今隣にいるあなたに伝えたい 4
ジュードと別行動をとることになったアビーだったが、心細いなどと弱音を吐くことはできなかった。
自分がやるべきことをしないと、スティーヴとジュードの役に立つことができないからだ。
そしてアビーは、自分が恵まれた状況にあることも知っていた。
実は事前にメイナードから聞いていたのだ。この宮廷書記官は国王と特別親しい、側近と呼べる関係なのだと。
実際にメイナードからもらった紹介状の威力は絶大で、宮廷書記官経由ですぐに王妃に謁見することが許された。
はじめて訪れる王宮に、アビーは圧倒される。回廊のいたるところにある美術品、装飾品のすべてが素晴らしいのだ。口をぽかんと開けながら天井の壁画を見上げ歩いている田舎娘の姿は、同行してくれた宮廷書記官にはさぞおかしく映ったことだろう。
精緻な彫刻がほどこされた大きな扉を何度もくぐり、アビーは王妃の私的な部屋まで案内された。
待っていたのは、彫刻の女神像の化身のような神々しく美しい女性だ。
「あなたなのね? 私がずっと探していた人は」
芸術活動の熱心な庇護者である王妃は、寛大で心優しい人柄だった。
どうして名乗り出ることができなかったのか、すべてを包み隠さず話したアビーを抱きしめてくれた。
以前バウロズ邸に飾っていたいくつかの絵も持参すると、王妃は絵を気に入り、アビーの芸術活動の後見人になる約束までしてくれた。
こうして王妃の采配により、サインのない絵に関することで誰も咎めてはならぬという通達が、騎士団へもたらされた。
それでもこういう手法をとったら、兄の上官への心証はよくないだろう。そんな心配をしたアビーは、自ら騎士団に出向き、騒がせたことへの謝罪をした。スティーヴの上官は損得勘定で動くタイプの人物らしく、王妃の庇護下にある新人の絵描きが描いた絵を一枚贈ると、たちまち機嫌がよくなった。
スティーヴとジュードに再会できたのは、そのあとすぐのことだ。
騎士団の建物の中にある応接室で待っていると、そこに二人がやってきた。
「お兄様! ジュード様!」
座っていたソファから立ち上がり、アビーは二人に駆け寄った。抱きついてしまいたい衝動を堪えるのに必死になる。
少し疲れをみせていたスティーヴが、自分のこった肩を揉みながら不満げに打ち明け話をしてくれる。
「僕はあきれたよ。せっかく人が巻き込まないように頑張っていたのに、隣の懲罰房にジュードが入れられたことを知った時の絶望が、アビーにはわかるかい?」
ジュードはあのあと、上官に自分の関与をほのめかして拘束されていたのだ。
今になってその事実を知り、さっと顔を青ざめさせたアビーだったが、男性二人はあっけらかんとした態度をとっている。
「勘違いしないでくれ。それは作戦だったんだ」
ジュードは、スティーヴの言い方に不満があるようだ。必死になってアビーに事情を説明してくる。
「作戦?」
「ああ、スティーヴとの面会が許されなかったから、彼と話すために致し方なくだ。スティーヴが無意味な黙秘を続けているのがそもそもいけない」
二人がお互いに「そっちが悪い」と、小突き合いをはじめる。
じゃれ合っているような様子に悲壮感は一切なく、そのおかげで自分のせいで二人を酷い目にあわせてしまったという罪悪感が薄まっていった。でもアビーはひとつだけ、スティーヴに言っておきたいことがあった。
「私もお兄様に言いたいことがあります。お兄様が罰を受けるかもしれないと知らされた私の気持ちも、もちろんわかってくださるんですよね?」
家族として、アビーを守るためにしてくれたことだとわかっている。でも、誰かを犠牲にしてまで守ってもらいたいと思わない。
そもそもアビーが、自分のことを隠したかったのは、ブライトウェル家との間におこった問題を繰り返さないためだ。もう家族に迷惑をかけないようにしたかった。
「お兄様、私にはもう嘘も隠し事も必要ないみたいです」
