こじれた想いの向かう先 3
『近衛騎士スティーヴ・バーネットの妹が、ローメリナの社交界に現れた』
彼女がローメリナにやって来ていたのは、ジュードが噂を最初に耳にした日から、二週間ほど遡った頃のことだったらしい。
それは不幸なことに、ジュードがスティーヴを避けはじめた時期と重なっていた。
彼が話しかけたそうにしていたのはこのことだったのだろうか。
だがジュードは、自分からはじめてしまった行動を覆すこともできず、今日もいたるところで独身の騎士達から声をかけられているスティーヴのことを、苦い唾を飲み込みながら遠巻きに眺める日々を送っている。
「スティーヴ。妹さんは次はどの舞踏会に招待されているんだ?」
「アビー嬢は、ローメリナでどこか行きたい場所はないのか?」
普段は女性との出会いより、男同士の騒がしい酒の席のほうを好むような騎士まで、アビーに興味を持っている。
それには、騎士団に所属する者ならではの事情がある。
ジュード自身もこれに該当するが、彼らの多くは貴族の次男三男だ。家を継ぐ立場の長男とは、はっきりとした格差がある。そのため、将来の伴侶探しに躓くことがある。
懸想する相手がいたとしても、女性とその家族はもっと条件のいい相手を探したがる。妥協されて、残り物として仕方なく選ばれることに嫌気がさしている者も多いのだ。
そんな彼らにとって、お高くとまったところがない地方出身のバーネット家の娘は、希望の星のように見えるだろう。
スティーヴは同僚からの探りを上手く交わして、食堂から出て行った。最後にジュードのほうをちらりと見ていた気がするが、話しかけてくることはなかった。
ジュードはスティーヴ達の会話が気がかりで、食事がすすんでいなかった。
あわてて食べはじめるが、同僚達はまだアビーの話題を続けている。
とにかく美しい。
明るく、会話が楽しい。
純粋さが、まぶしすぎる。
彼らはアビーを賞賛する。
もう、彼女の素直でかわいい性格を知っている人間は自分だけではないことに、どうしようもない焦りがうまれる。
(話が違うじゃないか……)
目の前の硬い肉をフォークで乱暴に突き刺しながら、ジュードは、スティーヴに対して怒りを募らせていた。
ユホスの街から帰ってきたときに、彼は言っていたのだ。いくら待っても、アビーはここにはやってこないと。
それが数ヶ月後、彼女はローメリナの社交界にいる。この状況は一体どういうことなのか。あれはただ、ジュードを遠ざけるためについた嘘だったのか。
幼い頃と、数ヶ月前の二度……ジュードとアビーの接点はたったそれだけだ。他の騎士と自分は何ら変わりはない。それどころか、送った手紙に返事がもらえなかったことや、彼女の父親からすでに拒絶されていることを考えると、他の男と張り合うことすら不可能なのではと気付く。
もう、不毛な思いを抱くのはやめて、あきらめろ。みっともない。
その内なる囁きは、ジュードのなかの自尊心からくるものかもしれない。
アビーの話題を聞いているのが苦痛になり、ジュードは残りの食事を急いで食べて、席を立とうとした。
しかし、ちょうどその時、アビーの信奉者の集団から、今度は「これは極秘情報だが」などと気になる会話が聞こえてきてしまった。
「さっき、スティーヴはしらばっくれていたが、アビー嬢は週末、グラッドストーン家の舞踏会に顔を出す可能性が高い。家族が彼女の後見人のバウロズ夫人から聞き出してくれた」
その騎士達は、周囲には聞こえないようにこそこそと話していたというのに、アビーに関することだけは、ジュードの聴覚が研ぎ澄まされてしまうのだった。
それからのジュードには、舞踏会に行くか行かないか、週末までじっくり悩む暇などなかった。グラッドストーン家の舞踏会に参加できるように、根回ししなければならなかったからだ。
(そうだ、一言くらい文句を言っても、私は許されるはずだ。だから彼女に会いに行く)
理由を無理矢理つけて、実家ノリス家に連絡を入れた。
幸いにもグラッドストーン夫人は母の友人なので、招待状をなんなく手に入れることができた。
