離れた街のあなたに手紙を送ります 2
手紙の送り主の騎士と出会ったのは、二ヶ月前。アビーが十六歳の誕生日を迎えた春のことだ。
田舎街ユホスの領主館の娘であるアビーは、自由気ままな毎日を送っていた。
本来なら、そろそろ結婚相手を探さなければならない年齢となったが、アビーを溺愛している父や二人の兄は、アビーに結婚をせかしたりしない。
伴侶となる相手は、アビーのことを理解してくれる人なら、身分なんてどうでもいいのだと言ってくれた。
だから、家族のその言葉に甘えて、アビーはまともな令嬢が身につけなければならないマナーなど気にせず、家では気ままにピアノを弾き、散歩に行き、時には大好きな絵を描いて過ごしていた。
数日前から熱心に向き合っているのは、街のシンボルの鐘楼を題材にした風景画だ。
この日も鐘楼が見える場所で画材を広げながら、何時間もキャンバスと向き合っていた。
こういう時、メイドのホリーはアビーの近くにずっといるわけではない。彼女もそれほど暇ではないのだ。
領主の娘と言ってもちっとも令嬢らしくないアビーは、いつものエプロンと日よけの麦わら帽子姿で一人で外にいた。
通りすがりの人はアビーの姿を見かけると、「やあ、アビーお嬢さん!」と気さくに声をかけてくるし、何か困ったことがあれば、誰かがすぐに助けてくれる。
この街はとにかく平和で、アビーが自由に生きていける楽園だった。
普段は顔見知りしかいない、そんな街のはずれに、この日は聞き慣れない声が突然響いた。
「――失礼」
アビーは、絵を描くことに集中していて、名前を呼ばれたわけではなかったので、反応しなかった。
「……そこのエプロンの娘」
もう一度、声が響く。若い男の声だった。不機嫌そうな声だ。
「……私、ですか?」
たぶん今この場所には、エプロン姿の娘は自分一人しかいない。
ふり返ると、このあたりでは見かけない、真っ青な上着を羽織った男がいた。金色の髪を持つ騎士だ。
アビーの二番目の兄も同じ近衛騎士だから、男の青い上着が隊服であることはすぐにわかった。
勲章がたくさんついているから、きっとすごい騎士様なのだろう。そんな彼が無遠慮にアビーに話しかけてくる。
「そうだ。少々道を尋ねたい。このあたりに、画家のメイナード氏のアトリエがあると聞いたのだが、知っているか?」
そこでアビーは、ここに王宮の騎士がいる理由をおおよそ理解した。
メイナードは、この森の奥に済む老画家で、アビーに絵を教えてくれた師匠でもある。
十年ほど前までは都、ローメリナで暮らしていて、国王の肖像画を依頼されたこともあるほどの高名な画家なのだ。
本人はもう引退したと言い張り、依頼は受けないものとして、好きな絵を描いている。アビーはそんな老画家の家によく遊びに行くが、今でも王宮から書簡が届き、また王家のために絵を描いてほしいと言われていることは知っていた。
おそらく書簡ではらちがあかないので、直接使者を送り込んできたのだろう。アビーはそんな役目を負ってしまった、この騎士を少し気の毒に思った。
メイナードはアビーに対してはとても優しいが、気に入らない相手には頑固だし、偏屈だ。王からの書簡も平気で無視してしまう。
居場所を教えていいものかと少しだけ悩んだが、騎士の青年はきっと王命により、なんとしてもメイナードの家に向かうだろう。そして師にとっては迷惑かどうか考えると、ちょうどいい暇つぶし程度にしか思わないという結論にたどり着く。
「ああ、それなら……あっちです」
アビーがメイナードの家のある方角を指し示すと、金髪の騎士は顔をしかめた。
「……あっちとは、具体的にどちらのことだ? 方角と距離をもう少し正確に教えてほしい」
直感で、この騎士は自分とは真逆の性格の人だとアビーは判断した。
アビーは感性の人間だ。
経験上、理論的で合理的な考え方をする人は、アビーと話すと、いらいらしてしまうのも知っている。
それでも相手は誇り高き近衛騎士様で、兄の同僚か、落ち着いた印象や勲章の数からすると先輩格になるのかもしれない。失礼のないように、なんとか上手く伝わらないかと懸命に言葉を紡いだ。
「だいたい、あっちの……ええっと、ずっと先の……森の奥の緑色の屋根の家です。森の中は少し入り組んでいますが、家は一軒しかないのできっと大丈夫ですよ。行けばわかります!」
「……いや、すでに森で迷って一度出てきたところなんだ。地図が随分あいまいで」
そう言って、騎士は地図を見せてきた。
