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アスカル  作者: 岸 一彦
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妄説猿蟹合戦

昔。蟹が握り飯を持って歩いていた。それを見つけた猿が横取りしようと蟹に声をかけた。この柿の種と握り飯を取り換えてやろう。柿の種を撒けばたちまち芽が出て甘柿になる。人の良い蟹はあまりにしつこい猿に根負けして渋々握り飯と柿の種を交換した。それから蟹は毎日柿の世話に精を出す。その甲斐あって立派に育った柿の木にはたわわに甘柿が実った。しかし、蟹は柿の木に登れない。登れなければ甘い柿を食べられん。すると、代わりにわしが取ってやろうと、また猿が悪知恵巡らせた。猿は柿の木へ身軽によじ登ると、自分一人甘柿を食い散らかして、仕舞にうるさい蟹目掛けて青柿渋柿投げつけた。それがもとで蟹は大怪我を負い、子蟹を生み落として間もなく死んだ。子蟹たちはやがて大人となって、親の仇討ちとばかり、栗、臼、蜂、牛の糞らと語らい、猿の留守に仕掛けた。栗は囲炉裏で熱くなり、蜂は水瓶の裏に潜み、牛の糞は戸口の下へへばりつく。最後に臼が屋根に上って、じっと猿を待った。やがて帰った猿が囲炉裏に手を当てると、栗が爆ぜる。火傷した猿が慌てて水瓶に顔を浸けると、その顔へ蜂がぶんと一刺し。たまらず逃げ出そうと猿は戸口へ駆け込み牛の糞踏んですってんころりん。そこへ屋根から臼が止めの体落とし。こうして子蟹は見事仇討ちを果たした。

実はこの話、ここで終わりとはならなかった。世界を蹂躙する人類の驕りが再び彼らを猿蟹合戦の舞台へと引き上げてしまうのである。しかも、人類が残した文明は彼らに富だけでなく、負の遺産として支配欲をも植え付けてしまった。猿だけが仇とされた第一次猿蟹合戦から、それは少し様相を変えていく。ただ、加害者であった猿が依然として蟹の敵役となるのは猿ゆえの宿命か。


「遡ること三千年。ご先祖様は苦渋の敗北を喫し、以後、我ら一族は屈辱の日々を舐めてきた。それより下ること二千年、つまり千年前。アホな人間の遺伝子誤操作で人間どもは死滅し、お陰で我ら一族は人間に取って代わって文明を得た。しかしながら残念なことに、我らの宿敵もまた同様に勝ち残り、未だ我らに対してその優位を保っている。この三千年という間、その力関係に微塵の変化も見られないことは痛恨の極みである。今こそこの現状を打破し、奴らの包囲網の一角を突き崩して反撃の狼煙を上げようではないか。にっくき奴らを叩きのめしてやるのだ!」

ここは猿国軍部の参謀本部。その広い講堂に全国から選りすぐられた精鋭隊員を集めて、最高司令官が檄を飛ばしている。

「おい。ご先祖様がうちのめされた相手って、確か……カニ?」

「カニ、臼、蜂、栗、えー、それと牛の糞」

「牛の糞⁉ ご先祖様はどうしてそんなしょうもないものたちなんぞに負けてしまったんだ?」

「伝説ではそもそもご先祖様がカニを苛めた天罰だということらしい」

「因果応報ってやつだろう?」

「そう。それそれ」

「おい! そこでムダ話をしている、お前ら! ちゃんと聞け!」

「はっ。はい!」

英介と良太は直立で敬礼した。

猿は嘗ての猿ではなく、文明とともにその身体も進化して、姿は既に人間そのものである。全身を覆っていた毛も落ち、尻尾は尾骶骨を残すのみ。知能も猿知恵を遥かに凌ぐ。ただ、顔のどこかに猿の名残がある。

英介と良太は猿空軍気鋭のパイロットだ。英介は生真面目が服を着たような男で、自己主張が下手だ。その分、胸の内ではいろんな事を考えている。育ちの良さだけでなく、天性の優しさが相手を責めることを嫌うのだ。一方、良太は何事も大雑把で女に滅法弱いが、自分では女を選んでいると思っている。猪突猛進な性格は走りだすとブレーキが利かない典型だ。その二人がどういう訳か、空軍学校で同期となって以来、妙に馬が合う。

