第2部
二人が正門に入ると、後ろからトラックが二人を追い越して、管理センタービルの裏側に回り込んで行った。弁当屋のトラックだ。それを確認しながら、二人はロビーの扉を押し開ける。そこから守衛室の様子は窺い知れないが、きっとトラックから弁当を下ろしている最中だろう。トラックの一部が僅かに窓越しに見える。後ろを振り向くと、正門からこのロビーまで、まだ他に一人の来訪者もなかった。二人は自然な立ち居振る舞いでロビーを歩き回り、次第に守衛室寄りに行動半径を絞って行った。
ジリジリと時間が過ぎて行く。世間話でも始めたのか、一向にトラックの立ち去る気配がないのだ。時計を見ると10時10分前。守衛二人を眠らせて、それから、縛り、控え室に軟禁するまでを思うと、もう限界だった。こうなったら、弁当屋も併せて襲うしかない。良太も英介の意図を察して頷いた。二人は守衛室に走った。すると、飛び込む直前でトラックがけたたましいエンジン音と共に走り去っていった。よしっ! 二人はドアを蹴破り、守衛室に乱入した。突然の出来事に呆然とする守衛たち。その隙を突いて、二人はそれぞれ一発で相手を気絶させた。ハイタッチで喜び合う二人。しかし、無駄な時間はない。ガムテープで口を塞ぎ、ロープできつく両手と両足を縛り上げた。控え室のドアを開け、それぞれ一人の守衛を持ち上げ、運び込む。だが、これが意外に重量があってひと苦労だ。全身の力が抜けた体ほど扱い難いものはない。それをようやく片付けて、見上げた部屋の時計は10時2分前だった。額の汗を手で拭い、安堵の息を吐く。荷物専用エレベーターのボタンを押し、二人は開いたエレベーターに背中から乗り込んで座った。
一方、恭子は朝から時計ばかり気にしていた。マスクは予告通り出勤してはいない。それだけに、今日必ず成功させたい。その気持ちが焦りとなって時計へと目を向けさせるのだ。そして、10時1分前。荷物専用エレベーターのブザーが鳴った。恭子の目が光る。しかし、胸の高鳴りを隠して、恭子はいつもの仕草でエレベーターに近付いた。他の職員は設備の監視モニターに集中して、恭子に目をやる者は一人もいない。エレベーターの扉が開いた。そこには小さく蹲った二人の男たちがいた。恭子と男たちとの目が合う。三人共一瞬見つめ合った。「きゃっ」と小さな悲鳴を上げて恭子がエレベーターから逃げた。計画通りマスクのデスクに駆け寄る。緊急ボタンをガードするためだ。恭子の悲鳴で二人の職員が何かと振り向いた。その間に、英介と良太はエレベーターから飛び降りた。床との段差は八0センチだ。だが、少し目測を誤って大きく跳んだ良太が前の机に体ごとぶつけた。その大きな音で、職員全員が異変に気付いた。騒然とする室内。英介と良太は銃を構えた。
「動くな。撃つぞ!」
定番の脅し文句だが、それが災いした。
「何言ってるの! 撃つのよ!」
恭子の叫びに、職員だけでなく、奇襲した男たちにも動揺が起きた。その一瞬の隙を突いて、一人の職員が椅子を投げつけた。間一髪で避けるが、それをきっかけに職員たちが散らばり、的が絞り難くなった。
「なに躊躇ってるの! 早く撃つのよ!」
恭子が絶叫した。
「お前も仲間か!」
一人が果敢にも恭子に襲い掛かった。女と甘く見たのだろうが、彼女の敵ではない。しかし、男の襲った勢いまでは止めきれず、恭子はマスクのデスクから離れてしまった。それを見たもう一人が緊急ボタンに走った。
「撃て! 撃つのよーっ!」
その瞬間、英介と良太から放たれた弾丸が男の体を次々と貫通した。だが、即死となりながらも、その死体はあたかも意志を持っているかのように歩き、そのままマスクのデスクに覆い被さった。無論、彼が狙った通り、緊急ボタンは押された。直後に赤い警告灯を激しく点滅させて緊急サイレンが凄まじい音で鳴り響いた。
英介と良太は顔面蒼白となった。実戦の恐さを思い知った。しかし、恭子はこの場でも冷静だった。
「貸して!」
二人から銃を奪うと、残っていた三人の職員を瞬く間に撃った。まるで煮立つ鍋へ差し水したような手際だ。
「すまん」
「言い訳は後で聞くわ。すぐに機動部隊が駆けつける。時間がない。核を貸して」
英介が恭子に手渡した。恭子は受け取った核をなんと机の引き出しに仕舞って鍵をかけた。その鍵を胸ポケットに収める。
「これからどうする?」
男たちは落ち着かない。
「逃げるに決まってるじゃない」
反面、女は苦笑さえ漏らしながら言った。
「逃げるって、どう」
「来た通りに戻ればいいのよ」
恭子は荷物専用エレベーターのボタンを押した。
「早く! 乗って!」
三人は身を折り畳んで乗り込んだ。
地上に上がったエレベーターの扉が開いた。守衛室だ。三人はエレベーターから出ると慎重に辺りを窺った。窓越しに見ると、機動部隊の兵士が数人じわじわと近付いているのが見えた。
「ダメだ。すっかり囲まれている」
良太が天井を見上げた。
「間に合わなかったようね」
恭子が呟いたかと思うと突然椅子を持ち上げて、守衛室にある監視モニターの装置を破壊した。
「あんたも手伝って」
良太に言った。それに英介も加勢しようとしたが、恭子が彼を制して窓の方へ顎をしゃくり上げた。機動部隊の動きを見張れと言うのだ。指示されて英介は外を覗き見た。
「かなり近くまで来た。あ、ここに気付いた」
英介は恭子を振り向いた。
「諦めるのはまだ早いわ」
「どうするって言うんだ」
「私を人質にするのよ」
聞いた良太にガムテープを投げて、恭子は後ろ手で背中を向けた。
「それで私の両手を縛るのよ」
十人以上の機動部隊が守衛室を中心に包囲していた。彼らが見守る中、ガタンと音を響かせて開いたドアから女が飛び出した。咄嗟に銃を構えた隊員たちは、それが女だと気付くと、すぐに銃口を下げた。
「撃たないで! 撃たないで!」
女は必死で叫んだ。無論、恭子だ。恭子は管理センターの作業服を着ている。まさか犯人の一人とは誰も思わない。恭子は床に倒れ込んだ。しかし、ロープで体を縛られていて、そのロープが手繰り寄せられてまた床を滑るように恭子は守衛室に収まった。それからすぐに、今度は恭子を楯にした良太と英介が警戒しながら出て来た。
「俺たちは人質を取った。常に銃がこの女の首筋に向けられていることを忘れるな!」
そう叫んだのは良太だ。こういう役が似合う。
「お前たちの要求はなんだ」
拡声器を通して、隊長らしき男の声が響いた。
「車を用意しろ! すぐにだ」
「バカね。時間を指定するのよ。10分以内と言いなさい」
恭子が小声で良太に指示した。
「10分だ。今から10分以内に用意しろ!」
「そんなに早くは用意出来ない」
それに恭子がまた小声で良太に言う。
「そんな事は聞けない。俺たちは地下に爆弾も仕掛けた。拒否すれば、爆破させる」
「そんな事は聞けない。俺たちは地下に爆弾も仕掛けた。拒否すれば、ば、爆破させる!」
「……」
相手は押し黙った。車の手配を命じたのか、策を練っているのか。それにダメ押しさせようと、恭子が呟く。
「試しにスイッチを押してみようか」
「いいのかよ。そんな事言って」
これも小声で良太が不安を口にした。
「いいから。早く」
恭子の督促に仕方なく頷く良太。
「なんなら、試しにスイッチを押してみようか!」
「わかった。今、車は手配した」
隊長の言葉通り、しばらく待つと一台のセダンが姿を見せた。それはゆっくりと守衛室の脇まで来て停まった。運転していた隊員がエンジンをかけたまま運転席から降り、両手を上げながら後退して去った。それと入れ替わりに、良太が運転席に、英介と恭子が後部座席に座った。無論、恭子は人質としてだ。機動部隊は依然として銃口を向けながら、車を遠巻きに囲んでいる。囲まれて三人は生きた心地がしない。何処から持って来たのか、恭子が黒い眼鏡ケースを英介に渡した。きっと守衛の持ち物だろう。
「手榴弾の真似をしてあいつらに投げるのよ。そしたら、良太は思いっきり走らせて。いい? 英介が投げたら、思いっきりアクセルを踏み込むのよ!」
英介が手榴弾のピンを口で引き抜く真似でその眼鏡ケースを機動部隊の頭上に投じた。勘違いした機動部隊が頭を抱えて伏せる。そのタイミングに合わせて、三人を乗せた車はタイヤを軋ませて飛び出した。騙されたと気付いた何人かの隊員が発砲したが、僅かに車のボディーをかすっただけだった。
「ヒャッホー」
良太が歓喜の声を上げた。英介はそれに微笑み、恭子は苦笑いした。
「何処へ行きますか? お嬢様」
良太がおどけた。右に左に急ハンドルを繰り返す。対向車をギリギリでかわしながらの走行だ。その度に後部座席の英介と恭子が右に傾いたり左に寄った。追手を撒くには仕方ない。
「すぐに車を降りるわよ」
「え? どうして? 折角のプレゼントじゃないか。もったいない。俺の運転を信用してないな。このまま逃げ切れるぜ」
「馬鹿ね。既に警戒線は至るところで張られているわ。このまま走れば、網に掛かるだけよ。車を降りて、人ごみに紛れるのが一番」
「わかった」
良太は駐車出来そうな場所を探し始めた。
「それにしてもお前さん、かなりの凄腕だな。流石は士官学校主席卒だ。死中にあって活路を見出す。まさにあれだな」
良太が盛んに感心した。
「あんなの学校で教えてくれる訳ないじゃない。実戦は経験が物を言うのよ」
「あんな事何度もあるのかい?」
それに恭子は笑っただけだった。
「あの核はあのままでいいのか? 机の引出じゃ、すぐに見つかるだろ?」
今度は英介が聞いた。
「あなたならあそこに隠す?」
「いいや」
英介は首を横に振った。
「人ってね。自分が隠しそうな処から想像するものなの。それにまだ核の存在をあいつ等に教えてないわ。私たち、いいえ、実際には、あなたたちの目的がなんだったのか、彼らにはわかってない。今頃は現場検証しているところでしょうけど、五人の死体を見て、殺害が目的だったのか、これから殺された五人の身辺調査を始めるのが第一段階じゃないかしら」
「俺たちの目的って、なんだったんだ? てっきり、核でアスカルを爆破するのかと思ってた」
英介が首を捻った。
「アスカルと心中する気だったの?」
恭子に笑われて、今更背筋を寒くする英介だ。
「あの場で核を起爆させていたら、今頃私たち天国に行ってるわ」
「たしかに」
今度は良太が頷いた。
「それに、アスカルを破壊することが最終目的じゃないわ。あれは恐喝の材料よ」
「恐喝?」
男二人が同時に声を上げた。
「アスカルで核を使えば、汚染された水がカニ国のほぼ全域に行き渡って、いざ猿国が占領しようとしてもしばらくは手を出せなくなる。除染装置を使ったとしても何百年も時間がかかる。それより脅しておいて、カニ国の戦意を喪失させて、国土も国民も無傷で手に入れる方が得策じゃなくって?」
「それが本当の目的か……」
男二人は複雑な心境だ。猿国の戦略とはいえ、あまりに姑息だ。一兵士としてはやはり、正々堂々と戦ってその結果占領した方が納得が行く。戦士としてはそういうものだという自負がある。占領という結果は同じになるとしても、その過程が大事ではないのか。国民感情もその方が盛り上がるに決まっている。しかし、相互の国家の疲弊を思うと、戦争することなく片が付けば、それはそれで正解のようでもある。それぞれの思いを背負って、三人はしばし無言となった。
「じゃあ、あそこに停めるぜ」
良太はビルの合い間に見えたパーキングへ車を滑らせた。
「これからどうする?」
車を降りて、キーと駐車券をポケットに押し込みながら良太が聞いた。
「バカね。鍵と駐車券は処分して。もうここへは戻って来ないでしょ?」
「そうか。そうだな」
良太はキーを投げ捨て、駐車券を破った。
「それで?」
「一緒に居ては目立つわ。ここで別れましょう」
「そうか」
良太は寂しそうな顔だ。
「何処で落ち合う?」
英介がフォローした。
「例のアパートよ。あそこはまだ割れてないと思う」
「わかった。必ず行く」
「あなたたちはまず着替えることね。その服装はチェック済みだから」
「君も」
「私は人質だから……でも、わかったわ。何処かで着替える。ばれるのも時間の問題でしょうから」
「核のことはどうするんだ。本国へ連絡するんだろ? 俺たちが先に着いたら、鳩を飛ばしておこうか」
「それは私に任せて。私の任務なのよ」
英介に恭子は微笑んだ。その美しい笑顔の裏に、スパイという顔と任務のためには無表情で相手を殺す冷徹さを潜ませている。英介は無言で彼女を見つめ返すだけだった。
三人は健闘を誓って手を重ね、そして、それぞれに別れた。
英介と良太も別々の方向へ走った積りだったが、30分もしない内に出くわしてしまった。再開に苦笑する二人。考えることが同じなのだ。こうなったら、やはり二人で動こうということになった。
「まず、何処で服を替える?」
荷物はアパートに置いてある。まだまだそこまで距離は遠く、目指す方向も覚束ない。
「途中で調達するしかないな」
良太は少し背伸びして、辺りを物色する仕草を見せた。それだけで様子のわかるはずがない。良太流のジョークだ。
「何処かに忍び込むか……」
言ってはみたものの、やはり気乗りしない。
一般人を装って、二人は当てもなく歩いた。いつの間にか住宅地に紛れ込んでいた。いよいよ迷路のようだ。何処を歩いているのかまったく土地勘がない。目指すアパートの方向も不明なのだ。このまま歩き続ければ、迷うだけだ。警戒線が張られているという恭子の言葉が二人をして充分に緊張させた。通行人のすべてが追手に思える。人影を察すると、さり気なく物陰に隠れてやり過ごした。そんなことを繰り返していては一向に前へ進めない。だからといって、適当な住宅を見つけて侵入する勇気もない。空軍学校では泥棒のノウハウを教えてはくれなかった。だが、包囲網は確実に自分たちを追い込んでいるかもしれない。二人は焦るばかりだった。
「これなら、恭子と行動を共にした方がよかったな」
珍しく良太が弱音を吐いた。すると、前方の角を曲がって二人の男が現れた。制服を着ている。
「まずい」
二人は踵を返した。が、すぐに後方から大声が聞こえた。待てと言われて、待つ訳にはいかない。二人は走った。闇雲に走って、前方を走る良太が路地を曲がった。しかし、そこはすぐに行き止まりとなった。住宅の塀が二人の進路を阻んでいる。良太は助走をつけて前の塀に取り付いた。英介も後を追う。二人が必死の形相で塀の向こうに飛び降りた直後、追って来た警察官がその路地に辿り着いた。行き止まりと知って、警察官は引き返していく。塀脇に植えられた木に取り縋って、二人は葉陰から覗き見た。ふーっと安堵の息をつく。
「どうする?」
英介が聞いた。
「しばらくは動けないだろうな」
良太は苦笑した。
「ここに入ったのも、何かの縁だ。この家の住民には申し訳ないが、服を借りよう」
そう言って良太は木から降りていく。英介も後に続いた。
広い庭だった。庭木と色とりどりの花が植えられていて、その先に平屋の家屋が見えた。木造だ。青い芝生に小さな池まである。裕福そうな住宅だ。庭木の陰から様子を眺めて、二人は慎重に近づいていく。爽やかな風が通り抜けていく。暖かな日差しも降り注いでいる。長閑な午後だ。それに反して二人の額には汗が噴き出ている。二人は懸命に辺りの様子を窺っている。ひと気が感じられない。留守なのか、それとも住人のいない住宅なのか。
「留守か」
そう良太が呟いたときだった。ふいに唸り声がしたかと思うと、住宅の陰から一匹の子犬が出て吠えたてた。突然の攻撃に驚いた良太がバランスを崩して傍らの池に落ちた。池といっても、浅くくるぶしくらいの深さしかない。
