第3部
京極は部下の報告を聞きながら怪訝な表情を見せた。
「忽然と消えたと言うのか?」
「はい。確かにこの辺りで信号が途絶えております」
部下が指さす地図の一点を京極はじっと見つめた。
「猿田火湖。ダム湖か?」
「いいえ。人造ではなく。自然のものです」
「兎に角、隈なくその辺りを探せ」
「しかし、大佐。ここはもう猿国の領土です」
「かまわん。戦闘をしかけるのではないのだ。気づかれずに潜入して、状況を調査しろ。その大きな飛行物体があいつらに接近したというのなら、必ずそれに延田恭子が関わっているはずだ。急げ!」
「はっ」
部下は敬礼して立ち去った。
必ず延田恭子を捕らえる。いや、あの女などどうでもいい。欲しいのは女が持っていたあの核だ。あの核さえ手に入れることが出来れば、今回の失敗など無に等しい。猿国の二人の兵士を猿国との外交交渉に使わなかったのは、猿国を相手にするより、あの女、あの核を我が物にするためだ。兵士たちが延田恭子と接触すると見て、スカイライダーに発信機を取り付け追跡していたのだ。それが何故途切れる? あの間抜け兵士が気付くはずのない場所に設置してあるのだ。途中で外される心配はないのだが。京極は、空を飛行する宇宙船が水中に潜るという事実を知らない。
「ハッセン。カニールまであとどれくらいだ?」
「はい。ハチュード様。先ほどカニ国領内に入りましたので、もう間もなくかと存じます」
蜂国からカニ国への贈呈品を積載した飛行船二機を先導してハチュードらを乗せた専用機はゆっくりと薄曇りの空を航行している。そこへ二機の戦闘機が接近してきた。
「ハチュード様。カニ国軍の戦闘機から交信がありました。カニールまで護衛するとのことです」
パイロットからの報告だ。
「そうか」
ハチュードは苦笑した。カニ国が見せる誠意なのだろうが、今回の使節の裏側を思えば、必ずしも諸手を上げて喜べるものではない。
「行きはよいよい帰りは恐い、か」
そんな言葉が自然とハチュードの口からこぼれた。帰りはおろか、交渉に失敗すればたちまち自身は囚われの身となる。だが、避けては通れない道なのだ。危難は上手く逆転させれば千載一遇のチャンスとなる。そうと判断して、姉である女王ハチルダの命令に従ったのだ。カニ国が自分に賛同してくれれば、これ以上の援軍はない。唯一懸念の猿国に対する抑えにもなる。いよいよ姉ハチルダは孤立し、或いは戦わずしてクーデターを実現できるかもしれない。姉の頼みとする栗国は牛の糞国の牽制にあって十分な援軍を出せないだろう。石臼国とカニ国が睨みを利かせるだけで、蜂国は八方塞がりとなるのだ。そこまでシナリオは書けている。だが、これはあくまでも頭の中だけでの想定に過ぎない。現実はそれほど甘くはない。ハチュードは大きくため息をついた。それを気遣うようにハッセンがハチュードの手を握り締めた。穏やかな表情で頷いて見せる。それにハチュードも微笑んで返した。戦闘機の誘導で蜂国の船団はカニール空港へ侵入した。
「なにっ! 動いた? 延田恭子が動いたんだな」
「はい。人物は確認できませんが、湖から浮上した宇宙船の底部よりスカイライダー二機と小型機が飛び出して行きました」
「湖? 猿田火湖に宇宙船は沈んでいたのか?」
「はい。そうです」
「よし! わかった。ご苦労」
京極は通信機を切ってニヤリと笑った。スカイライダーには発信機が取り付けてある。その反応が彼の目の前にある受信装置の画面に表れている。
「何処へ行くのか楽しみだ」
京極は止まらない笑いを押し殺した。
「申し上げます。蜂国の使節がカニール空港に到着して、これより皇居へ向かうとのことです」
「わかった。すぐに行くと伝えよ」
蜂国め、どんな友好関係を気取ってきたものか。蜂国の不穏な動きについては、既に調査済みである。我々を甘く見ておれば、どんなしっぺ返しを食らうか肝に銘じるのだな。
「延田恭子の動きに油断するな。変化があれば逐一報告するように」
「しかし、大佐。天皇陛下と蜂国大使との会談の場では」
「かまわん。それより重要なことだ」
京極は高笑いを残して部屋を出ていった。
「陛下。ご尊顔を拝し恐悦至極に存じます」
「遠路のお運びさぞやお疲れにございましょう。堅苦しい挨拶などは簡略にして、まずはお寛ぎ下さい。貴国とは長年に渡る友好関係を結び、またこの度はご丁寧な贈り物など頂戴して、喜んでおります」
「勿体ないお言葉。旅の疲れなどそれだけで雲散霧消となります」
カニ国天皇蟹久はその人柄通りの穏やかな表情でハチュードに席を勧めた。貴賓室の中央に置かれたテーブルにハチュードをはじめとした蜂国の使者が着席する。ハチュードの隣にはハッセンが着席した。彼は蜂国の内務大臣だ。一方、対面する形でカニ国の皇族と政府要人が着席した。蟹久の両隣りには皇太子の蟹任と首相の蟹江がいる。蟹江は蟹久の従弟でもある。
「ハチルダ女王への進物の返礼にわざわざハチュード公がお越しになられるとは誠に恐縮です」
蟹江が慇懃に礼を述べた。それにハチュードは黙礼しただけにとどまった。ハチュードは切り出すタイミングを模索していた。贈呈品の目録や女王からの親書が相手に渡ってしまえば、否が応でも事態は騒々しくなる。その前に自分の真意を伝え、何としてでもカニ国を自身の陣営に引き込まなければならない。ハチュードがこれまで行った折衝の中でも最も難しく、そして、クライマックスを迎えていた。
「皆様に予め申し上げておかなければなりません」
ハチュードはそう宣言したあと深々と頭を下げた。そして、再び持ち上げた顔を正面に向けてこう続けた。
「ただいま蜂国はある謀略に占有されております」
予想外の展開に唖然とするカニ国の面々。
「女王である姉ハチルダは嘗ての姉ではなく、栗国宰相エドガーによってその精神を蝕まれております」
「それはどういうことでしょうか」
皇太子の蟹任が問いただした。
「目録を」
本来なら先に事務官から相手国に渡されているはずの贈呈品目録を、ハチュードは今初めて提示した。ハチュードが意識的に止めていたのだ。
「一見しておわかりになられるかと存じます。申し上げるまでもなく、我が国からの贈呈品は常軌を逸しております」
ハチュードのコメントを受けながら、目録を見た蟹江の表情が一変した。
「貴国の意図をどう捉えてよいのかわからない」
蟹江は怒りよりも困惑顔だ。
「我が蜂国並びに蜂国民のために弁明いたします。それは我々の本位ではありません。先に申し上げましたように、にっくき悪魔エドガーによって洗脳された女王ハチルダの暴挙です」
蟹江は大きく息を吐き、蟹任は苦笑交じり、天皇蟹久は憮然としている。
「悪い冗談だと流してしまえないこともないが」
蟹任が表情を変えずに言った。カニ国としては事を大きくしたくないのだ。
「貴国にとって柿は忌み嫌うべきものです。それを敢えて送り付けた。しかも、私という使者まで立てて。貴国が温情をもって見過ごすとされても、女王ハチルダは既に貴国に対し宣戦布告を行ったも同然と考えておりましょう。おそらくは、この挑発に怒りを発せられた貴国が使者である私を捕らえ、先陣の血祭りにされんことを密かに期待しているものと思われます。それを口実に一気に攻め込む計画かと」
「まさか。貴殿は女王の弟君ではないか」
「それほどに姉はもうおかしくなっているのです」
ハチュードの言葉にカニ国側は一応に首を横に振った。信じられないという雰囲気だ。
「僭越ながら」初めて内務大臣であるハッセンが口を開いた。「ハチュード様のおっしゃられたとおり、女王ハチルダ様は狂っておしまいになられました。長年お仕えしたこの年寄りゆえにわかります」そう言って、ハッセンは嗚咽した。
「それ以上の会談は我が国のためになりません!」
突然響いたその声に皆が一様に入り口に注目した。そこには諜報部大佐の京極が直立敬礼して立っていた。
「京極。ここは御前である。控えよ!」
蟹江が立ち上がって京極に退出を命じた。しかし、京極は拒否の首を振った。
「いいえ、今は総理のご命令でも従えません。緊急事態対処法の十九条に基づき、この会場を戒厳令下に置きます」
その発言に蟹江は茫然となった。緊急事態対処法は言葉通り、緊急事態に際し迅速且つ臨機応変な対応を行う目的で制定された法律だった。その十九条にどんな内容が記されているのかこの場では確認できない。京極が自信をもって宣言しただけに、たぶんそうなのだろうと思うだけだ。しかも、首相が上申して、天皇の承諾を得られれば、その発動を撤回できることを蟹江は動転のあまり忘れてしまっている。
「以前より蜂国に不穏な動きがあることは察知しておりました」
「それを何故報告せん」
あたかも京極主導となった場の雰囲気に蟹江は不快感露わだ。
「ご報告申し上げております。しかしながら、他国に顕著な様子が見られないため、今しばらく情報収集に努めよとのご指示でした」
「くっ」
蟹江の立場は益々悪化するばかり。
「現在でも、石臼国並びに牛の糞国に戦備に向けた動向は見られておりません。唯一、栗国は油断なりませんが、それとて、蜂国が動かなければ、微動だにしません。まして、栗国とその隣国の牛の糞国とは長年に渡る冷戦状態。迂闊に我が国に攻め込んではこないでしょう。となれば、注目すべきは蜂国のみ。ただ、直近の情報でも蜂国に戦闘を開始する気配さえありません」
実は既に蜂国内にあって緊急動員が発令されていることを京極は掴んでいた。しかし、それを彼は握りつぶしたのだ。
「だが、蜂国が柿の実を送り付けてきた事実はどう考えるのだ。柿は我が国において不吉な存在だ。それは蜂国とて承知しておる。冗談では済まされん問題だ」
「公式に蜂国が送ってきたのなら、そうでありましょう」
「なに? 今回の使者が非公式だと言うのか! 女王からの親書もあるのだぞ」
「その真偽を確かめなければなりません」
「親書が偽物だと言われるのか!」
ハチュードは顔色を変えて抗議した。
「国家の一大事です。慎重の上にも慎重に確かめる必要があります。恐縮ですが、それまでの間、身柄を拘束させて頂きます」
「京極!」
それには流石に蟹江も慌てた。外交問題に直結する。
「総理。今は緊急事態です」
京極は極めて冷徹に答えた。
丁重ながらも厳重な警備で蜂国の使節団を搬送しながら、京極は込み上げる笑いを押さえていた。これで面白くなってきた。
何が間違っていたのだ。私の選択に誤りはなかったはずだ。リスクとチャンスは裏腹なものだ。時として暗雲が立ち込めることもあるだろう。しかし、それにしても今の状況は最悪だ。この窮状から脱する策はあるのか?
