秘密の箱が壊れる音 4
今夜は、きっと何もおこらない。ルイスに何らかの方法でアビーの秘密を暴露される前に、さっさとユホスの街に帰ろう。
そう決めて、最後の夜を楽しもうとアビーはすっかり油断していた。
しばらくすると、それまで同世代の夫人達とのおしゃべりをしていたイザドラか、アビーを夫人の輪の中に招き入れてきた。
「アビー、こちらにいらっしゃい。カーター夫人があなたとお話をしたいそうよ」
イザドラと一緒にいたのは、カーター夫人だった。今夜の舞踏会の場であるカーター家当主の妻だ。年齢は、イザドラより年上で、このローメリナの婦人達の中心人物なのだと、事前に教えられていた。
当然、到着してすぐにイザドラと共に挨拶をしている。そのカーター夫人が改めてアビーを呼んだのだ。
失礼のないようにしなければと、アビーはしとやかにお辞儀をした。
カーター夫人は、いくつかアビーに質問をした。出身地の話、好きな花、好きな音楽は何かとたずねられる。そうして、こんなことを口にした。
「私はね、あなたがとても上手にピアノを演奏すると聞いて、ぜひ今夜一曲弾いてほしいと思ったのよ」
アビーは思わずイザドラを見る。伯母も驚いた顔をしている。これは伯母からの話ではないのだ。
「……どこから、そんな話をお聞きになったのですか?」
問うと、カーター夫人は眉根を寄せる。夫人のことばを素直に受けず、探りを入れるような態度を失礼に感じたのだろう。この場での正しい対応は、目をかけてもらえたことを喜んで、夫人の要求に応えることだ。
「……失礼いたしました。私は、カーター夫人や皆様にお聞かせできるほどの腕前ではないと思います。だから驚いてしまって」
「私は才能あるかたを応援するのが好きなの。確認したいのは今の腕前ではなく、貴女の才能のほうよ。未熟を恥じるものではなくてよ。さあ、いらっしゃい。私にあなたの音楽をきかせてくださいな」
夫人は、アビーをピアノの前まで連れて行く。拒否することは許されないのだと悟った。
広間の出入り口近くの扉の前で、ルイスが満足そうに微笑んでいる。
(彼の仕業だわ)
カーター夫人は何も知らないで、ルイスに乗せられているのだろうか。
音楽好きの夫人に、アビーが才能ある娘だと伝える。ルイスのしたことはそれだけだとしても、二年前のことを再現することができる。アビーとパトリシアの間で起きたことだ。
ルイスのやり口は完璧だ。もくろみが失敗しても、彼自身は何の痛手も負わない。
楽団が奏でていた曲が終わった時、夫人は周囲に呼びかけた。
「お集まりのみなさん、今夜はアビー・バーネット嬢が、演奏します」
静寂の中、アビーに集まる大衆の視線が痛い。
「何を弾けば……」
「そうね、セルデン氏の曲は何か弾けるかしら?」
「練習曲の……確か、十二番目でしたら」
一番短くて、速い曲。もし間違えても、ただ未熟だからと思ってもらえるような曲だった。
「楽譜を持ってこさせましょうか?」
「いいえ! 楽譜は大丈夫です。暗譜はできています」
「では、弾いてごらんなさい」
アビーは人々に向かいお辞儀をして、椅子に座った。
震えそうになる手を叱咤して、鍵盤に指を置く。
ローメリナに来てからは、ピアノの練習だけはしていた。人前で演奏しなければならない機会があるかもしれないと、準備だけはしていたのだ。二年前とは違う。
ルイスの思い通りになりたくないという気持ちだけで、自分を奮い立たせ、演奏をはじめた。
気持ちが急いてしまっているから、出だしから速度をつけすぎていた。
わかっていたが、走りだしたものはとまらない。練習曲というだけあって、この曲は難しい指の動きをする。
(大丈夫、私はできる)
間違えず、正しい鍵盤を指で弾くことだけに集中する。一番難しい旋律も正しく弾けたはず。あと少し――
「やめろ! 演奏を止めてくれ」
アビーの手を止めたのは、突然の怒声だった。
振り向くと、白髪の男性が、怒りで顔を赤くしながらそこに立っていた。
「これは、私の曲に対する冒涜ですぞ。こんなものは私の作った曲ではない。二度と私の大切な曲を演奏しないでいただきたい」
私の曲。白髪の男性はそういった。だとすると、彼は、今アビーが演奏した曲を作ったセルデンという音楽家だということになる。
「申し訳ありませんでした。セルデン先生でいらっしゃいますか?」
「いかにも、私がセルデンだ。あなたがどんな立派な家のご令嬢か知りませんが、どうしてそんな解釈をするのです! あなたにピアノを教えた講師はいったい誰ですかな?」
「私には、師はいません……」
アビーはもう一度深く頭を下げた。
どこかから、くすくすと笑い声が聞こえてくる。
女性の声が多い。「みっともない」「下手だった」「身の程知らず」そんな声だ。
カーター夫人は、そして伯母のイザドラは、今どんな気持ちでいるのだろう。
夫人はアビーが期待に応えず、舞踏会を台無しにされたと怒っているかもしれない。伯母はきっと、こんなことになって責任を感じてしまうはずだ。
俯いてはいけないと言われていたのに、アビーは頭を上げることができなかった。絨毯の敷かれた床が、ぐらりとゆがんでいるように見える。
息が苦しくて、泣き出してしまいそうになった。
アビーは自分の演奏が下手ではないことを知っている。下手ではないが、曲をきちんと解釈できていないから、セルデンは怒ったのだ。