「どうした?」
庭に面した住宅の窓に人影が映った。住人がいたのだ。英介は良太を抱き起しながら、その住人を見守った。その場から逃げるという選択を思いつかなかった。子犬にしっかり射竦められている。いつの時代になっても、犬は猿の大敵だ。
「どうした、ポン太」
ドアを開けて一人の老人が姿を見せた。老人は子犬を先に見て、その先に固まっている二人の男たちに気付くと、彼もまた表情を強張らせた。しかし、すぐに柔和な顔を作って、果敢な愛犬を手招いた。
「ポン太。お客さんに吠えてはいけないよ」
駆け寄る子犬を抱き上げると、老人は何の警戒も見せずに男たちに歩み寄った。
「おやおや。ずぶ濡れじゃな。お入りなさい。着替えを貸してあげよう」
そう言うと、子犬を抱いたまま、家に入っていく。男たちはしばしお互いを見やった。
住宅の中は小ざっぱりとしていた。掃除が行き届いていて、老人の一人住まいでもなさそうだ。老人は何着かを出して、男たちに宛がった。戸惑うばかりの男たち。
「着替える前にシャワーでも浴びるといい」
老人はシャワールームに二人を案内した。むしろ警戒を解いていないのは二人で、シャワーを浴びている間に通報されるのではないかと、一人ずつがシャワーを浴びることにした。
シャワーのお湯が二人の汗と汚れと警戒感を洗い落としていくようだった。身を清めるとはこのことか。
体も心も絆されて、二人は老人の差し出す服に頭を下げて受け取った。着替えた二人をリビングのソファーに招いて、老人も対面して座った。ずっと柔和な表情のままだ。男たちに怯える素振りすらない。
「アスカルから逃げたというのはあんたたちかな」
まるで世間話でもするように老人はいきなり切り出した。忘れかけていた警戒心を取り戻す二人。
「そう構えずともいい」
老人は優しく言った。
「わしの見るところ、極悪人でもなさそうだ。五人を殺したというのは本当なのかな」
それには頷かざるを得ない。
「ほっほっほ。正直なものだな。本当に君たちが殺めたのかな?」
それに二人はお互いに顔を見やった。恭子を悪く言う積りはないが、この老人には嘘をつけないような気がする。英介が事実を伝えた。
「一人を殺害したのは間違いありません。他の四人はここに居ないもう一人がやりました」
「ほう。一人で四人を相手にするとは手練れた者だな」
老人の言い様はまったく時候の挨拶を交わすようだ。そこに恐れもなければ、殺人に対する憎悪も感じられない。ただ淡々と言葉を発しているようにしか思えない。
「我々は猿国の者です。軍の命令で潜入して、貴国の兵士とはいえ人民を殺害しました」
不思議だ。老人を前にしていると、事実を隠せない心境になってくる。
「それ以上は語らぬ方がよろしいでしょう。深く知ってしまえば、わしとて君たちを憎まなくてはならなくなる」
言葉に反して老人の表情は穏やかなままだった。まるで人為的な物事を超越した位置にその心があるような人物だ。それだけに、神前で懺悔する罪びとのような心境に陥る。すべてを曝け出して楽になりたいと願うのだ。
「我々はアスカルに……」
「もういいのだよ」
言いかけた英介を制して老人は口に人差し指を当てた。
「君たちには君たちの事情がある。加害者はときに被害者でもある。それをとやかく責めても詮無いことじゃ」
すべてを悟りきった老人の言葉に英介は沈黙せざるを得なかった。
「夕刻になれば娘が帰って来る。あれは料理が得意での、久方のお客様に自慢の手料理を振舞ってくれるじゃろう。帰りがけに何か買って来させよう」
老人は携帯を取り出すと、ゆっくりと打ち出した。娘にメールしているのだ。
「これでよしと」
老人は一人頷いて携帯を閉じた。
「いいのですか? 俺たちは……」
「おお。娘から返信だ。何が食べたいかと聞いてきた。お二人さんは何がお好みかな?」
「なんでも構いません」
「そうか。それでは……」
またゆっくりと画面に打ち込む。
「悪人ではなかろう? 顔にしっかり描いてある」
携帯から目を離さずにそう言った。そして、携帯をポケットに収めると、老人は朗々と笑った。
老人は竹内と名乗った。娘との二人暮らしだった。老人は娘と言うが、よく聞いていると孫娘らしい。数年前まで大学で生物学の教鞭を執っていたが、今は隠居の身だと言った。孫娘は内務省に勤めていて、年頃なのにまだ独り身だとも話した。そんなことまで打ち明けて大丈夫なのかと、却って英介たちの方が心配になった。内務省といえば、カニ国の行政を担う主要部署のはずだ。その管轄下には警察も含まれる。やりようによっては政府の内部機密を聞きだすことだって可能かもしれない。ただ軍事上の情報までは難しい。そう判断して、軍人である二人には隠さなかったのか。しかし、彼らの任務が何にあるのか、竹内老人は知らない。内政上の機密を盗み出して、政治混乱を画策しているかもしれないのだ。英介たちは戸惑っていた。あまりにオープン過ぎる。知ってしまえば、後戻りできないこともある。目的である着衣の変更がされた今では早々に退却すべきであったが、極度の緊張感から解放された心がすっかり緩んでしまって、逃亡の身であることさえ忘れてしまっている。
老人が何故これほどまでに親切にしてくれるのか不明だ。猿国とカニ国との間にはまだ宣戦布告がなされていない。今は表面上ではあるが、友好関係にある。しかし、カニ国の主要施設であるアスカルに潜入した猿国人となれば、この二人が何を企んでいたのかと不審がるのが普通だ。まして、ニュースで五人を殺害したことも知っている。いわば殺人犯なのだ。それがどうしてこうも悠々閑々としていられるのか。
老人は能弁だった。大学で若者に教えていただけあって、話しぶりに相手を退屈にさせない抑揚がある。切り替えの変化もある。専門は生物学らしいが、話の範囲はそれだけに留まらなかった。宇宙も語れば、歴史や経済、さらにはスポーツ論まで飛び出して、話題の材料は尽きない。果ては恋愛論に至って、老人が教え子の片想いに一役買った話には、英介も良太も腹を抱えて笑った。すっかり竹内ワールドに嵌り込んでしまった。それがなんとも心地良くて、二人は抜け出すことさえ忘れている。
「最近子宝を授かったとの報告を受けてな。まずは何よりなことだったよ」
教え子の幸福に竹内老人もそのお裾分けに浴したような笑顔で何度も頷いた。そこへ誰かが玄関を入って来た気配があった。二人は一瞬緊張を取り戻した。それを察して、竹内老人は手を振って微笑んだ。
「大丈夫じゃよ。きっと娘が帰ってきたようだ」
老人は立ち上がろうともしない。その内に、三人が居るリビングに一人の若い女性が姿を見せた。両手に鞄と買い物袋を提げている。
「いらっしゃいませ」
そう言って屈託のない笑顔を英介たちに向けた。老人の血を受け継いで、彼女も朗らかな性格のようだ。若いわりには少し地味な服装と眼鏡をかけて、落ち着いた雰囲気の女性だ。英介たちは立ち上がって彼女に挨拶した。
「私は手嶋英介。こっちは」
「姿良太です。お邪魔しております」
いつもの癖で男二人は敬礼していた。それに一瞬驚いた表情の娘だったが、すぐに元の笑顔に戻して、
「竹内翠です。どうぞよろしく」
と軽く会釈した。
「この方々はお隣である猿国から来られた軍人さんなのじゃ。敬礼がこの人たちの普通の挨拶だから、気にする事はない」
老人がフォローの積りなのだろうが、まずいことに真相をあっさりバラしてしまった。いずれは知られることだろうが、英介たちはちょっと戸惑った。翠の方も固まってしまっている。内務省に勤務している自分の立場を考えずにはいられないはずだ。が、思いがけず彼女が吹き出した。
「おじいちゃん。そんな大切なことバラしちゃダメでしょ」
「そうだったかな」
惚ける老人。翠はすぐに食事の用意をしますねと言って、買って来た食材を持ってリビングを出ていった。
「お言葉に甘え過ぎていたようです。我々はそろそろお暇します」
英介の挨拶に良太も頷く。
「まあまあ。娘の料理を味わっていってくれないか。いつもこんな老人相手では、彼女も腕の振るいようがないでの」
顔を見合わせる英介たち。
「それとも、急ぐ必要があるのかね?」
それには二人同時に頷いた。今さらだが、アパートに戻って、事の顛末を本国に知らせなければならない。恭子も心配して待っているだろう。それを思い出した。暢気な話だ。
「この家に忍び込んだというのは、追われたからではないのかね? 今出て行けば、包囲網にまんまと飛び込むようなものじゃぞ」
「……」
返す言葉がない。その通りだ。
「このままこの家に留まってくれてもいいのだが、むしろわしも話し相手がおって喜ばしいところだが、そうもいかんじゃろうて。食事が終わったら、娘に送らせよう。検問にひっかかっても、娘が持つICタグが大きく物を言うじゃろう。なにせ、内務省におるからの」
「どうして……」
英介は心の内にわだかまる疑問を口にした。
「どうしてそこまで親切にして頂けるのでしょうか。我々はカニ国からすれば、スパイです。任務を申し上げる訳にはいきませんが、貴国に対して好ましい者でないのだけはたしかです」
「………わからん」
長い沈黙の後、老人はゆっくり首を横に振った。
「或いは、わしの若い頃を思い出したのかもしれん」
「若い頃?」
そのとき、翠がリビングのドアを開けて食事の用意ができたと告げた。開け放したドアを通って、キッチンから旨そうな料理の匂いが漂った。良太の腹の虫がグーと鳴った。
キッチンのテーブルには処狭しと料理が並べられていた。メインはビーフシチュー。他にサラダと刻んだベーコンを散りばめた生クリーム仕立てのパスタ。小振りのバケットが丁寧に切り分けられて添えてある。あの短時間にたいした手際のよさだ。老人の言う彼女の料理自慢もなまじ手前味噌でもなさそうだ。きっと味も絶品に違いない。
忘れていた空腹がどんどん料理をたいらげていく。それに翠は最初目を丸くしていたが、おかわりをする男たちに満足げな顔で応じた。食事に夢中となったからでもないが、結局、老人の真意についてはそのまま聞けずに終わった。英介がそれを躊躇ったのは、娘が声をかける直前の老人の表情に初めて相手を拒否するような険しさが感じ取れたからだ。
「大変お世話になりました」
英介と良太は車の後部座席から老人に頭を下げた。
「また遊びにいらっしゃい。いつでも暇を持て余しておるからの。そうだ。君らの服を預かっておる。わしの背広も返してもらわにゃあいかん。きっとまた来るのだよ」
そう言って老人は例の朗々とした笑い声を上げた。陽はすっかり沈んでいる。閑静な住宅地にその声は目立った。二度と再会するはずはないと思いながらも、英介と良太は老人に頷いた。受けた優しさに泣きそうになるのを二人共懸命に堪えながら。翠が車を静かに走らせた。
「何処まで行きます?」
翠が聞いた。しかし、アパートの住所を二人共知らない。目印といえば……英介はアパートの周辺を思い浮かべた。
「近くにタワーがありました。といってもそんなに高くないタワーだった」
「タワー? きっと、キューブツリーじゃないかしら。カニールにはあまりタワーみたいな建物はないから」
「大丈夫でしょうか? ご迷惑では」
「たぶんそれだと思いますよ」
「そうではなく……我々を匿っていることが警察などに知れたら、あなた方も逮捕されます」
「でしょうね。でも、バレなければ、逮捕されませんよ」
翠は平然と言ってのけた。なかなか腹が据わっている。
「どうしてお爺様は我々を匿われたのでしょうか? 我々は敵国の」
英介の言葉を途中で翠が遮った。
「祖父も昔は軍人だったんです」
「軍人?」
「実際には軍医ですけど。私の母が、私を産み落としてすぐに死んでしまったのです。そのとき、祖父は基地にいて母の死に際に立ち会えなかったんです。その後すぐに祖父は軍を退役しました。医者でありながら、自分の娘さえ助けてやれなかった。それが祖父にはショックだったのでしょう」
「そんなことが……」
「きっとそればかりじゃなかったと私は思います。戦争は何も生み出さないというのが、祖父の口癖ですから。若い頃はそれでも情熱を持っていたようですが、前線で死んでいく多くの若者たちを見て、医者でありながら何もしてやれない自分に無力さを感じていたと、祖父の親友から聞かされたことがあります。母の死は、祖父に決断させたのでしょう。……検問です」
翠の注意に後部座席の二人は緊張した。警官らしい男がライトを照らして車を誘導した。
「身分証明のご提示をお願いします」
丁寧に問い掛けながらもライトで不躾に車内を照らし出す。翠が提示すると、途端に警官が敬礼した。
「これは失礼しました。どちらまで行かれますか?」
「キューブツリーへ行きます。あの上からの夜景が綺麗ですから、知人をご案内しますの」
少し澄ました声だった。官僚のイメージを前面に出して見せたのだ。
「お気をつけて」
走り去る車を警官は敬礼して見送った。
「凄い威力ですね。あなたはどんなポストの人なんですか?」
英介は感心した。良太も首を捻っている。
「唯の事務官ですよ。この国では、官僚は別格になっています。決して好きではないのですが、今は役に立ちましたね」
翠の余裕ある態度の理由がわかった。官僚には警官と雖も手が出せないのだ。まったく治外法権下にあるような扱いだった。これなら心配する必要などない。偶然とはいえ、なんと運のいい家に自分たちは入り込んでいたのだ。英介は緊張の糸を解いた。
「先ほどの続きなのですが、我々猿国はカニ国の敵です。この十数年は休戦状態にありますが、それまでは小さな戦闘が繰り返されていました。お爺様の嘆かれた若者の死は猿国によってもたらされたかもしれないのです」
「その質問に祖父はきっとこう言うと思います。戦争は為政者が行っているのであって、兵士の責任ではない、と」
「……」
それには沈黙せざるを得ない。たしかにそうなのだ。
「あなたたちはこのカニ国へ自分の意志で来られたのでしょうか」
「いいえ。上官からの命令です」
「つまりはそういうことです。きっとその上官もその上からの命令があって、あなたたちに命じたのではないでしょうか。戦争はそうした自分の意志ではない、罪のない多くの人々を犠牲にします。本当に戦争をしたい者は後方にあって、火の粉のかからない安全な場所でふんぞり返っています。罪を償うべき者は彼らなのに」
英介は目から鱗がこぼれ落ちていくような心の浄化を実感した。真の同志を見つけた。そんな感動があった。そして、ふいにこう叫んでいた。
「逃げて下さい!」
「え?」
驚いて急ブレーキを踏む翠。振り向いた彼女に英介は興奮気味に付け加えた。
「俺たちは核を、核をアスカルに置いて来たんです!」
「おい。英介」
良太が慌てた。それは最重要機密だ。猿国から宣戦布告したときに使われる隠し球なのだ。それをカニ国民、しかも、内務省の役人に教えてしまえば、隠し球ではなくなる。宣戦布告前に撤去されてしまえば、何の効力も示さない。ただの物笑いの種だ。だが走り出した英介はもう止まれなくなった。
「それは地下四階のコントロールセンターにある机……」
そこまで言いかけた英介の口を良太が両手で塞いだ。英介の口を塞ぎながら、良太は翠に愛想笑いした。誤魔化そうという笑いだ。それを英介は良太の指を噛んで脱した。
「核は机の引き出しに入っているんです!」
「バッキャロー」
良太が英介の頬を殴った。狭い車の中だ。男二人は勝手の悪い座席で揉み合うばかり。その二人に翠が懸命に仲裁に入る。