当日の夕方、官舎からノリス家に戻ると、母が大はしゃぎしていた。ジュードがそれまで興味を示していなかった舞踏会に、急に参加すると言い出したからだが、これへの対応は義姉にまかせ、ジュードは騎士団の礼装に着替えた。そして、ノリス家の馬車でグラッドストーン家に向かう。
仕事を終えてからの参加だったため、到着した頃にはすでに広間にはたくさんの人が集まっていた。
真っ先にアビーの姿を探して歩く。
彼女は広間の窓際にいた。そうして、ジュードはもう手遅れだということを知る。
そこに、絵の具で汚れたエプロン姿のアビー・バーネットはいなかった。
彼女は洗練された流行のドレスを着て、首もとには美しい宝石を輝かせている。
その日、舞踏会に顔を出していた同僚の騎士の何人かは、ジュードと同じで遅れての参加だったのだろう。一歩離れた場所で悔しそうに様子をうかがっている。
今、彼女の一番近くにいるのは、ブライトウェル家の若き当主。ルイスだ。若くして名家の当主となった彼は、漆黒の髪からか、黒の貴公子と呼ばれ、今ローメリナで一番結婚したい相手と言われている。
他にも、名のある家の跡取り息子が幾人か、彼女から近い場所を陣取っていた。
アビーとお近づきになりたい人間は、騎士達だけではなかったのだ。
「アビー。今日こそダンスを一緒にいかがですか?」
ルイス・ブライトウェルが、アビーをダンスに誘っていた。しかも、親しげな呼び方で。彼女の家族以外で、アビーを呼び捨てにできる人間は、ローメリナでは自分だけだという思い込みが、勘違いだとわかり手が震えた。
「お誘いありがとうございます。でも、私まだ練習ができていないのです。一緒に踊ってくれたかたに恥をかかせるわけにはいかないので、辞退させてください」
アビーはにっこりとほほえみながら、ダンスを断っていた。ルイスはしかたないと苦笑するが、別の男が我こそはと食い下がる。
「アビー嬢。私のリードは完璧なはずです。貴方を誰よりも可憐に舞わせてみせましょう」
「まあ、頼もしい。ですが本当に踊れないのです。……実を言うと田舎では裸足で歩いていたので、窮屈な靴では、踊るどころか歩くだけでも転んでしまいそうなのです」
裸足で歩いていたというアビーに対して、男性達の「ご冗談を」と和やかな笑いが沸く。
ジュードの知っているアビーであれば、きっと小川を見つけたら、本当に裸足になって川で遊び出すのだろう。それをわかっている男は、あの場に誰もいない。
それでもアビーは笑っていた。とても楽しそうに。
ユホスの街で自由にすごしていた彼女と、大勢の取り巻きとの言葉遊びを楽しむ彼女。どちらが本当のアビーなのだろう。
「――妹に、話しかけてやってはくれないのかい?」
呆然としているジュードの肩に手を置いたのは、スティーヴだ。
「必要あるのだろうか? 彼女はとても楽しそうだ。すっかり社交界の花になっていて驚いた」
「君から、そんな皮肉を聞くなんて……」
スティーヴは大袈裟になげくが、なげきたいのはこちらのほうだ。
「失礼する」
最悪の気分で、ジュードはその場から立ち去った。逃げ出したというほうが正しい。
アビーが今にも泣き出しそうな顔で、去るジュードの背中を見つめていたことにも気付かずに。
§
ジュードのもとに、はじめてアビーからの手紙が届いたのは、舞踏会から数日後のことだった。
ノリス家の実家経由で手紙を渡された時、ジュードは心底驚いた。どうやら彼女はノリス家に直接持ってきたらしい。
封筒には、差出人も宛名もない。ただ、侍女を伴って訪ねてきた上流階級の若い女性が、どうしてもジュードに渡して欲しいと門番に預けていったのだという。その女性の髪色はストロベリーブロンドだったとも。
報告を受けた義姉が勘づき、官舎に転送してくれたのだ。
ジュードはその手紙を、官舎の部屋で一人でいるときに開けた。
まだ、何かを期待していいのだろうか。そんな気持ちはあっさり裏切られる。
封筒からでてきたのは、カードに描かれた絵だった。青い花の絵だ。水彩の絵の具でとても上手く描かれたそれは、アビーの手によるものに違いない。
しかし、ただそれだけ、なんのメッセージも添えられていない。手紙から何かを読み取ることは、ジュードにはできなかった。