手錠こそ掛けられてはいないものの、ハチュードは護送車の狭いシートに座らされていた。彼の両脇にはカニ国の兵士が陣取っている。先ほどまでの賓客扱いとは雲泥の差だ。そんな劣悪な状況にあっても彼は希望を捨てず、懸命に思案を巡らせた。ハチュードたちを乗せた車は陸軍の捕虜収容所へと向かっている。
クーデターを発動しようにも、この拘束された状態では何ともならない。せめて弟たちと連絡が取れれば活路が見いだせるのだが。
護送車の荷台は完全に黒いシートで覆われ、ハチュードの位置からは運転席でさえ覗き見ることができない。視界が塞がれると誰も前を向く気持ちを削がれてしまうようだ。このときのハチュードも流石に諦めのため息をつくしかなかった。
一方、京極は別の場所へ向かっていた。恭子の行先を掴んでの行動だった。
よりによってまた上沢湖か。今度は偶然ではないだろう。油断できない女だ。アスカルの所在に気付いたのかもしれない。あの核でアスカルを汚染されては万事休すだ。なんとしてでもその前に食い止めなければならない。そして、核を我が手中に収めるのだ。
京極を乗せた機動車を先頭に五台の装甲車が従っている。遅れて戦闘ヘリも合流することになっている。車は唸りを上げて山道を突き進んでいく。
スカイライダーは上沢湖の手前で着陸した。二機に従っていた小型機も両翼を折りたたんで垂直に降下した。機体を安定させる推進機能で狭い空き地でも着陸できる。宇宙船はやはり目立ちすぎるので、恭子からの連絡があるまでカニ国の国境線付近の山間に待機だ。
「流石は精鋭のパイロットね。水を得た魚のようだったわ」
「お褒めに預かり恐縮です」
良太が深々と頭を下げた。大袈裟な仕草だ。
「調子に乗ってるとすぐに墓穴を掘ることになるわよ。今のうちに警告しとくわね」
そう言って恭子は先へ歩いた。
「早速これだよ」
良太は敵わないと両手を肩まで上げて首を振った。英介は苦笑いだ。
三人は林道を通ってダムを目指した。ダムに近づくと、三階建ての管理センターが見えてきた。爆破された浄水管理センターと比較すればやや規模は小さいようだ。しかし、それは表立った施設だけであって、あの地下深くにはカニ国の技術の粋が終結されている。そんな雰囲気が漂う景観だ。木陰に身を潜めて三人は様子を窺った。
「どうする? また守衛室の荷物エレベーターに乗り込むか」
良太が恭子に聞いた。
「同じ建築とは限らないわ。中の構造がわかるといいのだけど」
恭子は珍しく思案顔だ。そこへ凄まじい地響きとともに数台の車両が走り込んできた。到着した車両から次々と兵士が下りて、一人の男の指図で機敏に配置についていく。
「あれは軍だわ」
三人に緊張が走った。どうしてここに軍が出動してくるのだ?
「追跡されていたの? ……あなたたち。またしくじったわね」
恭子は男二人を睨んだ。睨まれた英介と良太は何のことなのか皆目見当もつかない。
「スカイライダーに発信機をつけられていたのよ」
「え?」
ようやく自分たちの迂闊に気づく男たち。
「でも、上手くいけば、中に入り込めるかもよ」
恭子は一転ニヤリと笑った。何処までも逞しく怖い女だ。
三人は二手に分かれた。無論、恭子は単独行動だ。英介と良太は恭子からしっかり指示を受けていた。カニ国の兵士はダム管理センターの周辺に散らばったようで、先ほどまでの喧騒が嘘のようにひっそりとしている。一見しただけではその存在がわからない。明らかに自分たちを待ち伏せしている。装甲車の到着を見ていなければ、しっかり網にひっかかっていた。その装甲車両も今は離れた場所に移動して跡形もない。英介と良太は今更の冷や汗をかいた。完全に諜報部員としては失格だ。
恭子は何処へ行ってしまったのだろう。すっかり痕跡を消している。流石はプロ。英介と良太は感心の唸りを発するばかり。彼女からは、隠密にできる限り管理センターへ近づくように言われている。そして、相手に見つかったら、一転して派手に暴れるようにとも。だが、彼女の念入りに立てた策だとして、肝心の彼女がいなくなってしまったら、男二人では心もとない。彼女を信じながらも、一抹の不安がつきまとう。と言って、このまま様子見をしているわけにもいかない。彼女の方は上手くことを運んでいるだろう。男二人が怖気づいていては、下手をすると彼女を見殺しにしてしまうかもしれない。英介と良太は決断した。そして、すぐに行動に出た。しかし、それは最初から恭子の指示とは違ったものだった。隠密どころか、管理センター目指して猛ダッシュしたのである。呆れる彼女の顔が想像される。
生け捕りを指示されているのか、カニ国兵士からの銃撃はなかった。その代わりに、六人の兵士が英介たちを取り囲んだ。英介と良太はそれぞれに相手を決めて殴り掛かった。三対一の劣勢でも、ターゲットを絞り込めば、他の二人はなかなか手出しができないものだ。だが、多勢に無勢では、勝敗を決するのは体力だ。長引けば、少ない人数の方が不利になる。最初は腰の効いたパンチも次第に空振りが多くなり、それと共に英介と良太の消耗も大きくなっていく。ついに、振り回したパンチの勢いに負けて、二人は地面に倒れ込んだ。それを待っていたように、カニ国の兵士が銃を突きつけた。疲労困憊でもう立ち上がる気力も失せ、英介と良太は共に苦笑した。
「やあ、君たち。せっかく解放して上げたのに、またどうして舞い戻ってきたのかな」
そこへ現れたのは京極だ。
「……」
肩で呼吸をするばかりで、英介たちは声も出なかった。
「ふん。まあいい。ところで、女はどうした。一緒に来たはずだ。隠すと為にはならんぞ」
「……」
憎悪を込めた目で英介と良太は京極を睨み返した。
「黙秘か。つまらん抵抗はやめろ」京極は英介たちから視線を外して周囲を見回した。「女。いや、延田恭子。近くにいるのはわかっている。姿を見せたらどうだ。取引をしよう。折角君の努力で一度は助けた命だ。今度も救って上げてはどうかね」
京極の声が響き渡った。山間に反響してこだまが返った。だが、その後の静寂の中で鳥たちのさえずりしか聞こえない。
「静観を決め込んでいるようだな。まあいい。だが甘く見るなよ。私の温情もいつまでも続くものではない。少し考える時間をくれてやろう。そうだな、一時間だ。一時間だけ時間をやる。じっくり考えるのだな。仲間を呼びたければ呼ぶがいい。充分な時間だろう。君がこの状況をどう打開するのか見届けてやる。楽しみだ。それまで私はこの管理センターの一階にいる。取引に応じる気になったら訪ねて来い。おっと、大事な要件を忘れていた。あの核を忘れるなよ。取引の条件は、あの核だ。今持っていなければ、この場は引き渡す承諾をするだけでいい。その後で仲間に持って来させろ。君が核を提供するまで、この二人の命は保証してやろう。何と情け深い条件ではないか」
京極は高笑いした後、兵士たちに顎で指図した。四人の兵士がそれぞれ二人一組となって英介と良太を無理やり立ち上がらせた。
「さあ、諸君。しばしの休憩だ」
京極は管理センターへ歩いた。それに続いて、兵士に両脇を固められた英介と良太が力なく連行されていく。ふと英介が右脇に並んだ兵士に目をやると、目深にかぶったヘルメット越しに微笑む口元が見えた。恭子だ。英介は直感でその兵士が恭子だとわかった。
京極たちは管理センターの一階にある食堂へと腰を落ち着かせた。京極の指示で、兵士が人数分のコーヒーを管理センターの職員に注文した。いつの間にか英介の横にいたはずの恭子がいなくなっていた。もう一度態勢を立て直すつもりか。英介はなんとか事態を良太にも伝えたいと思った。良太は食堂の椅子に座って項垂れている。なかなか視線を上げない良太に、英介は自分を見るよう咳払いを繰り返した。兵士たちに勘付かれないよう控え目だから、なかなか良太にも届かない。英介は一計を案じ、ペンをそれとなく床に落とした。あの高橋パイロットリーダーから渡された猛毒入りの万年筆だ。コトンと乾いた音を立てて万年筆は床を少し転がった。良太だけでなく周りにいた兵士たちもそれに目をやった。英介が拾おうとする前に、京極が先にそれを拾い上げた。
「何だ。今どき古風なものを持っているじゃないか。これは記念に私が貰っておこう」
「悪いがそれは爺さんの形見なんだ。返してくれないか」
英介の機転を利かせた言い訳に京極は鼻で笑って万年筆を投げて返した。
「形見を取り上げたのでは気の毒だ。私は身内の愛情にはもろいんでね」
終始上機嫌な京極に英介は軽く会釈した。その視野の中に良太の視線を感じた。英介は胸を張ってゆっくり頷いた。恭子は大丈夫だと伝えたつもりだった。良太の目は最初精気を失っているように見えたが、もう一度英介が頷きを繰り返すとその目は輝きを取り戻したように感じた。
いたずらに時間ばかりが過ぎていった。初めの内は余裕を見せていた京極だったが、次第に苛立ちの仕草が目立つようになった。指でテーブルを叩くまではよかったが、緊張の緩んだ一部の兵士が雑談しているのを目ざとく見つけて怒鳴りつけたりした。それを嘲笑った良太に京極はすぐに詰め寄った。
「何が可笑しい! 貴様の仲間はお前らを見限ったようだ。いい仲間を持ったもんだな。恨むなら、薄情なあの女を恨め!」
京極は兵士から銃を奪い取ると良太の頭に向けた。その時だ。いきなり警報が館内に鳴り響いた。
「なんだ! 何が起きた!」
割れんばかりの大音響に京極の叫びもかき消された。
「アスカルだ! あいつがアスカルにいる!」
半狂乱のように京極は手近にいた兵士たちの胸倉を掴んでは出動を命じた。京極に促されて兵士たちが次々と食堂を出て行く。けたたましい音が混乱をさらに増長させた。パニック状態だ。見事にすべての兵士が出払ってしまった。しめた。と思った直後、流石に英介たちを残していたと気付いたか、二人の兵士が戻ってきた。立ち上がりかけた英介と良太は、もう一度戦意喪失を装って椅子に項垂れている。二人に警戒しながら銃口を向けて兵士たちは近づいた。英介と良太は項垂れたまま兵士の接近を待った。その手にはあの万年筆を握っている。相手が動かずにじっとしていると、却ってその様子を確認したくなる。今の兵士たちがまさにその状態だった。しかし、それが逆に災いした。英介たちに近づいた兵士二人は銃口を向けながら彼らの正面に回り込んだ。その行動が命取りとなった。英介と良太はそれぞれのターゲットに万年筆を差し向け、液を飛ばした。その液が付着した兵士たちは一瞬何が起きたのか驚きの表情だったが、たちまち意識を失い床に倒れた。しばらく待ったが、そのままビクとも動かない。英介と良太が立ち上がって覗き込むと、兵士たちは目を見開いたまま死んでいた。
「すげえな」
良太がその威力に身震いした。
「こいつは俺たちの切り札だぜ」
キャップを被せて万年筆を胸ポケットに仕舞うと、良太はニヤリと笑った。
「私には使わないでもらいたいものだわ」
「恭子!」
二人が同時に驚きの声を上げた。恭子は食堂の厨房に立っていた。
「いつからそこにいたんだ」
英介と良太の二人は恭子に駆け寄った。だが、食堂と厨房との間に配膳用のカウンターがあって、それ以上は近づけない。恭子が回り込んで、スタッフ専用口から出てきた。
「アスカルにいたんじゃなかったのか?」
良太が思わず抱き着こうとしたのを、恭子は軽く身をかわした。憮然とする良太。
「いたわよ。食材専用のエレベーターがあったから、それで上がってきたの。浄水センターと似た作りね。まさかと思ったけど、私のICが通用したし、顔認証もパスしちゃった。浄水センターのアスカルと同じシステム。データーもそのまま持ってきたんだわ。ちょっと笑っちゃう」
恭子は可愛く舌をペロッと出して見せた。こういう仕草はとても一流のスパイらしくない。
「さ。行きましょう。あいつらが戻って来るわ」
「どうしてさ。アスカルはほっとくのかよ」
良太は不満顔だ。ハグを拒否されたのもある。
「もう、いいわ。それとも、アスカルを汚染して、カニ国人を全滅させたい?」
それには男たちも否定の首を振るしかない。
「私たちはアスカルの秘密を探りに来ただけでしょ? 違う?」