「やめて下さい。やめて……やめてっ!」
彼女の絶叫に思わず手を止める二人。
「何を仲間割れしてるんですか!」
「しかし……」
翠の剣幕にたじろぐばかりの二人。
「どうして男の人って、そうして争うのですか!」
翠はハンドルに突っ伏して泣き出した。喧嘩どころではなくなる男たち。女の涙には誰も弱い。
「すみません。もうしません」
男たちは平謝りに謝る。
「本当にご免なさい……」
ただ女の様子を見守るしかない男たち。一頻り泣いて、女はようやく落ち着き始めた。
「男の人が起こす争いにいつも女は巻き込まれています。それをわかって下さい」
「……」
ただ黙って頷く二人の男たち。
「女を不幸にしたくないと常に思ってくれたら、この世から戦争はなくなると私は思います。決して難しいことじゃありません。女のために、あなたたち男が少しだけ我慢をして下されば、それで平和な世の中が続くのです」
こんな穏やかな表情の奥に、とても熱い思いを持っている女性だと、英介は彼女を見つめた。
「行きましょう。停車していると不審に思われてしまいます」
翠は車を始動させた。
「でも、逃げて下さい」
「まだ言うか!」
良太が英介の肩を握った。しかし、翠に遠慮して、すぐにその手を離した。
「何処へ逃げるのです?」
前を向いたまま翠は聞いた。
「私たちカニ族は水が、それも汚れていない水を頻繁に必要とします。それがなければ生きていけません。あなたたちの国と比べて経済や文化が立ち遅れているのは、それが大きな原因です。流水にある程度の時間体を浸さなくてはなりません。流水施設のない場所での作業はほとんど不可能と言えます。生産効率がとても悪いのです。それを、アスカルによってようやく近年解決できたのです。そのアスカルを失えば、私たちは何処へも行く宛などないのです。逃げようがありません」
翠の説明を聞きながら、英介はとんでもない事をしてしまったと後悔してもし切れない思いだった。隣で良太も項垂れている。きっと同じ思いに違いない。
「それならやはり」
「今からアスカルに戻って核を撤去しよう」
そう言ったのは良太だった。
「とても入れないでしょう。警戒態勢はしばらく続くでしょうし」
「俺たちが自首する。そして、事実を伝えるよ」
良太は覚悟の顔だった。
「それを何処まで信用するでしょうか」
「え?」
意外な顔をする二人。思いがけない言葉だ。
「あなたたちの撹乱作戦と見做せば、信用してはくれません」
「しかし現に核があれば」
「それは本当に核なのですか? いえ、あなたたちの言葉を信用するかしないかが問題なのです。おそらく信用しないでしょう。そうなれば、あなたたちが言う核は偽物になり、きっと拷問にかけて真実を告白させようとします。ですが、あなたたちの真実はアスカルに核を隠したという一点です。どんなに責められても、カニ国が信用しない話しかあなたたちは言えません。当然です。それはあなたたちにとって唯一の真実なのですから」
「では、どうすれば」
頭を抱えた良太の隣で英介はまだ冷静だった。何処かに糸口があるはずだと望みを捨ててない。しかし、それに翠は絶望的な一言を加えた。
「猿国がアスカルに照準を合わせた以上、仮に今回の危機を脱したとしても、いずれ破壊なりされるでしょう。早いか遅いかの違いだけです。カニ国の命運は風前の灯となりました」
「だとしても、このまま死を待つのですか? 不可能かもしれないが、絶望的かもしれないが、何もしないよりはいい」
翠はまた車を停めた。英介を振り向く。
「あなたたちは不思議な方ですね。敵国の心配をなさるなんて」
そう言って笑った瞳が涙で光った。
「正義がどちらにあるか、だと思います。その前には敵も味方もありません。味方でも、正義を失っているのならそれを糺すのが男です。男は……」
そこで英介は一旦言葉を切った。
「男は、やはり正義のために命を懸けます。すみません。その所為で、また女を不幸にしてしまうかもしれません」
「そうですか。男はそういう生き物なのですね。仕方ありませんね」
翠はじっと英介を見つめた。
一方、恭子は英介たちと別れて必死の逃亡をしていた。幾つかの検問を掻い潜り、ある場所を目指す。それは英介たちとの再会を約束したあのアパートではない。途中、一台の中型バイクを襲い、衣服と移動手段を手に入れた。その点、男たちと違って容赦ない。
カニール市街地から離れると警戒態勢は緩くなった。見込んだ通りだ。山間の道路をバイクはうなりを上げて突っ走った。
一軒の山小屋がある。道路からは離れているのでバイクは捨てて、ここまで歩いて来た。きつい山道だ。いかに鍛えた体でさえほとんど休むことなくこの数時間を駆け通しだった。その山小屋に入るなり、恭子は倒れ込んでしばらく荒い呼吸を繰り返すだけだった。しかし、いつまでも横たわったままではいられない。連絡を取らなければならないのだ。無論、その相手は猿国ではなかった。この瞬間をどれ程待っていたことか。通信は暗号ではなかった。決まったノイズを発信するだけだ。それを受信した相手が約束通りの行動を起こしてくれるはずだった。その一度切りの送信をして、恭子は深い眠りに就いた。その顔には安堵とやすらぎがあった。
英介は恭子から聞いた猿国の計画を翠に打ち明けていた。もう良太も反対しない。三人を乗せた車はアスカルを目指している。
「だから、すぐにその核は爆破されません。あくまでも脅しですから。カニ国が反発して戦闘態勢に入れば別ですが、いわば切り札です。そう簡単にカードは切らないでしょう。今なら核を確保出来ます」
「確保した核はどうなさるお積りですか?」
それまで黙って聞いていた翠が不安を口にした。核をアスカルから移したとしても、持っている限り危険が伴う。起爆装置は恭子が持っている可能性がある。彼女は英介たちの事情を知るはずもないのだ。勝手にスイッチを押されたら、その瞬間にすべてはジエンドとなる。
「兎に角遠くまで運びましょう。後は運を天に任せるしかない」
「わかりました」
三人は明らかに死を覚悟した。こうして出来た同志の繋がりは何よりも堅固だ。
だが、アスカルを目前にして、三人は火柱が立ち上がるのを目撃した。
「え? なんだ? 何があった?」
車を手前で停めて、三人は歩いて近付いた。しかし、野次馬の人だかりとアスカルの敷地全域に張られた警戒線で遠く眺める程にしか近寄れない。管理センターの建物は炎に包まれていた。
「核が爆破されたのか……」
「いいえ。それならこんなに近づけないはずです」
英介の落胆に翠は冷静だった。
「すると、何があったのだ?」
三人には皆目見当がつかない。
「ただ言えることは、アスカルの機能が失われたということです。大変なことになりました。復旧にどれだけ時間がかかるか」
翠は暗い顔をした。それに英介たちは謝罪のしようもない。自分を責めたところで事態は改善されはしないのだ。
仕方なく三人は車に戻った。戻ってもしばらくは声がない。
「恭子に会おう」
ようやく良太が言った。
「あいつなら事情を知ってるはずだ。どうもあの核は嘘だったようだし。一杯食わされてたんだ、俺たち」
良太は怒りで肩を震わせている。
「どうやって会う。あいつが本当に裏切り者なら、アパートに来るはずがないぞ」
「そうだな」
今度はため息をついた。
「いや、アパートに戻ろう。あいつが二年間、毎日ではないにしろ、使っていた場所だ。何か手掛かりがあるかもしれない」
「そうだな。あるよ、きっと」
良太が顔を輝かせた。車は再びキューブツリーを目指した。
アパートはキューブタツリーからそれ程離れていない場所にあった。翠には丁重に何度も礼を言って、車を見送った。下から見上げた限りでは部屋の電気は点いてなく、恭子は戻っていないようだった。兎も角は四階まで上がる。部屋の前に立って中の様子を窺う。鍵を開けてドアを引くと、玄関からリビングまで真っ暗だった。
「やっぱり戻ってないか」
「わからんぜ。初対面は油断して不覚を取った」
良太は珍しく慎重だ。
「あの時とは違う。俺たちに警戒する理由があいつにあるか?」
「そうだな」
良太は部屋の電気を点けた。念の為ソファーの後ろを覗いてみる。誰もいない。英介はベランダに寄ってサッシ窓を開けた。鳩小屋に鳩はいて、じっと動かない。夜になって寝ているのか。今朝エサを与えたのに、なんだかとても遠い過去のように思えた。今日はあまりに多くの出来事があった。取りあえず部屋中を片っ端から物色した。だが何もなかった。紙切れ一枚さえ出て来ない。ここは恭子が話したように、本部との連絡を取るだけのつなぎに他ならなかったのだ。家捜しを終えて、二人は示し合わせたようにソファーにどっかりと腰を降ろした。同じように天井を見上げ、ただ無言でいる。動作が同じなら考えていることも同じだった。奇しくも二人は相手の気持ちを推察していたのだ。
「辛いだろうが、ここは諦めるしかないだろう」
「恭子のことか?」
「ああ」
「仕方ないさ。俺が勝手に惚れちまったんだからな。なんとか諦めてみるよ。自信ねえけどよ。それより、お前の方はどうなんだ?」
「俺? 何がだよ」
「翠さんさ。彼女を何とか救いたいんだろ? 惚れた女が死んでいくのをむざむざ見ているだけってのは、残酷過ぎるぜ」
「……」
「英介」
良太は英介を見た。彼の頬を涙が流れている。それを良太は気付かなかったように上を見上げた。
「どうしようもない。俺たちの手に負える問題ではもうなくなってる。アスカルは死んでしまったんだ。カニ国の命は絶たれた」
「かもしれないけど、せめて彼女だけは助けたいじゃないか。きれいな流水に定期的に浸からせてやりゃあいいんだろ? なんのこたぁないぜ」
「それを彼女は望まないだろうな。あの性格なら、他のカニ国人が助からないのに、自分だけが助かろうという選択はしないと思う」
「わからんだろう。追い詰められりゃ、考えだって変わるかもしれん」
「もういい。やめよう」
英介は立ち上がった。
「英介。俺はお前の」
「もういいんだ!」
英介は頭を抱えてしゃがみ込んだ。
「わかったよ。もう言わない」
良太もソファーに起き直して俯いた。
「これからどうする」
良太はタバコに火を点けた。英介が差し出した手にタバコとライターを渡す。英介も火を点けて床に寝転がった。
「わからんな」
先ほどの良太に対する答だ。
「いつまでもここに居る訳にもいかねえだろ」
「ああ。周りのカニ国人が干からびていくのに、俺たちだけ平気でいるのは不自然だからな」
「そういう問題かよ」
「そういう問題だよ。いっそ猿国人だと告白して、みんなから袋叩きにでも合うか」
「英介……」
良太は英介を睨み付けた。
「お前はもっと前向きな奴だと思っていたよ。それがなんだ」
「こんなときに前向きになんかなれるかよ!」
「ああ、そうかもしれん。そうかもしれんが、お前は違っていたぜ!」
良太が英介の胸倉を掴んだ。英介も負けじと良太の腕を掴む。途端に取っ組み合いの喧嘩となった。しばらく揉み合う内に、何か音が鳴っている。玄関のチャイムでもない。気付いた英介が拳骨を振りかぶった良太を制した。携帯の呼び出し音だ。
「翠さんからだ。どうしたのだろう」
英介は携帯に話し掛けた。まさかのためにとお互いの番号を交換してあったのだ。
「英介さんですか?」
「はい。英介です」
急に英介の顔が綻ぶ。
「どうも変なんです」
「変?」
要領を得ない会話に英介は落ち着かない。
「どう変なんです?」
「アナウンスがないんです」
「アナウンス?」
チンプンカンプンだ。それだけに焦れったくなる。だが翠の落ち着いた口調に緊急性はないようだった。
「アスカルが止まってしまえば、水がまったく供給されないはずなのに、普通に出ているんです。しかもこの時間まで何のアナウンスもありません。先日なんか、一時間の断水でも大騒ぎだったのに」
「ひょっとしてアスカルは止まってないんじゃありませんか?」
思いもかけない状況に英介は泣き笑いした。もし彼女の言うことが正確であるなら、アスカルは無傷だったことになる。あの火災の中でもガードされていたのだろうか。いずれにしても、カニ国人は、翠は助かるのだ。その喜びがじわじわと湧き上がってくる。良太も横で貰い泣きした。ただ一人、電話口の翠だけが冷静な受答えをしている。
「ああ。よかった! 本当によかった。ああ。無性に翠さんに会いたくなりました。今すぐにでも会って、君の無事を確かめたい」
「もう夜遅いので」
「え? あ、はい。そうですね。遅いですね」
相手がちょっと冷静過ぎて、はしゃぎ過ぎた自分が急に恥ずかしくなった。
「明日またお越し下さい。祖父も待っていると申しおります」
「わかりました。明日またお邪魔します」
英介は携帯を切って思わず拝むようにそれを捧げ持った。こんなに嬉しい電話は生まれて初めてだ。男二人はハイタッチして喜びを分かち合った。先ほどまでの取っ組み合いの喧嘩が嘘のようだ。
壁の隙間から射しこむ朝陽に照らされて恭子は目覚めた。時計の針は六時を少し回っている。体の節々が痛い。板の間の床に薄毛布一枚で包まっていたからだ。手足をゆっくり伸ばしてから起き上がる。爽快な朝だ。何年ぶりに味わう朝だろうか。
あの信号がキャッチされていれば、もうそろそろ現れる頃だろう。恭子は小屋の外に出た。そこは山頂だった。太陽の光を全身に浴びる。新緑が眩しい。新芽が芽吹くときの匂いがする。彼女の一番好きな匂いだ。それを両手を広げてゆっくりと吸い込む。至福の瞬間だ。
青空の彼方にキラッと輝くものを見た。それが次第に大きくなってくる。恭子は両手を大きく振った。それは恭子の頭上まで来て、上空で停止した。円盤状の底から光線が放たれた。その光は恭子を暖かく包み、ゆっくりと引き上げた。
翌朝。英介と良太はアパートを出て、竹内家を目指した。検問があればタクシーでは逃げられないので、歩くしかない。カニ国の身分証を持っていない二人にとって、拘束されれば後がなかった。翠に教えてもらった住所を検索して、携帯電話のナビの案内に従う。小一時間ほど歩いて、見覚えある景色になった。昨夜とは印象が違うが、たしかだろう。表札にも竹内とある。英介はチャイムを鳴らした。すぐにインターンフォンから返事が返った。あの老人の声だった。
「やあ。いらっしゃい」
ドアを開けるなり、老人は二人に握手を求めた。相変わらず笑顔を湛えた飄々とした姿だ。格好の話し相手と決めているらしく、急かすように中へ招じ入れる。
「アスカルは大丈夫なんですか?」
昨日と同じソファーに腰掛けながら英介は聞いた。昨夜の爆発が嘘だったとは到底思えない。
「大丈夫かどうかはわからんが、確かに朝から滞りなく水は出ておる。もう三度沐浴したんじゃ」
そう聞かされると、この老人も流水に浸かっていないと死んでしまうカニ国人であると改めて気付かされる。
「新聞はありますか?」
報道がどう扱っているか気になる。老人が持って来た新聞を受け取って、隈なく読み始める。数分後、英介は首を傾げた。アスカルの記事がまったくないのだ。一度は見落としかと、もう一度目を通したが、記事はなかった。言論統制されているのだろうか。カニ国の重要施設だけに、国民への動揺を考えれば否定は出来ない。しかし、昨夜はあれだけの野次馬がいたのだ。下手に隠せば、逆に騒ぎ出す可能性もある。
「わしも目を通した。載っておらんかったな」
「どうしてでしょう。あれが幻だったとは思えない」
それには良太も同意した。一緒に現場を見ているのだ。
「言論統制とは考えたくないが、アスカルの重要性を思えば、致し方ないのかもしれん」
