今隣にいるあなたに伝えたい 2
カーター邸から出たジュードとアビーは、追いかけてきたバウロズ夫妻と共に馬車でバウロズ邸に向かっていた。
「かわいそうなアビー! ごめんなさい、私はなんて愚かだったのかしら。すべて私のせいだわ。ああ、なんてこと!」
バウロズ夫人は今夜の出来事への責任を感じているのか、大号泣だ。きっと馬車の外にもこの騒がしい声が聞こえてしまっているだろう。
そしてアビーは、ジュードにしがみついて静かに泣いている。
長く時を過ごした間柄でもないのに、全面的に信頼を寄せてくれるその仕草がかわいくてしかたない。会えない間にジュードの心の中で膨れてしまった、アビーに対する負の感情は一気に払拭され、残ったのはただただ彼女を愛おしく思う純粋な気持ちだけだった。
こういう時は頭を撫でてやればいいのだろうか、そっと手を伸ばしかけたところで、ゴホンという咳払いが聞こえてくる。
気付けば、バウロズ家の当主が戸惑いの視線をジュードに送っていた。おまえは誰だ? とでも言いたげだったが、横にいるバウロズ夫人の騒々しさが上回っていた。
「妻よ、わかったから少し静かに! それにアビー。誰だかわからない男から少し離れたほうが……」
アビーはその声を聞いてはいるようで、「いやだ」と、ジュードの胸に顔をうずめながら小さく首を横に振っている。
「…………申し訳ありません」
とりあえず謝るしかないジュードだが、本心では無理にアビーを引き離そうとするほど悪いとは思っていない。
「…………い、いや、こちらこそ。騒がしく、申し訳ない」
「私は、ジュード・ノリスと申します」
「ああ、やはりあなたが……それなら……いやしかしだね」
気まずい空気が、男二人の間に流れていた。どうやらバウロズ家の当主は、常識人のようだ。未婚の姪が目の前で家族でもない男と抱き合っている状況を、やはりこのまま見過ごすことに戸惑いがあるのだろう。
さてどうするべきかと互いに悩んでいると、落ち着いてきたらしいバウロズ夫人が、突然顔を上げる。
「あなた、野暮なことは言わないでちょうだい。そのかたはいいのよ。アビーの騎士様ですから。あなたもあの場にいたから見ていたでしょう? アビーへの情熱的な想いを」
「イザドラ。君はつい昨日まで、ブライトウェル家のルイス殿と結婚すればいいなどと言っていなかったかい?」
「間違いは正直に認めますわ。……ジュードさんでしたよね? アビーを助けてくださってありがとうございます。どうか私のかわいい姪のこと、これからもよろしくお願いしますね」
途中、聞き捨てならない内容が耳に入ってきた気がしたが、どうやらアビーの伯母の「公認」がもらえたジュードは、とりあえずそれを歓迎することにした。
まもなく、馬車はバウロズ邸に到着する。
夫妻が先に下車したところで、あとに続くためジュードはアビーに声をかけた。
「アビー、自分で歩ける?」
するとアビーは、密着していた身体を少しだけ離して、俯いたまま喋りはじめる。
「……泣いてしまったから、みっともない顔が恥ずかしいです。ジュード様は目を閉じていてください」
「そんなことは気にしなくても……」
「気にするんです!」
いっそアビーを抱いたまま降ろしてやろうかと考えていたが、ジュードが動き出す前に、彼女はぱっと自分から離れていき、あっというまに馬車から逃げるように降りていった。
ジュードも慌てて下車したが、アビーはバウロズ夫妻を追い越して屋敷の中に消えていってしまった。
「まあ、アビーったら……ジュードさん、ごめんなさいね。アビーが落ち着くまで、少しお待ちいただけるかしら? さあ、中へご案内しますから」
それからジュードはバウロズ家の居間に通されて、夫妻からのもてなしを受けていたが、待ち人は一向に姿を見せない。
ユホスの街でも会ったアビー付きのメイド、ホリーからは、顔を洗ってから戻ってくると告げられた。しかし一刻が経過しても、アビーは自分の部屋から出てこない。