「ああ、その通りだ。僕は……いや、家族みんながそうだけど、過保護すぎてアビーに窮屈な思いをさせていたのかもしれない。……すっかり大人になったねアビー、一体誰のせいだろう」
兄妹は、そこで同時にジュードを見た。
アビーはにっこりと、スティーヴは少しだけ憎々しげに。
§
それから二カ月後。
アビーは特別な許可を得て、王宮の中庭に用意した大きなキャンバスに絵を描いていた。
王妃からの依頼を受けて、幼い二人の王女が庭で遊んでいる姿を題材にした絵を献上することになったのだ。
もちろん王女達がポーズを取ってじっとしていてくれるわけもなく、今は生け垣の向こう側で元気に遊んでいるようだ。人物の部分は、初日に描かせてもらったデッサンと、アビーの頭の中のキャンバス頼りの作業になる。
王宮に滞在するときは、行きと帰りに近衛騎士の誰かが付き添いとして派遣される。護衛といえば大袈裟だが、アビーはローメリナですっかり話題の人になってしまったので、一人でいる時に、宮廷にいる者達から心ない言葉を浴びせられることがないように、という王妃からの気遣いだった。
付き添いの騎士がいるおかげか、今のところ他の貴族からの嘲笑を直接受けたことはない。
そして嬉しい出来事がひとつ。王妃の計らいで、音楽家のセルデンと再会し和解することができた。
セルデンは、楽譜が読めないアビーを公衆の面前で罵倒したことを酷く悔いてくれていたらしい。今では、アビーにピアノのレッスンまでしてくれる関係になった。
集中して絵を描いていると、あっというまに時間が過ぎてしまう。いつの間にか、生け垣のあたりで遊んでいたはずの王女達の姿も見えなくなってしまった。陽が傾き出して風が涼しくなってきたので、室内に入ったのだろう。
アビーが画材を片付けはじめると、見守っていた女官が心得たようにその場から離れていった。迎えの騎士を呼びにいってくれたらしい。
まもなくして現れたこの日の担当は、ジュードだった。
「アビー、もういいのか? 家まで送ろう」
「ええ、ジュード様。いつも申し訳ありません」
どれくらい待たせてしまっていたのだろうと不安になり謝罪すると、ジュードは顔をしかめながら言う。
「これは、正式な騎士の任務だから気にしなくていい。でも――」
そこでジュードは、手に持っていた一本の草を差し出した。
「ナズナ?」
「よく知っているな。さすがアビーだ」
一輪の花――そう表現するにはあまりにも控えめで、どこにでも咲いている雑草だ。
「君に花を贈るのは、任務ではない」
「はい。ありがとうございます」
ジュードは会うたびに、何かの花をアビーに渡してくれる。花売りから買う人に育てられた花の時もあるし、そのあたりに咲いている野花の時もある。
アビーが花言葉に詳しいと知って、手紙の代わりに言葉を託して贈ってくれるのだ。
「とても嬉しいです。ナズナの花言葉は――」
「今言わなくていい」
照れたようにそっぽを向いたジュードが愛おしくてしかたない。
ナズナの花言葉は「すべてを捧げます」だ。
「ジュード様、私……この絵が完成したら、ユホスの街に帰ります。……その前にひとつだけお願いがあるんですが、聞いてくれますか?」
「君の願いなら、ひとつではなくすべて叶えてみせる」
「そんなこと言ってしまっていいんですか? 後悔しても知りませんよ」
「難しい願いなのか?」
「難しくはないと思います」
「どんな願いか気になるな。それは今すぐ叶えられるものだろうか?」
「ジュード様のお気持ち次第で、屋敷に帰ればすぐにでも」
「だったら、さっそく今日聞き届けよう」
二人は仲良く王宮をあとにして、バウロズ邸にやってきた。
そうしてアビーは、伯母に「探し物をしている」などと適当な理由で許可をもらい、ジュードを自室に招き入れる。
ジュードは紳士だから、未婚の女性の部屋に足を踏み入れることにためらいがあるらしい。椅子をすすめたので、とりあえず座っているがとても居心地が悪そうにしている。
