余計な注意などしないし、アビーも整然としていない自分の気持ちを、言葉になどしない。
おやすみのキスをして父と別れ、一人になったら寝台の枕に顔を埋める。
ジュードは明日にはローメリナに帰る。そうすれば、今度こそ会うことはなくなる。アビーの気持ちなど、最初から関係ない。何も芽生えてなどいない。