最高司令官の長い演説が終わり、隊員たちはげんなりとした表情で会場をあとにする。英介と良太も一旦宿舎に戻った。

向かい合ったソファーに二人腰掛け、数種類の木の実を発酵させた酒ウォルスキーを飲んでいる。若い二人だ。話は自然と恋愛談義となった。と言っても、良太の一方的な自慢話だ。ほろ酔い加減になると、日頃から口軽だが、いっそう口元が緩んだ良太がいつもの品評会を始めた。無論、女だ。それを英介は専ら聞き役に回っている。

「由梨亜はいい女だが、ちょっとお高くとまってやがるのが玉に瑕さ。だけど、ベッドの上で乱れるあいつはそのギャップが大きくて、たまらんけどね。それから、美和は、女房にするならこんなタイプだな。男に尽くす女だよ。だが、それが俺には重くてね。いざとなると踏ん切りがつかないのさ。恋愛ゲームに飽きたら、こいつと暮らすかな。あと、理子は上官の娘でさ。俺にぞっこんでね。軍で昇進するなら、いいコネだろうが、俺はまだそんなツテに縋る気はさらさらないよ。女としては悪くないが、周囲の目がそうは見ないだろうからな」

なんだ。内心はちゃっかりコネでのし上がろうと企んでるじゃないか。英介は軽く突っつくつもりで問い質した。

「結局どうするんだよ」

「どうもしないさ。俺はまだ自由でいたいんだ。ところで、お前はどうなんだ?」

おっと。意外な矛先が自分に向けられて、英介は目を丸くした。

「俺? 俺は……」

「お前は堅物だからな。でも、惚れた女くらいはいるんだろ?」

「いないよ」

「嘘つけ。顔に書いてあるぜ」

「え?」

英介は慌てて顔に手をやる。正直な男だ。良太はニヤリと笑って、

「美咲だろ」

図星を突かれて英介はドギマギする。

「そ、そんな訳ないさ。彼女は我が空軍のマドンナだ。俺にはとてもとても。高嶺の花じゃないか」

「高嶺の花だろうが、氷山の一角だろうが、女に変わりはないさ」

良太、使う言葉が違う。と思いながらも、英介は苦笑いしただけだ。

「お前、ただ指くわえて見ているだけなの? 女は盗っちまったもん勝ちだぜ。遠慮なんかしていりゃあ、馬鹿を見るのは自分だけだ」

「彼女を物みたいに言うな」

英介は珍しく目を怒らせた。それに今度は良太が苦笑して見せた。

「お前はバカがつくほどの正直者だ。それでいいのかよ。お前が言うように、彼女にはファンが多い。つまり、お前の恋敵がわんさかいるってこった」

「どうしようもないさ」

「何故諦める。それがお前の欠点だ。頭の中だけで結論を出すな。俺がお前のエンジェルになってやろうか」

そう言って、良太はニヤリと笑った。その目があやしい。

「いいよ。お前に彼女との接点を与えるようなものだ」

「なんだ。俺を信用してないのか」

「こと女については油断出来んな」

「ふんっ」

良太は小鼻を膨らませて二三度首を縦に振った。何かを企んでいるときの癖だ。

「そらみろ。お前の目が気をつけろと告白してら」

そこに英介の携帯が鳴った。かけて来た相手が直属の上司であるパイロットリーダーの高橋だと知って、思わず立ち上がる英介。

「はい。手嶋です」

「突然だが、これから来てくれないか」

いつもより柔らかな物言いにむしろ警戒する英介。

「え? 何処にでありますか」

「司令本部だ。俺は今そこにいる。それと、姿は一緒か?」

「はい。おります」

自分を見た英介の視線に良太は慌てて首を横に振った。しかし、もう遅い。

「ちょうどよかった。二人で来てくれ。待っている。急ぐように」

「はい! 至急まいります」

電話の相手に敬礼する英介。それとは対照的に、良太はソファーに腰を据えたままだ。

「なんだ。急な呼び出しだな」

「暢気にしてんな。お前も呼ばれたんだぞ」

