こじれた想いの向かう先 1
ジュードはこの日、兄夫婦とクルバーツという街にやってきていた。
クルバーツには、兄弟の妹の墓がある。
兄とジュード、そして付き合ってくれた義姉と三人で、墓の前で妹に花を手向ける。
そのあとは、周辺で散歩をはじめた兄夫婦から離れ、ジュードは一人で教会の中に入っていった。
この地は静かな田舎町だが、教会の建物はとても立派だ。貴族の別荘がたくさんあるため、寄付も多いのだろう。
扉を開けて、最初に目に入ってくるのは、聖人が描かれた美しいステンドグラス。そして視線をそこから横にやると、古い……しかし手入れの行き届いたピアノが置いてある。
「変わらないな……」
十年前と、何も変わらない教会の姿に、ジュードの思考は過去へと一気に引き込まれていく。
§
「――だってね、お兄様……お母様にはずっと泣いていてほしくないから。私は遠くから見守るの」
病に倒れ、最後の一年をここで過ごした妹が最後に願ったことが、この地への埋葬だった。
信じられないことだった。妹は、ジュードより二つ年下で、八歳の誕生日をどうにか迎えられたばかりだった。その小さな女の子の最後の願いにしては、あまりにも悲しすぎる。
すでに自らの死を覚悟し、自分が死んだ後の心配をする。家族が泣いてばかりの日々をすごさないようにと。
ジュードは当時、病のせいで日々痩せ細っていく妹を前に、励ますことすらできなくなり、自分の幼さと力のなさを嘆いていた。
願いを口にした数日後、妹は旅立ってしまった。そして彼女の願い通り、このクルバーツの教会の横にある墓地に、その亡骸は埋葬された。
ジュードは、妹を失ってからしばらくの間、言葉を失ってしまった。どうしてだかわからないが、息はできるのに、声が出なくなってしまったのだ。
貴族の子弟としては、弱さを周囲に見せることはできない。
妹の療養に付き添うために休んでいた学校に、復帰することはできなかった。母と共に、言葉を失ったことを隠すように、このクルバーツで隠れるように生活していた。
それはいつまでも泣いてほしくはないと言っていた、妹の願いとは違ってしまっていることがわかっていたけれど……どうしてもローメリナには戻れなかった。
ストロベリーブロンドの髪の少女に出会ったのは、妹を亡くして一ヶ月後のことだった。
毎日妹の墓地へ行き、祈り、教会でまた祈る。そんな日々を繰り返していたジュードのもとに現れた、光のような女の子。
本音を言うと、はじめは邪魔だと思った。
「しさいさま、ピアノをひかせてくーださい!」
その日、教会に子供の声が響いた。
ジュードは祈るために教会にいる。静かな時をすごしたいのに、きゃっきゃとはしゃぎながら、うるさくおしゃべりをしている女の子のせいで、神聖な時間が台無しにされた。
妹より少し年下に見えたが、健康そうで未来は輝いている。悩みのひとつもなさそうな無邪気さが腹立たしくてしかたがなかった。
「なんであのおとこの子は、アビーとおしゃべりしてくれないの?」
その少女は自由で、身勝手だ。知り合いでもないのに、誰もが自分と仲良くしてくれると勘違いしていた。
(なんでおまえなんかと、しゃべらなきゃいけないんだ)
言葉を失っていたジュードは、どちらにしても、その時会話をすることなどできなかった。しかし、それ以前の問題だと思った。「絶対しゃべってなんかやらない」と故意に少女と目を合わせず、かたくなに自分の殻に閉じこもった。
するとおせっかいな司祭が、ジュードがここにいる理由を少女に伝えはじめる。身内をなくしたことを聞き、途端に少女はしゅんとなる。
(そうだ、同情でもいいから静かにしろ。僕は祈っているんだから、邪魔しないでくれ)
そうして、できれば立ち去って。賢い子なら、きっとそうしてくれるに違いないと期待した。
しかしそんなジュードの気持ちなど、少女は無視してくる。ピアノの鍵盤に手を置いて、演奏をはじめたのだ。
教会に鳴り響いたのは、鎮魂歌。祈りの曲。
(うそ、だろう……?)
まだ、あんなに小さい子供なのに。こんな素晴らしい曲を奏でられるわけなどない。
手だって、ジュードより……いや、神に召された妹より小さいのだ。
これは、神様からのプレゼントなのかもしれない。ステンドグラスに描かれた聖人の像を見ながら、ただその曲に心を預けていく。
そうして、ピアノ演奏が静かに終わりをむかえると、教会はジュードの望んでいた静寂に包まれる。
少女は、心配そうにこちらを見ていた。
『ありがとう……』
自然に言葉が出かかったが、うまく喉を震わすことができない。かわりにぽろぽろと涙が出る。男は人前で涙をみせてはいけないはずだ。しかしこの時は、泣いてしまったことを、恥ずかしいとは思わなかった。
そしてジュードは、妹を失ってからはじめて、言葉を紡ぎたいと思えたのだ。あの子にお礼を言いたくて。
それから何度か、同じように教会で偶然少女に会い、彼女の演奏を聴かせてもらっていた。いつしか、少女のピアノを聞くために、毎日同じ時間にその場所を訪れるようになっていた。
どうやら少女の滞在先には、自由に弾けるピアノがないようで、教会のピアノを借りにきていたらしい。
あきらかに自分は少女より年上で、将来立派な騎士になる予定の男だ。
だから、「しゃべれない」なんて自分の弱みをさらすことができず、ただ黙って、少女のピアノを聴く毎日をすごす。
それから、嫌だった医師の診察も積極的に受けた。
医師からは、しゃべれないなら、伝えたいことを文章にしてみたらいいと助言を受けた。
最初、ジュードは日記をつけはじめた。もとから無口なほうだったジュードだが、文字を書くのは嫌いではないと判明する。
そこで、ジュードは少女に手紙を書いた。
翌日手紙をしのばせて教会に行くと、すぐに少女もやってきた。いつものように演奏を聴いたあと、ジュードは少女に手紙を渡す。
「ありがとう。でもわたし、まだもじがよめないの……」
しょんぼりとした少女の頭を撫でてやる。
小さいのだからしかたない。でも、少女はあきらかに上流階級の人間だ。着ているものも上等で、ピアノは相当な師に習っているはず。それに、ここで自由に弾かせている司祭の丁寧な接し方からも、それを察することができた。
そういう家の子なら、すぐに家庭教師がついて、あっというまに手紙を理解することができるだろう。
だから「それでもいいから」という気持ちを込めながら、ジュードは少女に手紙を握らせた。この手紙の内容を理解できるまで、大事にとっておいてほしいと願いながら。
「いっぱいおべんきょうして、そうしたらおへんじをかくね」
この時、少女は満面の笑みを見せた。
ストロベリーブロンドの髪が、ステンドグラスから注ぐやわらかな光を纏って、きれいだと思った。
彼女につられて、気付いたらジュードも笑顔になっていた。妹を失ってからはじめて、ジュードはうれしいや、楽しいという感情を思い出したのだ。
少女と会ったのはそれっきり。夏の終わりに、本来いるべき場所に帰っていったのだという。
ジュードもまもなく声を取り戻し、ローメリナに戻ることになった。
渡した手紙の返事が届くことはなかったけれど、ストロベリーブロンドの髪の女の子のことは、大切な思い出として、いつまでも胸の中にそっとしまわれたままだった。