願いごとを綴れば叶いますか 3
伯母のイザドラは、二晩ほどバーネット家に滞在することが決まった。
その間に、アビーは自分の荷造りを済ませて、イザドラと共にローメリナに旅立つこととなる。メイドのホリーも一緒だ。
旅支度は、アビーにとってそれほど難しいものではない。たった一日か二日でローメリナに持って行く最新のドレスを仕立てられるわけではないので、手持ちの中から上等なものを選んでトランクにつめるだけなのだ。
だからアビーは翌日は荷物の整理をそこそこにして、日が高いうちに外へ出た。
しばらくはこのユホスの街を不在にするので、挨拶をしておきたい人物がいる。
向かう先は森の奥、画家のメイナードの家だ。
途中アビーは、ジュードと出会った鐘楼のよく見える丘の前を通りかかった。その思い出は、今となっては少しほろ苦く感じてしまう。
「……そういえば、私あの絵を完成させていないわ」
描きかけの風景画は、あれからすすんでいない。
それどころか、しばらく筆を持っていない。まだ自分には前のように絵が描けるのだろうかと不安になる。いろいろなことが重なり、描きたいという気持ちがどんどん薄れてしまっているからだ。
「ローメリナには画材を持って行かれるのですか?」
付き添いで同行していたホリーに問われ、アビーは首を横に振った。
「伯母様はダメとは言わないはずだけれど……ローメリナではきっと、私は絵を描かないほうがいいわ」
アビーが絵を描くこと……いや、描いた絵が世間に露見することは、とてもよくない。特に「サインのない絵」に注目が集まってしまったという、今のローメリナでは。
アビーは、本当のところは絵が上手く描けたら誰かにみせたいし、ピアノは誰かに聴いてもらいたい。描いたキャンバスの行き先が屋根裏部屋なら、意欲はわかないし、発表する場のないピアノは練習する意味がない。
人から褒められるものが少ないアビーにとって、その二つの特技は自分の誇りだけれども、同時に家族を追い詰めてしまう可能性があるのだ。
「バーネット家の娘が、私みたいな愚者だと知られるわけにはいかないもの」
「お嬢様……」
アビー・バーネットという娘は少し変わっている。ちっとも令嬢らしくなく、絵を描いてドレスを汚している。そんな評判なら、かまわないのだ。
アビーが、そして父が本当に隠したい秘密は、もっと別のところにあった。
「私、少し浮かれすぎていたのかもしれない」
ジュードが手紙を熱心に送ってくれたから。そして、ローメリナに行けることになったから。知らずに舞い上がってしまっていた。
でも、冷静にならなければ。自分が、不相応なものまで望みそうになっていたことに気付く。兄たちに迷惑がかかってしまうような事態は避けなければならない。
「私は、ただ誤解を解きに行きたいだけ。それだけなの……本当よ? それからのことは何も考えていないし、期待してはだめなのよね」
諦めたようにアビーが微笑むと、ホリーは泣きそうな顔をする。
「私はそんなことないと思いますよ。イザドラ様だっておっしゃってました。お嬢様のことを理解して、受け入れて、愛してくださる方がきっといらっしゃいます」
「うん。今、私の目の前にもひとりいるわね。ありがとう、ホリー。……大好きよ」
それからは、二人手をつないで、黙々と森の奥を目指す。
アビーは平気なのだが、ホリーはあまりこの森が好きではない。野犬やオオカミ、もっと恐ろしいものが出るかもしれないと、彼女は怯えているのだ。
実際には、この森はオオカミの生息地からは外れている。出会うのはリスや鳥くらいのもので、アビーは意気揚々と、尻込みするホリーの手を引きながら進んでいった。
やがて、傾きかけた緑の屋根の家が見えてくる。そこがメイナードのアトリエ兼住居だった。
「先生! メイナード先生! いらっしゃいますか? アビーです。入りますよ」
アビーは返事を確認せず、声だけかけて中に入っていく。
メイナードはここに一人で住んでいる。部屋の奥で絵を描いたり、森に出ている時には返事をして、扉を開けてくれる者がいない。メイナードの返事を待っていると、日が暮れてしまうのだ。家の中を進み老師の姿を探す。
「先生! どちらですか?」
声を出すと、一番奥の部屋からエプロンを掛けた大きな体躯の老人がひょっこり姿を出した。ちなみに、いかつい姿に似つかわしくない、赤と白のストライプ柄のエプロンは、アビーからのプレゼントである。
メイナードは、見かけが「怖い」と街の人から敬遠されてしまうから、親しみやすくなるようにとかわいいものを選んだのだが……プレゼントしたアビー本人でさえ、正直似合っていないと思っている。それでも、メイナードが嬉しそうに愛用してくれているので、何も言わないでいる。
メイナードとアビーは、師と弟子であり、他人ながら祖父と孫のような関係だ。
「アビーではないか! 私のかわいい弟子。よく来たな。腹は空いてるか? おやつはもう食べたか?」
「おやつは、ホリーお手製のチーズケーキを持参しました。先生、お好きでしょう?」
「おお、いつもありがとうホリー」
ホリーがケーキの入ったかごを渡すと、メイナードは嬉しそうにケーキを取り出して、皿に並べていく。
さらに老師が丁寧にいれてくれたスパイス入りミルクティーとあわせて、三人のティータイムがはじまる。
「実は私、ローメリナに行くことになったんです。だから、今日はそのご挨拶に伺いました」
アビーが今日の訪問の目的を告げると、メイナードは驚いた顔をした。
「なんと! ローメリナに?」
「はい。伯母様に連れて行ってもらいます」
「例の件はもういいのか? 数ヶ月前に騎士が訪ねてきた件だ」