「首振ったじゃねえかよー」

「なに子供みたいなこと言ってんだ。急げ」

「何処まで行くのさ」

「司令本部」

「何の要件だ」

「知らん。来いとの命令だけだ。命令されたら、従うのが俺たちの宿命だ」

「ご立派な心がけで」

ようやく良太は立ち上がり、両手を肩まで上げて大袈裟に困ったのジェスチャーをした。

ここは司令本部。猿国軍中枢を担うセンタービル最上階だ。その一画にある会議室に、先ほど英介に電話を寄越した高橋をはじめ、空軍少将の佐竹と、今日講堂で演説した最高司令官の野間が厳しい眼差しで陣取っていた。広い会議室の端に三名が顔つき合わせて話し込んでいる。そこへ、ピンと張り詰めた部屋の空気を震わせてドアをノックする音が響いた。

「入れ」

高橋の声を受けて、ドアを開けて入って来たのは英介と良太の二名だ。

「お呼びでしょうか」

「こちらへ来て座れ」

いつもの高橋らしい冷たく澄んだ声だ。敬礼する英介たちに、高橋は自分らの居る席の正面を指し示した。大きな木目のテーブルを挟んで、二人と三人が対面した。英介たちは珍しく緊張した。その三人の中に最高司令官である野間の存在を認めたからだ。講堂で注意された自分たちへの処分があるのか。英介と良太の二人が唾を飲み込む様子がはっきりとわかった。

「君たちを呼び出したのは」

「いや。彼らへの説明は私からしよう」

切り出そうとした高橋を制して、野間が口を開いた。

「本日の私の話はしっかり聞いてくれているね」

「あ。はい。拝聴いたしました」

ムダ話を注意されたのが自分達であるとは気付かれていないようだ。講堂のステージに立っていた野間から英介たちまでの距離では、顔まではっきり識別出来なかったのは無理からぬことだ。二人はちょっとホッとした。

「これから話すことは、軍、いや、国家の最高機密だ。決して口外してはならない。たとえ家族や恋人にもだ。いいかね」

「はい。承知いたしました」

二人は敬礼してそれに応えた。まさか嫌だと言える訳がない。言えば、良くて降格。へたをすれば地獄の最前線行きだ。

「我が国を取り巻く情勢は君たちも承知しているだろう。特にカニ国とは一触即発の緊張状態にある。奴らは、事ある毎に難癖をつけては、我が国を挑発しておる。実にけしからん。大昔にご先祖様が行った過ちを今でも持ち出して来よる。やれ、ハサミが欠けた後遺症の責任を取れだの、やれ、子種が少なくなったのはご先祖様が投げつけた渋柿が原因だのと言っておるのだ。三千年も前のことだぞ。しかも、甘柿と渋柿は同じ木には生らん。ご先祖様は甘柿を食べておられたのだ。どうして同じ木に渋柿があるのだ。おかしいではないか」

司令官殿。柿が甘い渋いは熟成の違いだから、同じ木に生ることもあるのではないでしょうか。英介は小首を傾げた。野間の話は続く。

「奴らとて、遺伝子の変異で我らと変わらぬ姿となっておる。僅かに違うのは、ツメの名残とも言える後頭部に左右四本ずつ並ぶ小さな突起ばかりだ。それとて、髪に隠れて見た目ではわからんというのに。奴らのハサミなどとうに退化しておるし、子種が少なくなったのは、我らと同様に生存率が遺伝子の変異以降飛躍的に向上したからだ。大昔のように大量の子ガニを生みながら、その生存率が上がれば、否が応にも人口爆発が起きる。そうならないのは、自然の摂理が働いておるからだ。それを奴らも知っておる。知っていながら、我らには不当要求を突きつけてくるのだ。我が国が奴らに年間幾ら賠償という名目で支払っているか、知っているかね」

急に質問を振られて英介は目を丸くするばかり。それに野間は満足そうに頷きを繰り返した。知らないことが嬉しいようだ。時々こういう上司はいる。部下の無知に優越感を覚えるのだ。