「悪いことも、危ないことも、痛いことも、何もしませんから安心してください。ただ、ジュード様に読んでもらいたいものがあるんです」
「読む? なんだ、そんなことか。図鑑でも小説でも喜んで読み上げよう」
何をお願いされるのだろうかと、身構えていたのだろう。アビー以外の誰にでもできる簡単なお願いに、ジュードは緊張を和らげていた。
だが、アビーがその「読んでもらいたい物」を渡した時に、ジュードは「ひっ」と声を上げた。
「これです。ジュード様にもらったお手紙です。何が書いてあるのか知りたいのです」
何通もある、青い封筒に入った手紙の束。
ジュードは今にも逃げ出したいというような顔をしていたが、その中のひとつに目を留めた。
「これは……まだ持っていたのか」
それは先日クローゼットから発見された、少年時代にジュードが書いた手紙だ。
「偶然見つけました。もう、昔のことも思い出してます。このお手紙をいただいてから、読めない自分が嫌になってしまって、忘れたことにしてしまい込んでいたんです。なんて書いてあるのか教えてもらいたい。これが私のお願いです」
時間まで遡ってやり直すとはできないけれど、もう「知りたい」という気持ちをごまかす必要はない。
手紙をもらいはじめた最初の頃こそ、ホリーに少しだけ読んでもらっていた。でも文章は読めなくとも、その熱心さが伝わってきてだんだんと自分だけのものにしておきたくなり、代読してもらうのをやめた。
できればこれからも手紙の中身は二人の秘密にしておきたい。だったら、ジュード本人に読んでもらえばいいのだ。
「……本気で言っているのか?」
「本気です!」
アビーはジュードの前にもうひとつ椅子を持ってきて、そこに座り期待を込めて見つめた。
たじろぐジュードは、やがて観念したように、手紙を読みはじめる。
「……こんにちは、僕の名前はジュード・ノリスです。ピアノを演奏してくれてありがとう。僕はそのうち都に帰ります。住所を書いておきますので連絡をください……以上だ!」
「あの、ジュード様。この最初の文字が『こんにちは』ではないことは、私にもなんとなくわかっているんですが……」
あきらかに目を泳がせているジュードは、どうしても中身を知られたくないらしい。
アビーとしてはますます内容が気になってしまう。
「……一度しか読まない。子供の書いたものだから、かなり恥ずかしいんだ」
「わかっています」
* * * * *
妖精みたいな君へ
僕の名前はジュード・ノリスです
僕は君のピアノが好きになりました
ピアノだけではなく
君のことが好きになりました
とてもとてもかわいいと思います
僕は今、声を出すことができません
だからこうして手紙を書きました
君の名前を知りたいです
そしていつか、名前を呼びたいです
きっと声を取り戻すから
それまで待っていて
* * * * *
なぜだろう。ずっと忘れていたアビーにはそんな資格はないのに、昔のジュードのことを思ってせつなくなる。
ジュードは最初の手紙をゆっくり閉じると、照れながらアビーを見つめた。
「君のことが好きになりました……それは今も変わらないよ、アビー」
「……私たち、すれ違うはずですね。あのときジュード様は声が出なくて、私は文字が書けなかったんですから」
「でも今こうして隣に君はいるし、もうお互いの名前も知っている。望みさえすれば、きっとこの先もずっと一緒にいられるだろう。私はそのつもりだ」
君はどうなの? そう問われた気がして、アビーは迷わずジュードの手を握りしめた。
「はい。私も一緒にいたいです。……私もあなたが大好きです」
嬉しくても涙が溢れるということを、ジュードに教えてもらった。
ジュードはアビーの涙を拭ってくれる。そうして今、やさしいキスをくれる。
父や兄とは別の愛を教えてくれる、たったひとりの、かけがえのない人だ。