「アビーは、何をしているのかしら?」
バウロズ夫人は申し訳なさそうにしながら、一度席を外した。どうやらアビーを呼びにいったらしい。しかし間もなくして戻ってきて、深いため息をつきながらジュードに言った。
「ジュードさん、申しわけないけれどアビーに声をかけてあげて。随分混乱しているようだから」
「よろしいのですか?」
「ええ、メイドも一緒にいますから。あの子の部屋は階段を上った左の突き当たりです。騒々しいから、すぐにわかると思います」
「では、お言葉に甘えて。出てきてくれないようなら、声だけかけて今夜はおいとまします。もう遅い時間ですし」
ジュードがそう申し出ると、夫人は了承の意味で頷いた。
言われた通り階段を上り左に進むと、すぐに女性の話声が聞こえてくる。
ジュードはその声の発生元と思われる扉の前で、立ち止まった。
聞こえてくる話し声は、言うまでもなくアビーとメイドのホリーだ。
『お嬢様、お客様をお待たせしすぎですよ、いいかげんになさいませ』
『だって、顔が腫れてるの。こんなのみっともない』
『それほど腫れていませんよ。一体どうしてしまったのですか? 普段お化粧もほとんどしないお嬢様が、そんなこと気にするなんて。お礼を言わなくてよろしいんですか?』
『それはだめ。今までのことも、ちゃんとお話したいの。謝りたいの。……でもホリー、どうしたらいい? 私、ジュード様の顔をまともに見られない。きっとあのかたに会ったら、また泣いてしまう』
『ああ、お嬢様ったら、もう泣いてるじゃないですか!』
『こんな私、また嫌われてしまうわ』
自分とは無関係ではない会話だと気付き、つい立ち聞きをしてしまっていたジュードだが、そこまで聞いてはっとして扉を叩いた。
ジュードがアビーを嫌う日など、これから先は絶対にやってこない。そんな誤解をされたら困るのだ。
「アビー……少しだけ話がしたいのだが、いいだろうか」
ジュードが部屋の外から声をかけると、どたどたと慌てはじめた音が聞こえてくる。
「す、すぐ行きます」
言ったとおり、それほど時間を置かず扉は開かれた。そうして、ひょっこり姿を見せたのは、ストールのようなものを頭からかぶって顔を隠しているアビーだった。
「その、……何から話せばいいのだろう」
いざ対面を果たすと、ここ数ヵ月のさまざまな感情があふれ出してきて、上手く言葉にすることができなくなった。ジュードが言い淀んでいると、うつむいたままのアビーが、先に口を開く。
「ジュード様……私、読み書きが上手くできなくて、いくら練習してもどうしてもだめで……それで」
語尾が震え出している。辛い日々を思い出してしまったのかもしれない。
「そのことは、理解した。心配しないでくれ、そんなことで君を嫌ったりしない。絶対にだ。……いや、他の理由でも君を嫌ったりしない」
どうやったら上手く説明できるだろうか。ジュードは考えあぐねて、伝わりきらない自分の中の感情を直接伝えるために、そっとアビーの手を取った。
「私は君に嫌われていると思っていたんだ。返事がこないのは迷惑がられているからだと。それで、この前もせっかく会えたのに君に冷たい態度をとってしまった。……わるかった」
「謝らないでください。全部私のせいです。私こそ、もうとっくに嫌われているのだと思っていて、でもどうしてももう一度会いたくて」
「アビー……」
スティーヴが言っていたことは本当だった。彼女は、自分に会うためにローメリナにやってきたのだ。
喜びのあまり、今すぐキスをして抱きしめて、涙を拭ってやりたい衝動に駆られる。
しかし、気配を消してくれているとはいえ、すぐ近くにメイドのホリーが控えているはずだ。それに人がいなくても、まだ婚約もしていない相手に不用意に触れることは、紳士の行動とはいえない。
ジュードは、自分の中に湧き上がる情熱を抑え込み、また本格的に泣き出してしまったアビーにハンカチを差し出すにとどめた。