老人も英介と同じ考えだった。
「どうする?」
良太は英介に困り顔だ。実は今朝、伝書鳩に今回の報告書を付けて飛ばしていたのだ。当然、昨夜のアスカル爆破事件がニュースとして大きく取り沙汰され、猿国の軍部もその情報を入手すると想定しての対処だった。ニュースにあるのに、実行した自分たちからの報告がなければ不審に思われる。
「ニュースにならないとは思わなかった。これじゃあ、俺たちの報告が偽情報になる」
「すぐに偽情報とは思わないだろう。軍は俺たちを疑ってはいない。疑惑の対象は恭子だけだ。報告にあるのに、カニ国で騒いでいないとしたら、必ずその真偽を確かめようとする。俺たちが思ったように、軍もカニ国の言論統制が働いたかもしれないと睨む。現に爆破されたのは事実なんだし、俺たちに後ろめたさはないよ。下手に恭子と関わったからそう思えてしまうのさ」
英介に良太はニヤリと笑った。確かに、今回の件ではあまりに深みへと嵌っている。恭子を助けたいと願った良太の思いからここまで来てしまっているのだ。最初から彼女を見限っていれば、こうまではならなかった。だが、あの恭子を相手にして、無事に自分たちは帰国出来ていただろうか。おそらくは彼女の前にその屍を曝すこととなっただろう。何が幸いして、何が災いするのか、誰にもわからない。
そこへ翠からのメールが祖父宛に届いた。
「アスカルシステムは無事で、しかし、浄水管理センターの建物が焼失してしまったので、国民の動揺を心配した政府が一時的に記事の差し止めを指示した。と言ってきた」
老人は孫娘からのメールを二人に読んで聞かせた。
「それじゃあ、いずれは報道するつもりなのか」
英介の素朴な疑問だ。
「俺たちの任務は失敗だったってことか?」
良太はぼんやりとした。あの危機一髪だった仕事が徒労だと言われたら、何とも虚しい。ふと、恭子の行方に思いを馳せる。
「何処に行っちまったんだろう」
それが恭子のことだと英介には察しがついた。
恭子はカプセルの中で目覚めた。ふと誰かに呼びかけられたような気がした。カプセルの中は培養液が充満していて、望めば何年でも眠っていられる。しかし、それを希望しない彼女は、冬眠効果を設定せずにカプセルに入ったのだ。だが、滋養効果もあるので、目覚めは頗る良好だ。
恭子はカプセルから立ち上がって出ると、全身に付着した液をタオルで拭き取り、服を着た。動き易く伸縮の効くジーンズにTシャツだけの軽装だ。裸足にサンダルをつっかけ、部屋を出た。向かう先は操縦室。ここは宇宙船の機内だ。
操縦室に入ると二人の男たちが操縦席に座ってモニターを眺めている。室内は明るく、旅客機のコックピットよりはかなり広い空間だ。むしろ大型船舶の操舵室に近い。男たちが眺めている壁一面にスクリーンモニターがあり、一二面に分割されたそれは、横に三列四枚ずつ並んでいて、機体の上部、側部、底部それぞれの四方向を映し出している。宇宙船の周囲を全てカバーしているのだ。操縦はタッチパネル式の画面が操縦席のそれぞれにあり、人が意識的にコントロールする以外は、宇宙船に組み込まれたAI知能が機体の制御を行う。時には、防御において人が判断するよりも迅速且つ的確な選択をAI知能がして、危険から回避させるとのことだ。スクリーンモニターや操作画面の切り替えが行われる度に室内の色合いが変わるが、実際に部屋の壁は白一色で、備品も三席のパイロットシートを除けば、真ん中に床固定のテーブルとそれに付属する椅子が四脚あるばかりだった。搭乗者は彼女を含めて三人。それがこの宇宙船の全乗組員だ。
山で遭難しかけた自分を拾ってくれた後、何かの話の中で、助けてくれた理由を尋ねたことがあった。そのときの元雄の言葉を恭子は今でも覚えている。
「操縦席が一つ空いていたからね」
それに恭子はこう返したものだ。
「きっと二人きりで寂しかったのかしら?」
ここに来ると懐かしい家族の元へ帰って来たような愛しさがある。ここはもう恭子にとって家庭と言ってもいい存在となっている。
「何か動きはあって?」
空いているパイロットシートに座って彼女は隣の男に問い掛けた。この船の船長、元雄透だ。元雄たちは生き残った人類だった。人類が滅亡する前、月に移住した人々の子孫だ。
「あったよ。アスカルが燃えたようだ」
「え⁉」
恭子は声も出せない程に驚いた。
「どうしてすぐに教えないの!」
「よく眠っていたからね」
「なに馬鹿なこと言ってるのよ!」
「安心しな。燃えたが、システムは無事なようだ」
「どういうこと?」
「わからない」
元雄は首を横に振った。
「あの燃え方からすれば、核が爆発したようでもなさそうだ。もっとも核なら、今頃カニ国は深刻な汚染下にあるだろう。それにしても、猿国の技術は凄いね。あの爆発でも核はビクともしなかったようだ」
「じゃあ、あのままコントロールセンターの机に?」
「たぶんそうだろう。それと、もう一つ驚きは、アスカルだな。いったい本当のアスカルは何処にあるんだい?」
元雄はモニターから恭子へ視線を移した。恭子よりはずっと年上だろうが、時折子供のような悪戯っぽい目をする。今もそうだ。発生した問題を何処かで楽しんでいるような顔だ。
「何処にもないわよ。私は実際にあのセンターの地下四階で働いていたのよ。あの部屋のコントロールで送水が切り替えられていたのを何回も見たわ」
「それなら、もう一つコントロールセンターがあるんだな。緊急事態用かもしれないが」
「もう一つ?」
「聞いたことはないかい?」
それに恭子は否定の首を振った。
「いずれにしてもだ。振り出しに戻ったことは確かだな」
「振り出し? そうなのね……」
恭子は天を仰いだ。そんな馬鹿な。これまでの苦労はいったいなんだったというのか。絶望よりも、怒りが込み上げて来るばかりだ。
「どうして爆破されたの? 私はそんな仕掛なんてしてないわ」
「調査しないとわからないな」
「私を降ろして」
「降りてどうする?」
「確かめるわ。それに、あの核も取り戻さなきゃならないし。あれは私の切り札なのよ」
「いつも勇ましいね、君は」
船はカニ国の山間部に急降下していく。
恭子は英介たちが待っているはずのアパートではなく、本来居住としていたアパートに向かった。途中、山間にある隠れ家で革ジャンを着込み、小型銃も腰にねじ込んだ。スクーターに乗って山を下る。市街地まですぐだ。アパート前の道路を挟んで反対側にある五階建のオフィスビルに入る。その屋上から対面するアパートの様子を探った。やはり見張りがいた。きっと警察だろう。自分を疑っているのか、ただ単に、人質として連れ去られたままでいる自分の安否確認のためなのか、わからない。いずれにしても、警戒しておくに越したことはないだろう。そうなると迂闊には近寄れない。恭子は一旦アパートから離れた。
もう一つ、つまり例のアパートに向かった。一応は警戒して様子を窺ったが、ここにはやはり見張りはいなかった。四階に上がり部屋の鍵を開けた。少し期待していたが、英介たちの姿はなかった。帰国したのだろうか。伝書鳩もいなかった。本部に報告したのだ。そうなれば、この国に留まる理由はない。一抹の寂しさが彼女を襲った。元々一人きりだったじゃないか、と納得させるのだが、心は素直に頷いてくれない。仕方ないので、膝を抱えてしばらく嗚咽した。いつもそうだ。そうすることで気分が幾らかは軽くなる。彼女が身に付けた対処法だった。
その頃、英介と良太は浄水場の見えるあの喫茶店にいた。昨日の朝、ここで待機しながら浄水場の正門を眺めている自分たちがいた。今はその正門こそ残っているが、管理ビルは破壊され、ロビーの入り口辺りは崩れている。二次災害を防止するためか、正門には鉄格子のような柵が設置され、侵入者を固く拒んでいる。こんな状態にも拘わらずニュースに上げないのは違和感を覚えるが、それだけに国内に与える影響が大きいと考えたのだろう。この近辺の住民が騒ぐ程度は瑣末なことだ。物々しい警備体制が敷かれて、ここまで近づけないかと思っていたが、誰も立っておらずに拍子抜けした。現場検証も昨夜早々に終わったらしく、今目の前にあるセンターは過去の遺物のようだ。むしろそんな雰囲気を作り出して、問題の深刻さを隠しているのかもしれない。確かに、水の供給には問題を来たしてはいないのだから、殊更クローズアップする必要もないのではあるが。
「恭子が持っていたのは核じゃなかったってことか」
良太はタバコに火を点けた。二人のテーブルにある灰皿は吸殻で一杯だ。
「そういうことになるだろう。これだけの衝撃で反応しない訳がない」
「逆に、あれは本当は爆弾で、俺たちが逃げた後で、恭子が爆破させたのかもな」
「それもあり得る。ただ結果的には失敗だったけどね。アスカルは無傷だから」
「いったい、あいつの任務ってなんだったんだ?」
「今じゃわからんな。裏切ったあいつが本当の事は言わなかっただろうし、軍からの命令もアスカルを引きこめ、だけでは……」
英介は良太の真似をして困ったポーズをした。そこへスクーターに乗った女が通りがかった。信号待ちでふとサングラスを取ってこちらを振り向く。
「ん!」
良太が立ち上がった。
「どうした?」
英介は良太の異変に気付き、その視線の先を追った。そこには驚き顔の恭子がこちらを見ていた。良太は店を飛び出した。英介も後を追った。こんな場所で騒動を起こしたら、すぐに自分たちの存在がバレてしまう。指名手配犯が三人揃っているのだ。こんな格好の餌食はない。まずはそうさせないことが先決だ。
「どういう気だ、てめえ!」
案の定、良太は状況も忘れて恭子に襲い掛かった。それを英介が身を呈して防ぎつつ、良太に目配せした。良太は上げかけた拳をすぐに引っ込めた。それに頷きつつ、英介は恭子の肩を抱くように手を回した。お互いの顔で隠して自分たちの存在を周りに見せないようにするためだ。
「ここから離れよう」
英介は恭子に囁いた。歩き始めた英介に素直に従う恭子。良太はスクーターを押して二人の後を着いて来る。
ひと気のない路地まで来ると、ふいに恭子が英介から離れた。スクーターを手放して素早く良太が恭子の退路を断つ。
「何の真似? 私が逃げ出すと思って?」
この場に至っても、恭子は余裕の笑いを見せた。確かに彼女の実力なら、この二人を倒して逃げることも可能だ。
「何の真似たあ、こっちが聞きたい。あれから何をしていた。アスカルを爆破するなんて、聞いてねえぞ!」
良太が威嚇した。それを英介は制するように指を口に当てた。声が大きい。どこで自分たちの会話を聞かれているかわからない。
「私じゃないわ」
「じゃあ、誰だ」
「それを調べに来たのよ」
「また抜け抜けと」
「嘘じゃないわ」
恭子の眼差しは真剣に見えた。女の美貌とはげにも恐ろしきものなり。何度裏切られても許してしまう。それとも、騙される男たちがアホなのか。英介と良太は顔を見合わせた。その時点でもう勝負はついている。
「信用ならねえから、俺たちも一緒に調べる」
そう言った良太の心は既に恭子への恋慕を復活させてしまっている。
「わかったわ。着いてらっしゃい」
恭子は倒れているスクーターを起こして跨った。
「何処に行くんだ」
「バカね。管理センターに決まってるじゃない」
本当に良太を馬鹿にした顔だ。気勢が萎む良太。
「着いて来るの? 来ないの?」
「わかった。行くよ!」
憮然としながらも、走り出したスクーターの後を追いかける良太。仕方なく英介も走る。恭子の笑い声がスクーターのエンジン音に掻き消された。
スクーターは正門へは向かわず、その手前で方向を変えた。管理センターの塀沿いに走っていく。後を追いかける男たちへの配慮など微塵もない女だ。しばらく行くと、ひと際人通りのない一帯に入った。そこで恭子はスクーターから降り、座席シートを持ち上げて荷物入れからロープを取り出した。なんでも持っている。ロープには尖端に鍵フックが付いていて、それをグルグル回してつけた遠心力で塀の向こうへ放り投げた。フックは何かに巻きついたのか、ロープを手繰り寄せる内にグッと手応えがあった。塀に足を掛けて強く引っ張っても外れない。それを確認した恭子は忍者のように身軽に塀をよじ登った。
「すげえ」
唖然と見守る男たち。
「なにボーっと見てるのよ。私が下に降りたら合図するから、順番に上ってらっしゃい」
そう言って、恭子は塀の向こうに消えた。しかし、すぐにロープが揺れた。上がって来いという合図だ。まずは良太が続き、そして、英介も上った。
塀の向こう側には公園が広がっていた。家族連れや恋人達が寛いでいたあの公園だ。今は誰一人として姿が見えない。管理センターが閉ざされているので当然ではあるが。
管理センターはそこからまた戻ることになる。恭子はロープを肩に巻いて走っていく。一息吐く暇もなく、げんなりした顔で後を追う男たち。
正門から見えるロビー入り口側ではなく、守衛室へ回り込んで、恭子は立ち止まった。追ってきた男たちはすっかり息が上がっている。呼吸にさした乱れもない女とは好対照だ。
守衛室の中は黒く焼け爛れていた。守衛室がある側の外壁が大きく開いている。そこからロビーの様子が見えた。ロビーは床に大きな穴が口を開けていて、爆発源が地下であったことを物語っていた。
「やっぱりお前が持ち込んだのは核じゃなく、ただの爆弾だったんだぜ。知らされていなかっただけさ」
「違う」
良太の指摘に恭子は強く否定した。
「爆破しただけじゃ、意味がないのよ。セカンドコントロールがあるくらい軍だって想定していたわ。まさかここまで完璧にサポート出来るとは思ってなかったけど。だから、核なのよ。核は爆破だけじゃなく、汚染もする。それも何百年も続くわ。カニ国としては喉元に切っ先を突きつけられたも同然なのよ」
「じゃあ、いったい」
「それをこれから調べるんじゃない」
恭子はその割れた壁から入った。
「爆風で何もかも吹っ飛んでるぜ。今さら調べても証拠なんてないだろう」
「見てみなきゃわからないでしょ? 能書きの多い男ね。それに核もあるし」
「なるほど」
恭子の本当の狙いがわかった。
ロビーに開いた穴を覗き込むと暗く底は何も見えない。まるで地獄の入り口の封印が破られて、今にもそこの住人が現れて来そうだ。背筋に冷たいものを感じて、三人は階段を降りた。
階段の所々は天井が半分落ちかけていたり、階段そのものが崩れて抜けている箇所もあったが、なんとか地下四階まで辿り着くことが出来た。四階は床に水が溜まっていた。しかし、然程深くなく膝までもない。上の三階に通っている送水管が破裂して溜まった水だろう。すぐに送水が止められたのか、大きな被害にはなっていない。無論、爆破による破損は惨憺たるものだが。三人は恭子が照らすライトの灯りを頼りに廊下を進んだ。
「視界が狭いってぇのは、なんとも不気味な映像を映すもんだな」
良太の言う通り、ライトが照らし出す部分だけしか見えない。それが廃墟然とした映像のように灯りに浮き出るので、むしろ闇に隠れた箇所が恐ろしい想像を掻き立てて一層恐さが増幅される。
「それにしても凄まじいもん……」
言いかけた良太を恭子の右手が塞いだ。
「しっ。誰か居る」