「教えて上げよう。いいかね」

「は、はい」

また頷きを繰り返す野間。こういう焦らしを楽しむタイプらしい。

「十億だよ。十億」

「十……億……」

二人の反応に野間はニヤリと笑った。野間の期待通りだったようだ。

十億。と言われても、ピンと来ない。自分達軍人からすれば、桁が違い過ぎて実感に至らない。即座に自分の年収と比較計算すれば、百年分くらいの額か。ふーん。それで英介の感想は終わった。

「遠い昔のことだ。しかもたった一度の過ちだ。それも、奴らは過ちと決め付けているが、それとて冷静に見れば、戦争だったのだよ。猿蟹合戦というのだからね。従って、そこに加害者や被害者の区別があると思うか? どうだ?」

そういう論点からすれば、確かに喧嘩両成敗が妥当だろう。初めて頷く英介。

「もっと許せんのは、カニに協力したというだけで、分不相応の待遇を受けておる石臼、蜂、栗、牛の糞の周辺国だ。奴らは猿蟹合戦に途中参戦して、まったく漁夫の利を得ているのだ。我が国はこいつら取り巻きを食わせるために汗水流して働いているようなものだ。そうは思わんか?」

「はあ……」

そう言われればそうであるような、違うような。英介の反応は曖昧だ。横では良太が腕組みしたまま苦虫を噛み潰したような顔だ。反発したいところだろうが、相手が悪い。

「国民の我慢ももう限界に来ておる。私が檄を飛ばしたように、これから我らの本当の反攻が始まるのだ。今に見ておれ、カニどもめ。後悔させてくれるわ。後悔をな」

最後は独り言のように野間は繰り返した。まるで何かにとり憑かれたような鬼気迫る顔だ。

司令官殿。国民の我慢が限界に来ているとおっしゃいますが、私も国民の一人。残念ながら、これまで聞いた事は初耳です。カニ国が因縁をつけてきているとか、猿国が毎年カニ国や石臼国など他の周辺国に賠償金を支払っていること。知らないものに我慢も何もないですよ。なんだかおかしい。英介は内心首を傾げた。むしろ、カニ国を筆頭に、猿国の周辺を取り囲んでいる石臼、栗、蜂、牛の糞国は猿国の重要な貿易相手国ではないですか? それを仇敵のように憎んでいるなんて、逆にこの司令官殿は大丈夫だろうか。この司令官には何か過去にカニ国へ恨みを抱かせる出来事があったに違いない。そうだとしたら、公私混同も甚だしい。どうもあやしい。この人の一言で世界戦争が始まってしまうかもしれないのだ。彼はそういう立場にある。結局、今目の前で国を憂えているかのようなこの司令官殿は、国民感情を煽って、自分の望む方向、間違った方向へ国家を暴走させようとしているのではないか? しかし、悲しいことに、自分が軍隊に属している限り、その組織の上官には逆らえない。こうして彼の言葉を聞いている自分は所詮歯車の一部にしか過ぎないのだ。英介は心の奥でため息をついた。そんな部下の心情など気にもしない野間は本題を切り出した。

「実は数年前よりカニ国にスパイを潜入させている」

え?

英介と良太は声にならない驚きの表情を見せた。

「そのスパイとここ数日コンタクトが取れなくなっている。君たちに頼みたいのは、そのスパイについて消息を探ってもらいたいのだ。或いはカニ国に寝返っている可能性もある。その場合は抹殺するように」

抹殺! 英介はその言葉に敏感に反応した。

「質問よろしいでしょうか」

「言ってみろ」

「まず、裏切っている場合抹殺せよとのご命令ですが、それは自分たちの判断でかまわないのでしょうか。二つ目に、そもそもそのような案件には、それなりに訓練を受けた者が適任ではないでしょうか。自分たちは戦闘機の操縦には自信ありますが、スパイ行為には不慣れです」