「まあ、そうだけど。危うく死にかけたんだぜ。命をかけたミッションの結末にしちゃあ」
「物足りない? そこに斃れている兵士を見なさいよ。あの二人はあなたたちの身代わりになったのかもしれない。もう人殺しはたくさんだわ」
浄水センターで一瞬の内に五人を葬った女と同じ人物とは到底思えない変貌だ。何かが彼女をしてそうさせた。この短い間の出来事がきっと影響しているのだ。英介は彼女を見直し始めた。
「さっき元雄さんに連絡を取ったわ。もうそこまで迎えに来てくれているはずだわ。急ぎましょう。逃げるわよ!」
恭子は駆け出した。二人の男たちもそれに続く。それを食堂の職員たちが茫然と見送った。
その数分後、地下からのエレベーターで京極たちが上がってきた。食堂に斃れている二人の兵士を見て、京極はテーブルを叩きつけた。
ハチュードはすっかり項垂れていた。ここは陸軍捕虜収容所にある牢屋の中だ。彼に寄り添うようにハッセンが彼の肩に手を当てている。しかし、ハチュードの口から洩れるのは深いため息ばかりだ。
「ハチュード様。お気持ちをしっかりお持ちになって下さい。きっと弟方が助けに来て下さいます。まだ終わってはおりません。今は諦めないことが最善の策でございます」
いつもは心配性なハッセンが今は違った。長年に渡りハチュードたち兄弟の面倒を見てきた。いわば父親代わりのようなものだ。その父性が今のハッセンを力強く後押ししているのだろう。
「すまない、ハッセン。この事態を想定していなかったわけでもないが、深く考えたくないと追いやっていたのだ。何処かで甘く見通していたのかもしれない。もうため息はつかないよ。そうだな。まだ終わってない。必ず活路が見つかるさ」
ハチュードはハッセンに力強く頷いた。するとハッセンの目から涙がこぼれ落ちた。
「なんだ。ハッセン。そなたが泣いては逆ではないか」
「はい。申し訳ありません。ですが、これは弱気の涙ではございません。嬉しいのです」
「嬉しい?」
「はい。ここまでハチュード様がご成長なされたのかと、つい」
そう言ってハッセンはいよいよ泣き出した。
「そうか。そうであったか」
ハチュードは嗚咽するハッセンの肩を抱いた。
そこへ何やら騒々しい物音が聞こえてきた。ハチュードは立ち上がって鉄格子越しに辺りを窺った。対面する牢屋にいる他の者たちも鉄格子に寄り縋った。ハチュードと共にカニ国へ随行した蜂国兵士たちだ。聞き耳を立てていると、誰かがこちらへやって来る気配だ。
「どけ! これは命令だ!」
「なりません。如何に皇太子でいらっしゃっても、正式な命令のない方の入室は固く禁じられております」
「私の命令でもか! 私は皇太子だぞ。次期天皇となる身だ! 私の命令以上に誰の指示が必要なのだ! どけ!」
押し問答の果てに、ついに看守が折れたのか、牢屋に通じる廊下のドアが開けられる重い音がした。そして、数人の兵士を従えてやって来たのは、カニ国の皇太子蟹任だった。蟹任は誰かを探すような仕草で近づき、ハチュードを認めると立ち止まった。
「ハチュード殿」
蟹任はホッとした表情を見せた後、すぐに厳しい眼差しで深くハチュードに頭を下げた。
「誠に申し訳ありません。蜂国の親善大使にこのような扱いをするとは。我が国始まって以来の失態です。今すぐ解放して差し上げますので、どうぞご安心を」
そう言うと、従ってきた兵士に無言で合図した。指示を受けた兵士はいきなり横に居た看守に銃を突きつけた。
「な、何をする」
驚きの看守はなすすべもなく両手を上げた。
「黙って従え。さもなくば、ここがお前の墓場となる」
兵士は低い声で看守を脅した。それに声も出せずただ頷く看守。
「鍵を開けろ。すべてだ」
それにも黙って頷き、看守はハチュードがいる牢屋の鍵を開け始めた。ハチュードは戸惑うばかり。しかし、これは天の導きなのだと、ハッセンの手を取り共に牢屋から出た。
「皇太子。あなたに責めが及びはしませんか」
ハチュードの心配に蟹任は首を横に振った。
「今回の事は京極の専横に他ならず。むしろ裁かれるのは彼でしょう」
そう言って、蟹任はしっかりとハチュードの手を握った。
「それはまた人が変わったようだ」
良太の愚痴を聞いて元雄が大笑いした。三人を収容した宇宙船の操縦室だ。テーブルを囲んで五人が顔を突き合わせている。
「何が君の中で起きているのかわからないが、いいことじゃないかな」
そう言って恭子を見つめる元雄の眼差しは優しい。まるで娘の成長を微笑ましく見つめる父親のようだ。
「何も変わっちゃないわ。本当の自分に気付いただけ。これまではカニ国への憎しみだけが私を支配していたけど、何処かでそれに疑問を抱いていたのも事実。父さんを殺したカニ国を今でも憎んでいるわ。でも、だからといって、カニ国人全員が加害者だったわけじゃない。むしろ責めるべきはごく少数の当時の為政者たちよ。それも昔のこと。今はもう誰一人としてこの世にはいないわ。復讐しようにも相手がいなくちゃね。今頃はあの世で父さんやお爺さんが彼らをとっちめているかも」
そう言って恭子は寂しく笑った。憎悪の炎はそう簡単に消しきれるものではない。彼女の奥でくすぶっているはずだ。それに復讐を諦める無念もあるだろう。彼女としては、長年抱いてきた心の拠り所だったのだ。その一念でどんな苦境も踏ん張って来れたに違いない。言い換えれば、今までの自分を捨て去るに等しい。英介は彼女の心情を思い図って泣きそうになった。
「なに目をウルウルさせてるのよ」
恭子が英介を見つめた。その眼差しが愛し気だ。
「いや」
英介は天井を見上げた。そうしないと本当に泣いてしまいそうだ。
「本当のこと言うとね。アスカルに潜入して、破壊してしまおうと思っていたの。その思いは潜入した瞬間が一番ピークだったかもしれない。だけど、そこで働いている職員に銃を向けたとき、一気に萎んでしまったわ。以前の私だったら、ためらうことなく全員を撃ち殺していたでしょう。でも、あの時は違った。私に怯える彼らを見ている内に、もう一人の私が叫んだのよ。お前は何をしてるんだって。彼らに殺される理由があるのって。父さんやお爺さんはそれを本当に望んでいるのって。あんな私は初めてだったわ。あの時、本当の私が私を支配したんだわ。復讐という狂気に打ち勝ったんだわ。ああ……」
突然恭子は泣き崩れた。
「許して! これまで私は何人もこの手で……」
泣きじゃくる恭子の元へ元雄が立ち上がって寄り添い、彼女の背中を優しく撫でた。その元雄の胸にしがみつく恭子。英介もついに涙が頬を落ちた。横で良太が男泣きした。
苦渋に満ちた顔で諜報本部に戻った京極に悪い報告がさらに追い打ちをかけた。ハチュードたちが収容所から逃亡したというのだ。
「逃げただと! 何故だ! あの収容所からどうして逃げられる」
報告をもたらした兵士は京極への返答に言い淀んだ。まさか皇太子が逃がしたとは言えない。相手が悪過ぎる。下手をすれば、諜報部そのものが消滅しかねない。京極の性格なら、たとえ皇太子であっても、弾劾に動きかねない。諜報部の大佐程度が皇族を相手取って争えるわけがないのだ。訴えた京極が逆に裁かれてしまうだろう。だが、京極は部下の不審な様子にすぐ疑問を持った。
「何があった。何を隠している」
「……皇太子殿下、です。殿下が兵士を引き連れて収容所を占拠し、蜂国の者を逃亡させたとのことです」
抗えず部下は答えてしまった。
「なにっ! 皇太子だと!」
京極は目の前が真っ暗になった。よりによって皇太子が犯人とは。愚かな真似を。これでカニ国の命運は尽きた。京極はがっくりと床に膝をついた。
「大佐……」
部下は京極を心配げに見つめた。こんなに落胆したこの男を見るのは初めてだった。だが、京極はすぐに立ち上がった。
「わかった。私は決意したぞ。至急全員に召集をかけろ」
部員全員に召集命令が下され、諜報部の会議室に集まった。将校の幹部は勿論、入隊したばかりの一兵卒まで含めて、会議室には大勢が集まった。だが、百人に満たない。彼らを前にして京極は宣言した。
「私は決意した。カニ国を私は見限る。どんなに心血を注ごうとも、上の連中が愚か者では、徒労となるばかりだ。これより私は亡命する。私に従う者は着いて来い。無理にとは言わん」
「大佐。何処へ亡命されるのでありますか」
部下の一人が問いかけた。それに京極は一瞬の間を置いて答えた。
「猿国だ」
蟹任が用意してくれた政府専用機でハチュードたちはカニ国を出国した。目指すは石臼国だ。無論、蜂国に戻れるわけがない。帰国すればたちまち濡れ衣を着せられて拘束されるのは必定だ。ハチュードへの協力関係を考慮すれば、牛の糞国こそが亡命先としてはふさわしいのだが、栗国との緊張関係を思えば、自分たちが入国することで栗国と姉ハチルダ率いる蜂国に牛の糞国侵攻の絶好な口実を与えてしまうことになる。それはまだ早い。ハチュードはそう見ていた。自分たちを救ってくれた蟹任には悪いが、蜂国栗国連合軍がカニ国への侵攻を開始させた後での後方攪乱でなければ意味がない。カニ国への侵攻で手薄となった栗国に牛の糞国が攻め入り、それに合わせてハチュード率いる反乱軍が蜂国を制圧する。成功の鍵は発動のタイミングと制圧に要する時間だ。スピード感が要求された。数日の内に成し遂げれば、ハチルダとエドガーに大きな動揺を与え、蜂国栗国連合軍は総崩れとなるに違いない。問題は猿国だった。猿国が我々の紛争を見逃すわけがない。だが、五カ国すべてを相手に戦争をしかける程の軍事力はない。まずいずれか一国にターゲットを絞って襲ってくるはずだ。それはおそらくカニ国だろう。ハチュードはそう見ていた。カニ国は猿国を取り巻く五カ国の盟主だ。現在の国際関係の主要因となった猿蟹合戦因縁の相手だ。積年の恨みをとばかりに叩き潰しに来る。必ずそう出る。ハチュードはそう信じて疑わなかった。
「ハチュード様。間もなく石臼国ウストリア空港に到着とのことでございます」
ハッセンが伝えにきた。内務大臣自らの案内だ。相変わらず下僕のような働きぶりだ。ハチュードは頷いて微笑んだ。このハッセンが側近くにいてくれることで心が落ち着く。有難い存在だ。その時ふとハチュードの脳裏に一人の男の姿が浮かんだ。
「京極とか言ったな」
「え? なんでございましょう」
怪訝そうなハッセンにハチュードは首を横に振った。
「いや。なんでもない」
京極。あのような男がカニ国にもいたのだ。敵に回せば厄介な存在だが、味方となればあれほど頼もしい男はいないかもしれない。あの者はどうなったのだろうか。
ハチュードは知る由もなかった。京極が部下を引き連れて猿国へ亡命したことを。
ここは蜂国居城の王室。主だった閣僚を招集して緊急会議が開かれていた。ハチルダは玉座に座って、栗国宰相エドガーからの報告を受けていた。
「え⁉ どういうこと?」
ハチルダはエドガーの報告を飲み込めないようだった。それにエドガーは苦笑して、
「現在事実確認を急ぎ行っておりますが、まず間違いないでしょう。我が国の諜報部からの報告では、ハチュード殿は一旦カニ国に囚われて、どういう経緯かわかりませんが、カニ国皇太子蟹任の手引きでカニ国より脱出された模様。しかし事もあろうに、蜂国ではなく、石臼国へ入国されたとのことです。これは明らかに亡命。蜂国に対する反逆です」
「ハチュードが。そうですか」
ハチルダは打って変わって笑みを浮かべた。
「一方で、皇太子蟹任がハチュード殿を逃がしたとはいえ、カニ国は蜂国の親善大使を捕縛しました。これは明確に国際法違反です」
「そうですね。わかりました」
ハチルダは玉座から立ち上がった。それに応じるようにエドガーも立ち上がって一礼し、こう伝えた。
「女王陛下。ご決断を」
それに頷き、ハチルダは宣言した。
「みなに命じます。全軍総攻撃をかけよ! 相手はカニ国!」
「ははっ」
閣僚全員が立ち上がり、女王に向かって最敬礼した。そして、ブンブンと羽音を鳴らした。蜂国人が興奮状態になると背中の羽を震わせるのだ。
閣僚たちが立ち去ると、ハチルダとエドガーの二人だけになった。