恭子は囁いてライトを消し、前方を警戒した。三人の前にあるはずなのは、コントロールセンターへ通じる入り口だ。システムがダウンして、セキュリティー機能で扉がロックされているのかと思っていたが、先に侵入した者によってこじ開けられているようだ。時折水を掻くような音がする。ライトが部屋の中を照らしている。確かに誰かがコントロールセンター内に居る。その侵入者が照らすライトを目指して、三人は水音を立てぬよう手探りして進んだ。扉は半分程開いていた。抜き足差し足で入る。その先にもう一つ扉があって、もしここで侵入者が出て来れば鉢合わせだ。だが、先方は必死で何かを捜しているのか、激しい水音をさせて部屋中を動き回っている。お陰で気付かれずに、三人はコントロールセンターの中へ侵入した。壁伝いに背を付けて奥へ進む。侵入者の荒い息遣いまで聞こえる近さだ。
「くそっ! いったいどうなってやがる」
ふいに侵入者の声がした。その声に恭子は全身が強張った。マスクだ。声は会田洋二に違いなかった。
「誰だ!」
マスクは振り向いて辺りをライトで照らした。三人はしゃがんで瓦礫の影に隠れた。直後にマスクの大きなため息がした。思い違いに、大きく息を吐き出したのだ。
「いかん。もうこんな時間か。このどぶ水の中じゃ体が持たん」
独り言を言って、マスクは出口へ歩き始めた。それに呼応するように、三人は部屋の奥へ移動した。マスクの照らすライトの灯りが遠ざかって行く。水音も遠くで聞こえるようになり、やがて静かになった。
「ふー」
三人が同時に息を吐き出した。緊張でまともな呼吸をしていなかった。恭子が再びライトを点けた。
「誰だ。ありゃあ」
「マスクよ」
「え?」
「あれがマスク……」
得体の知れないものを見た恐怖が後で染み上がって来るような感覚を良太は味わっている。
「あいつだったんだわ」
「何が?」
良太の声は震えていた。
「あいつがアスカルを爆破したのよ」
「へっ!」
「マスクも何処かの国の工作員だったんだわ」
「でも、アスカルの責任者なんだろ? そんな重責にスパイなんか」
「それがスパイよ」
恭子は平然と言ってのけた。その平坦な言い回しが一層言葉の意味を重く感じさせる。
「能力があるからスパイになるのよ。どこの国にも重要ポストに何人かのスパイが潜り込んでいるんじゃないかしら?」
「そうなの?」
驚きを隠せない良太。英介も唖然とするばかりだ。
「今さら感心している場合じゃないわ。私たちにも探し物があるのよ」
恭子は瓦礫となったオフィスをライトで照らした。デスクの幾つかは原型を留めない程に歪んでいる。他は砕け散ったようだ。よくこの衝撃の中で核が爆破されなかったものだと、男二人は唸った。
「マスクは何を捜していたんだ?」
良太でなくとも、首を捻りたくなる。この瓦礫の中で捜せるものではない。とはいえ、この三人も探し物をしているのだが。
「マスクは確かめに来たのよ。あいつが爆破したんだから、この部屋に何かを隠しておく訳がないでしょ。計画通りにアスカルを破壊したはずなのに、カニ国の送水システムに支障は出なかった。その理由を確認しに来たんだわ」
「マスクはアスカルの責任者だったんだろ? そいつが知らないことってあるのか?」
「そうよね。……意外に、カニ国って甘い国じゃなかったのかもしれない。表面上はお人好しな印象が強いけど、なかなか侮れないわ。ひょっとしてマスクの正体を知っているのか……私もそう?」
恭子は背筋を寒くした。ずっと泳がされていたとしたなら、どこかで監視されていないとも限らない。だが、まさかとも思う。これまで慎重に進めて来た自負がある。それを見抜いていたとするなら、初めからバレていることに……猿国にスパイ? 恭子は苦笑いした。まるで狐狸の化かしあいだ。しかし、自分の計画は誰も知らない。これまで誰にも打ち明けてはいないのだから。
三人は限られた灯りの中、ほとんど手探り状態で部屋中を探し続けている。おまけに足元には水が溜まり、その冷たさと水面下に無数に転がる機器の破片で、捜索は遅々として進まない。
「マスクが確かめようとしたことって何だ?」
「それを私に聞かれてもわからないわ」
「この際だから聞いとくけど、お前の任務って何だったんだ? 軍から俺たちに届いた指令のアスカルを引きこめってどういう意味だ?」
急に恭子が立ち止まった。それに気付かず、後ろを歩いていた良太が彼女の背中に当った。
「なんだよ、急に。止まるなら、止まるって言え」
「アスカルを引きこめ? 本当にそういう指令なの?」
「そうさ。お前にも同じ命令が出てるんだろ? さっぱり意味がわからないからさ」
「違うわ。私にそんな命令は出てない」
「え?」
良太だけでなく英介も声を上げた。
「アスカルを引きこめ、アスカルを引きこめ、アスカルを引きこめ……」
恭子はうわ言のように繰り返した。
「わからない。思い出せない。喉元まで出掛かっているような気がする。……ああ、じれったい」
恭子は頭を掻き毟った。ライトの光が辺りに散乱する。
「おい。今、何か光らなかったか?」
英介が光った方向を指差した。振り向いた恭子がその先へライトを当てる。すると壁に食い込んだ金属片の一部が光った。近寄る三人。
「あった!」
恭子が歓喜の声を上げた。そこに核を収めたケースが顔を覗かせていた。きっとその金属片は、恭子が隠したデスクの成れの果てに違いない。ケース自体の強度もあるが、デスクが爆破の衝撃を幾分吸収してくれたのだろう。壁に食い込んだ金属片を三人がかりで何とか引き抜き、良太が落ちていた鉄の棒をバール代わりに使って、変形した引き出しからケースを取り出した。そのケースを拾い上げる恭子。
「そいつをどうする気なんだ?」
良太は恭子が持つ核に手を伸ばした。それに抵抗するように、恭子は背後に隠した。
「アスカルはご覧の通りだ。もうお前の任務は終わったんじゃねえのか」
迫る良太に恭子は拒否の首を振る。
「これは私に必要なの」
突然ライトを消したから、辺りはたちまち闇に包まれた。直後に水飛沫の音が立て続けに起きた。恭子が逃げて行くのだ。
「何処だ! 何処行った!」
良太が叫んだとき、灯りが遠くで点いた。恭子が持つライトだ。後を追おうとする男二人。しかし、互いに体がぶつかってもつれた。追いかけようとした勢いが二人の体勢を崩し、共に転んだ。大きな水音が反響する。
「くそっ!」
二人共全身ずぶ濡れだ。それでも、灯りが照らしていた方向を目指して、起き上がってすぐに走り出す。
良太が地上階へ出たとき、正門を走り抜けて行く恭子の後姿が見えた。水浸しの体がズシリと重たい。気力だけでは足がもう前に進まない。遠く消え去る彼女を眺めて、その気力も力尽きて行った。
石臼国と牛の糞国の内諾を得たハチュードは秘密裏に帰国した。あとは同志を募るばかりだ。それももう根回しは済んでいる。自分の号令で各地から大勢の若者達が集まって来るはずだ。
「女王陛下。お呼びでしょうか」
「そこにおかけなさい。今は二人だけよ。姉と弟でいいわ」
「はい」
ハチュードは姉ハチルダが示したテーブル席に腰掛けた。彼と対面して姉も座る。
「しばらく居なかったみたいね。何処に行っていたの?」
「気ままな立場です。気の向くままにあちこちと」
「貴方は女王である私の弟なのよ。あまり勝手な真似はしないで」
ハチルダはきつく弟を睨んだ。
「申し訳ありません。以後は気を付けます」
ハチュードは深く頭を下げた。
「いいわ。今日は別の用件で貴方に来てもらったのよ」
「なんでしょう。私でお役に立てるのであれば」
「カニ国へ行ってちょうだい」
「カニ国へ? どのような役目でしょうか」
「私の親書を蟹久陛下に届けて欲しいの」
「親書?」
ハチュードは訝しんだ。今更カニ国に親書などあり得ない。蜂国は今や遅しとカニ国に戦争を仕掛けようとしているのだ。カニ国に送り付けるとしたら、それは宣戦布告状だろう。それとも、その親書がそうなのか? そうとすれば迂闊に受けられない。古来より、宣戦を布告する使者はその役目を果たしたと同時に最初の犠牲者として血祭りに上げられる倣いだ。姉は自分の動きに気付いているのだろうか? それはないはずだが。ハチュードはすまし顔の姉に不気味なものを感じた。
「何か不審でもあって?」
「いいえ。姉上が親書を書かれるなど珍しい事もあるのだと」
「先日、カニ国より贈り物があったの。私の大好物のレンゲの蜜よ。そのお礼。それとお返しも持って行ってもらうわ。ハッセンに手配させてあるから、あとで目録を確認しておいてちょうだい」
「畏まりました」
ハチュードは恭しく一礼して退出した。
「ハッセンは今何処にいる?」
王宮の秘書室に立ち寄って、ハチュードはそこにいた秘書官に尋ねた。
「ハッセン様は貯蔵庫でカニ国への贈答品の検分中かと思います」
「わかった。ありがとう」
ハチュードは地下の貯蔵庫へ向かった。蜂国の内務大臣が貯蔵庫で作業か。ハチュードは苦笑した。昔から我々姉弟の面倒を見てくれている謂わば養育係のような存在だ。姉が女王となってハッセンも大臣となったが、自分も偉くなったと勘違いするタイプでもない。むしろ自らが確認しないと納得しない男だ。そういう点では有難い存在である。
貯蔵庫の重い扉を押し開けると、数人の男たちが品物とリストの確認に余念がなかった。その中にハッセンもいた。
「ハッセン。そのような仕事はもうお前が手を出さずともいいのではないか?」
声をかけられ初めは怪訝な表情だったが、それがハチュードだと気付くとハッセンは満面に笑みを浮かべた。皺の多い顔が一層くしゃくしゃになる。
「これはこれはハチュード様。いつお戻りに?」
「昨夜だ。留守にして迷惑をかけた」
それには首を横に振りつつ、今検分していた品物を一つ手に取ると、ハチュードに歩み寄った。少し足取りが覚束ない。積年の苦労が足腰に溜まっている。
「どうです? なかなかの上物ですよ」
それをハッセンはハチュードに差し出した。
「何だ?」
「柿です」
「柿?」
ハチュードはハッセンから受け取り、匂いを嗅ぐと、一口齧った。
「どうです? 甘いでしょう」
「おお。いい甘さだ。この柿がどうしたのだ?」
「カニ国への贈り物ですよ」
「カニ国へ?」
ハチュードは眉根を寄せた。柿はカニ国にとって最も忌み嫌う物だ。それを同盟国が贈る訳がない。やはり仕掛ける気なのだ。
「如何なされました」
ハッセンはハチュードの表情の変化に目敏く気付いた。
「ハッセン。お前に話しておくことがある」
「何でございましょう」
不安げな老人をハチュードは貯蔵庫から連れ出した。地下へなど滅多なことでは誰も寄り付きはしない。ここなら安心だろう。
「ハッセン。これから私が話すことはお前の胸の内にだけ仕舞っておいてくれ。いいね」
それに黙って頷くハッセン。
「私は姉上と袂を分かつことにした」
「!」
あまりのことに声を失ったか。
「姉上も薄々は気付かれているようだ。先ほど呼ばれて、カニ国への使者を頼まれた」
「あの柿を持って行かれるのですか」
「その意味がわかるね。柿はカニ国にとって不吉な物だ。ご先祖様が柿に当ってお亡くなりになっている。猿との紛争に繋がったにっくき代物だ。それを我が国は返礼品として贈ろうとしている。嫌がらせ以外の何ものでもないだろう。その使者に私が立つのだ。姉上が私をどう扱おうとしているのか歴然としている。骨肉の争いほど醜く厄介なものはない。ましてそれが政権に拘わるものなら、無視は出来ない。向こうから仕掛けて来たのだ。私は受けざるを得ない」
「ご姉弟で戦争をなされるのですか」
悲痛な声をハッセンは上げた。頬を滂沱の如く涙が流れる。
「お前にはすまないことだが、仕方ない。王家に生まれた宿命だ」
「私もお供させて下さい」
「お前はここに残れ。姉上もお前にまで手は出さないだろう」
「ハチルダ様はもう昔のハチルダ様ではいらっしゃいません」
ハッセンは涙を拭きながら首を横に振った。
「あの栗国のエドガーとお知り合いになられてから、お人がすっかり変わられてしまわれました」
そうだったのだ。ここ数年の変貌振りに影を潜めているが、以前は優しい姉であった。すべての元凶はあのエドガーにある。しかし、もうどうにもならない。何度か諭したこともあるが、聞き入れる姉ではなかった。恋は盲目なのだ。持って生まれた姉の運命なのかもしれない。そして、自分の運命でもある。私には、邪悪に染められてしまった姉を排除し、嘗ての蜂国を取り戻す使命がある。それが王家に生まれた者の努めなのだ。
「わかった、ハッセン。お前も私と共に来るのだ」
ハッセンの震える肩に手をやり、遂に決意するハチュードであった。
宇宙船のモニターはしっかり恭子の姿を捉えていた。だが、市街地の上空を飛行する訳には行かない。あまりにカニ国に対して刺激が強すぎる。我々は過去の生物なのだ。人類は死滅したことになっているのだから。元雄は恭子が市街地から離れ、山間部へ入るのをじっと待った。
それから一時間ほど経過して、ようやく恭子は山道に差し掛かった。彼女も心得ている。元雄は先回りして、彼女を引き上げ易い窪地へサーチライトを当てて誘導した。恭子は上空から降りる紫の光線に気付き、その方角へスクーターを走らせた。やがて指定された窪地に到着すると、恭子は座席の荷物ボックスから例の核を収めたケースを取り出し、胸に抱えた。頭上には宇宙船がオレンジに光っている。
「よくよく君たちは水に濡れるのが好みなようだ。いっそ、カニ国人へ帰化してみたらどうかね」
竹内老人はそう言って大笑いした。また老人の服を借りてソファーでうな垂れる英介と良太。体の疲労感以上に、同じ女に騙された失望感の方が強い。
「さっき翠に、君たちが疲れ切った顔でしょ気ていると送っておいたから、今夜は元気が出る料理でも作ってくれるだろ。期待して待っていなさい」
老人はどうしてそう楽観的でいられるのだろう。一つ間違えば、今頃カニ国は深刻な事態に陥っていたかもしれないのに。
「悲観的になろうが、楽観的になろうが、結果は一つだ。それが我々の努力で変えられるものなら別だが、どうしようもないものに我々が一喜一憂したところで、仕方ないではないか? 違うか?」
飄々としながらも、腹はしっかり定まっている。老人の落ち着きぶりはそこにあるようだ。そして、翠の冷静さもこの老人譲りであることは間違いない。
「昔、わしの学生時代にこんな面白い男がいたよ」
唐突に老人は話題を切り替えた。見るも無残な男たちの気持ちを和らげる目的か。
「そいつは優秀な奴でな。学年トップはおろか、カニ国史上稀有の天才ではないかと噂が立ったほどだ。確かに、そいつの独創性には誰も追随を許さない輝きがあった。そして、ついにそいつはとんでもないものを発明したと宣言したんじゃ」
「とんでもない発明?」
ようやく二人は老人の話に反応した。それに嬉しそうに頷いて、老人は後を続けた。
「詳しい理論はわからんが、それが実現すれば、大昔へ先祖帰りするんだそうな」
「先祖帰り?」
「そう。君らは木に登る猿に、わしらは川や海の蟹に戻る、というものらしい」
「まさか」
二人共否定の首を振る。
「まるで、何もかもなかったことにしてしまう話ですね」
英介が苦笑した。笑い話にでも出てくるような発明だ。現実的とは思えない。
「それで? その発明は成功したのですか?」
「わからん」
老人は首を横に振った。
「卒業しても何年かは研究室におったようだが、忽然といなくなったらしい」
「行方不明ですか」
「うむ……」
急に老人の歯切れが悪くなった。
「逮捕されたとも、亡命したとも……。発明の内容が内容だけに、危険人物扱いされてもおかしくはない。しかも、そいつの天才振りは有名じゃったでな。政府が警戒したのかもしれん。もしそいつが生きておって、研究を継続していたとすれば、その発明は実用化されているような気がする。それほどにそいつの頭脳はグンを抜いておった」
老人は一人何度も頷いた。