「一番目の答は、かまわん。君たちの判断でよろしい。一任する。我々の判断を仰ぐ間にも、重要な機密が漏れておらんとも限らんからな。一日先延ばしすれば、その分我が国に存亡の危機が迫ることになる。裏切者は早く処分しなければならん。二番目の答は、人がおらん。みな他国へ出払っておる。だが、心配するな。君たちについては、この高橋君からお墨付きをもらっておる。君たちなら充分に任務を遂行してくれると確信してのことだ」

なんと! 司令官殿。あなたの作戦は大丈夫ですか? 間違ってはいませんか? 言うに事欠いて「人がいない」とは何たることでしょうか。そもそもプランというものがないのか? まるで行き当たりバッタリの作戦だ。撃たせるだけ撃たせて、いざ気付いたら弾がなかったという訳だ。お粗末。文明先進国と自他共に認める猿国だが、千年経っても猿のおっちょこちょいは治らないのか。

英介は高橋を見つめた。それに応えるように、高橋は何度も頷いた。上司の信頼は嬉しいところだが、今回は出来れば辞退したい。だが、出来ないだろう。既に命令として発令されている。今はその申し渡しの場に過ぎない。君たちに一任する。聞こえはいいが、体のいい責任転換だ。上司としてはあまり使わない方がいいのでは? 野間から高橋に、高橋から自分たちにその責任という十字架が回されたのだ。出来れば受け取りたくない。

「しかし、我々猿国の者が潜入すれば、この顔でたちまちわかってしまいます」

なんとなく猿顔なのだが、やはり猿顔なのだ。それには憮然として野間が言った。

「君。我が国をなんと心得る。世界の最新且つ最強技術国として君臨する我らに、それはまったくの愚問だ」


ここは蜂国の首都ハチワード。その中心部に燦然と聳え立つ王城がある。中に入れば、やたら羽音がうるさい。その一画にある重要な事を決める会議室。会議室の目的ではなく、重要な事を決める会議室という名の会議室。そこに猿国とカニ国を除いた石臼国、栗国、牛の糞国の首脳が顔を揃えている。みな苦渋に幾重にも皺を作った難しい顔だ。いずれの人種も、嘗て人間が引き起こした遺伝子誤操作で人間のようにその姿は変わっているが、それぞれに先祖の特徴は受け継いでいる。石臼は身体全体が幅厚な筋骨隆々で頭も円筒に近い。一見すると石臼が背広を着ているようである。栗は髪の毛が毬栗のように逆立って、顔色が薄く茶色い。彼らは日焼けした褐色の肌と言っているが、ちょっと無理がある。蜂は背中に薄いが強靭な羽を生やしている。ドレスを着るときはさぞかし苦労するのではないか。そして、問題の牛の糞は、見た目はいたって紳士だが、なぜか匂う。いや、本当に臭い訳ではないが、どうも匂ってくるような雰囲気を全身から醸し出している。皮膚が何やらぬめっとしているような感じである。実際、性格はじとじとと陰湿極まりない。そもそも遺伝子の変異というなら、蜂や栗はまだわかるが、石臼と牛の糞に関しては、どう変異が関わったのか不明である。だいたいからして、この両者には遺伝子自体存在しなかったはずである。その経緯についてはこれまで闇の中にあり、今後もまた闇の中にあり続けるだろう。

「是非ともここはご決断願いたい。これ以上の引き延ばしは我が国に対する反目と見做しますぞ」

蜂国の女王ハチルダは議場を眺め回した。美しいが、棘を背後に隠しているような恐さがある。

「ウストフ殿。如何か」

ハチルダは敢て石臼国の大統領ウストフを名指しした。彼がこの会議のキーマンだからだ。彼が頷けば、議論は一気に蜂国寄りに傾く。しかし、やはりウストフは煮え切らなかった。だが、それはハチルダとしても既に折込み済みである。予てより結託している栗国の若き宰相エドガーに目配せするハチルダ。気障な笑いを浮かべながらエドガーがやおら立ち上がった。

「ハチルダ女王が言われたように、これ以上の沈黙はお互いに何の利益も生みません。僭越ながら、このエドガーは栗国王クリキンにその全権を任されております。故に申し上げます。今こそ立つべきと」

