離れた街のあなたに手紙を送りたい 【終】
アビーが王妃に献上する絵を完成させ、ローメリナを離れた数日後のある晩のこと。
ジュードとスティーヴは、紳士達の集うクラブで人を探していた。
目的の人物は、このクラブの集まりの中心的な存在だ。
以前まで悪い評判はあまり聞こえてこなかった彼だが、最近は取り巻きだった連中と頻繁に小さな諍いを起こしているという。
クラブは紳士の交流の場だ。なのに彼は今日この部屋の奥に一人で座り、黙って酒をあおっていた。ジュード達が探していた人物の名は、ルイス・ブライトウェルだ。
「何をしに?」
近付いてきた二人に気付いたルイスは、うろんげな表情で睨んでくるが、スティーヴはお構いなしだ。
「冷たいなあ、僕らは古い知り合いだったはず。ルイス、君のほうが立派な家柄で、このままいけばいずれは大臣にでもなったのだろうけれど、僕のほうが年上だから呼び捨てにさせてもらうよ」
「どうぞ、ご自由に」
興味なさそうに振る舞うルイスは、強い酒を一気に流し込む。
ジュードは、彼に対していけ好かない男だという印象を持っていた。しかし、今はずいぶんすさんでいる様子だ。
「妹が……アビーが随分世話になったみたいだね」
スティーブがアビーの名前を出した瞬間に、ルイスはピクリと反応する。そうして目も合わせないまま、ぽつりと口を開く。
「……彼女は愚かだった。逆らわなければ最高の地位を手に入れられたはずなのに」
「いや、妹の男を見る目に感心するよ。君と結婚なんかしたらいずれ破滅していただろうからね」
スティーヴは笑ってみせるが、内側に静かな怒りを燃やしている。
妹を溺愛している彼は、ルイスがしたことを決して許す気はないようだった。その気持ちはジュードも一緒だが、執念深さが違った。
「君はかなりの女嫌い……いや人嫌いで、友達がいなくて孤独で、でも、すべての人を支配できると思っていたんだろう。アビーなら自分の思い通りになるとでも思った? あの子は誰よりも賢いんだ。馬鹿にしないでほしいな。それに、言うことをきかないから意地悪しようなんて許されるのは、せいぜい五歳くらいまでだよ」
「何を言っているのかさっぱりわからない」
ルイスはしらを切るつもりなのか。
舞踏会でのアビーへの嫌がらせや脅迫に大きな証拠などない。そしてたとえ証拠があったとしても、高い地位にいる彼には痛手にはならないだろう。でも、スティーヴは別の隠し球も持っていた。
「ルイス、君はアビーを手に入れるために僕を排除しようとしたね」
妹に悪い虫がつかないように見張る兄の存在を煩わしく思う気持ちは、ジュードにもわかる。しかし、ルイスの場合は実際に裏で手を回していた。自分の都合で、スティーヴから自由を奪っていたのだ。
二人の上官と、ルイスは繋がっている。それはどうやら、アビーと再会するよりずっと前からだということもわかっていた。
中央の貴族の汚れた部分から逃れられなかったルイスは、いつしか自分がその汚れの中心となってしまったのかもしれない。
隠し事があるからこそ、文字の読めないアビーが妻になるのは都合がよかったのだろうか。
「ホコリは叩けば出てくるんだよ。僕らは王の騎士だから、そのホコリをきれいにしなければならない。これから覚悟しておいて」
宣戦布告ともとれるスティーヴの言葉だが、実はすでにルイスの表に出せない不正行為の数々の証拠を突き止めて報告済みであることを、ジュードは知っている。
ルイスは無反応だった。目を合わせることもしない。自分の破滅など、どうでもいいことのように興味を示さない。
「ああ、そうだちゃんと紹介していなかったけれど、彼がアビーの婚約者だ。二度と会うことはないだろうけど、一応報告しておくよ」
そう語るスティーヴは、なぜかジュードより自慢げだ。
しかも、自分自身のことに興味を示さなかったルイスが、アビーの話題には確かに反応した。
なぜ、お前などが――そう言いたげに、ジュードに悔しそうな視線を向けてくる。つかみ所のないルイス・ブライトウェルの一番人間らしい部分を、最後に垣間見た気がした。
言いたいことを言い終わり満足したスティーヴに促され、ジュードはその場をあとにする。
ほぼ出番のなかったジュードだが、スティーヴを敵に回さなくてよかったと、この晩密かに思い知らされた。
「スティーヴ、君はなかなか性格が悪い」
「ふん、褒め言葉として受け取っておくよ」
「褒めてない」
今夜ジュードが誘われた理由は、てっきり荒事になることを想定してのものだと思っていた。剣技なら、ジュードは騎士団のなかでも抜きん出た強さを持っているからだ。
しかし実はただ単に、ルイスへの仕返しの材料にされただけだった。的確に相手の急所を攻めてくる彼のやり方は、かなり非道だ。
実はジュードはまだ、アビーの正式な婚約者ではない。準備が整い次第、ユホスの街を訪ねて許可をもらうつもりだった。だがスティーヴはしれっと話を盛った。
思い起こせばサインのない絵の件で、抜け目ない彼が拘束されたのも謎だ。実は上官を疑って、わざと捕まったのではないかと疑っている。
「それで結局、ルイスはなぜアビーにつきまとっていたんだろうか? 彼なりに、アビーのことを好きだったのではないか」
ジュードは、さっきのルイスの反応からたどり着いた答えが、正解なのか知りたかった。
「……だろうね。でも、彼自身気付いていたのかすらわからない。少しだけ同情もするよ。若くして名家を継ぐ重圧、利用しようと近付いてくるものへの抵抗、いろいろあっただろう。アビーは世界一かわいくて純粋だから、自分が失ったきれいなものに無意識に惹かれたのかもしれないね」