「わしらは人間に代わって文明を得た。それは利益をもたらし、それ以上に大きな災いをもたらしておる」
「災い? どんなものですか?」
「端的に言えば、国家だよ。境界線を引き、他国を区別するようになった。それは敵視でもある。確かに大昔は、わしら蟹は川に暮らし、海に暮らして、それぞれに縄張りを持って生きていたようだ。だが、それは個々の争いであって、国家ではない。国家は好むと好まざるとに限らず、右を向けと言ったら右を向かなければ、反政府扱いされてしまう。為政者が戦争すると宣言してしまえば、国民全員が戦場に狩り出される。個々の縄張りは個々の問題で方が付くが、国家の縄張りは底なし沼に皆が嵌るようなものだ。文明の大罪は国家を作り出したことだな。我々は一人だけで自分の生涯を完結出来ない。誰かしらの作り出したもので生かされている。今、君たちの着ている服を見たまえ、この部屋にある家具や電化製品を見てみたまえ、何一つとして自分が作ったものではない。違うか?」
「なるほど。一つもないや」
良太がため息をついた。
「無論、私や君たちが貢献していない訳ではない。問題は、生活の隅々にまで入り込んだ文明の産物を我々はもう無視しては生きて行けないということだ。作る者、売る者、運ぶ者、買う者、不要となった物を処分する者。そういう者たちがいて、それがまた上手く機能し流れるように監視する者もいる。その集合体が国家だ。無人島に住めばよくわかる。そこには一切の文明がない。つまり国家も社会もないのだ。誰も君を救ってはくれない。たちまち死に直面する。君は君自身で自分の命を守らなければならない。その意味がわかるかね?」
「何か外敵からですか?」
「そりゃ、猛獣がいないとは限らないからね。その必要もあるだろう。だが、それより前に重要な問題がある」
「何だろう……」
英介は指を顎に当てた。
「まず食だ」
「あ!」
あまりに当然過ぎて気付かなかった。
「無人島に食料はない。実際には、野草や木の実、海には魚や貝類があるだろう。だが、知識がなければ、野草なら何を食べていいかわからない。中には毒性の物もある。海に入っても魚は捕らえられないだろう。ま、貝類は採れるかな。では、次に火だ。ライターでも持っていればいいが、なければ火起こしから始めなければならない。現在は極端に我々の免疫力が劣っている。加熱せずに貝類を食べればたちまち毒に当り、よくて食中毒。悪ければそのまま死ぬじゃろう。知識や経験の有る無しで、生死が決まる。今の我々はそのほとんどが虚しく絶望の果てに死んでいくだろう。個の力や能力を増幅させるために生まれた文明が今や個単独では成立しない社会を作り上げてしまった。言い換えれば、文明が個を無能にしているのだ」
実感としては湧かないが、無人島に自分を置いてみると、何一つ実行出来ない自分に気付く。火を起こすことさえ難しいだろう。すっかり文明が作り出した社会に浸かってしまい、そうなっていることにさえ気付かないでいる。
「そいつは本来あるべき姿に戻るべきだと唱えてな。源生回帰論なる論文を発表したんじゃ。今話した論法で文明は我らに毒となっていると言ってな。文明を真っ向から否定したんじゃ」
「げんせいかいきろん?」
「源に生きると書く。文明を捨て、自然に帰る。という考えだ。最初はまあ、賛同する向きもあったが、一旦世間に否定されると、意固地になるようでな。そいつの考えはどんどん過激な方へ狂い始めていきよった。わしの知る限りでは、最後は狂人扱いされておったわ。そんなことだから、誰もそいつには寄り付かんようになって。わしもまだ若かった。皆と共に遠巻きにしておったら、その内にふっと居なくなってしまった」
語り終えた後、老人はふと遠い眼差しをした。友人への想いを重ね合わせているようだ。
「余計な昔話を語ってしまったの。水が止まると聞いたとき、わしら本来の水辺に暮らす蟹であったなら、そんな煩わしさなど知る由もなかったろうと思ってな。そう考えておったら、そいつのことを思い出した」
いつもの柔和な顔で老人は締めくくった。
今夜も翠の手料理をご馳走になり、また彼女の運転でアパートまで送ってもらった。見送る老人の優しくも寂しげな表情が二人の心に残る。明日もここへ帰って来るのだろうか。まるでもう一つ故郷が出来たような思いだ。
今夜は検問もなかった。カニ国の警察はどこまで寛容なのかと疑いたくなる。
「今日はアスカルに行ってみたのですか?」
翠が聞いた。
「ええ。行きました」
英介はそこでの出来事を何処まで話していいものか迷った。
「酷いもんでした。地下に爆弾が仕掛けられていたんですね。ロビーに大きな穴が」
言いよどんでいる英介に代わって良太が割り込んだ。
「それはあなたたちが準備されたものではなかったのですね」
「ええ。違います」
翠は息を吐き出した。英介の回答を緊張の面持ちで聞いたのだ。彼女の片隅に疑いが残っていたのだろう。そのため息は彼女の安堵を呼び込むものだったようだ。
「核の行方は?」
核心を突かれて、男二人は押し黙った。いやな沈黙がその場の空気を悪くする。
「軍事機密とおっしゃるのなら、無理には問いません」
「いえ、その……」
「もう、よろしいのよ」
翠は努めて明るく答えた。だが、内心は面白くないはずだ。自分たちの生死が関わっている。ここで改めてその話を持ち出したのも、老人の二人に対する心象を悪くしないようにとの彼女なりの気遣いがあったからだ。それだけに自分には正直に伝えて欲しいという思いが強いだろう。その気持ちを無碍には無視出来ない。英介は決断した。
「核は見つけました」
良太が押さえつけてくるかと思ったが、大人しくしている。彼も翠の気持ちを察したのだろう。
「ですが、残念ながら、奪われました」
「奪われた?」
翠は車を停めた。
「恭子が逃げたのはその所為です。彼女が持って行ってしまいました。先ほどはあまりはっきりとは言いませんでした。ご心配を増やすだけだと思って」
「そうですか……」
「苦しい言い訳ですが、彼女なら無謀なことはしないと思います。あの核を持ってこのカニ国へ潜入して以来二年間、彼女は核と共に過ごしていたのです。ある意味、核の使い方を一番知っていると言えます。安易に爆破してしまえば、後に統治する者が苦労します。どう使えば有効なのか。これはカニ国への脅迫という手段としてですが」
「いずれにしても、核の行方はわからない。ということですね」
「ええ。そうです」
英介の語尾は小さく消えた。
「仕方ありませんわ。その方があなたたちより一枚も二枚も上手なんですもの」
翠は車を発進させた。
「その方は核をどうなさるお積りなんでしょう」
「それもわかりません。猿国の任務とは別の目的を持っているようでしたから」
「あいつもアスカルを狙っていたようだから、カニ国への脅迫が目的なんじゃないか?」
良太の珍しくつぼを突いた発想だ。
「そうか。翠さん。カニ国にとって、アスカルに匹敵する重要なものはなんですか?」
「重要なものですか?」
翠は小首を傾げた。
「帰ったら、祖父に聞いてみます。わかり次第ご連絡しますね」
「はい。待ってます」
車はアパート前に着いた。
「どう思う?」
英介が聞いた。アパートの部屋に入り、冷蔵庫からビールを取り出した良太に発した英介の第一声がそれだった。
「どうって?」
英介にビールを渡し、良太はソファーに座った。英介も座る。
「アスカルに代わるターゲットさ」
「わからねえよ。カニ国についちゃあ、あまり情報を持ち合わせてないんでね」
良太得意の困ったジェスチャーだ。二人同時にため息をついた。
「ところでさあ。軍からの命令をあいつに言ったら、聞いてないて言ってたよなあ」
「ああ。そんな命令は受けてないとか」
「いやにイラついてなかったか? なんか出そうで、出ない答にさ」
「そうだな。あいつが頭掻き毟って核が見つかったんだ」
「……アスカルを引きこめって、なんだ?」
二人が同時に声を出した。
「まだアスカルに秘密があるのか?」
「しかし、引きこめって言われても、俺たちはアスカルがどんな機構だったのか知らないし、確かめようにも、あの状態じゃあな。こいつは命令を下した張本人に聞くのが一番だ」
良太は立ち上がった。
「何処に行く」
「伝書鳩さ。連絡手段はあのポッポしかねえからよ」
「今朝飛ばしたばかりだろ」
「あ、そうか。不便な通信手段だ」
良太は頭を掻いた。
結局、その日、翠からの連絡はなかった。老人にもアスカルに匹敵する重要拠点の心当たりがなかったのだろう。
翌朝、英介が目覚めると、ベランダに鳩が来ていた。小屋に移して、念の為足に付いたカプセルを取ると、中に手紙が入っていた。本部からの指令だ。
「おい、良太。至急帰還せよ。とのことだ」
「ええ?」
眠気眼を擦りながら良太が起き上がった。その寝ぼけた顔先に手紙を突き出す。
「帰れってか」
憮然と良太はソファーに座った。
「命令だ。仕方ない」
「後のことはどうする気だ」
良太はまったく気乗りしていない。
「どうしようもないだろう」
「お前は相変わらず堅いな」
「本部からの命令だぞ。逆らえば軍法会議ものだ」
「わかってるよ。言ってみただけさ」
英介とて、後ろ髪引かれる思いが強い。当面の危機は回避されている。恭子の動向は気になるが、今すぐに無茶はしないだろう。ここは一旦引き上げて、またの機会を窺うより手段はない。本国へ帰れば、アスカルに関する情報収集も可能だ。そう自分に言い聞かせて、英介は準備に取り掛かった。
もうしばらくは誰も来ないから、鳩小屋の扉は開けたままにした。餌がなくては鳩も可哀想だ。通信手段はまた考えればいい。アパートの鍵も閉めなかった。盗られるものなど何もない。変な話だが、恭子がひょっとして帰って来る事を、お互い口にはしないが諦めていない。当然のように鍵はポストに入れ、二人はアパートから立ち去った。
翠にはメールを送った。電話をすれば、未練が頭をもたげるかもしれない。翠や老人の声を聞けば、心のぐらつきを抑える自信がなかった。翠からの返信はなかった。出勤の準備でメールに気付いていないのだろう。むしろその方がいいのだと、英介は自分の感情をねじ込んだ。
市街地から離れた森にスカイライダーは隠してある。そこまで黙々と二人は歩いた。後ろを振り返ることさえしない。今は一軍人として任務の終了へ向け歩くだけだ。
やがて森に辿り着き、スカイライダーを覆っていた枝を取り除く。エンジンを始動させると快調に唸りを上げた。主翼と尾翼をベルトで体に固定した。もう一度携帯を見たら、翠からの返信があった。妙に鼓動が高鳴る。文面は「ご無事で」と短いものだった。ちょっと悲しい。だが、これで吹っ切れるような気がした。
「さ。帰るぞ!」
英介が声を上げた。
「おう!」
それに良太が応えた。二機は短い滑走で上空へと飛び立った。
だが、しばらく滑空すると、後方から嫌な金属音が猛スピードで追いかけてくるのがわかった。戦闘機だ。母国のお迎えが敵地まで来るはずがない。明らかにカニ国のものだ。あっという間に二人はすっかり取り囲まれてしまった。戦闘機に前後左右を塞がれ、下降するしかない。地上では戦闘機と連動した装甲車が数台走っている。もう八方塞がりだ。
パパ。パパなの? 男は笑顔で恭子を抱き上げた。まだ幼い彼女は父親の頬に自分の頬を摺り寄せて甘える。だが、それも束の間。男の姿は掻き消え。恭子は一人取り残されていた。いやー。いやー。行かないで、パパ‼
そこで恭子は目覚めた。いつも見る嫌な夢だ。口の辺りが強張っている。きっと強い歯軋りをしていたのだろう。
宇宙船は湖底にその船体を横たえていた。
操縦室に入ると元雄たちがモニター画面を眺めていた。
「おはよう」
「その不機嫌な声は、また嫌な夢でも見たのかな」
元雄は席を離れ、熱いコーヒーを注いだカップを持って来た。恭子に差し出す。
「あなたには関係ないわ」
カップを受け取り、恭子はそっぽを向いた。それに苦笑する元雄。
「面白い画が先ほど入って来た」
「なに」
素っ気無い問いかけだ。
「まあ、見てみな」
元雄はビデオを映し出した。そこには骨組みに羽根だけを付けたような物が二機上空を飛行している映像だった。すると右手から戦闘機が追いつき、あっという間に四機が取り囲んだ。
「珍しいだろ? あれは明らかに民間の、しかもレジャー用だぜ。それを軍機が包囲したんだ」
「……もっとアップにして」
初めは感心を示す風でもなかった恭子が急に一点を見つめ出した。元雄がズームに切り替えると、その玩具のような飛行物に乗る男たちの姿がぼんやりと映った。少しフォーカスがぼけている。
「英介と良太よ。間違いない」
今は食い入るように映像に寄る恭子。
「いつ撮ったの?」
「30分ほど前だ」
「軍に捕まったんだわ。帰国しようとして、待ち伏せされたのね。やはり私たちはカニ国に見張られていたのよ」
「どうする?」
「……」
恭子は迷った。二人を救出に向かうべきか。しかし、そうすれば失うかもしれない代償は大きかった。
「やあ、ようこそ、カニ国へ。といっても、君たちは随分前から潜入していたようだが」
男はニヤリと笑った。英介と良太は後ろ手で手錠をかけられ、大きなテーブルを前に座らせられている。広い会場だ。天井には豪華なシャンデリアが吊るされている。会議室だろうか。
「いつから気付いていた!」
口は止められていないので、話すことは出来る。良太が男を睨んだ。
「若いというのはいいものだ。恐さを知らない」
男は冷たい表情で立ち上がると、二人の近くに歩いた。会議室には兵士と思われる者がズラリと並んで、二人の不穏な動きに目を光らせている。下手に動けば、彼らの持つマシンガンで瞬時に体は蜂の巣だ。
男が顎をしゃくり上げると、二人の後方にいた兵士が二人に何かを差し出した。引き延ばされた写真だ。見ると、スカイライダーに乗って笑い顔の二人が写っている。これは、たしか……
「そう。君たちが我が国の国境線を跨いだときのものだ。カニの巨像があっただろう。あれはセンサー付きのカメラでね。こうして君たちの記念写真を撮らせて頂いた次第だ」
男は慇懃にお辞儀した。完全に小馬鹿にしたものだ。
「しかも、追跡レーダーがセットされて、我が国内ならほとんどを網羅している。君たちの落ち着き先もすぐにわかったよ」
「くそっ!」
悔しがっても後の祭りだ。
「ずっと泳がされていたってことか」
英介が呟いた。彼の脳裏には恭子のことが浮かんだが、言葉にはしなかった。当然に彼女のことも、この男は知っているのだろうが、もしもの場合もある。
「ただ、わからないのは、君たちの目的だ。その点は延田恭子君にも言える」
やはり知っていた。英介はうな垂れた。これなら、竹内家にも見張りの目が光っていたに違いない。翠の悲しげな顔が浮かんだ。
「それからすれば、会田洋二ははっきりしていたな。アスカルの破壊が目的だった」
「あれはアスカルではなかったのか」
「それに答える義務はない」
男はほくそ笑んだ。実に小憎らしい男だ。
「君たちは今の立場をわかってもらえてないようだ。質問する権利はすべて私にあり、君たちはそれに答えるだけなのだよ。敵国のスパイに黙秘権などないということを知っておくがいいね」
「……」
「少しは理解してくれたようだ。では、聞くが、君たちの任務は何だ!」
「……」
「愛国心かね。それともただ意固地になっているだけなのか」
「我々は延田恭子に裏切りの兆候が見られたので、その調査に来たのだ」
「ほう。それはまた面白い。同士討ちか。では何故、アスカルに侵入した!」