それにはハチルダひとりが拍手した。他は押し黙っている。いや、よく聞けば牛の糞国大統領であるプリンストンが微かに呟いていた。

「長く病床にあるクリキン王は今や言葉も発せぬとか。そのご意思をどうやって聞き取ったものやら」

「プリンストン大統領。何かご意見がおありですかな」

プリンストンを睨みつけるエドガー。もともと栗国と牛の糞国とは仲が悪い。大昔。まだ栗が栗の木に生り、牛の糞が地べたにへばりついていた頃。栗の木から落ちた栗の実が地べたにあった牛の糞に埋まり、糞まみれになったのを栗の実が大層な剣幕でクレームをつけて以来、脈々と受け継がれた険悪関係である。それが第一回猿蟹合戦前というのだから、両者には不思議な因縁があったようだ。以上は余談。

「ふん」

プリンストンはそっぽを向いた。陰湿な国民性の中で特に陰湿であると選ばれた大統領だ。まともに意見する男ではない。ただぶつぶつ小言を言い続ける。そういうのは適当にあしらっておけばいい。そんな意味を込めて、ハチルダはエドガーに目線を送った。

「ウストフ殿。ここはウストフ殿のご一存にかかっております。貴殿がご決断されれば、プリンストン大統領も貴国に賛同されるものと」

ハチルダの視線に耐えかねてか、ウストフが重たい口を開けた。

「ハチルダ女王。我が国は決して貴国に対し敵対する意思などありません。それは信じて頂きたい。さりながら、カニ国とは猿蟹合戦以来の盟友。その絆は今もって切れたことがありません。我が国としては両者に弓引かぬことがその証明になるかと存じます」

「そうですか。貴国のお立場よくよくわかりました」

ハチルダは努めて笑顔を作りながらウストフに応えた。

それからしばらくして会議は散会となった。場所は移って、女王の寝室。蜂国女王ハチルダと栗国宰相エドガー二人だけの姿がある。

「やはり厄介でございますな」

エドガーがハチルダに歩み寄って彼女の耳元に囁いた。ハチルダはワインをグラスに注ぎ、一つをエドガーに渡す。それを会釈してエドガーは受け取った。

「何が厄介なのです?」

口にワインをふくむハチルダ。

「ウストフは顔だけでなく、意思も固い男で」

エドガーもワインを喉に流し込んだ。

「それは百も承知」

「ですが、それでは我々の計画が」

「我らに味方させる必要はないのですよ」

「と、仰せられますと」

「静観してくれればいいのです。先方に加担するとなれば厄介でしょうが、どちらにも付かずなら、問題はありません」

「なるほど。流石は女王陛下」

エドガーはハチルダの背中に回り後ろから彼女を抱き締める。ハチルダはワインを口にふくんだままエドガーの口を求めた。口移しでワインを飲むエドガー。その口元からワインが滴り落ちる。

「残るは牛の糞国」

「あのような者。取るに足りません」

「しかし、敵に回せば面倒はたしか」

「栗国だけで押し留められましょう」

「ご命令とあれば」

エドガーは大きく開いた襟元から手を差し入れハチルダの乳房をまさぐった。

「猿国は如何なされます。カニ国の危難に便乗してくるかと」

「好機と見るでしょうね。ふふふ」

「何が可笑しい?」

「既に手は打ってあります」

「流石はハチルダ。手回しがいい」

二人は縺れるようにベッドに重なった。


英介と良太の二人は翌朝センタービルの十階に向かった。そこで整形手術をするのだ。といっても、顔にメスを入れる訳ではない。カムフラージュスプレーと呼ばれる気体で顔を覆うのだ。その効果は一ヶ月以上続き、噴出した気体は包み込んだ顔を文字通りカムフラージュして、見る者の目に錯覚を引き起こすとのことだった。光の乱反射で像を曖昧にし、勝手に軌道修正する脳の働きを逆手に取った技術という説明だった。また、カメラなどのデジタルに対してもその応用が効くらしい。受信情報を操作してしまうのだろう。それ故に、アナログには弱点、つまり、誤魔化しが効かないようだ。