「石臼国と牛の糞国に通知を出して頂戴。事の詳細を伝えて、事前の約束通り静観するようにと。それから猿国にもお願い」
「猿国にもですか?」
エドガーは小首をかしげた。
「そうよ。言わなかった? そういう約束なの」
ハチルダは甘えるようにエドガーにしだれかかった。
「そうでしたね。でも……」
エドガーはハチルダの背に手を回し抱いた。
「そうよ。きっと猿国はじっとしていられないでしょうね。ふふ」
「そうなれば?」
「猿国はカニ国に攻め込むわ。カニ国は私たちと猿国に挟み撃ちになるのよ」
「しかし、勝利した後で少々厄介になりませんか?」
「大丈夫よ。猿国はカニ国に勝って、きっと有頂天になるわ。その浮かれた隙を突いて、今度は私たちが猿国を攻撃するのよ。猿国って、昔からそういう面白い国なんだもの。何の抵抗もできずに降参するわ。そうすれば、世界は私たちのものよ」
「悪い人だ。君って女性は」
「怖い?」
「いや。頼もしいよ」
笑いかけたハチルダの口をエドガーが自分の口で塞いだ。
猿国司令本部。その司令長官室に一人の男が猿国軍の兵士に連行されて入ってきた。京極だ。
「まさに珍客とは君のことだな」
皮肉ともとれる言い回しで出迎えたのは最高司令官の野間だ。部屋の奥に置かれたデスクに座って京極を睨みつけている。
「我らの宿敵が諸手を上げて投降とは、いったいどんな風が君に吹いたのかね?」
「貴国にとってはよい風と言えるでしょう」
「ほう」
野間は黒塗りのデスクに前のめりとなった。
「蜂国がカニ国を攻めようとしております」
「そうか」野間は前のめりとなっていた体勢を元に戻し、鼻で笑った。「知っているよ。我が国を甘く見られては困るな。その程度の情報を手土産にのこのことやって来たのか、君は!」最後は拳でデスクを叩きつけた。
京極の頬に冷や汗が流れた。常に沈着冷静な男にとっては初めてのことだ。命の危機にある。彼は直感でそれを悟った。この国にも自分の居場所はなかったのか。だが、まだ切り札はある。出し惜しみするつもりだったが、今はそうも言っていられない。
「ハチュード公をご存じでしょうか」
内心の焦りを押し殺して、あくまで平静を装った。
「ハチュード? ……ああ。蜂国女王の弟だったかな。それがどうした」
「女王に反旗を翻す気配が」
「ふーん。それで?」
言葉とは裏腹に野間はまた前のめりとなった。正直な男だ。京極は内心で笑った。無論、表情には出さない。
「ここでそれ以上は」
「ふん。君も悪運の強い男だ。まあいい。他にもカニ国の情勢には興味深い話を聞かせてもらえるだろう。歓迎するよ。賓客として扱ってやろう。カニ国の面々を宿舎にご案内しろ」
野間は部下に命じた。
司令長官室を出ると、京極は思わずため息をついた。京極には珍しく極度の緊張感に包まれていたのだ。命のやり取りをした心境だった。そのため息を同行する兵士に気付かれたようだったが、素知らぬ振りで京極は歩いた。この瞬間、京極はいつもの冷徹な自分を取り戻していた。
カニ国からの亡命者である兵士たちは京極も含めて猿国軍の大型バスで移送された。
「大佐。我々はどうなるのでしょうか?」
京極の隣に座った兵士が不安を口にした。
「これから宿舎に案内すると言っていた。だが、おそらくは捕虜収容所のような場所だろう」
それを聞くと兵士は一層不安を顔に出した。
「安心しろ。命の保証はある。これから否が応にも我々の使い道が出てくる。時代は動き始めたのだ。もう後戻りできない」
それと同じ頃。野間の元に一件の報告がもたらされていた。その書面を読む野間の顔が歓喜に満ちた。
「蜂国が動いたぞ。我らも遅れをとるな!」
「しかし、長官。それには静観して欲しいと」
「バカ者! そんな申し出に諾々と頷けるか! この好機を逃してなんとする! 全軍に出動命令を出せ!」
「はっ。それで出撃先は?」
「それを聞くのか! カニ国に決まっておる!」
猿国の湖猿田火湖。その湖底に宇宙船は落ち着いている。
「おはよう」
恭子は遅い目覚めだった。夕べは深夜までみんなで飲んだのだ。人間の作り出した酒は、猿国やカニ国のものと違って味わいが深い。つい飲み過ぎてしまう。英介と良太はまだ夢の中だ。
「おはよう。と言っても、もう昼近いよ」
元雄が笑いながら、いつものように熱いコーヒーを用意してくれた。
「元雄さんたちはタフなのね。一緒に飲んでいたのに、いつものように起きたの?」
「君たちと違ってちゃんとセーブしているからね。飲みすぎ、睡眠不足は健康障害につながるよ」
「模範解答をどうも」
恭子は軽く会釈してテーブルに座るとコーヒーに口をつけた。
「それに、この世界は驚くことばかりだ。惰眠を貪ってなんかいられない」
「何かあったの?」
恭子は立ち上がってモニターを見つめた。
「猿国軍が出動したようだよ」
「猿国軍が? 何処に? まさか……」
「そう。おそらくはカニ国じゃないかな」
「どうして? どんな理由があるというの?」
「わからない。でも、理由なんて、何とでもなるさ。猿国はカニ国と戦争をしたがっていたんだろ? それと、蜂国に遊びに来ていた仲間からの連絡がさっき入って、蜂国も軍隊が動き始めたらしいよ」
「え⁉ 蜂国が⁉ 早速カニ国への援軍に出たのね」
「それがどうも違うようだ。蜂国の矛先はカニ国らしいんだ」
「え⁉ どうして⁉」
恭子は混乱した。カニ国との同盟関係にある蜂国がカニ国を攻めるなんて信じられない。しかも、猿国と歩調を合わせている。何が起きているのか。
「他の国は? 栗国や石臼国に牛の糞国。猿国の謀略に黙っているはずがないわ」
「それはわからない」
「兎に角、英介たちに教えなきゃ。大変なことになったわ」
恭子は飲みかけのコーヒーを置いて部屋を飛び出した。気持ちばかりが先走る。駆ける足が焦りに着いて来れないのだ。それでもなんとか英介と良太が眠る部屋に駆け込んで、熟睡する二人を叩き起こした。夢見心地のところを起こされて最初は不機嫌な二人だったが、恭子の話す内容に徐々に自分を取り戻す。もどかしいが、ここは何度も言い聞かせるしかないかと、恭子は同じフレーズを繰り返した。
「なんでだよ」
良太の言葉が代弁するように、彼らにはまったくの寝耳に水だ。
「なんでだよ!」
怒りの声を発して、男二人は立ち上がった。
「どうする?」
恭子は彼らを見つめた。自分でもどうすべきか頭が働かない。事態が想定外過ぎるのだ。
「どうするって……」
良太が戸惑いを見せた。彼とて途方に暮れた状態だ。
「助けに行こう」
英介が声を上げた。それに他の二人は黙って頷いた。三人は操縦室へ向かった。
「戦火の中へ飛び込んで行くっていうのかい?」
元雄は珍しく真剣な眼差しで否定の首を振った。
「俺たちを救ってくれた恩人がいるんです。何もできやしないけど、せめてあの二人だけは助けてやりたい」
「死にに行くようなものだ」
元雄は英介に反対した。
「お願い。カニ国との国境まででいいわ。後はスカイライダーと小型機で行くから」
「お前も行くのか!」
良太が恭子に振り向いた。
「当然よ。だって私たちは仲間じゃない。仲間を救ってくれた恩人なら、私にとっても恩人だわ」
「仲間か。いい言葉だな」
元雄が急に表情を和らげた。
「わかったよ。何処までも付き合ってあげるよ。仲間だもんな」
元雄の言葉に三人は顔を輝かせた。
宇宙船は猿田火湖から飛び出した。目指すはカニ国の首都カニール。今頃はもう蜂国と猿国の攻撃が始まっているかもしれない。だが、カニ国とてそう容易く攻め込まれはしないだろう。まずは国境付近での前哨戦か。しかし、蜂と猿の両国からの攻勢にあって劣勢は否めない。案の定、猿国との国境線では激しい交戦が見られた。宇宙船はその間隙を縫うように突き進んでいく。どちらからともつかぬ砲撃が次々と襲ってきた。激しい衝撃が船内にいる五人にも伝わった。流石の危険回避機能も間断なく降り注ぐ砲撃に間に合わないのだ。地震のような揺れに、操縦席にいない英介たちはテーブルにしがみついているのがやっとだった。操縦席にいる元雄たちとて、座る椅子に両手でしっかり掴まっている。
「大丈夫なの!」
恭子が悲鳴を上げた。
「たぶんね」
こんな状況でも元雄の返事は頼りない。
雨のような砲撃をなんとかやり過ごして、宇宙船はカニールへとたどり着いた。まるで先ほどまでの戦火が嘘のように穏やかだ。カニ国軍の踏ん張りがあるからだ。だが、それもいつまで持つか。
宇宙船はカニール郊外にあるダム湖へ着水した。敵と間違われて攻撃を受けては、以後の行動ができなくなる。それにカニ国軍の戦力が宇宙船に向かえば、敵対する蜂と猿両国への備えが手薄となると見てのことだ。着水の直前に船底からスカイライダー二機と小型機一機が飛び出した。無論、英介、良太、恭子の三人だ。三人は素早く目指す公園に着陸した。あの浄水管理センターに隣接した公園だ。国境線に警戒が集中している所為か、幸いにも彼らを追跡する様子はなかった。実際には、気付いていても、彼らに兵力を回す余裕がないのかもしれない。公園には誰一人としていなかった。アスカル爆破事件以来、この場所は立ち入り禁止区域になっているのだろう。それがきっかけとなって、嘗てはカニ国民の生命線の一つだっただけに、却って不吉な場所という風評が住民の間にあるのかもしれない。どちらにしろ、今の三人には幸いだった。三人は塀越しに外の気配を窺った。異常ないと恭子が頷いて、三人は通りすがりの通行人を装って門を出た。しばらく歩いて離れた場所でタクシーを拾った。驚きだ。この辺りの住民は戦争に突入したことを知らないのだろうか。タクシーの中では静かなクラッシックが流れている。
タクシーを降りて、三人は過ぎ去るそのリアバンパーを言葉なく見送った。英介が苦笑した。
「なんだよ。何が可笑しい」
良太が英介を横目で見た。
「俺たちってスパイみたいだな」
「そりゃそうさ。教官殿がおられる。俺たちは今実地訓練の真っ最中さ」
少しの沈黙の後、三人同時に吹きだした。緊張の連続だっただけに、その糸が切れたようだ。
「さ。行きましょう。今にここも戦渦に巻き込まれてしまうわ」
三人の中でやはり恭子がリーダーシップを取る。英介はそれを頼もしく思った。
竹内家は静まり返っていた。果たして在宅しているのか。チャイムを鳴らすと遠くで応じる声がした。居た。三人に安堵の空気が広がった。やがて玄関を開けた老人は最初息を飲むように見つめていたが、すぐに満面の笑みを作った。
「まさか戻ってきてくれるとは思わなかった。その方は以前に聞いたもう一人の人だね」
それに三人が黙って頷いた。声にすれば泣いてしまいそうだった。老人の顔が穏やかなだけに、その温もりがまともに三人の心に届くのだ。
「さ。お入りなさい。よく来てくれたね」
老人に促されて三人は中へ入った。通されたのはいつものリビングだ。いつもという言葉が違和感なく英介にはしっくりきた。このソファーにしても妙に懐かしい。それ程時間は経っていないのに、不思議な感慨だ。だが、郷愁にばかり浸ってはいられない。伝えなければならない重大事があるのだ。英介が切り出した。
「カニ国が現在どのような状況にあるかご存知でしょうか」
「知っておるよ。戦争が始まったのじゃろ? まだニュースでは大々的に報道しておらんが、なんせ娘が内務省におるからの。知らんでもいいことが耳に入る」
老人は相変わらず呑気な言い様だ。
「相手は猿国ばかりではありません。同盟を破って蜂国までもがカニ国に刃を向けております。両国が相手では、カニ国と雖もどこまで持ち堪えられるか」
英介は悲痛な表情で訴えた。だが、老人は顔色一つ変えない。
「それも知っておる。仕方ないことじゃ。以前は女王のハチルダも美しい娘であったが、最近はその本心を現したようじゃの」
まるでのれんに腕越し。まったく手応えがない。英介たちに何とか助けたいという必死な思いがあるだけに、いや増して焦りが募る。英介は本題を打ち明けた。
「逃げましょう。そのために我々は戻ってきたのです」
「何処へ?」
