秘密の箱が壊れる音 1
花の都ローメリナは、アビーにとってあまりいい思い出の場所ではない。
しかし今回は、ジュードに会いたいという目的があったので、気持ちが酷く沈んでしまうことはなかった。
滞在先は、伯母であるイザドラとその夫が住まうバウロズ家の屋敷だ。伯母夫妻には跡取りとなる息子がいるが、彼はとても優秀な人物で、大使として隣国に滞在していて不在だった。
ローメリナに到着した翌日、アビーはイザドラに連れられ、買い物のために街へ出た。
ユホスの街から持ってきた荷物だけでは不足があったからだ。
途中、兄のスティーヴと合流して、ローメリナで有名な紅茶の専門店で一緒にティータイムを楽しんだ。
アビーは、大好きな兄に久々に会えたことで、はしゃいでいた。しかし、スティーヴのほうはいつもの明るさが半分になってしまっている。
「ごめん、アビー。実は今、ジュードとはすこし気まずい状況で、君がここにいることをまだ伝えられていない」
「スティーヴお兄様、それは……もしかして私のせい?」
あれほど熱心に手紙を送ってくれたのに、アビーと……そして父が彼に無礼なことをしてしまった。そのことがスティーヴとジュードの関係を悪くしてしまったとしても、不思議はない。
「……いいや違うよ。たいしたことじゃない。少しだけ時間がほしいだけだ。大丈夫だよ」
スティーヴはそう言って微笑むが、家族だからわかる。スティーヴはアビーのことを思って、話さないのだ。
できることなら、これ以上スティーヴに迷惑をかけたくないが、兄を頼る以外、ジュードと連絡を取れる手段が思いつかない。
しゅんと、二人の間で空気が沈んでいく。せっかくスティーヴが時間をつくってくれたというのに。
「あら、スティーヴ。ジュードさんというかたが、アビーの気になるお相手だったかしら? 確かノリス家の」
重い沈黙を破ってくれたのは、イザドラだった。
「はい、そうです。僕からしても、いい青年だと思いますよ。真面目すぎるところがありますが。伯母上はノリス家との交流は?」
「そうね、友人というほどの関係ではないけれど、もちろん顔見知りではあるわ。今の当主と夫人はとても感じのよいかた達よ」
そうして、イザドラはアビーを励ますように言う。
「アビー。思い詰める必要はないのよ。あなたはこんなに魅力的なのだから、社交界に出ればきっとすぐに噂になって、慌てて相手のほうから会いにくるはずよ。そうすれば、誤解なんてあっというまに吹き飛んでしまうわ」
「社交界……ですか」
人々の交流の場所に出て行けば、ジュードに見つけてもらえるのだろうか。
ローメリナはこんなに広いというのに。
少しの可能性があるなら、自ら外の世界に出て行くべきだ。イザドラがこの地にアビーを連れてきてくれたのも、そのためだった。
わかっているが、過去の失敗がどうしてもアビーを内側に引きとめる。
膝の上に乗せていた手が、無意識にスカートの布を握りしめていた。そこへ、隣に座っていたイザドラの手が重なる。
「堂々としていなさい、アビー。俯いたらだめよ。それだけは忘れてはいけないの。……お願い、約束してちょうだい」
凜とすました伯母は、とても美しい。これが本物の高貴な女性なのだとアビーにお手本を示してくれているようだった。
「はい、わかりました。伯母様」
イザドラを真似て姿勢を正すと、彼女は満足そうに頷いた。
§
アビーのもとに思わぬ客人がやってきたのは、翌日のことだった。
バウロズ家の家令から来客を告げられたとき、ジュードが訪ねてきてくれたのかもしれないと喜び、思わず駆け出した。ここローメリナでは、アビーと親しくしてくれている身内以外の知り会いなど他に思い浮かばなかったからだ。
玄関ホールにいたのは、ひょろりとした体型の、若い男性。……期待していた人とはまったく違う、黒い髪色を持つ人だった。
「やあ、こんにちは。お久しぶりですね、アビー」
「……もしかして、ルイス様?」
「もしかしなくても、僕です」
ルイス・ブライトウェルも、確かに数少ないローメリナでの知り合いだった。
ただし、アビーは彼やブライトウェル家との縁は完全に切れたものだと思っていた。ブライトウェル家にとっては、消し去ったはずの過去の繋がりだったはずだ。