受付を済ませると早速二人同時に呼ばれた。第三診察室に入ると、ドクターが座っていた。診察があるのか。

「心配することはない。痛みもなにもないから。念の為、顔に傷がないか見るだけだ。傷口が化膿していると、スプレー効果が薄れるまで治療が出来んからな。その間、痛みに耐えるしかない。まずは君から。ここに座りなさい」

良太がドクターの前に座った。

「気になるところはないかね」

「いいえ。特に」

ドクターは良太の顔の皮膚を押したり、引き伸ばしたりして念入りに確認した。

「よし。大丈夫そうだな。次は君」

英介が良太と入れ替わった。

診察後、受付で待たされた二人はやがて奥の処置室へ呼ばれた。中に入ると、薄暗い部屋の中央に大きな白い円筒があった。それは部屋の天井までの高さがあり、全身が白くコーティングされていた。

「そこの籠に白衣があるから、着替えて下さい」

声だけがした。部屋を仕切る窓越しに係員の姿が見えた。声の主は彼らしい。

「全部脱ぐの?」

まさかと思いながら、良太は聞いた。ジョークのつもりだ。しかし、

「はい。全部脱いで下さい。装置に入ったら、白衣も脱いでもらいます」

マジかよ。良太が目を丸くした。

姿隠しの衝立にわざと一枚一枚脱いだ服をかけていく。しかも、セクシーダンスを踊りながらだ。良太の悪ふざけが止まらない。係員の目を意識してのことだ。彼がどんなコメントを発するか楽しんでいる。

「着替え終わったら、一人ずつ呼びますので、装置の前に待機して下さい」

いたって事務的な声に良太は肩透かしを食らった。

「姿良太さん」

「はいはい」

良太は滑った照れ隠しか、小走りに装置の前に立った。すると装置の白い壁が両開きに割れて中が青白く覗いた。

「中へお入り下さい」

一瞬躊躇ったが、良太は中へ入った。それを待って、割れた壁が元に塞がった。中の青白い光が当たって白衣が蛍光色に輝いた。

「白衣を脱いで、そのままお待ち下さい」

係員の声がややこもって聞こえた。周囲に巡らされた壁に何かのコーティングがされているのだろう。音が吸収されるときの感覚に似ている。

「では、スプレーを噴射します。両足を開き、両手をいっぱいに上げてしばらく静止していて下さい」

「顔だけじゃないの?」

不安にかられて良太は大声を上げた。

「ターゲットは頭部ですが、皮膜の境目から空気が侵入して効果が薄れる場合があります。ご安心下さい。頸部より下は微細のコーティングとなりますので、感覚的にはまったく影響がありません」

「ちっ」

良太は軽く舌打ちした。あの司令官に嵌められた思いだ。

「噴射します」

装置から出て来た良太は白衣の前をはだけて、不機嫌そうな顔で英介に親指を下に向けて合図した。英介の目には事前の良太と事後の良太と何ら変わらないように思えた。失敗なのか。幾分顔の輪郭がぼやけて見えなくもないが、それはそういう効果のあるスプレーだと聞いているせいかもしれない。次に英介が装置に入った。

「何がどう変わったんだ?」

トイレの鏡を前にして良太は盛んに顔を撫でている。

「俺に聞かれてもな」

「お前はお前だし、俺は俺……だよなあ」

鏡に映る二人もまったくいつもの二人が立っている。

「ふん……よくわからん」

二人はトイレを出て最上階の会議室へと向かった。そこに昨夜の三人が待っている。

「どうかね。変身した感想は」

「本当に自分らは変わっているのでしょうか」

英介の質問に野間はニヤリと笑った。その笑い方には常に自信が漲っていて、対する者に不快感を与えることこの上ない。

「高橋君」

「はい」

指名されて、高橋は部屋の隅に置かれてあったダンボール箱を抱えて来た。その中から小型のモニターとペンライトを取り出す。

「これはカニ国人の視覚と同じ映像を写す装置だ。彼らには特異な光彩認識があってね。ま、彼らからすれば、我々に異質な光感度があるらしい。論より証拠。君らを映せばわかる」