アビーはあまり地図をみるのが得意ではない。
騎士が見てもわからなかったものがわかるわけもなかった。
そこで、解決できる案を思いつく。
「ちょっと待ってくださいね」
持っていたスケッチブックに、アビーはさらさらと絵を描いた。
森の入り口はかわいらしく、分かれ道にある岩はひょうきんに、くねくね小道はわくわくさせるように、落雷で二つに割れた大樹はおどろおどろしく。
メイナードの家にたどり着くまでの、アビーがいつもみている光景を思い出しながらそこに示していく。
「はい、目印を描いてみました!」
紙を切り離して、金髪の騎士に差し出す。
「面白い地図だな。まるで今から冒険に行くような気分だ。君はとても絵がうまい」
「たいしたことは、ありません」
「そんなことない。素晴らしい才能だ」
それまでツンとすました顔をしていた騎士が、興奮した様子で力強く言った。
「ほめてくれて、ありがとうございます」
アビーは嬉しくなった。自分の絵を素直に褒めてくれた人は、無条件で「いい人」に分類される。
それに、無表情の時は冷たそうに見えた騎士の青い瞳は、笑うととても優しく輝いていた。
アビーが、笑顔を見せてくれた騎士につられて笑ったそのとき、二人の間に風がふいた。
ふわっと帽子が舞い上がり、飛んでいってしまう。
アビーのストロベリーブロンドの髪が、風になびいて踊った。
あわてて飛んでいった帽子を追いかけようとしたアビーだが、その前に金髪の騎士の双眸が見開かれたことに気付き、思わず動きを止めた。
空よりも薄い騎士のブルーの瞳が、自分の顔を凝視しているのだ。まるで、今まで出会ったことのない何かに遭遇してしまった時のように。
「……妖、精か」
「えっ、今なんて?」
風に乗ってかき消された騎士のつぶやきを、アビーの耳が正確にとらえることは難しかった。
聞き返したが、騎士は「いや」となんでもなかったように首を横に振り、飛んでいった帽子を拾って、アビーに届けてくれる。
「…………」
自然と向き合ったが、騎士はまたじっとアビーの顔を見つめ、口を開きかけたり、むっと固く結んだり、おかしな行動をとりはじめた。
「あの、私の顔に何かついていますか?」
「いや、なんでもない。世話になった。……名前は?」
「私は、アビー・バーネットです」
「バーネット?」
「ええ、このユホスの街の領主、マニギス・バーネットの娘です。はじめまして、騎士様」
今更ではあるが、一応淑女らしくお辞儀をしてみせるが、騎士の表情は憮然としている。
「……領主の娘が、なぜこんなところでふらふらしている?」
「令嬢らしくなくて、もうしわけありません」
ただの街の娘と勘違いさせてしまったことを、咎められるのだろうか。領主の娘が絵など嗜んで何になるのかと、否定してくるのだろうか。
恐る恐る反応をうかがうと、騎士はあからさまに顔を背けた。
「いや、そのままで……じゅうぶん……かわ……」
「……?」
なんと言おうとしているのかわからず、黙って待っていると、そこに別の声が響きわたる。
「お嬢様! アビーお嬢様!」
メイドのホリーだった。
「迎えがきました」
ホリーは、アビーが見知らぬ男と一緒だったことに驚いたのだろう。
あわてて走ってこちらに向かってきている。
そんな彼女に「大丈夫よ」と駆けより、アビーは「道を聞かれたの」と状況を説明した。
男が身分のわかる服装をしていたことから、ホリーはすぐに納得し、アビーが叱られることはなかった。
「それでは、私はそろそろ館に帰ります」
「ああ。気をつけて」
「騎士様も、頑張ってくださいね!」
これから彼が向かう敵がどれだけ手強いか、本当は一緒についていって見物していたい気分だ。
老画家メイナードを前に、たじろぐ騎士の姿を思い浮かべていると、彼がすっと手を伸ばしてきた。
「私はジュード・ノリスだ。……また会おう」
アビーが、つられて無意識に手を差し出すと、彼は絵の具で汚れたアビーの手にキスを贈ってくれた。
かっと、触れられた手ではなく、耳が熱を持った。
それは上流社会では当たり前の、女性に対する作法だが、アビーは家族以外にこんな挨拶をしてもらったことがない。
どきどきと高鳴る心臓に戸惑っているあいだに、騎士――ジュードは、その場を去っていった。
教えてもらった金髪の騎士の名前を、忘れないように何度も心の中で繰り返す。
この街から出ることがないアビーが、この騎士と再会する二度目の偶然があるとは思えず、自分から「また」という言葉を伝えることができなかった。