「明日の夜、また君を訪ねてここに来てもいいだろうか。今度こそ君の笑った顔が見たい。たくさん話がしたいんだ」
今まであったことを全て語るには、今夜はもう遅い時間だった。離れていた時間の分だけ話がしたい。そうしてようやく自分たちは次の階段を上れる気がした。
ジュードが返事を待っていると、アビーはそこで、ゆっくりと顔を上げてくれた。
「……はい、もちろんです」
泣きあとの残る顔で、満面の笑みを見せてくれる。
ジュードの中の紳士の心得などどこかに吹き飛んでしまい、気付いたら彼女の柔らかな頬に口づけをしていた。
アビーは顔を真っ赤にさせながら、口をぱくぱくと開閉させている。
ジュードも、自分の頬や耳が熱くなっていることがわかった。
二人は数秒ほど見つめ合ったあと、一度そらすと今度は目も合わせられなくなってしまう。
「そ、その、すまない……」
「い、いえ、ダイジョウブデス」
ぎこちない返事のアビーが心配で、恥ずかしさを隠しながらちらりと様子をうかがうと、彼女の瞳にはまた、涙の膜ができてしまっている。
「泣くほどいやだった?」
恐る恐る尋ねると、アビーは懸命に首を横に振り出す。そうして、何を思ったのか突然ジュードに一歩近付いてきた。
次の瞬間、ふうわりとしたよい香りが鼻をかすめたかと思うと、口の端に柔らかいものが当たった。
「お返しです」
そう言った彼女は、まだ涙目だった。悲しんでいるのではない、恥ずかしがっているのだ。
ジュードは信じられないほどの幸福な気持ちで、思わず口元を押さえた。自分の指よりもっとずっと柔らかいものが、今ここに触れたのだ。
ジュードはアビーの頬にキスをした。そのお返しにアビーはジュードの口の端にキスをした。だったら次に返す時は、好き合っている者同士だけが許される特別な場所に触れてもいいのだろうか。
想像しただけで、舞い上がってどこまでも飛んでいける気がした。
そこから二人は、メイドのホリーが様子を見に来るまで身動きひとつできず、高鳴る自分の鼓動と戦い続けた。
§
アビーと明日の約束をし、溢れるほどの喜びを胸に官舎に戻ったジュードは、建物の中に入って、何か様子がおかしいことに気付いた。
夜も遅い時間だというのに、自分の部屋の隣――スティーヴの部屋の前に、幾人かの隊員達の姿があったからだ。
同僚達は何事かと戸惑った様子で、それぞれの部屋から顔を出して様子をうかがっている。そして、それを見とがめて、部屋に入っているようにと指示をする先輩格の命令が聞こえてくる。
ジュードは、自分の部屋にたどり着く前に、同期入隊の騎士の部屋に入り込み、事情を確認した。
「一体何があった?」
「スティーヴが隊律違反で捕まったと、大騒ぎになってるんだよ」
スティーヴから、舞踏会への代理出席を頼まれた時から何かあることはわかっていた。しかしどうせ彼のことだから、遊びの延長線上でやらかして、上官に叱られる程度のことだろうと甘く考えていた。
「スティーヴは、一体何をやらかしたんだ?」
「今回は、相当まずいらしい。任務に関する証拠を隠滅して妨害したそうだ。それにスパイ疑惑まであるらしい。なんでも暗号文を所持していたとか」
彼がいたずらではなく、本当に隊律に背いたのだとしたら、ジュードが思い当たることはただひとつしかない。ここ最近スティーヴとの関係が気まずくなった原因でもある。
「証拠隠滅とは、サインのない絵についてか?」
ジュードが同僚騎士に問うと、彼はゆっくりと頷いた。
以前、絵のことでスティーヴを問い詰めた時、黙秘した理由はこれだろう。命令違反に巻き込まないためだったのだ。
「だとしたら、私も同罪だな……」
ジュードこそ、随分前からこの任務を放棄していた。
どういうことだと首をかしげた同僚への返事は、曖昧な笑みでごまかす。
大切な人を、これ以上悲しませないためにはどうすればいいのだろう。