まるで他人事のような受け止めにはなす術がない。しかも、逃げることばかりで、行先まで思い至っていなかった。英介は言葉に詰まった。そこへ恭子が助け舟を出した。
「何処へでも構いません。戦争のない場所へ行きましょう。それもいつまでもというわけではありません。いずれ戦渦は収まります。それがどちらの勝利になるのかわかりませんが、或いは停戦の可能性もあります。過去に何度もその事例はあります。また仮にカニ国が負けたとしても、カニ国民がいなくなるわけではありません。蜂国や猿国の占領下に置かれるのは辛いでしょうが、生き抜くことが最善の策です。どうか生きて下さい」
最後は涙声になった。自分の過去を重ねたのだろう。死んだ父親への思いが込み上げてきたに違いない。恭子は俯き両手で顔を被って嗚咽した。
「そうですか……」
恭子の訴えは老人にも通じたようだった。彼女を見つめる目にうっすらと涙が浮かんだ。
「そうだ」
ふいに恭子が顔を上げて言った。
「月に行きましょう」
「月に?」
老人は小首をかしげた。意味不明という表情だ。英介と良太も驚き顔だ。
「月に人類がいるんです」
「人類?」
「私たちは今、その人類が作った宇宙船にいます。それは月から来たものなのです」
「どうもあなたの言っていることは突拍子もなくて、この老人にはなにがないやら」
「そうですね」
恭子はニコリと笑って、元雄たちのことを老人に伝えた。
「そうだったのですか。それは興味深い」
老人はこれまでにない別の顔を見せた。嘗て大学で教鞭を執っていた頃の情熱が蘇ったようだ。研究者の顔だった。
「是非ともその人類に会ってみたいものだ」
「はい。勿論です。ですから、私たちと一緒に行きましょう」
「わかった。わしにもまだやりたいことがあったというわけだ」
そう言って、いつもの朗々とした笑いを見せた。
三人はそのまま居残って翠の帰りを待った。彼女を説得しなければならない。或いは、彼女の方が老人より難航するかもしれなかった。頑なな女性だった。アスカル一号機に核を仕掛けたと英介が言って避難を促したときも拒んだ。新鮮な水に浸からないと生きていけないカニ国人の宿命を訴えて、応じようとはしなかったのだ。ひっ迫する戦況を思えば彼女が勤める内務省まで押しかけてでも説得したいところだが、それがむしろ彼女を構えさせることになりはしないかという懸念があった。そうなれば、老人を一人月へ行かせて、自分は残ると言い出しかねない。彼女にはそんな頑固さがあると英介は思っていた。だが、今度は老人という追い風がある。ここは待って、老人同席での説得が最善の方法だと判断したのだ。
夕刻になって待ち人は帰ってきた。リビングに揃う三人を見て、翠は絶句したように立ち尽くした。老人も三人の来訪を告げていなかったのだ。彼女からすれば思わぬ来客に驚いた。いや、もう会うことのない相手と再会できた、その喜びと戸惑いが交差した表情に見えた。
「翠。ここへ来て、座りなさい」
珍しく老人が厳格な声で孫娘に呼びかけた。老人も彼女を説得する気なのだ。英介は力強い味方を得たと思った。
「でも、荷物が……夕食の準備もあります」
「そんなことはいい」
去りかけた孫娘を老人は強い口調で引き留めた。
「いいから、ここへ座りなさい」
頷いて孫娘は老人の隣に腰かけた。
「お前にこの方たちから大切な話があるのだ」
「なんでしょう」
翠は三人を見つめた。その目が既に拒絶を訴えている。英介は躊躇いを覚えたが、ここで諦めるわけにはいかない。意を決して切り出した。
「あなたなら猿国と蜂国が連動してカニ国に戦争をしかけてきたことはご存知だと思います」
それに翠は頷いた。
「カニ国はある程度は持ち堪えるでしょう。しかし、時間の問題です。両国を相手にして押し返す力はカニ国にはありません。無論、同盟国である石臼国や牛の糞国からの援助も期待されますが、蜂国は用意周到に準備を進めてきたと思われます。もう一つの同盟国栗国は蜂国と共同関係にあります。まだ表立った動きを見せてはいませんが、必ず参戦してきます。蜂国の後方支援として。或いは既に牛の糞国への牽制に動いているかもしれません。栗国と牛の糞国とは長年に渡る因縁がありますからね。最後に残った石臼国は卑怯にも静観を決め込んだようです。その証拠に、蜂国のカニ国への侵攻は石臼国を通過しなければなりませんが、何の抵抗も受けず蜂国軍はカニ国の国境線まで辿り着いています。強い信頼関係も時間の経過とともに崩れていくことは否めません」
英介は元雄がかき集めた情報を基に自分なりの分析も交えて翠に伝えた。それに翠はじっと聞き入っている。彼女なりに状況を整理しているのだろう。
「この戦争はいずれ国境そのものを消滅させてしまうでしょう。何処が敵で、何処が味方なのかわからない、互いが疑心暗鬼に陥る最悪の事態となります。今まで危うい均衡を保っていたのですが、ついにそれが失われてしまったのです」
そこまで話して、英介は翠を見つめた。彼女の反応を確認したかったのだ。一方、翠は冷静さを崩さずにいた。英介の説明は彼女も承知の事だったのかもしれない。そして、それまでじっと無言でいた翠が口を開いた。
「それで、みなさんは私たちにどうしろとおっしゃりたいのですか?」
それは既に英介たちの言い分を察しているような言い方だった。やはり難しい女性だった。これまでの英介ならここで諦めてしまったかもしれない。しかし、今は違った。強い想いがあるのだ。それを英介は確信した。翠を愛している。愛する人を死なせたくない。必ず自分の力で助ける。
「私はあなたに、男は正義のために戦うと話しましたが、撤回します。男は、守るべき人のために戦うのです。私はあなたを守りたい。だから、……私たちと一緒に行きましょう」
英介は翠から目を離さず思いを込めてゆっくりと伝えた。英介は今体の芯から湧き上がる心の波動を感じていた。それはあたかももう一人の自分となって翠を包み込んでいく。それを翠も受け止めていた。彼の温もりが、優しさが彼女の心に沁み込んでいく。彼女のすべてが彼で満たされていく。二人だけであったなら、きっと互いに手を差し出し、しっかりと握り締めたことだろう。
「……」
沈黙する翠の頬を一筋の涙が流れた。それは拒絶ではなく、言葉以上に、声以上に、彼女の想いを愛する男に届ける意思表示だった。
「翠。わしは行くと決めた。いいな。わしと一緒に行こう」
老人が孫娘の手を取った。老人は泣いていた。老人も孫娘の想いに気付いたようだ。
「……はい」
小さく答えて翠は頭を下げた。彼女の肩が震えている。彼女も泣いているのだ。
英介は大きく息を吐き出した。緊張の糸が解けていく。気づくと、しっかり膝を握り締めていた手に冷たいものを感じた。涙だ。それは英介の目からこぼれ落ちた涙だった。
良太ももらい泣きしていた。しかし、恭子だけは複雑な心境だった。知ってしまったのだ。英介と翠の心の交流を。そして、自分の内部に出来た深い傷を。恭子もまた英介を愛していた。その想いを知らされ、と同時に失うこととなった深い悲しみを。今、恭子は噛みしめていた。
慌ただしい準備を終えて、老人と翠を含めた五人は家を出た。目指すは浄水管理センター。アスカル一号機があった場所だ。そこまで行けば、元雄が迎えに来てくれる。スカイライダーと小型機では五人を乗せることは無理だ。翠の運転する車に皆が乗り込んだ。犬のポン太までが老人の膝に収まっている。車は愛着ある家との名残を惜しむようにゆっくりと発進した。
車は管理センターのかなり手前で停まった。遠くにその門が見える。無人で無警戒だったはずの管理センターに人の動きが見られた。警察による警戒線が張られているのだ。何があったのだろう。残してきたスカイライダーと小型機は公園の林に隠してある。ひと気のない公園だ。目撃者はいなかったはずなのだが。
「ちょっとまずい状況ね」
後部座席から身を乗り出して恭子は眺めた。元雄と約束した時間が迫っている。それまでに公園に到着しなければならない。恭子はすぐに決断した。
「突っ切るしかないでしょう。英介。翠さんと運転を替わって。翠さんとお爺さんは危ないですから、こちらに来て下さい」
恭子の指示で、英介が運転席に、翠と老人が後部座席に移った。そして、恭子が助手席。良太がその後ろの座席だ。
「いい? よく聞いて。英介は猛スピードで走らせて門を突っ切るのよ。そして、中に突入したら、私と良太を降ろして」
「え?」
英介は恭子を振り向いた。
「宇宙船へ収容されるときはまったく無防備になるのよ。良太と二人で敵を引きつけるから、その間に英介は小型機がある場所まで車を走らせて。元雄さんが拾ってくれるわ」
「そんな。だったら、俺も行くよ」
「車の運転はどうするのよ。翠さんには悪いけど、お嬢様運転している場合じゃないのよ」
「でも」
「お願いっ!」
恭子の目に涙が溢れていた。
「翠さんを、お爺さんを守ってあげてちょうだい」
「……」
「英介。大丈夫さ。相手は警官だ。派手な打ち合いにはならないよ。敵をまいたら、別の場所で俺たちも合流するよ」
良太が後ろから明るく声をかけた。
「絶対だな。絶対来るんだぞ!」
英介は声を詰まらせた。
「良太! 俺の銃も持って行け!」
「おう」
良太は英介から銃を受け取り敬礼した。
急発進して車は猛スピードで管理センターの門に突っ込んだ。そして、中に突入してしばらく行くと、急停止して、また奥へ走り去った。車の走り去ったあとには、恭子と良太が残った。逃げる車を追いかけて警察のバイクが二人に迫った。それを恭子は正確な射撃で仕留めた。
「ホーッ!」
良太が歓声を上げた。
「無駄撃ちはしないようにね」
「わかってるよ。俺の腕前を見せてやるさ」
「ねえ」
「なんだ?」
敵が二人に近づきつつあった。
「どうして私はあんたを選ばなかったんだろうね。今気づいたよ。あんたの良さが」
「バッキャロー。今言うセリフかよ!」
それでも良太は嬉しかった。
英介が運転する車は小型機を隠した林まで辿り着いた。まだ宇宙船の機影はなかったが、しばらく待つと温かい光に包まれた。車ごと持ち上がる。宇宙船に吸い込まれているのだ。船内に入ると、英介は翠と老人を伴って操縦席へ急いだ。恭子と良太が気になる。
「恭子と良太はどうなってますか!」
「え? 一緒じゃないの?」
「敵を引きつけると言って、二人残ったんです。門を。門の辺りを探して下さい」
すぐモニターに門の付近が映し出された。しかし、誰もいない。元雄はそこを中心に視野を拡大した。すると十二画面の左側に何人かの人影が見えた。すぐにそこを拡大する。
「どうやら恭子君のようだ。木陰に隠れてはっきりとは見えないが」
「良太は。良太はどうですか?」
また視野を広げて、十二画面の一つ一つを拡大しながら確認していく。やがて恭子を見つけた場所より少し離れたところに良太の姿があった。それは地面に横たわっているようだった。
「良太君だ」
元雄が沈んだ声で言った。英介は愕然と崩れた。悲嘆のあまり床に自分の額を打ち付ける。その額が割れて床に血が落ちた。
「笑っているようだよ。彼らしい」
元雄の声に英介が見上げると、確かに良太は笑い顔だった。それがせめてもの救いだ。みなが見つめるズームアップされた良太の笑い顔に英介の嗚咽が重なった。
その少し前。良太と恭子は敵の攻撃を受けて、散っていた。もともと公園という場所で身を隠すものが少ない。それでも恭子は木陰に駆け込めたが、良太は芝生に這いつくばるしかなかった。その姿勢で良太は確実に敵を斃した。流石に空軍ナンバーワンの射撃の名手だ。しかし、どういうわけか、敵は良太ばかりを狙ってきた。良太は腹ばいの姿勢で的は小さくなり命中率は低くなるが、それでも肩や足を掠めた。恭子が援護射撃をするが、多勢に無勢だ。しかも、二人の手持ちの弾丸も底をつき始めた。
「あいつら警官じゃないわ!」
恭子が良太に叫んだ。
「そうだな! やけにあか抜けてやがる!」
良太も叫んで返した。
「恭子! 逃げろ! どうやらあいつらは俺が好きなようだ!」
「バカ言わないで! 置いて行けるわけないじゃない! 英介に叱られるわ!」