「……」
「また黙秘か。どちらかにしてもらいたいものだ。出来れば素直に話して欲しいものだが。仕方ない。あまり非人道的なことはしたくないのだが、私にも愛国心はあるのでね。自国を守るためには、止むを得ないのだよ」
男はまた顎をしゃくり上げた。すると、また後方から兵士が透明なケースを持って男に近寄った。男はそのケースから注射器を取り出した。自白剤注射だ。
「抵抗すればするほどしゃべりたくなるそうだよ」
男は注射器を見せ付けた。そこへ部屋の扉を開けて入ってくる兵士がある。男に近付き、耳打ちした。それに耳を傾ける男の表情が少し歪んだ。
「残念なことをした。一旦中座する。私が戻るまで牢屋に放り込んで置け」
男は部下に言い捨てると、部屋を出て行った。その後、二人は乱暴な扱いで部屋から出され、牢屋へと連れて行かれた。
京極真治は軍司令部を出て、専用車で首相官邸へと向かった。先ほどまで英介たちを尋問していた男だ。諜報部門の大佐で、怜悧で眼光の鋭い男だ。
軍司令部から首相官邸までは車で五分とかからない。官邸の正面玄関ではなく職員専用の通用門に横付けされた車から慌しく飛び降り、京極は官邸へ入った。
「まったく。至急来いと言われても、こっちは身一つなんだよ」
苛立ちを声にぶつけて京極は大きい独り言を言った。
秘書官から首相との面会が執務室ではなく資料図書室と告げられて、京極は少なからず緊張した。資料図書室は極秘裏の相談がある場合にしか呼び出されない部屋だった。そこなら記者たちの目も届かない格好の隠し部屋なのだ。
何があった。過去にいい相談を受けたことがない。先日もアスカルの爆破事件を聞かされたばかりだ。但し、あれは想定内のことだったので、さして驚きはしなかったが。むしろ京極が仕掛けた囮事件だったのだ。アスカルという心臓部があることを猿国にワザと情報として流し、老朽化した一号機をそれと思わせたのだ。京極の思惑通りに猿国は動き、猿国はまず会田洋二を買収した。彼はアスカル一号機の責任者だが、最近金回りが良くなっていると聞いて調査をかけたら案の定猿国とコンタクトした痕跡が見られた。二号機建設計画が持ち上がってから、一号機のスタッフには一切告げずに進めて来た。無論、京極の指示だ。会田は一号機以外にアスカルの存在を知らない。一号機を破壊すれば、カニ国の息の根を止めたと思うだろう。当然それは猿国にも伝わる。一号機爆破の報道を規制したのも、それに対する重大さを匂わせる狙いがあった。アスカルという餌を撒いて猿国の総攻撃を誘い出そうとしたのだ。カニ国の危難に慢心した猿国はさぞ隙だらけの攻撃を仕掛けて来るだろう。後方の補給体制も組まずに無理押ししてくるに違いない。猿国の戦略はいつも必ずどこか抜けている。今回はその最たるものになるはずだ。一気に叩き潰す絶好の機会となるのだ。それだけに、アスカル一号機が破壊されてもカニ国の水供給に支障が起きていない現状を猿国に漏らす訳にはいかない。会田は射殺した。あとは事情を知っている延田恭子たちを始末すればすべて準備は完了だ。
「お呼びでしょうか」
秘書官に続いて入った京極は一礼した。そこにはカニ国首相蟹江恵一だけが居るはずだった。しかし、京極が目線を上げると、そこにはもう一人の姿があった。その男の存在を知って、思わず京極の呼吸が止まった。あまりにも意外な人物だったのだ。そして、京極がもっとも苦手とする相手でもある。
「皇太子殿下」
「お久し振りです。京極大佐」
カニ国の皇太子蟹任だ。カニ国は天皇を頂点とした階級社会である。身分は官位制となっていて、にっくき猿によって非業の死を遂げたご先祖様が沢蟹であったこともあり、その系統が上流階級の主流となっている。同じ蟹でも海浜を生息地としていた系統は亜流と呼ばれ、それは姓として明確に区別されていた。沢蟹系統は苗字に必ず「蟹」が付き、亜流は「蟹」の使用は許されていない。京極は無論亜流であり、その差別化が彼の権力に対する執着を培う原動力となっていることは間違いない。ところで、三千年は被害者である蟹一族に過去の遺恨を薄める充分な時間となっている。特に主流である沢蟹系統の一族は、裕福な暮らしに浸かり過ぎてしまったからか、自国を取り巻く情勢に鈍くなっている。ましてここしばらくの平穏が彼らに平和主義を寝付かせても不思議ではない。猿国を重要な貿易相手国と認め、パートナーシップ協定を締結しようではないかという動きさえある。一方で、加害者である猿国は、積年の賠償が謝罪を通り越して逆恨みへと反転させていた。猿国政府要人内における反カニ国のシュプレヒコールは公然の秘密となっている。こうした外交上の歪を敏感に察知しているのが亜流の海浜蟹系統で、蟹族でありながら長年虐げられて来たと被害妄想を抱く彼らは、今こそ政権転覆のチャンスと暗躍しているのである。京極はその急先鋒的存在であり、方や蟹任は親猿国を自他共に認める穏健派であった。因みに、ご先祖様直系の皇族には苗字がない。
「首相へ挨拶に来ていたのです」
蟹任はにこやかに笑った。とても大事を前にした微笑とは思えない。思い過ごしだったのだろうか。京極は小首を傾げた。
「偶然とはいえ、殿下にもご覧頂く方がいいと思ったのだ。ま、京極君、これを見てくれ」
蟹江首相は京極をソファーに座らせ、机にあったDVDデッキのスイッチを入れた。数秒のノイズの後、湖の景色が望遠で映し出された。まさかこの場で観光案内のPVを見せられる訳でもないだろうが。京極は蟹江を見た。蟹江は無言で続きを見ろと促した。京極はもう一度画面に目を戻した。映像は湖の端から端までをターンしながら撮っている。
「ここが何処かわかるかね」
蟹江の質問に京極は首を捻った。
「上沢湖だよ。カニール、いや、カニ国有数の湖であり、我らの貴重な水がめだ」
それには京極も頷いた。そう言われれば、見覚えのある景色だ。
映像はいきなりズームとなり、ダムの一画にフォーカスした。上沢湖は人工湖だ。そこに建設された上沢ダムは蟹江の言った通り、カニ国有数の水源であり、電力の供給源でもある。
ダムの上に黒い点のように見えたものは、やがてズームアップと共に人の姿となり、それはすぐに女だとわかった。
「延田恭子」
京極の口元が歪んだ。どうしてそんな場所に居る。京極の脳裏に嫌な考えが浮かび上がった。
恭子はこちらに向かって不敵に笑った。実際には彼女を写しているカメラに対して笑ったのだろう。
「カニ国に警告する。今朝捕らえた猿国人二名を直ちに解放せよ。さもなくばこの美しい湖が放射能に汚染された死の湖となるだろう」
「なに? 汚染だと? ……核? 核を持っているのか!」
京極は拳を握り締めた。
「もう一度繰り返す」
ビデオの恭子は同じ台詞を繰り返した。
「どこでこれを?」
京極は画面から蟹江に視線を移した。
「先ほど送信されて来たのだ」
「え?」
「政府専用チャンネルにだ。あれは外交ルートでしか使われないはずだ。どうしてあの女が知っているんだ」
ここでそれを問い質したところでどうなる。京極は内心で苛立った。ちょっと気の利いたスパイならセキュリティーを掻い潜って政府専用線に入り込むくらいは朝飯前だ。今はそんな事が問題なのではない。重要なのは、あの女が隠し持っている核の所在だ。猿国に潜入させているスパイからの報告では、超小型の核融合カプセルを開発しているらしい。驚くことに手のひらサイズだというのだ。そんなものを持ち込まれてしまえば防ぎようがない。本当にあの女は持ち込んでいるのか。或いはもう何処かに設置されているのか。ダムに投げ込まれたらどうしようもない。あの広大な上沢湖の底を探すなど不可能だ。水抜きしたとしても優に二週間はかかる。
ふともう一度画面に目を戻すと、女が何かを手に持っている。京極は目を見張った。
「核だ」
京極の声に蟹江と蟹任は画面に前のめりとなった。
「こんな小さなものが?」
蟹江は疑いの声だ。前のめり状態から体を戻す。京極の思い過ごしと思ったらしい。
「まだ実験段階との報告しか受けておりませんが、或いは完成していたのかもしれません」
「馬鹿な。如何に猿国の技術を以ってしても、あんな小型に原爆が作れる訳がない」
「爆弾である必要はないのです」
「なんだって?」
「こと我が国に対しては、水を攻められては厄介です。あの上沢湖の水を汚染されたら、お手上げ状態です」
「上沢湖一つが汚染されたとて、代用はいくらでもあるじゃないか。我が国としては致命的とはならんだろ」
「上沢湖だから問題なのです。総理。その地下に何があるのかご存知ではいらっしゃいませんか」
「上沢湖の地下? ……アスカルか」
「はい。アスカルです。最新機能を搭載した二号機を埋設しております。先年、一号機からのシステム移行も終わり、今やカニ国の使用水量の内六〇%までをカバーしております」
「それはわかるが、あの女の持つ核とどう関わる。アスカルは地下一〇〇〇mの深さにあると説明を受けておるぞ。如何に核とはいえ、その深さまで影響する訳がないだろう」
「このカニ国の最大の利点は豊富な地下水です。国の至る処に水脈があり、故に我々は潤沢な水の恩恵を享受できるのです」
「知っておる」
蟹江は何を今さらという目付きだ。
「ですが、地下水をそのまま活用することは出来ない。浄化しなければ我々の体はたちまち雑菌によって硬化が始まってしまいます。アスカル二号機はより殺菌力に優れた処理を可能とした設備です」
「だから、それは知っておる」
「総理。アスカルでは放射能を処理できません」
「なに?」
「アスカルはそこまで想定されて作られてはいないのです」
「だが、あの女が核をダムに放り込んだとしても、アスカルまで影響はせんだろう」
「直接はないでしょう。しかし、総理。アスカルが何故上沢湖の地下にあるかご存知ではありませんか?」
「知らん。そんな説明は受けておらんぞ」
「上沢湖に流れ込む水の成分が我々に最も適したものだったからです。それを地下水と配合してアスカルは全土へ供給しております。いわば、この上沢湖は我が国の水事業の根幹となっているのです」
「うっ」
蟹江は苦渋を顔に浮かべた。京極の話通りなら、あの女はまさにカニ国の喉元へ切っ先を突きつけてきたことになる。
「タイムリミットは今から二時間後だ。彼らの身柄が猿国への国境を越えなければ、この核を湖に投じ、起爆装置を発動させる。時間厳守!」
そこでビデオは終わった。
「くそっ」
京極は拳を自分の膝に叩き付けた。この女は自分が立つ上沢湖の重要性など微塵も知らないだろう。偶然とはいえ、よりによって上沢湖とは。
「止むを得んだろう。その拘束している二名を開放せよ」
蟹江は京極に命じた。
「しかし、あの者たちを猿国に逃がしては、これまで積み上げた計画が無駄になってしまいます」
「カニ国民を代償に計画を遂行させろと言うのかっ!」
蟹江の怒りも尤もだ。だが、猿国を殲滅させる又とない機会を失うことになる。ここまでどれだけの時間と労力を費やしたのか、沢蟹どもは知らないのだ。いかに軽率極まりない猿と雖ももう一度罠を仕掛けるには数年を要するだろう。我らが表舞台に出る日も先送りしなければならない。京極は唇を噛んだ。
だいたい沢蟹どもは間抜けなのだ。大昔の猿蟹合戦からして、大きな握り飯を見せびらかすように持ち歩いておれば、猿ならずとも騙し取ってやろうという気になるものだ。しかも、柿の種と交換するなど、お人好しを通り越して愚かの極みだ。おまけに柿が木の高みに実ることも想定せずにおるのだから、アホーとしか言いようがない。
沢蟹系統の二人に囲まれながら、京極の内心ははらわたが煮えくり返る思いだった。
「君の遠大なる計画がとんだ疫病神を引きこんだという訳だ」
蟹江は皮肉を込めて言った。
京極が資料図書室を出ると、後ろから呼びかけられた。振り向けば、そこに蟹任が立っていた。
「なんでございましょう」
京極は慇懃に一礼して蟹任が歩み寄るのを待った。
「貴方は面白い発想をされる方ですね。あまりの奇抜さに驚きました」
「恐縮です」
「古い型式の一号機とはいえ、アスカルを囮として使うなど、誰も思いつきません。猿国の工作員が入り込んでいることを随分以前から知っていたのですか?」
「それが私の役目でございますから」
「そうですか。先ほどの小さな核といい、猿国の技術は素晴らしいものです。互いに争うばかりが道ではないでしょう。現に経済的には太いパイプもあります。今回の人質解放を契機に、平和裏に今後はお願いしたい」
「我が国はそれでよくとも、先方がそれを望まないでしょう」
京極の答に蟹任は困った顔をした。
「いったいどうなってる!」
「わからん!」
スカイライダーで滑空しながら、英介と良太は盛んに首を傾げた。エンジン音と風圧でどうしても大声になる。
遡ること今から三十分ほど前、牢屋に居た二人はいきなり釈放され、こうして帰国の途についている。理由も謝罪も聞かされなかった。あの鼻持ちならない男も姿を見せなかった。ただ黙って二人の荷物とスカイライダーを返却されただけだ。流石に行き先の確認目的で、ついさっきまでカニ国の戦闘機が二人を追尾していた。もう間もなく猿国の国境線だ。ふいに良太が左手を指差した。その先に例のカニ像が見えた。まさかあれが監視棟になっているとは気付かなかった。
「また記念写真でも撮ってもらうか」
「やめとけ」
良太の冗談に英介は笑った。いろいろあったが、母国に帰って来たという安堵感は大きい。思わず笑みがこぼれる。
快調に飛ぶ二機。しかし、急に頭上が暗くなった。雷雲か? そう思って見上げると、
「!」
彼らの上に宇宙船が覆いかぶさっていた。一難去ってまた一難。加速するが、宇宙船の相手ではない。底の中央が開いて光線が照射された、たちまち金縛りに遭ったように身動き出来ない。彼らは宇宙船に吸い込まれていった。
気付けば格納庫のような場所に寝転がっていた。二〇m四方のスペースに超小型の戦闘機と思われる飛行機が二機置いてある。これを奪えば脱出出来るかもしれない。円く囲まれた壁際には木箱やダンボールが積まれてあった。ここはいったい?
「ようこそ」
ふいに声がした。聞き覚えのある声だ。キョロキョロ見回すが、声の主は見当たらない。
「相変わらず応用の利かない男たちね」
その言い草はまさしく。
「恭子!」
二人揃って上を見上げて叫んでいた。
「憶えていてくれて、嬉しいわ」
恭子はゆっくり階段を降りて近付いて来る。その後ろには見知らぬ男たちが二人。何者だ?
「忘れる訳がねえだろう。この裏切り者っ!」
良太が虚勢を張った。本当は半分嬉しいはずだ。
「あら。それはご挨拶ね。折角助けてあげたのに」
恭子は立ち止まった。まだ英介たちからは距離がある。いつでも逃げられる距離だ。
「助けたあ? お前がいつ俺たちを助けた! 二度裏切られた記憶はあるが、助けられた記憶はねえな」
「なら。どうしてあなたたちはカニ国軍から解放されて、無事猿国まで帰って来られたのかしら?」
「え?」
良太は一瞬ニンマリと笑ったが、すぐに気付いて顔を引き締めた。
「まさか君が何か工作したのか?」
英介は恭子の背後にいる男たちに警戒しながら、近くの戦闘機ににじり寄った。操縦する自信はないが、いざとなれば実弾からの楯にはなってくれる。
「高い代償を払ってね。正式に礼を言うなら、彼に言ってちょうだい」
恭子は後ろを振り返った。後ろにいた男は一歩前へ出て軽く会釈した。
「元雄透です。どうぞよろしく」
もう一人は杉田と名乗った。なんとも暢気な声だ。それに見た目は武器を所持していないようだ。味方なのか?