「しかし、好きな相手に嫌がらせや脅しというのは理解できない」
「そんな君だから、アビーのことを任せられる。さて、酒でも飲みに行くか。……祝杯だ」
二人は肩を組んで、下町の賑やかな居酒屋に向かって歩き出した。
§
アビーが最初に人生で躓いたのは、六歳の時のことだ。
母の療養先のクルバーツから帰り、秋には本格的に勉学に励みだした。
兄達は同じ年の頃、わざわざ家庭教師をつけなくても、基本的な読み書きは習得できていたという。
だが、アビーはその時点でまったく読み書きができなかった。甘やかされた末っ子の女児だったため、問題にされることはなかった。
家族は皆、楽観的に考えていたのだ。
「絵は勝手に描いて勝手に上達した。ピアノの演奏もそれに近い。興味さえ持てばすぐに文字もかけるはず」
アビー自身もその言葉を信じていた。
夏の終わりにクルバーツで少年から手紙をもらったことをきっかけに、自分から文字を書けるようになりたいという思いが強くなる
家に戻ったアビーは自ら父にかけあい、家庭教師をつけてもらったのだ。
「お嬢様は、いっさいやる気がないようです」
一人目の教師は、アビーがやる気がないのだと感じたらしい。そうして、三日で教えるのに疲れてしまったと、去って行った。
次に父が雇ってくれたのは、とても寛容な教師だった。
「勉強とは強制させるものではありませんよ」
文字を練習するはずだったのに、絵本の朗読とお絵かきにかける時間が多くなってしまう。その二人目の教師は、今もメイドとして仕えているホリーの母だ。バーネット家に来て一ヶ月で、家庭教師から世話係にほぼ職種変更となった。
もちろんホリーの母は、時間を見つけて根気強く読み書きを教えてくれた。しかし、半年たっても、アビーの読み書きの能力は向上しなかった。
そのあたりから、アビーにどうにか読み書きを覚えさせなければという危機感が、マニギスにも芽生えてきたらしい。
新しく、厳しく優秀な教師を招いた。投げだそうとしても、書き取りを強制させられた。おかしな文字を書くアビーを強く叱責する。結果、アビーの精神は追い詰められてしまった。それまで穏やかだったアビーは、癇癪を起こすようになったり、授業の時間に逃走するようになってしまう。
「国中を探しても、お嬢様に勉強を教えられる教師などいないでしょう」
そんな残酷な予言を残し、三人目の教師は去って行った。
「おべんきょうは、きらい。わたしはよめなくてもいい」
泣きながら勉強を放棄したアビーを、誰もせめなかった。でも、アビーは「できない」自分を責めた。
どうして普通にできるはずのことが、自分にはできないのか。悲しくてしかたがない。でも、アビーが悲しむと病弱な母も悲しむ。
「てがみなんて、もらわなければよかった……」
ままならない自分のことを受け入れたわけではない。ただ都合の悪いことから目を背けるのが一番楽だった。
だからアビーは、クルバーツの教会で出会った男の子からの手紙の存在は、忘れることにして、クローゼットの奥底にしまい込んだ。
手紙を忘れたアビーは、それからずっと幸せだった。家族の優しさに癒やされ、すぐに本来の明るさを取り戻すことができた。書けないこと、読めないことを気にしなくなっていった。
アビーが、貴族の女性として必要なものを持っていないと本当の意味で理解したのは、パトリシアと彼女の母親が、兄との結婚を拒否した時だ。
自分という存在のせいで、兄の人生を大きく変えてしまった。
以来、アビーの心の一部が欠けてしまった。難しく考えることをしない。できないことはあきらめる。努力はしない。どうすればいいのか、最良の方法を父や兄が考えてくれる。これ以上迷惑をかけないために、父が決めたことは喜んで受け入れようと決めていた。
あの日、ジュードに出会うまでは。
§
ローメリナから、ユホスに戻ってきたアビーは、都にいるジュードと頻繁に手紙のやりとりをしている。
アビーはもう、どんなに下手な文字だろうと気にしない。
長い文章はかけない。簡単な言葉で「好き」や「元気」などと近況や気持ちを知らせる言葉を綴る。
よく文字がひっくり返ってしまっているらしいし、きっと綴りも間違っているのだろう。
ジュードがこの難解な手紙を読み解くために必要なヒントは得意な絵にして添えてある。
手紙には、アビーを表わす女の子の絵や、ジュードを表わす素敵な騎士の絵も登場している。
実は以前、練習用にスティーヴに手紙を送りつけていたのだが、サインのない絵の事件の時に、その下手な文字の手紙が、暗号文としていらぬ疑いをかけられたと聞いたので、その教訓からの対策だった。
かわいい絵の手紙なら忍ばせておいても、子供の落書きだと思うことはあっても、諜報活動の暗号文のような疑いは持たれないだろう。
ジュードは花言葉になぞらえて、アビーに気持ちを伝えてくれる方法をまだ継続している。
この前は、かすみ草の花束が贈られてきた。そして一緒に届いたカードには、大きなハートマークと二人の名前が書かれていた。
今日もまた彼からの手紙が届いている。珍しく文字だけだ。長くはないけれど、アビーが読み解くには少し難しかった。
「会う?……会いに、行く……かしら? そうだったらいいな」
そこで何気なく窓の外を見ると、誰かが屋敷の前に立っていた。赤い薔薇の花束を持った、背の高い金髪の男性だ。
たった今、読み取った文字をもう一度よく確認してから、間違いないと確信を持って、アビーは部屋から飛び出した。
【終】




