第1話 迎え火
バスの降車口のタラップを降りると、立ち込めてくるむせかえるような草の臭い、馬や牛の肥しの臭い、耳をつんざくようなセミの鳴き声・・
健太郎は、黒の大きなキャリーバックを持って、「中川町役場前」のバス停に降り立った。
山間の町・中川は、都会のじめじめした夏と違い、カラッとした乾いた空気と、山々からの心地よい風が吹きつけて、盆地特有の気温が高さはあるものの、十分耐えられる気がした。
バス停から、4、5分歩いたところに、健太郎の実家がある。
大きな生垣に囲まれ、大きな玄関の奥に、家族みんなが集う土間がある、昔ながらの農家という感じの家である。
「ただいま!」
健太郎が大声で言うと、母親のりつ子が出迎えた。
「あら、ケン、いつ帰ってきたの?」
「仕事が昨日の夜ギリギリまでかかっちゃって、やっと今朝、早い便でこっちに帰ってくることができたんだ。」
「でも、帰ってくるなら、電話くらいはちょうだいよ。帰ってこないと思って、何の準備もしてないし。」
「いいよ、メシとかなら気にしないで。俺、ひたすら寝てるからさ。最近寝不足なんで。」
「バカ言わないでよ。明日は迎え火焚いて、ご先祖様を迎えるんだ。新盆廻りもあるし、この家に挨拶に来る親戚もいるんだし。あんたも藤田家の一員として、一緒に手伝いなさいよ。」
「何だよそれ、人遣いが荒いなあ。こっちは連日残業で疲れてるっつーの。」
「あたしゃもう面倒なんて見ないわよ。あんたもいい歳なんだろ。本当は嫁さんがいれば、身の回りの世話も全部してくれるんだけどね。」
そういうと、りつ子はため息を付き、またそそくさと台所へと戻っていった。
「嫁さん・・かあ。」
健太郎は今年で32歳になる。
都内の会計事務所に勤務しているが、職場の同期は、結婚している者もいるが、まだまだ少数派で、ほとんどが独身を謳歌している。
一生結婚なんてしたくない!と断言している同僚もいる。
健太郎は、結婚は出来ればしたい、と考えているものの、なかなか相手に巡り合えない。いや、それどころか、健太郎には、生まれてこの方、彼女と言える女性すらいなかった。
実家の親や親戚は、30歳を過ぎた健太郎に、ありとあらゆる手段を講じて、結婚するようプレッシャーをかけてくる。
お見合いもしたが、田舎と都会での遠距離なので、結局数回会っただけで音信不通のまま、別れてしまった。
会社の同僚と一緒に近くの病院の看護婦と合コンをしたことがあるが、内向きな性格の健太郎はほとんど話しかけることが出来ず、話が出来ても長続きしなかった。
結婚はおろか、彼女すらできない現状に、ため息がでるばかりである。
「はあ・・結婚だの嫁さんだの・・勝手なこと言うなっつーの。」
翌日の8月13日から、旧盆が始まる。
田舎では、まだまだ旧盆がお盆の時期であり、健太郎の実家のある山あいの町・中川も、8月13日から盆行事が始まる。
家族みんなで朝早くから墓参りをし、それが終わると、父親の隆二は一人で親戚廻りに出かけて行った。
健太郎は、母親のりつ子や、地元で暮らす弟の幸次郎とともに、藤田家に挨拶廻りに来た親戚を出迎え、もてなした。
一番にやってきたのは、町の商工会長を務める飯島金治と、奥さんの昌枝だ。
「あらら、ケンちゃん、ひっさしぶりだこと。しばらく見ないうちにまた大人っぽくなったよねえ。」
昌枝は、牛のような体格にパツパツの喪服を着こみ、真珠のネックレスをじゃらじゃらと下げて、隣の家にこだまする位の声で健太郎に話しかけた。
「あはは・・もう、30過ぎたんで。」
「そんなになったんかい?こないだまで、こーんなちっこい子だったのによ。たまげっちまったなあ。」金治さんが、目を丸くして驚いた。
「ねえところで、ケンちゃん・・彼女いないんだったらさ、ウチの娘なんてどうだい?さつきはまだ28歳なんだけど、全然相手が見つからなくてさ。今度一度、会ってみるかい?」
昌枝は、ニヤニヤしながら、健太郎に耳打ちした。
「あ・・・そ、そうですね。機会があれば。」
健太郎は突然の縁談に驚きつつも、まんざらではなさそうな顔で答えた。
しかし、そこで幸次郎が肘で健太郎の体をつつきつつ、耳打ちした。
「兄貴・・さつきには気を付けな。親から金せびって遊んでばかりいるし、仕事も長続きしないし。親の力を借りてデカイ面してるだけの女だよ。結婚なんかしたら大変な目に会うぞ・・。」
健太郎はその言葉に震え上がり、顔が凍り付いた。
そして、背筋を伸ばし、咳ばらいをしつつ、昌枝に向かってにこやかに話しかけた。
「あ・・でも、今は結婚する気持ちはないですし。お気持ちは嬉しいけど、大丈夫ですよ。」
と、お茶を濁しつつもお断りの返事をした。
「あらら・・じゃあ残念だね。ただ、いつまでも結婚しないなんて、お父さんお母さん可哀想だよ。こないだも、早く孫の顔を見たいって言ってたよ。」
昌枝は、ガッカリした顔をしつつも、まだ諦めていないようであった。
「だ、大丈夫です。本当に。すみません、ちょっと、トイレに・・・。」
健太郎はやっとの思いでその場を離れた。
その後は、幸次郎が話を上手く取り繕ってくれたようであるが、結婚せず帰省してくると、親だけでなくその周囲からも年々重圧がかかってきているのは事実である。