それをわかろうとしない聴衆は、アビーが披露するような技術もないのに、出しゃばって演奏をしたのだと解釈して嘲笑する。
耳鳴りがする。笑い声は小さいのに。悪意で何倍にも増幅されてアビーに襲いかかっている。誰も助けてはくれない。延々と続くゆるやかな拷問のような時間だった。
そこへトントントン、と靴音が響いた。
その靴音は、どんどんとアビーに近付いてくる。
おそらく、男性の靴音だ。ルイスかもしれない。アビーにとどめを刺しにきたのだ。
アビーは音がすぐ近くで鳴り止んだことを確認して、そっと顔を上げた。
「――何かおかしいことがありましたか?」
ルイスではなかった。今夜、約束をしていたスティーヴでもない。
青い騎士の礼装をした金髪の青年、ジュードがそこにいた。
「ジュード様、どう、して?」
声が震える。夢ではないかと、自分を疑った。
ジュードは、アビーの問いかけには答えずただ微笑んだ。「大丈夫」と言ってもらえているようだった。そうして、彼はその場にいた人に向かって訴える。
「彼女の演奏が、それほどおかしかったですか? 彼女のピアノは素晴らしいですよ。小さい手でこのような難曲を弾ける女性は、なかなかいないはずです。なぜ拍手を送らないのですか?」
居合わせた人々は、困惑し互いに顔を見合わせていた。
一人だけ、ジュードの話にあわせて拍手をした者がいる。さっきまで一緒に話していた騎士だ。
「……お願いやめて。もういいの」
かばってもらえて、嬉しい。でも、ジュードやもう一人の騎士まで、笑いものにされるのは耐えられなかった。
ごまかそうとしたのが間違いだ。すべてを終わらせるつもりで、アビーはまだ怒りのおさまらない様子のセルデンにもう一度向き合った。
「セルデン様、本当に申し訳ありませんでした。……私は楽譜が読めません。だから、音で聞くことで曲を覚えています。でも、正しい音楽が身近にあるとは限らない。だから、どうしてもゆがんでいってしまうのです」
「……それだけ弾けて、楽譜が読めないなんてことが?」
「楽譜だけでなく、文字もまともに読めませんから……」
アビーの告白に、部屋の中がどよめく。
セルデンは、これにより怒りをおさめたようだ。代わりに、嘘つき、騙された、と今度は男性達の声が、アビーの耳に届く。
ふと、出入り口のほうに視線を向けた。そこには、まだルイスがいた。彼は、アビーが自分から告白したことに満足したのだろう。もう無関係だと、そっと部屋から出て行った。
貴族の女性にとって、文字が読めないというのは致命的な欠陥だ。女主人として手紙をやりとりすることが、重要な役割になっている。
それに、この国では孤児ですら基本的な読み書きができるように教育される。誰でもできることができないアビーが、人々の目にどう映るのか、だいたい想像はできていた。
「そういうことだったのか……」
ジュードの、動揺を隠せないつぶやきが、アビーの胸に突き刺さって痛い。
「ごめんなさい……騙して、ごめんなさい」
たまらず、ぽろぽろと涙をこぼした。
もう少し、まともな方法で彼に伝えたかった。もしかしたら、優しい彼なら受け入れてくれるのではないかと、そんな期待もわずかにあった。
ルイスはこの事実を以前から知っていて、それでもアビーに結婚を申し込んだが、彼はアビーの欠陥を認めて受け入れたわけではない。ただ、内々に代筆をさせて隠せるものだと判断しただけだ。
アビーは、書くことと読むことの能力が著しく欠けている。だが、誰かに「代筆」をさせたことはない。自分が書いていない手紙を、自分の名前で送ることは、どうしてもしたくなかった。
できることなら、彼に手紙を送りたかった。自分で書いた手紙を。彼と出会ってから、アビーはそれまで放棄していた勉強をもう一度はじめた。
どうにか人に読んでもらえるような手紙を書こうと努力をしたが、やっぱりだめだった。
「アビー、泣かなくていい。君の苦しみに気付いてあげられなくて、すまなかった」
ジュードは、やはり優しい。このことで、一番振り回してしまったのに、他の人たちと違い、まだアビーを気遣ってくれる。
「ほんとう……に、ごめんなさ、い。わたし……もう、二度と、あなたを困らせるようなことは、……しないから、ゆるして……」
嗚咽をもらしながら、アビーは謝罪を繰り返した。
まだ、どこかから自分への蔑みの言葉がひそひそと聞こえてくる。人前で泣いてしまったことも、迷惑だろう。
それでも涙がとまらなく、アビーは耐えきれず、そこから逃げだそうとした。
(あれ……?)
その場から、扉の向こうへ走りだそうとしたはずだった。俯いたままのアビーは一歩目で、何かにぶつかって身動きがとれなくなってしまった。
硬くて冷たい壁ではない。柔らかくて、暖かい……そこはジュードの腕の中だ。
「皆さんは、いつまで笑っているのですか? それが紳士淑女のすることならば、どうぞ私のことも一緒に笑ってください。……私は、一時期言葉を失っていました。人と会話をすることができませんでした。知られることが恐ろしく、隠れるようにこそこそと生きていました。彼女と同じです。さあ、どうか私のことも一緒に笑ってください。嘘つきだと罵ってください」
「……ジュード、様?」
見上げると、すぐにジュードが涙を拭ってくれる。
「アビー、行こう。ここでは君は、自由に息をすることもできないだろう」
信じられないことが起きていた。