どうして? という疑問をアビーが口にする前に、彼は遅れてやってきたイザドラに会釈をする。
「バウロズ夫人、今日は突然押しかけてしまって申し訳ありません。昨日、お二人を街中でお見かけしたものですから、いてもたってもいられず。……彼女に会うためには、直接訪ねるのが一番だということを、僕は知っていますから」
彼の言葉はアビーへの理解と親愛を示したものなのか。少なくともイザドラはそう受け取ったようで、微笑みを返す。
「ブライトウェル家のご当主であるあなたが訪ねてきてくださるなんて、うれしいことですわ。……お久しぶりね、ご立派になられて」
二人の会話から、イザベラとルイスも久しく顔を合わせていなかったのだとわかる。
ルイスとは、家同士で交流していた時期もある。
最後に会ったのは二年前。そのときから穏やかで優しい青年ではあったが、彼は十六歳という若さで家を継いだばかりだった。彼の母や姉の後ろで、戸惑いと不安を抱えながら控えている場面を、よく見かけた。
しかし、今の彼にはそんな面影はない。名門ブライトウェル家の当主として、気品と自信を身に纏っている。
「アビーは、いつこちらに?」
ルイスのゆったりとした口調には不思議な力がある。大きな声を出しているわけではないのに、頭の中に直接語りかけられているような気分になる。
「二日前に、到着しました」
「では、こうやってすぐに会えたのは、とても幸運なことですね。貴女と再会できて、本当によかった」
「ありがとうございます……」
アビーは表面上、好意的な態度をとったが、その心は複雑だった。
彼とその家族は、アビーが隠していた秘密について知っている。
彼の母親はそれを知った時、バーネット家の人間とは二度と会わない。今後はもしどこかで偶然出会っても、知らないふりをすると宣言していた。
「不安そうな顔をしていますね。アビー」
「い、いえ……でも、どうしてわざわざ会いにきてくださったんですか?」
アビーが問うと、ルイスは一枚の封書を取り出して、イザドラに手渡した。
「まあ! 招待状だわ」
すぐにイザドラの喜びの声が聞こえ、ルイスは満足そうに頷いた。
「二日後にブライトウェル家で舞踏会を開きます。急ですが……アビーに、そしてバウロズ夫妻にも、ぜひ来ていただきたい」
突然のことに戸惑うアビーの代わりに、返事をしたのはイザドラだ。
「とても光栄ですわ。もちろん喜んで」
イザドラの対応は当たり前のことだった。格上のブライトウェル家の当主からの誘いだ。断るのには、よほどの理由がいる。ルイスも断られることなど念頭においていないようだった。
「アビーのドレス姿を楽しみにしています」
アビーの意思とは関係なく、話がまとまってしまう。
ルイスは用件が済んだと判断し、ハットをかぶって別れの挨拶をはじめた。
もてなしのために引きとめようとしたイザドラとのやりとりを、アビーは焦りを募らせながら黙って見ていた。
そうして、他に用事があるからと屋敷から出て行ったルイスの背中を、あわてて追いかける。
「待ってください。ルイス様!」
玄関の外で、待たせていた馬車に乗り込む前に彼を呼び止める。
「えっと、あの……私」
どう切り出せば失礼にはならないか、言いよどんだアビーの頭に、ルイスが触れた。小さな子をあやすように。
「安心してください。姉も母も出席しません。今はローメリナにはいませんから」
「でも、もしあとから知られたら」
「忘れないでください。ブライトウェル家の当主は、僕ですよ。……これは僕なりの贖罪です」
「贖罪?」
「貴女を、本来いるべき場所に戻してあげたい。もう隠れるように生きていかなくてもいいんです」
そこに、これ以上有無を言わせないという、ルイスのはっきりとした意思を感じる。
こんな強引な人だっただろうか。
(ううん、強引だと感じてしまうのは、私の勝手な思い込みなのかしら?)
語りかける物腰は、変わらず柔らかい。秘密を知っているのに、アビーを見下したり、ばかにしたりしない。でも、優しい人だとはもう思えなかった。
だって、彼はアビーの意思を尊重しない。弱みを知られているというアビーの心理が勝手にそうさせるのか。
アビーはルイス・ブライトウェルという人物に対して、漠然とした恐れの感情を抱きはじめていた。