ジュードのことだ。彼がローメリナに帰った直後にも、アビーはメイナードの家を訪問している。
まさにここに訪ねてきた騎士に会いに行くなどと言ったら、彼はさらに心配してしまうかもしれない。だから、旅の一番の目的を、アビーははっきり伝えられなかった。
「花の都の人は移り気で、すぐに絵のことなど忘れてくれると思いますが、ローメリナでは用心します」
「そうか、ならいいが……儂は心配でならんよ。おまえさんのような子にとって、あの場所は肌に合わんだろうから。底意地の悪い奴らばかりでな! 絵の具を何度口の中に放り込んでやろうかと思ったことか」
がははと、メイナードは豪快に笑った。絵の具のことを詳しくしらないホリーは同調して軽く笑っているが、アビーは少し震えた。
絵の具は毒性の強い物が多い。メイナードはそういうものを入れてやろうと考えていたのだ。
「……先生が踏みとどまってくれてよかったです。それに、ご心配もわかってます。でも、大丈夫ですよ。私だって少しは成長しているので、今度は失敗しないように上手くやります」
アビーは自分にも言い聞かせるように、きっぱりと告げた。するとメイナードが前向きなアビーを応援するようにうんうんと頷く。
「さて、アビーよ。儂はローメリナの貴族どもが面倒で、こんな場所に引きこもっているわけだが……かの地には、それでも幾人かの友がいる。話のわかる奴らばかりだから、何か困った時には、儂の名を出して頼るといい」
そう言って、メイナードは紹介状まで書いてくれた。
画家仲間、街の画材屋、宮廷書記官……それぞれ違う色の封蝋で、誰がどこの誰なのかわかりやすく区別できるようになっている。
「特にこの宮廷書記官殿宛てのものは特別だ。本当に困った時は、迷わずこれを使いなさい」
そうしてはじめた師の内緒話に、アビーとホリーは心の底から驚かされることになる。
§
いよいよ明日は、旅立つ日だ。
メイナードの家から帰り、部屋で荷物の最終確認をはじめていた。
「よし、大丈夫だわ! それより……」
気になったのが、旅に持っていかないものだ。不在の間に見られたら恥ずかしいものがひとつだけあることに気付いてしまったのだ。
ジュードの顔を勝手に描いてしまった、スケッチブックの存在。これは見つかったらまずいので、どこかに隠しておかなければならなかった。
アビーは隠し場所として、クローゼットを開ける。
アビーの部屋にはクローゼットが二つあり、片方は衣類専用、もう片方は、画材などをしまっておく場所に使っている。
ホリーの管理が入る衣装用はきれいだが、画材用に使っているほうは、お世辞にも片付いているとは言えない。
半分ガラクタで埋まっている中をかき分けて、隠し場所を探していく。
すると、奥から箱が出てきた。
「これ、宝箱だわ!」
子供の頃の宝物だ。
お気に入りのリボンと、ぬいぐるみ。母が編んでくれた毛糸の手袋。自分で作ったらしい何かの像。遠い国のものだというきれいなガラス玉。なつかしいものばかりだ。ひとつずつ手に取ってみて、最後に箱から出てきたものに、アビーは目を見開いた。
「――えっ?」
それは、青い封筒だ。
ジュードが送ってくれた手紙の封筒も青。奇妙な一致に、手が震える。
(そうだ……私、彼から手紙をもらったのは、はじめてではなかったんだわ)
自分たちは子供の頃、母の療養先だったクルバーツで会っていた。ジュードが言っていたことは本当だ。
言葉を交わしていないというのも、ジュードからすれば確かにそうなのだろう。
無口な少年に、アビーが一方的に話しかけていた記憶はある。
あの教会の少年がジュードなのだとしたら、アビーは彼から最後に手紙を受け取ったのだ。
(どうして、今まで忘れていたのかしら?)
それは、六歳のアビーがその後直面していった厳しい現実のせいだ。
いつかこの手紙を読む日を楽しみにしていたはずなのに、見るのも嫌になって、手紙のことを都合よく記憶から消した。
過去をはっきり覚えていたジュードは、どんな気持ちで大人になってから、もう一度アビーに手紙を送ってくれたのだろう。
彼のことを思うと、泣いてしまいそうだった。でも自分には泣く資格はない。
アビーが必死に涙を堪えていると、部屋の扉が遠慮がちに二度叩かれた。
「アビー少しいいかい?」
父、マニギスだった。
「……お父様、どうしましょう。昔のことを思い出してしまったの。私きっと、あのかたに酷いことをしたのは二回目だわ」
今にも溢れ出しそうな涙を隠すように、アビーは父の胸元に飛びこんだ。
「私、たくさん謝らなくてはいけない。でも……きっともう許してもらえない」
父の手が、アビーの頭を撫でる。大丈夫だとなだめるように。
「アビー、私もおまえに謝らなければならないことがある」
「なんですか?」
思わず見上げると、どこまでも悲しそうなマニギスの顔があった。
「わたしはお前に内緒でジュード殿に手紙を送ってしまったんだ。もう、アビーに関わらないでくれと」
「そうですか……お父様、ごめんなさい、心配させてしまったんですね」
「もう一度、彼に手紙を送ってみよう。アビーがそちらに行くことも私から彼に知らせておくつもりだ」
「いいんです、もう。もし会えたら、私からちゃんと彼にお話します。……聞いていただけるかはわからないけれど」
手遅れかもしれない。きっともう彼は自分のことなど嫌いになってしまっている。顔も見たくないと思われているかもしれない。
傷つけたのは間違いなくアビーだ。隠し事をして、ごまかそうとしたのがいけなかった。正直に言えないのなら、きっぱりとあのとき断ればよかったのだ。
それでもアビーは、わずかな希望を抱いて、会いに行く。