夜になり、周囲が闇の帳に包まれると、健太郎は、幸次郎と一緒に木片を玄関の前に集め、ライターで火をともした。
盆の入りの初日は、迎え火で先祖の霊を迎え入れるのが、この町の風習である。
健太郎の家だけでなく、周囲の家でも、迎え火の煙がもくもくと立ち込めていた。
子どものいる家では、迎え火を使って花火遊びに興じていた。
「これで、ご先祖様を無事に迎えられるかな?」
迎え火に横顔を照らされた健太郎は、しんみりと幸次郎に語り掛けた。
「ああ、そうだね。」
「うちのじいちゃん、亡くなってもう6年経つんだな。」
「早いよなあ。俺が成人式をあげた翌日だよ。突然のことでびっくりしたよ。」
「そうだったのか。」
幸次郎は、寂しそうな顔で、迎え火を眺めた。
「あ・・そういえばさ、兄貴って、成人式出なかったよな。大学の試験があるとか言ってさ。」
「うん。ちょうど試験が重なっちゃったんだよね。」
「ちょうど兄貴の成人式の日・・見知らぬ女の人が、兄貴のこと、訪ねてきたんだよ。『健太郎さん、今日、居ますか?』って。」
「え?その話、マ、マジ?・・俺、女の子の知り合いなんていないし。」
健太郎は、幸次郎からの突然の告白に驚いた。
「まあ、俺の記憶が間違って無ければ、たぶん兄貴を知ってる人だと思うけど。」
「一体・・誰なんだろう?」
そんな時、母親のりつ子が居間から二人を呼ぶ声が聞こえた。
「ちょっと、悪いんだけどさ。近くのコンビニで、お酒買ってきてくれない?」
「え?お盆の前にずいぶん買い込んだはずじゃない?」幸次郎が、まさかという表情でりつ子を見つめた。
「今日の夕方、自治会長の加藤さんが来て、お父ちゃんとずーっと飲んでたのよ。で、気が付いたらお酒が底をついちゃってたのよ。あたしも正直ビックリだわ。」
「まったく、加藤の親父、とにかく酒好きだからなあ。自治会長を辞めずに続いてるのも、単に酒を飲める機会が多いからっていう理由だし。」幸次郎は呆れ顔で話した。
「俺・・1人で行ってくるよ。家の中にずっといるのも不健康だし、たまにはこの町の中をぶらぶら散歩したいし。」
健太郎は、ニコッと笑ってりつ子に手を振った。
「良いの?せっかく帰ってきたばかりなのに、何だか悪いねえ。」
りつ子は、申し訳ないという表情でお金を健太郎に渡した。
「幸次郎は、迎え火見守りしててくれよ。」
「ああ。コンビニには最近、ここいらの悪い奴が結構たむろしてたりするから、気をつけてな。」
「何かあったら、携帯で幸次郎に助太刀お願いするからさ。」
「役に立つかなあ・・俺、ガタイはいいけどケンカは弱いんだよな。」
幸次郎は困った顔をしたが、健太郎は大丈夫と言わんばかりの笑顔で、門の外へと出て行った。
健太郎の実家から一番近いコンビニエンスストアは、集落を抜け、県道をしばらく歩いた所にある。
まわりには何も建物が無く、看板だけが闇の中煌々と輝いていた。
健太郎は、酒を何種類か買い込むと、店の外に出た。
その時、入り口の脇にずっと立ったまま、うつむいている若い女の姿があった。
肩までの長くストレートの髪、きれいな色白の肌、花柄のチュニックと黒のショートパンツ姿で、スラリとした長い脚を惜しげもなく露出していた。
どうしたんだろう・・声をかけてみようか?いや、自分が声をかけたら、余計なお世話だと煙たがられてしまうだろうし、不審人物だと思われ、警察とか呼ばれるかもしれない。
健太郎は、何もなかったかのように、女性の脇を通り過ぎていった。
「あの・・。」
え?今、ささやくような女性の声が、後ろから聞こえてきたような・・
健太郎は、思わず後ろを振り向いた。
「あの・・ちょっと・・いいですか。」
間違いなく、さっきの女性が、健太郎に語り掛けていたのだ。
髪の隙間から見える女性の顔は、目がぱっちりして、鼻の筋の通った、なかなかの美人である。
年齢は・・見た目での判断だけど、大学生か、大学を卒業して就職したばかり、という感じがした。
「はい・・俺に、何か用でも?」
「今日は、お買い物?」
「そう、だけど・・。」
「お酒がいっぱい、入ってますね。これから、パーティでもするんですか?」
「いや、明日からの来客用のお酒、なんだけど。」
「楽しそうですね・・。」
「あ・・そんなわけでも。というか、失礼ですが・・あなたは?」
「私は今、散歩中だけど・・。」
「そう・・ですか、俺も、散歩がてら、買い物って感じかな?」
「じゃあ・・良かったら、途中までご一緒しませんか?」
「え・・。ま、まあ、いいけど。」
二人は、数少ない街灯の下、県道に沿って並んで歩きはじめた。
あまりにも突然の出会いと誘いに、健太郎は現実を受け入れられないでいた。
しかし、女性はニッコリ笑いながら、健太郎と手が触れるか触れないかの距離で
歩いていた。
「あの・・お名前は何ていうの?」
横から、健太郎の横顔を見つめつつ、女性はにこやかに問いかけた。
「俺は、健太郎・・藤田健太郎です。あなたは?」
「奈緒。坪倉奈緒っていうの。よろしくね。」
そういうと、奈緒はぺこりと頭を下げた。
「よ・・よろしく。」
健太郎も、頭を下げた。
やがて二人は、県道の路側帯を、並んで歩き始めた。
二人の影が、コンビニの照明に照らされた路上に並んで映し出されていた。