「英介か。あいつはいいやつだ」
そう言って笑った良太の頭に弾丸が当たった。
「良太⁉ 良太ーっ‼」
「俺、行きます。降ろして下さい」
英介は操縦室を出て行こうとした。それを元雄が先回りして引き留めた。
「君も同じことになるぞ!」
「放っておけと言うんですか!」
「そうじゃない。いたずらに犠牲を増やすなと言っている!」
元雄は声を荒げた。
「ここで君までも死なせたら、彼らの行動が無駄になる。我慢しろ!」
「なら、恭子だけでも吸い上げて下さい。助けられるんでしょ?」
英介は涙ながらに訴えた。
「今は無理だ。吸い上げれば、それこそ敵のターゲットにされる。狙い撃ちだ」
元雄も苦渋に俯いた。
恭子は弾を撃ち尽くしていた。良太が斃れたとわかったのか、いつの間にか敵の攻撃が止んでいた。恭子は様子を窺いながら、良太の元へ走った。その行動に対しても敵の狙撃はなかった。良太の体に駆け寄ると、顔を空に向けていた。その額に弾丸の貫通した痕があった。恭子は良太の両瞼を閉じ、両膝ついて合掌した。不思議と涙は出なかった。自分もすぐに後を追うという覚悟があるからだ。そこへ意外な人物が近づいてきた。見上げる恭子。
「京極……」
「不思議な縁だ。君が私の命を繋ぎとめる存在になるとはね」
恭子は良太の手から銃をつかみ取って引き金を引いたが、空撃ちだった。彼女は力なくその場にしゃがみ込んだ。その手が良太の胸ポケットに触れた。
「同行をお願いできるかな」
京極の合図で二人の部下が恭子の肩を担いだ。
「英介さん。恭子さんが」
翠の声に英介と元雄はモニターに戻った。
「京極……」
画面は連行されていく恭子の様子を映し出していた。
ハチュードは石臼国大統領ウストフと面会していた。石臼国の大統領執務室だ。
「本当にこのままでいいのだな」
「はい。大統領。貴国には酷な風評も立つかとは思いますが、今しばらくのご辛抱を願います。蜂国の動員がもっと増えなければ、我々の策はなりません。蜂国自体が手薄になってくれなければ」
「さらに動員があると言うのかね」
「はい。姉の性格ならきっと一気に押し潰す作戦に出て来ます。もう少しです」
ハチュードには確信があった。いや、むしろそう信じていなければ、重圧で自分自身が潰れてしまいそうだった。
そして、その翌日。ハチュードの元に朗報が届く。蜂国が全軍を投入したとの一報だった。女王自らが率いているらしい。自信家の姉がやりそうなことだ。それを受けて、早速ハチュードは待機している弟たちへ指示を送った。首都ハチワードを制圧せよ。
「エドガー。あなた牛の糞国との戦線を放ってきて大丈夫なの?」
ハチルダは女王専用機のソファーにもたれて喉にワインを流し込んだ。戦争へ行くという雰囲気ではまったくない。まるで旅行のようだ。
「戦線とは名ばかり。幾日もにらめっこでは飽きてしまいます。こちらの方が面白そうだ」
エドガーもハチルダの隣に座ってグラスを傾けた。
「攻め込まれないでしょうねえ」
「ご心配は無用です。牛の糞国はカニ国への義理立て程度に軍を動かしたに過ぎません。本体はまだ眠ったままだ。場合によっては、栗国軍の半分をこちらへ回そうかと思っています。今回はその下見も兼ねております」
「そんな時間はなくてよ。私が出てきたのですもの。一気に制圧してしまうわ」
「それは頼もしい。とくとお手並みを拝見させて頂きます」
二人はグラスを合わせた。
「それにしてもカニ国はよく踏ん張っている」
エドガーは窓越しに外を見つめた。間もなくカニ国の国境に近づきつつある。蜂国軍はその国境線から中へ侵攻できずにいた。カニ国の反攻もさりながら、石臼国が静観する代わりに自国内に蜂国軍の駐屯を認めていないことも大きく影響していた。燃料や物資の補給に蜂国軍は都度本国へ戻らなければならない。それが戦況の進展に影を落としていた。その膠着状態を打開すべくハチルダが総攻撃を命じたのだ。だが、結果的にそれが彼女の命運を分けた。
「申し上げます。只今、本国より打電がありました」
兵士が差し出した書面に目をやるハチルダ。そして、その直後、手に持っていたグラスを落とした。ワインが床の絨毯に飛び散った。
「どうしました?」
心配するエドガーにハチルダは書面を乱暴に渡して、立ち上がった。目に怒りがあった。
「クーデターよ。誰かが私を裏切ったのよ!」
「クーデター?」
エドガーは書面に目を落とす。
「誰? いったい誰がっ!」
ヒステリックに叫ぶハチルダ。それをエドガーはなだめた。
「落ち着いて。そんなに大したことではないでしょう。留守部隊がすぐに鎮圧してくれます。なんなら栗国から援軍を送りましょう」
「そうしてちょうだい。早く、早く援軍を」
すっかり取り乱したハチルダは苛々と歩き回る。
「いったい誰が。いったい誰……ハチュード。ハチュードだわ」
「ハチュード? 弟君が? 彼は石臼国に亡命したんじゃ? 蜂国に舞い戻ったというの?」
「最近不審な行動をしていたわ」
「だからといって、彼に何ができるって言うの? 蜂国では男に王位継承権はないのだよ。君の留守中に占拠したとしても、国民が納得しなくては、彼の政権は成立しない。まして君がカニ国との勝利で凱旋すれば、たちまち彼は逃げ出すに決まっている。まずは当面の敵カニ国を倒すことに集中すればいいさ。念のため、援軍は今日にでも差し向けておくよ」
「お願い。そうして。お願い、エドガー」
ハチルダはエドガーに泣きついた。
だが、エドガーの指示した蜂国救援を何より牛の糞国は待ち望んでいたのだ。栗国軍の国境線からの一部離脱を確認すると、これまで無気力を装っていた牛の糞国軍が総動員して栗国へ攻め込んだ。平穏な前線に油断していた栗国軍は一気に総崩れとなった。蜂国支援どころではない。下手をすれば、牛の糞国に栗国が占領されてしまうおそれがある。戦況は急変した。その間、蜂国の首都ハチワードはハチュードたちに占拠された。ほとんど無血に近いクーデターだった。
一方で、ハチルダは孤立した。首都をハチュードたちクーデター軍に占拠されたばかりか、栗国の援助も期待できず、しかもここにきて、沈黙していた石臼国がカニ国支援を打ち出してカニ国との国境線まで押し出してきたのである。ハチルダは「卑怯者!」と叫んだが、事既に遅しであった。蜂国軍は混乱した。前に進もうにもそこには息を吹き返したカニ国軍が待ち構え、引き下がるには石臼国が迎撃態勢を整えている。それに加え、クーデターによる首都喪失は蜂国兵士の気力を著しく失墜させた。まるで逃亡者のような心境になるのだ。結果的に精神的に踏ん張りが利かなくなり、脆さを露呈した。行き場を失って迷走を続ける蜂国軍は苦肉の策で猿国へ助けを求めた。その時既に蜂国軍の勢力は当初の半数以下と惨憺たるものだった。そのほとんどが軍からの脱落者であることを思えば、ハチルダに与えた衝撃は敗戦のそれ以上であっただろう。そして、エドガーも憔悴していた。今回の思わぬ敗戦もあるが、それに加え祖国を追われる身となったのである。牛の糞国による侵攻は何とか食い止めたが、敗走に至った原因をすべてエドガーになすり付け、彼は栗国宰相を罷免されたのだ。しかも、エドガー追捕の発令まで出る始末。その背景には、栗国内でくすぶっていた反エドガー勢力の台頭が大きく関わっている。この僅か数日の激動で、ハチルダとエドガーは疑いない勝利のみならず、祖国までも失ってしまったのである。
「これはこれは、蜂国と栗国の要人を同時にお迎えできるとは、この国始まって以来の珍事、いや、慶事にございますな」
最高司令官野間は皮肉を込めた目で二人を見やった。ここは猿国のセンタービル最上階にある会議室だ。大統領官邸ではないところに、ハチルダとエドガーに対する猿国の扱いが透けて見える。
「ハチルダ女王とはお約束がありますからな。共に宿敵カニ国を打倒し、この世界に楽土を作り上げていこうというお言葉、この野間はしかと覚えておりますぞ。そんなに肩を落とされずに、ここは我が国にお任せあれ。悪いようにはしませんぞ。キッキッキ」
野間の励ましにハチルダとエドガーは下げたくない頭を下げるしかなかった。野間の腹は読めている。自分たちを利用するだけ利用して、蜂国軍を最前線で使うつもりだろう。自分たちはその旗頭、いや、体のいい人質だ。それはわかっている。だが、今の状況ではそれも甘んじて受け入れるしかなかった。生きていることがいつかは活路につながる。その一縷の望みに二人は託すしかなかったのだ。
野間は値踏みするように二人を見つめていた。厄介なお荷物ではあるが、使い様はある。己が野望を果たすには格好の手駒だと考えた。それにハチルダの美貌は男として垂涎ものだ。片割れの男は事が成れば葬ってしまえばいい。二人に男女の関係があることは知っている。今のうちに睦まじくしておればいい。男なしではいられない女にしておいてくれよ。キッキッキ。
「お二人をⅤⅠPルームにご案内しろ。くれぐれも粗相のないように」
野間は部下に命じて二人を見送った。そして、控えている空軍少将の佐竹を手近に呼びつけた。
「収容した蜂国の兵士を最前線に回せ。女王の身柄を預かっている。ハチルダ女王の復権を大義名分にすれば、さぞかし命がけで働いてくれるだろう」
「命からがら逃げてきたばかりでまだ使い物にはならないかと思いますが」
「構わん。どうせ捨て駒だ。それに後がないとわかっている者は必死で敵に立ち向かう。死に物狂いの相手ほど手ごわいものはない。カニ国も手こずるはずだ」
「はっ。承知いたしました」
佐竹は野間に敬礼して出口へ歩いた。その背中に野間はこう付け加えた。
「ハチルダとエドガーの二人には監視をつけろ。逃がしては元も子もないからな」
「はっ。畏まりました」
佐竹は振り返り再度敬礼すると出ていった。
恭子は猿国の大統領官邸にある一室にいた。意外な展開だ。なぜ京極が猿国とつながりがあるのか。元々猿国のスパイだったのか。それは考えにくい。あれほど自分たちを追い詰めたのだ。如何に密命を帯びていたとしても、あそこまではしないだろう。ならば、途中で寝返ったのか。それはあり得るかもしれない。カニ国の存亡に危機感を抱き、見限ったのだ。京極らしい変わり身の早さだ。その京極も今はいない。どころか、この部屋に自分一人だけなのだ。監視する兵士も姿はなかった。おそらく部屋の外では見張っているのだろうが。恭子は辺りを見回した。目の前のデスクといい、部屋全体の内装は勿論、壁際にある本棚やブランデーを収めているサイドボードに至るまで、高級感に溢れている。少なくとも上級官僚が使う部屋には違いない。大統領官邸ということを思えば、かなりの要人の部屋だろう。
「まさか大統領が私に会うの?」
恭子は呟いて苦笑し自分の思いつきを否定した。本当にまさかだ。そこへドアが開いた。自分が入ってきたときとは反対側のドアだ。そして、入ってきたのは中年の男一人だった。他に従う者はない。部屋には恭子と男の二人きりとなった。男は入ってきてからデスクに座るまで恭子から視線を逸らさなかった。その表情は硬い中にも目には優しさが浮かんでいた。その顔を恭子は見つめながらどこか見覚えがあるように思えた。誰だ?
じっと二人見つめ合う内に、恭子は驚愕の表情に変わった。そして、ようやく男が口を開いた。
「久しぶりだな。恭子。すっかり大人になった」
「パパ? パパなの?」
それに男は黙って頷いた。瞳に光るものが見えた。
「どうして? どうしてなの?」
恭子は戸惑いを隠せない。父が生きていたこと。生きていながら、家族にそれを伝えてこなかったこと。何もかもが信じられない。果たしてこれは現実なのか。或いは、本当の自分は良太と共に撃ち殺されて、この父との再会は冥府でのことではないか。
「お前が戸惑うのも仕方ない。すぐには信じられないだろう。だが、パパはこうして生きている。すまない。ママにも……」
そう言いかけて父は言葉を詰まらせた。
「どうしてなの! どうして一言も告げてはくれなかったの!」
恭子はわっと泣き伏した。これまでの自分はなんだったのか。父の仇を果たすために生きてきた自分の人生は!