「かくれんぼはもうそのくらいにして、こっちへ来なさい」
恭子はそう言うと、降りて来た階段をまた上がって行った。他の男二人も彼女に続く。
良太が英介を見た。それに英介は黙って頷いた。二人も階段へ歩き、上へ上がった。
英介たちが入った部屋は操縦室のようだった。前面に大きなスクリーンが映し出されている。どうやら海底のようだ。
「二人共コーヒーは飲むかい?」
先ほど元雄と名乗った男が声をかけて来た。黙って頷く二人。その返事を待って元雄は人数分を用意し始めた。毒入りと懸念されないよう自分たちの分も一緒に作っているのだ。コーヒーの深い香りが部屋中を満たした。
「はい。どうぞ」
「あ、どうも」
元雄が差し出したカップを英介は軽く会釈して受け取り、良太は憮然と手も出さない。元雄たちが最初にコーヒーを飲み、それを確認して英介もカップに口をつけた。程よい苦味と温もりが喉を通って行く。英介は良太に頷いた。だが、良太は一向に目の前に置かれたカップに手をつけなかった。どうやら毒入りコーヒーを疑っているのではなく、恭子と元雄の仲を疑っているようだ。反省のない男だ。しばらく放っておこうと英介は決めた。
「画面に映っているのは海底?」
コーヒーはリラックス効果に優れている。英介はすっかり緊張を解いていた。この部屋の雰囲気もゆったりしたものだ。元雄に恭子、そして、もう一人も部外者が二人居ることなど忘れているような態度だ。
「海じゃなく湖よ」
恭子が振り返って言った。
「湖?」
「猿国の湖。猿田火湖よ」
「ああ。猿田火湖か」
といっても湖底ではその真偽を確認出来ない。
「今、猿田火湖の底に私たちはいるのよ」
「え? 湖底に?」
まさか自分たちの乗る宇宙船が湖底にいるとは思わなかった。
「水の中が一番安全なのよ。レーダーにも感知されないし」
「なるほど」
感心する英介。良太は依然として押し黙っている、ようやくコーヒーに手はつけている。
「あのう……あなたたちはどういう……」
敵とも思えず、英介は遠慮気味に尋ねた。
「僕らは人類の子孫ですよ」
何の警戒もない答が返ってきた。
「人類って、あの全滅したっていう?」
「まあね。一部が直前に脱出して助かったという訳。いくつかのグループに分かれたらしいけど、僕らの先祖は手短な月に行ったのさ。以来、地下に都市を築いてそれなりに暮らしている次第です。だけど、本来の故郷が目の届くところにあるから、時々懐かしさにこうして様子を見に来てます」
「また地球に移住しようという希望はないの?」
「君たちがいるからね。僕らの居場所がないでしょう。いざこざはもうごめんだからね。流石に我々人類は凝りてますよ。今の月での生活に居心地の悪さを感じているなら別だろうけど、それなりに幸福だから」
「もし我々があなたたちと同じ過ちを犯すとしたら?」
「そんな気配があるの?」
「確かなことは言えないけど……」
「空き家ということなら、話は別かもしれないねえ。ま、それはそういう事態になってからのことでしょう」
「……猿国はいずれカニ国に対して戦闘行為に踏み切ると思う」
「英介」
良太が咎めた。それに英介は首を横に振った。
「この人たちは中立だ。信用出来ると俺は思う」
「そんなこと話していいのかい? 信用してくれるのは嬉しいけど、君たちは軍人なんだろ?」
「軍人です。軍人だけど、その前に、人です。猿国人やカニ国人と区別はありますが、皆同じ人です。国の利害の為に他国を侵略することに俺は疑問を感じます」
「なるほど。嘗て人類が肌の色や宗教観の違いで区別したのと同じだな。我々の先祖はその区別に囚われ過ぎて社会をおかしな方向へ暴走させたらしいよ」
「何か回避させる方法はないでしょうか」
「戦争を? それは難しいんじゃない? 戦争をするか、しないか。決めるのは誰? 大統領? 首相? 国王? その国家の体制にもよるけど、元首が一人で決めることはまずないよね。いかに元首が声高に言っても、国民がそっぽを向いていたら、国は元首の望む方向には向かわない。だから、政治家は世論を作るのさ。世論を盛り上げて、国家の雰囲気を目指す方向へ向かわせようとするのさ。一度そういう波みたいなものが動き出すと決して小さな力では止められない。今、君たちの猿国ではそういう波が起きているんじゃないの? だとしたら無理だと思うな」
「そうか……」
英介は項垂れた。
「彼って凡人離れしたこと言うでしょ。私も彼の論法に丸め込まれた口よ」
恭子が苦笑交じりに言った。
「ちょっと酷い言い方だなあ。あれはあれで僕なりの説得だったんだよ」
二人の争点が何にあるのか英介にはわからない。それに気づいて、元雄が補足した。
「まだ話してなかったけど、君たちを助けたのは彼女の決断さ。確かに僕は説得したけど、決めたのは彼女。彼女がうんと言わなければ、今ここに君たちは居なかったことになる」
「どういうことでしょうか?」
「端的に言えば、彼女が持つ核を使ってカニ国を脅迫したってわけ」
「え? 核……」
英介は恭子を見つめた。
「そうだ。核だ。恭子。お前の本当の目的はなんだったんだよ!」
良太が立ち上がって恭子に詰め寄った。
「……」
それを黙って恭子は見上げた。眼差しが回答を拒否している。
「復讐だよ」
恭子の代わりに元雄が言った。
「余計なこと言わないで!」
元雄に叫んで、恭子は部屋を出て行った。それを追いかけようとして立ち上がる英介を元雄は目で制した。
「そっとしておいた方がいい。彼女が一番わかっているのだから」
「何があったのですか? 復讐って……」
「僕も詳しい事情は知らない。あまり彼女が話したがらないからね。断片的な内容をつなぎ合わせると、昔父親をカニ国に殺された、ということらしい」
「カニ国に? 父親を……」
初めて会った夜に、そう言えば父親については話したくない雰囲気だった。そんな事情があったのなら、頷ける。
「だとすれば、彼女はカニ国人だったんだ。あの後頭部の突起は生まれつきだったんじゃないか!」
良太が頭を掻きむしった。益々自分から恭子が遠ざかって行くことに成す術がない状態だ。
「純血じゃないらしいよ。母親は猿国の人だって」
「ハーフ?」
良太に少し精気が戻った。
「ところで、いったいあんたたちと恭子はどういう関係なの?」
気力を取り戻した良太の矛先は元雄たちに向けられた。
「どういう関係もないよ。たまたま彼女が山を彷徨っていたところを僕らが拾っただけさ」
「信じられねえなあ」
良太は元雄に詰め寄った。それを英介が引き留める。
「信じてもらう必要はないけど」
元雄は気にしない素振りだ。かなりこちらの方が上手だ。
「やめなさいよ!」
背後で声がした。振り返ればそこに恭子が立っている。戻ってきたのだ。ちょっと目が赤い。
「その人はあなたたちの命の恩人なのよ!」
恭子の剣幕に思わずたじろぐ良太。
「それは褒め過ぎだ」
「だってそうじゃない。元雄さんが私を説得してくれなかったら、私の決断はなかったわ」
「そうかな。僕には、君はもう決めていたように思えた。僕が背中を押しただけさ」
「違う。あなたは私の命の恩人でもあるのよ。山で拾ってくれた。恩人の言葉には逆らえないわ」
「そう」
元雄は微笑んだ。
「間に入って悪いんだけど、全然話が見えない」
良太は恭子と元雄のやり取りに不機嫌だ。
「説明してあげるわ。そこに座りなさい」
不思議と恭子の指示には従う良太。英介も腰かける。
「私がカニ国に復讐しようとしていたのは元雄さんから聞いたでしょ? 私の父はカニ国人なの。母は猿国人よ。だから私はハーフってわけ。父は学者だった。それは祖父の影響が強くって、むしろ自分の父親である祖父の研究を引き継ぐために、父は学者になったようなものなの。祖父はカニ国でも優秀な研究者だったらしいわ。それがある研究が基で彼の人生は狂い始め、その狂った生涯を父も受継いでしまったのね。同じ研究に没頭してしまったのよ。源生回帰論。二度と口にしないと思ってた。」
「え? それじゃあ、君のお爺さんは竹内教授の友人だったという」
英介が驚きの声を上げた。
「竹内? ああ。祖父と学生時代の友人だった人ね。祖父が亡くなる間際に、その人を頼れと遺言したらしいわ。だけど、父は従わなかった。母のお腹に私がいて、猿国への亡命が決まっていたから」
「猿国へ亡命したのなら、どうしてカニ国へ復讐なんて」
「私が七才になる前よ。突然カニ国の軍人がやって来て、父をさらっていったの。それ以来父は帰って来なかった。カニ国に父は殺されたのよ」
恭子は天井を仰いだ。涙が落ちないようにしているのだ。
「私はカニ国への復讐を誓ったわ。どうすればそれが叶うのか考え抜いて、軍隊に入ったのよ。それも諜報部。その部署ならカニ国の秘密を探れる。運が良ければカニ国の弱点を見つけられるかもしれない。父や祖父を認めようとしなかったカニ国人に目に物見せてやれる。それだけが私の生きがいになっていたの」
「アスカルへの潜入命令は君にとって絶好のチャンスだったのか」
「そうよ。待ちに待った作戦だったわ。だから、誰にも邪魔させる訳にはいかなかった」
「それで俺たちにもきつく当たったんだな」
良太は一人頷いた。恭子への誤解が一つずつ解けていく。
「ところが驚きよ。狙ったアスカルが偽物だったなんて。猿国が間抜けなのか。カニ国の情報操作が見事なのか」
「きっと後者さ。尋問した奴は俺たちだけでなく、マスクのことも知っていた」
「マスクも? 私でさえ気づかなかったのに。マスクがいたから、私はアスカルが本物だと信じて疑わなかったわ。マスクだってきっとそうよ。あいつはアスカルの責任者だったんだもの。もう何年も前から練られた陽動作戦だったのね。完全に負けたわ」
恭子は英介に笑って見せた。自嘲の笑いだ。
「本当のアスカルは何処にあるんだ?」
「わからない。でも、あれもアスカルには違いないわ。ただ旧タイプだったのね。それならマスクが欺かれたのも頷ける。マスクが知らない内に、新タイプへ移行されたのよ。勿論、マスクが怪しいと気付いたから、マスクを含めた旧タイプのアスカル職員にはまったく情報を入れないようにして。凄いわ」
「マスクは何処の国のスパイだったんだ?」
「わらない。……或いは、猿国が買収したのかもね。あいつはカニ国人には違いなかったから。猿国ならそれくらいのことはやりかねないわ」
「あの核はどうした?」
良太はそれが気になる。
「ここにあるわ」
恭子は操縦席下にあるキャビネットから無造作に取り出した。唖然とする二人。大丈夫だと思っていても、やはり核は核で、つい身構えてしまう。それを知っていてわざとか、恭子は何度も宙に放り上げては遊ぶのだ。
「わかったから、もう仕舞えよ」
両手を顔の前に広げて防御の姿勢を取っている良太。それでどうなるわけでもないのだが。
「その核でカニ国を脅迫したのか? なんて脅したんだよ」
「ダム湖をバックに、ここへ核を落として汚染してやるって言ってやったのよ」
「それならいっそ、俺たちだけじゃなく、お前の望みも伝えたらよかったじゃないか」
「バカね。交渉ってね。相手を本気にさせちゃダメなのよ。本気になれば強行に拒否してくるわ。それくらいならまあいいかと思えば同じテーブルに着いてくるの。飲めると思うからこそ、相手も条件を出してくる。それが交渉の基本よ」
「俺たちって、それくらいなんだ」
良太が自嘲気味に呟いた。
「考えてもみなさいよ。カニ国の国益とあなたたちとどちらが重くって?」
恭子の論法に英介たちは苦笑するしかない。
「そもそもお前はカニ国に何がしたかったんだ? 復讐って、まさかカニ国民全員の殺戮じゃないだろうな」
「違うわよ。私はそんな悪魔じゃないわ」
「じゃあ、なんだよ」
良太は少ししつこくなっている。
「謝罪よ。天皇による謝罪。そして、祖父と父の名誉回復。最後に階級制度の解体」
「すげえな。それ全部かよ」
「これでもいくつかは削ったのよ。でも、この三つでも拒否される事はわかっていたわ。私の何処かでそれを期待しながら、いっそカニ国を滅ぼしてやりたいという気持ちがあったのかもしれない」
やはり悪魔の欲望があったのだ。
「最後の階級制度ってなんだい?」
英介が聞いた。
「カニ国ってね。沢蟹と海浜蟹の二系統があるの」
「へ?」
「沢蟹は、例の猿によって非業の死を遂げた蟹の子孫よ。いわば正流。それに対して、海浜蟹の系統は遺伝子変異以降に人類化したカニ人が移住して来たの。亜流と呼ばれているわ。カニ国は階級制度を作っていて、正流が国家の重要ポストを押さえているわ。しかも、苗字に蟹の文字使用を許されていて、亜流とは明確な区別があるの。私の系統は無論亜流よ。祖父も父もその大きな壁に阻まれた面もあったと思う。だから、そんな階級制度なんかぶち壊してやりたかった」
「天皇の謝罪はいいとしても、他の二点はすぐに結果として出て来ないぜ。どう実行を確認するんだ?」
「誓約書を書かせて、それを人質にするのよ。マスコミや猿国みたいな敵国にばら撒けば、無視出来なくなるわ」
「なんだかこの世の中でお前が一番の悪党に思えてきた」
良太の感想に恭子は両手で目を吊り上げて舌を出した。あっかんベーだ。その仕草を止めると、恭子は英介たちをじっと見つめた。その眼差しが愛しげでドギマギする。
「まったく、どうしてあなたたちってこう人の良さそうな顔立ちなのかしら。よくこんな坊やたちをカニ国に送り込んだものだわ。本当に猿国って間抜けな国」
「悪かったな、坊やで」
良太はむくれた。英介は苦笑いだ。あながち外れてはいないとも思う。
「ねえ。カニ国に囚われて、私のお陰で解放されたじゃない? 何かお礼はないの?」
「お礼?」
「ありがとうなんて寝ぼけた答はよしてよ。私は大きな代償を払っているのだから。それに見合うお礼が欲しいわ」
「それで俺たちを助けたってことか。お前らしい打算だよ。それで? なにをしろってんだよ」
良太は胸の前で両腕を組んだ。冷たい態度と見せかけて、もう恭子の為に一肌脱ぐ気になっている。英介はそれを気付かぬ振りで眺めている。
「もう一度カニ国に潜入してみない? 無論、私も行くわ。本当のアスカルを探し出すのよ」
「おやおや。どうりで僕の説得にすんなりと応じたと思ったよ」
これまで聞き役に回っていた元雄がそう言って何度も首を振った。
「したたかな人だね。君は。どうしても復讐を成し遂げたいと思っているんだ。それならもうこれ以上君にお付き合いは出来ないな」
「違うわ。復讐の虚しさは前から私の中にあったの。でも、それを考えてしまったら、一歩も先へ進めなくなる。それが怖かったから、無理に変な弱気が出ないよう抑えていたのよ。あなたの言葉で決心がついたの。今は本当のアスカルが何処にあるのか、知りたいだけ。だって、ずっと騙されていたのよ。悔しいじゃない」
「フーっ。また危険に自分を晒したいのかい? 極度の緊張感やスリルを味わうと依存症になるらしいよ」
「そんな訳じゃないと思うけど」
恭子は曖昧に笑った。自分でもはっきり否定出来ない何かがあるのだ。
「私にはもう帰る国がないから。何処に居ても追われる立場になったわ。それなら何か私が追いかけるものがなきゃ、精神が破綻しちゃう」
「付き合ってやるよ」
良太がポツリと言った。
「どうやら腐れ縁のようだ。とことん付き合ってやるよ」
良太が片手を差し出した。それに恭子は微笑んで自分の手を合わせた。二人の上に英介も手を重ねる。すると元雄と杉田も三人の上から手を置いた。
「しかし、何処をどう探すんだ?」
すっかり打ち解けた雰囲気の中で五人はテーブルを中心に向き合っている。差し詰め、アスカル捜査プロジェクトチーム発足会議だ。その第一号議案を良太が投げたことになる。
「カニ国中を探す訳にもいかないぜ。しかも、きっと地下にあるんだろ? 何か見当がなけりゃ無理だ」
「見当はついてるわ」
恭子の回答に他の四人は身を乗り出した。彼らの前に恭子は地図を広げた。
「元雄さん。私が核を落とすと言ったダム湖を指し示して」
元雄は地図をじっと眺めた後、一点を指さした。
「上沢湖?」
良太が地図にある名称を読み上げた。
「そう。上沢湖」
「ここにアスカルがあるって言うのかよ」
「調べてみないとわからない。でも、不思議だと思わない?」
「何が」
「カニ国にはこの湖のようなダム湖が無数にあるわ。仮に私がこの湖を汚染させたとしても、ここを閉鎖して、他に汚染の影響が及ばないようにすればいいだけじゃない。私の要求にあまりにも簡単に応じているのよ。変だと思わない?」
「つまり、他の湖にない秘密がこの上沢湖にはあるかもしれないと?」
「そう」
「なるほど」
「これは探ってみる価値がありそうだね」
五人はほくそ笑んだ。
「あ! 思い出した」
恭子が突然大声を上げた。
「なんだよ。びっくりするなあ」
意外に良太は想定していない攻撃に弱みを見せる。
「アスカルを引き込めよ。その意味が今わかったの」
「もうそんなの、どうでもいいんじゃないの」
「よくないわよ。ずっとモヤモヤが抜けなかったんだから」
「じゃあ、なにさ」
「時々、マスクが使っていた指示にそんな言葉があったわ。実際にはアスカルに引き込む、だったかな」
「ちょっとニュアンスが違うなあ」
「アスカルを引き込め、アスカルに引き込め。軍の上層がアスカルの機能に精通していたら、そんな間違いはしなかったと思うわ」
「間違い?」
「そうよ、間違い。だからすぐに気づかなかったのよ。アスカルにはカニ国人に適合した浄水を供給する機能と、使用後の汚水を回収して再利用の水と廃棄する不純物とを分離する機能があるのよ。その汚水の回収作業をアスカルに引き込むと言うの」
「ふーん。でもそれは常時行われていることなんだろ?」
「そうよ。だけど、マスクが特に指示する場合は状態が極端に悪いときだけだったわ。地方の浄化装置が故障で使えなくなってタンクローリーなんかで持ち込んで来たときとか、工場で誤って自前で処理できない薬品を投下した排水の対応とか。そういうときは有償で処理してあげるの」
「それを軍はどう勘違いしたってんだ?」
「きっとマスクからそんな作業があることを聞いて、アスカルを内部から汚染させることが可能なんだと考えたんじゃないかしら。そうすれば、供給する浄水にも影響が及ぶ。カニ国全土はたちまち死の水で満たされてしまうわ。結果的に作戦の意図は同じだったということね。表現が間違っていたけど。猿国らしいわ」
最後はくすりと笑った。