「パパは処刑の直前にある人に助けられたのだ。その人との約束でパパの存在は公には抹消された。家族にも打ち明けるわけにはいかなかった。許して欲しい」
父は娘に深く頭を下げた。
「しかし、ようやくそれも許された。だからこうしてお前と会うことができるようになったのだ」
「ママがいったいどんな思いでパパの帰りを待ちわびていたと思うの! パパの処刑が伝えられたときも、そんな紙切れ一枚なんて信じないって、破り捨てたのよ!」
「すまない。本当にすまないと思っている。どうかもうそれ以上パパを責めないでおくれ」
恭子は父を見つめ返した。どう父を責めたところで過去は取り戻せない。それより一刻も早く父の無事を母に伝えて上げたい。恭子の想いはそれに変わりつつあった。
「帰りましょう。ママが待っているわ」
それに父は苦渋の顔で首を横に振った。
「まだ帰れない」
「どうして? 私に会うことは許されたんでしょ? ママにだって」
「まだ研究が完成していないんだ。もう少しなんだ。完成すれば、いやでもお前たちの元へ帰ることができる」
「研究? パパはあの研究を続けていたの?」
「そうだ。恭子」
父は顔を輝かせた。
「着いてきなさい。お前に見せてあげよう」
そう言って父は立ち上がった。
恭子を案内したのは大統領官邸の地下だった。そこに父の研究室があった。物々しい警戒があるのかと思いきや、セキュリティーは父が持つICカード一枚だけだった。大統領官邸そのものが厳重警戒下にあるのだから、それ以上の警備は不要なのだろう。研究室の広い空間にいろいろな機器が処狭しと並んでいた。その中に大きな水槽が幾つもある。水溶液を溜めたその水槽には水疱が立ち込めていて、中に何があるのかすぐには見えなかった。しかし、しばらく歩く内に、その一つに水疱のない水槽があった。それに気づいて恭子はぎょっと立ち止まった。その中には全裸の女が入っていたからだ。それは死んでいるのか、目を閉じた状態で水槽の中に漂っていた。
「人体実験をしているの⁉」
聞いた恭子の唇が震えた。まさか父がこんな実験に携わっているとは信じたくない。しかし……。
「ああ。この水槽の中にはあらゆる人種が収められている。猿国人もいれば、カニ国人に栗国人。すべてが揃っているんだ」
にこやかに話す父に恭子は思わず狂気を感じた。こんな人体実験をしながら平気でいる父ではなかったはずだ。研究に没頭するあまり、父は人としての理性を失ってしまったのだ。この人はもう私の父ではない。本当の父は既に死んでいたのだ。
「これだけのサンプルを用意できたお陰でパパの研究は飛躍的に進んだんだ。パパを助けてくれた人がいたとさっき言っただろう。それは現大統領なのさ。彼が当時カニ国に大使として赴任していて、カニ国と取引した結果、パパは釈放されたのさ。その取引がどんなものだったのか知らないけど、その後は彼が大統領に就任して、パパの研究を後押ししてくれるようになったんだ。何から何までパパにとっては恩人だ。彼の期待を裏切るわけにはいかないのだよ」
狂っている。言う言葉はまともに聞こえるが、父の眼差しは水槽を前にして常人のものではない。恭子は深い悲しみに包まれた。折角巡り会えたというのに、どうしてこんなことに……。
恭子はこの場を早く立ち去りたかった。こんな父の姿を見せつけられるのは辛い。しかし、父が次に紹介したものを目の当たりにして、恭子はまた不審の眼差しを向けた。
「見てくれ。これが源生回帰装置だ。だが、まだ開発段階でね。上手くコントロールができないんだ。もしこれを間違って動作させてしまうと、世界中が大昔に戻ってしまう。猿国人は猿に、カニ国人は蟹に戻ってしまうんだよ。だけど、開発第一号なので記念に残しているのだけどね。あれ? おかしいなあ。もう一つはどこだ?」
父は周囲を探し始めた。
「おかしいなあ。どこに置いたんだろう……」
父は盛んに首を傾げている。その横で恭子はその手のひらサイズの四角い金属製のものを凝視していた。これは自分が持っているあの核に違いない。あれは核ではなかったの? なぜ? 猿国軍本部はあれを核だと思い込んでいたの? 呆れた。もし私が作動させていたら大変なことになっていたじゃない。今頃私たちは猿になっていたわ。彼女の額に妙な汗が滲んだ。
ひと通りの説明を終えると満足したのか、父は元居た自分の部屋へ恭子と戻った。装置が紛失していることなどもう忘れてしまったような顔だ。やはり父は常軌を逸している。恭子は改めて確信した。そして考えていた。この父のことを母には伝えたくない。こんな研究をしていた父のことなど母に言えるわけがない。きっと母も認めないだろう。しかし、研究が完成すれば、父は母の元へ、自分たちの元へ戻ってくる。どうしよう。いっそ研究そのものを中止させることができれば。でも、それで父が昔の父に戻ってくれるのだろうか。それはもう叶わないような気がする。もう父は元には戻れない。あの優しかった父には。そこへ一人の男が二人の護衛を引き連れて部屋に入ってきた。見たことがある。猿国の大統領猿渡だ。
「やあ、澤田君。それが君自慢の娘さんかね。確か恭子さん。延田恭子さんでしたね」
恭子の氏名を口にしながら、猿渡は首を傾げた。苗字が親子で違うのだ。
「延田は母方の苗字です。あの当時父は汚名を着せられて、それで母が旧姓を名乗って、以後私も延田となりました」
「そうでしたか」
猿渡は納得の頷きをした。
「ところで延田さん。いや、ここでは恭子さんと呼ぼう。あなたの活躍は野間君から聞いております。カニ国に対し見事な攪乱行動をしてくれたとか。そのお陰で二人の捕虜を解放に導いてくれた。いずれ褒賞をと考えておりますので、しばらくお待ち下さい」
猿渡は相好を崩して恭子に握手を求めた。所詮、大統領と雖も人気が頼りだ。恭子を捕虜兵を救った英雄にでも仕立て上げて、それを評価する自分の株を上げようというのだろう。大統領選も近いと聞く。差し出された手を恭子は微笑んで握り返した。拒んだところで何の利益もない。
「澤田君。その後はどうかね」
恭子の手を離して猿渡は父に話を向けた。
「今少し時間を」
「そうか。期待しているからね」
そう言い残して、猿渡は部屋を出ていった。まるで父への質問は付け足しのようだった。大統領選に間に合わない研究の進捗に彼の興味は失われているのか。むしろ、目的は恭子に会いにきただけのようだ。自分が評価する相手を確かめにきたのだろう。
猿渡の辞去に合わせて恭子も父の元を去った。連行されてきた者が勝手に出ていっていいものか懸念が残ったが、官邸を出る彼女を引き留める者は誰もなかった。唯一父が名残惜しそうな顔をしただけだ。不思議な国だ。恭子はつくづくそう思った。大統領と軍部を中心にピラミッド組織は出来上がっている。その機構も完成度は高い。なのに何処か抜けている。しっかり組まれた骨組みがありながら、それを支えている土台がスカスカでまるで笊のようだ。いくらでも情報や指示命令がこぼれ落ちていく。統制も秩序もあるようで、しかし肝心なところが曖昧な社会だ。誰もが自分勝手に生きているような気がする。それは猿ゆえの民族性なのか。
京子の足取りは重かった。父のこと。死んだ良太のこと。まるでずっと悪夢の中にいるようだ。夢なら早く覚めてほしい。そのときふと英介の顔が浮かんだ。英介に会いたい。会って、彼の胸に抱かれて思い切り泣きたい。だが、それは願っても叶わない。彼には翠という存在がある。恭子は近くにあった公園のベンチに座り、一人泣いた。
蜂国軍の残党を先鋒に据えた猿国軍は迎え撃つカニ国石臼国連合軍が集結するカニ国領のカニキアへ侵攻した。長期戦に難点があるカニ国が石臼国と連携して戦力を一箇所にまとめ、猿国との雌雄を一気に決めようとしてのことだ。それは猿国としても望むところで、両陣営陸空の総力がこの小さな都市の高原地帯で対峙した。一方、栗国と牛の糞国は再び国境線での睨み合いが始まっていた。両者とも総攻撃の気運が高まりつつある。奇しくもこの同日に世界の趨勢を占う決戦の火ぶたが切って落とされたのである。
どちらの戦いも死闘を極めた。ハチルダ女王復権を願う蜂国兵には後がない。負ければいよいよ帰る場所がなくなるのだ。一方で、猿国にすれば自国を取り囲む勢力の打破は積年の悲願だ。カニ国石臼国はそれを知っているだけに譲れない。敗戦は即ち猿国に隷属することになるのだ。また、牛の糞国は陰湿な恨みが栗国にある。栗国としても牛の糞国占領下に置かれることは死以上に耐えられない。そうした引き下がれない感情渦巻く戦場で容赦ない殺戮は続いた。
沈痛な表情のときが多くなっていた。英介は自分を責めてばかりいた。良太と恭子だけを行かせるべきではなかったと。すべて自分の責任だ。自分さえ翠を助けに行きたいと言わなければ。その英介の横にいつも翠が寄り添っていた。彼の手を握りじっと見つめる。今はそれしかできない。しかし、気持ちは必ず伝わる。俯く英介がきっと顔を上げてくれるようになるはずだ。翠はそれだけを信じて彼に寄り添っていた。
そこへ元雄が入ってきた。元雄の顔は輝いていた。
「英介君。恭子君。恭子君から連絡が入った!」
その言葉に英介はキッと顔を上げた。
「本当ですか!」
「彼女から合図の信号が送られてきたんだ。今、その発信元を確認している」
三人は急いで操縦室へ向かった。
「どこだ? わかったか?」
元雄が杉田に聞いた。
「わかった。サルダインの郊外だ」
「サルダイン? 彼女は猿国にいるのか?」
意外だった。カニ国の諜報部大佐京極に捕まったはずなのだ。どうして猿国にいる?
「兎に角。サルダインに向かおう」
宇宙船は猛スピードで湖面から飛び上がった。途中、敵国と間違えた戦闘機が追跡してきたが、振り切った。スピードには自信がある。そして、船はやがてサルダインを目前にした山中にその船体を隠した。
「彼女と通信できるか?」
元雄が英介に聞いた。それに英介は頷き携帯を出した。五六回コールした後相手は出た。
「恭子か?」
「うん」
確かに彼女の声だった。しかし、声に元気がない。
「無事か?」
「うん」
「今、サルダインの近くまで来ている。すぐに向かうから、詳しい場所を教えて」
英介は恭子が言う住所をそのまま杉田に伝えた。杉田がそれを入力すると、船は再び浮き上がり目標を目指した。
恭子が示した場所は陸上競技場だった。今は戦時下にある所為か人ひとりいない。宇宙船を着陸させるには格好の場所だ。念のため周囲に警戒しながら、恭子を船内に迎えた。
「よかった。本当によかった」
元雄がしみじみと言った。瞳が滲んでいる。それに英介たちも頷いたが、みな明るさを失っていた。みな操縦室に落ち着いたが、しかし……。良太がいない。こういう場面では一番に喜んでくれる良太がいないのだ。
「どうして猿国に?」
いるのかと英介は聞いた。京極に連行されていく姿を見たからには、当然カニ国の諜報機関に囚われていると思えた。だから英介たちもあのままカニ国の上沢湖に留まったのだ。
「京極の奴。猿国に寝返ったみたい。それで猿国に連れてこられたの」
「あいつらしい変わり身の早さだ。カニ国が持たないと見たのだろう。だが、カニ国は踏ん張っているよ。逆に蜂国が瓦解してしまった」
「瓦解?」
「女王の弟がクーデターを起こしたんだ。それに連携するように石臼国と牛の糞国がカニ国支援で参戦した。もはや今は六つ巴の戦いになった。世界大戦だよ」
「そうなの……」
恭子の表情は沈みがちだ。良太の死を目の前で見たのだ。それは無理からぬことだ。
「よく無事だった」
「父に会ったわ」
恭子はぽつりと呟いた。それに皆は聞き間違いかと恭子を見つめた。
「生きていたのよ。猿国で」
「よ、よかったじゃないか」
素直に喜んでいない恭子に英介は気が引けた。
「研究を続けていたわ。それも恐ろしい研究。何本もある水槽の中に人が」
恭子は両手で顔を被った。その時の衝撃を思い出して懸命に耐えている。
「父は狂っていたわ。研究に没頭するあまり理性を失くしてしまったのよ」
俯いたままの恭子に英介はかける言葉を思いつかなかった。すると翠が立ち上がって恭子の背中に手を当てた。それに気づいた恭子は翠に小さく微笑んだ。少し落ち着いたようだ。
「ありがとう。もう大丈夫よ。自分なりに気持ちの整理はついているから」
恭子は翠に礼を言って立ち上がり操縦席下から何かを取り出した。あの核だ。いや、本当は……。
「これね。核じゃなかった。本当は源生回帰装置。父が作ったものよ」
恭子が持ち上げた四角い金属性の容器にみな注目した。中でも竹内老人の関心が強い。
「でも場合によっては、核よりも厄介なものだわ。何て言ったって、大昔の姿に帰してしまうって言うから」
そう言いながら、恭子はまた例のごとく掌で転がせた。
「そうか。ついに作り上げてしまったのだな」
老人はじっと装置を見つめた。
「もう世界は終わりかもね。仮にどこが勝ったとしても、世界は死んだも同然よ」
恭子はじっと手に載せた源生回帰装置を見つめた。
「みんなで月に行こう。そこで平穏に暮らそう」
英介は翠の手を取った。それに微笑み返す翠。元雄たちも頷いている。恭子はそんなみんなの顔を一人一人眺めまわした。苦境を共に乗り越えてきた仲間だ。みな愛しい。恭子は決意した。
「私は残るわ」
「え! どうして?」
「やることができたのよ」
「それは君じゃなきゃダメなのかい?」
元雄が聞いた。彼はもう恭子の決心をわかっているようだ。
「私しかできないことよ」
「待っているよ。それが終わるまで」
恭子の心を知らない英介はそう言って微笑んだ。
「先に行ってて。終わったら、連絡するから」
「でも……」
言いかけた英介を元雄が制した。
「これだけは約束してほしい。決して最後まで諦めない。いいね」
「うん」恭子は涙を手の甲で拭い微笑んだ後、元雄に頼んだ。「小型機を貸して頂戴」
小型機がある発着場までみんなで見送った。小型機まで歩きかけた恭子が途中で立ち止まり振り返ると、英介の元へ駆け寄り抱き着いた。そして、彼の首へ手を回し口づけした。
その後、英介から離れた恭子は翠に深々と頭を下げた。
「ごめんね。私、英介が好きだったの。でも、大丈夫よ。彼にはあなたがお似合い。私の気持ちももう晴々としているから。どうぞお幸せに」
恭子はみなに敬礼すると踵を返して小型機へ走った。
「絶対に戻ってくるんだぞ!」
英介が叫んだ。それに恭子はちょっと振り返り答えた。
「心配しないで。二人の結婚式には出るから」
手を振り、恭子は小型機へ乗り込んだ。
センタービルへ向かいながら、恭子の脳裏に母のことが浮かんだが、振り払った。きっと母はわかってくれる。死にに行くわけではないのだ。ちょっと昔にみんなが戻るだけ。猿やカニに文明は似合わないのよ。所詮は猿真似。この戦争だって、戦争ごっこを楽しんでいるんだわ。だけど、それで兵士や関係のない一般市民が巻き添えになるのは耐えられない。昔に帰りましょう。文明も武器も持たなくてよかった昔に。だが、ただ一人。野間だけは許せない。あいつはこの戦争の火付け役に違いないのだ。私をカニ国に送り込んだのもあいつだった。恭子は良太の形見とも言うべき万年筆を握り締めた。あの毒入り万年筆だ。そして、バックには源生回帰装置も入っている。恭子は苦笑した。戦闘行為の中でしか自己表現できない自分に気付いたのだ。
「因果な人生なんだよね」
恭子は小型機を超低空で飛ばした。地面すれすれの飛行だ。レーダーでの探知を回避するためだ。小型機自身の安定機能がなければすぐに地面へ激突するだろう。センタービルの直前で垂直方向へ浮き上がり、今度はビルの壁面すれすれに飛び上がった。下から飛び出す機体に各階にいる人々が驚愕して見送った。中には腰を抜かして動けなくなる者もいる。すぐにビルの中では警戒警報が鳴り響いた。
司令本部は最上階だ。小型機は最上階を通り越すと上空で旋回して、今度は水平に立て直したまま最上階の窓ガラスに突っ込んだ。司令長官室は砕けた窓ガラスや壁材の破片が散乱して濛々とした埃で辺りが白く濁って見えない。埃が収まるまでに恭子は小型機を抜け出て部屋の隅に身を隠した。何人かのうめき声が聞こえる。跳ね飛ばされたか下敷きになっているのか、犠牲者がいるようだ。
「いったい何が起きた!」
野間の声がした。しぶとい男だ。恭子は声のした方へにじり寄った。ふと誰かに足首を掴まれた。振り返るとそこに男が一人倒れて片手で恭子の足を掴んでいる。それは京極だった。彼の体は小型機の下敷きとなっていた。もう助からないだろう。
「君か。つくづく私の人生は君との因縁が深いようだ」
そう言うと京極は掴んでいた恭子の足から手を離した。天井を見上げたまま黙っている。死んだのだろう。恭子は腰をかがめた低い姿勢で前へ進んだ。野間は自分の席にいるはずだ。埃も収まり視界が開けつつあった。野間のデスクを見つけ立ち上がろうとしたとき、恭子の首筋に固いものが当たった。見上げると野間が銃を突き付けていた。
「なぜだ。なぜこんなことをした!」
野間の顔はガラスの破片でも突き刺さったか血だらけだった。左半身も怪我をしていて、足はびっこを引いている。
「あんたの野望のために死ななくていい命が大勢失われていく。あんたは悪魔よ」
恭子は万年筆を握った。
「ほざけ。俺が悪魔かどうかは歴史が決めることだ。英雄と悪魔は紙一重さ。ご先祖様が仕出かしたことにいつまで我々は囚われていなければならんのだ。まったく呪縛のように我らにつきまとって困るのだよ。」
野間は不敵に笑った。そして、笑い終えると、恭子に向けた銃の引き金を引いた。銃声が鳴り響いた。しかし、床に斃れたのは野間だった。恭子が振り向くと、京極が銃を床に置くのが見えた。無言のままに恭子は京極に歩み寄った。
「私としたことがしまったよ。打ち損じた。最後の最後にこんなヘマをするとは」
京極は微笑んだ。明らかに野間を狙って撃ったことはわかっている。恭子を救ったのだ。
「国とは何だ。母国とは何だ」
京極は独り言のように呟いた。
「延田恭子。君に頼みがある。私を楽にして欲しい。止めを刺してくれないか」
京極の見つめる目は寂しそうだった。恭子はそれに黙って頷き、先ほど京極が置いた銃を拾い上げ、引き金を引いた。悲しい銃声が鳴り響いた。
ぐずぐずしてはいられない。恭子はバックから源生回帰装置を取り出し、野間のデスクに置いた。作動ボタンを握り締め、一つ強く頷くと、躊躇なく押した。微かな鳴動が始まり、やがて装置の四隅から光が漏れた。すると、たちまち光は大きく広がり、辺りは眩しい光源に包まれた。あまりの眩しさに恭子は気を失った。放たれる光は留まるところを知らず、センタービルを中心に四方へ延びる。光が広がるにつれその周辺の大気が渦を作った。渦は小さなものが合体して大きくなり、さらに幾つもの巨大な竜巻となる。樹木は根こそぎ持ち上がり、家屋も吹き上げられていく。まるで天に開いた風穴にすべてが吸い込まれていくようだ。暗雲にすっかり覆われ、地上は暗闇に落ちた。時折轟く雷鳴に瞬間明るさを取り戻すが、それは束の間だ。大気が変わろうとしていた。生きようとする者たちにそれは容赦なく迫った。戦場では、地上で戦闘に及ぶ者たちはまだ幸いだが、上空で戦う者たちには悲劇が待っていた。猿国人もカニ国人も蜂国人も石臼国人もすべてが大昔の姿に戻った。猿国人は猿に、カニ国人は蟹に。たちまち戦闘機は墜落した。しかも、彼らは緊急脱出の術さえ知らない。戦闘機と共に落ちていく。すべての戦闘行為が止まった。彼らにとってその意味さえもうわからない。各国にはその由来するものが溢れた。猿国には猿が、カニ国には蟹、蜂国には蜂、石臼国には石臼、栗国には栗、牛の糞国には牛の糞。栗国と牛の糞国との戦闘を想像してもらいたい。突然、その戦場には栗と牛の糞が溢れてしまったのである。如何ともし難い光景ではないか。はたまた猿国センタービルのVIPルームではベッドに一個の栗とその上に止まる一匹の蜂がいた。これはハチルダとエドガーの成れの果てであろうか。
三日三晩大気の異常は続いた。それは世界を変貌させるに充分な時間であった。
猿田火湖の底で嵐が去るのを待っていた宇宙船は周囲の平静を確認すると浮上した。嵐が嘘だったように穏やかな空だが、眼下に現れた街並みは惨憺たる状況だった。まるで廃墟だ。あの嵐はなんだったのだろうか。神の怒りが爆発したとしか思えない。
宇宙船はサルダインに到着した。前方にセンタービルが見える。流石にあのビルは倒壊しなかったようだ。最上階に何か突き刺さっている。拡大するとそれは小型機だった。それを確認して英介は絶句した。恭子がやったに違いない。そうすると彼女はもう……。
英介は船外へ飛び出そうとした。それを元雄が制して、宇宙服の着用を促した。外気がどんなことになっているのかわからないのだ。元雄は恭子が何をしたか知っている。英介は着替えると船外に出た。宇宙船から小型機へ移り、這うようにそれを伝って最上階フロアに下りた。命綱がなければとても辿り着けなかった。フロアに立つと、いきなり京極の遺体と対面した。この男らしくない穏やかな顔をしている。小型機の下敷きになったようだが、それにしては苦しんだ様子がないのは不思議だ。そして、少し先に進むと野間が倒れていた。ここは司令長官室だったんだ。そのデスクの上に見覚えのある四角い箱。源生回帰装置だ。なんだか割れ目があって、作動したような痕跡がある。恭子はこれを動かしたんだ。なら、あの嵐は……。ふと気配を感じて辺りを見回した。気になってデスクの下を覗くと、そこに一匹の猿が横たわっていた。弱っているようだ。英介は直感でわかった。
「恭子。恭子だろ」
猿は少し顔を向けただけで、目を閉じた。英介は大切にその猿を抱きかかえ宇宙船に運んだ。
それから長い歳月が流れた。元雄たちは時折地球に来ては地上の大気を調べて分析した。核並みの汚染で、人が住めるまでにはかなりの時間が必要だと思われた。元雄の提案で、英介と翠は冬眠カプセルでその時を待つことにした。月での生活も選択肢にあったが、翠が地球への帰還を強く希望したのだ。一方、竹内老人は今更とカプセルを断わり、むしろ月への移住を希望した。彼には人類研究という新たな生きがいが待っている。老人と孫娘はそこで永遠の別れとなった。
持ち主を失った文明の遺物はすべて崩壊し、数度の地殻変動によって地中深く埋まった。その跡には草原が広がり、山々が隆起した。新たな大地はまた新たな生命を育む。歴史は繰り返されるのだ。
千年後、その大地に一機の宇宙船が降り立った。座標によれば嘗てここは猿国の首都サルダインが存在した場所だ。だが今はすべての建造物は見る影もなく、見渡す限り山と草地になっている。宇宙船の船底からタラップが延び、そこを三人が歩いてきた。それは、英介に翠、そして、猿になった恭子だ。彼らの前に大勢の者が跪いている。それは猿よりも知能を持ち、後に人類と呼ばれる種族である。彼らは起源を嘗ての猿国人に持つ。源生回帰装置により人から猿へと回帰した彼らの遺伝子には一度は文明を受け継いだ履歴が書き込まれている。下地を持つ彼らが急速な進化を遂げたことは言うまでもない。そして、短絡的で軽率極まりなくしかも喧嘩好きな性格も引き継いでいる。三人はその人類に知恵と道具を与え、再び大いなる文明への礎を築くことになる。彼らは後にこう言い伝えられることになる。全知全能なる神と。
了