高橋が二人にペンライトを向けた。小型カメラのようだ。すると、その姿がモニターに転送されて画像が現れた。

「え?」

そこには二人と同じ服を着た別人が映っている。いや、まったくの別人でもない。よく見つめれば、どことなく英介と良太の顔だ。それが他人に見えたのは、猿顔特有の少し上向きの鼻と上蓋のような薄い唇が修正されて、しかも丸い目が切れ長のすっきりした顔立ちになっているからだ。

「これ。俺?」

良太がモニターを指差すと、モニターの良太も指差した。それが画面を中心に対称となっている。巧妙な仕掛でもない限り、これは事実だ。

「どうだ。どこから見ても猿国人ではないだろう。残念ながら、カニ国人特有の後頭部の突起までは作れないが、敵とは見做されない。先に潜入しているスパイも同じ偽装で潜入に成功している。安心したまえ」

野間は自信満々に笑った。

「その……スパイというのは、どんな男でしょうか」

英介が聞いた。

「女だ。名は延田恭子。陸軍士官学校を主席で卒業した秀才だ」

「女がですか!」

英介たちは驚きを隠せなかった。最近は軍部にも女性の進出は目覚ましいが、それ程の成績を収めた者がいたなど聞いたことがない。陸空いずれも士官学校があるが、履修科目には武術は勿論、サバイバルキャンプといった男でも音を上げる過酷な訓練があるのだ。それをこなすだけでも大変なのに、男共を抑えてトップに立つとは、さぞ驚異的な体力の持ち主なのだろう。横で良太が小さく息を漏らした。女スパイと聞いて興味をそそられた女癖の悪い虫が、失望のため息をついたのだ。

「そんな凄腕の兵士を我々が斃せるでしょうか」

「これを君たちに持たせる」

高橋がポケットから何かを出して二人の前に転がした。万年筆だ。

「?」

訝しがる二人。

「それはただの万年筆では無論ない。万年筆の機能を持ち合わせた、水鉄砲だ」

「水鉄砲?」

二人揃って声が裏返った。この真剣な空気の中でよくそんな冗談が言えるものだと、ちょっと目が怒っている。

「冗談を言っているのではない。我が国に限らず、パスキーを持っていない者が、たとえ超小型に偽装された武器だとしても、セキュリティーエリアに侵入すればたちまち警報にひっかかる。そこで考案されたのが、こいつだ。本体そのものは単純な水鉄砲だ。特徴といえば、射程距離が五mと長めなくらいだ。これが武器だとは誰も思わない。だが、本当の武器は注入されている溶液にある。神経性の猛毒だ。しかも皮膚からの浸透性に優れ、微量でも肌に付着すれば、相手は数秒で昏倒し、確実に死に至る」

英介たちは息を呑んだ。触れるのも恐い万年筆だ。間違って自分の肌に付着すれば、次の瞬間この世にない。それを高橋は手のひらに載せて弄んだ。腰が引ける二人。

「案ずることはない。いきなり噴出しないよう、ロックがついている」

早くそれを言ってよお。

「キャップ裏側にあるこの赤い突起を押しながら、クリップを強く前に押し出せば」

いきなり高橋が二人に向かって突き出した。咄嗟に反転してその場から後方へ跳躍する二人。流石に俊敏な反応だ。

「なにするんすかっ!」

二人は身構えた。それに高橋は爆笑しながらも、感心の頷きを繰り返した。

「すまん。すまん。中身はまだ空だ。先に説明しておけばよかったな。それにしても君らの反応は素晴らしかった。司令官に推薦してよかったと再認識したよ」

変な褒め方だ。二人はちょっと不機嫌だ。悪戯のタイミングが悪過ぎる。

「まあ、落ち着いて座りなさい。決して悪ふざけではないのだから。本当に先に言うのを忘れていたのだ」

実際はどうだか。疑いは残しながらも、二人は元の席に戻った。

「操作の順番が違えば液はまったく出ない。それより注意すべきは、溶液を注入するときだ。そのときは必ず専用の手袋をはめて行うように。専用手袋を通しては一切浸透しない。だが、手袋に付着している液を素手で触れれば、それは君たちの死を意味する。使用後は必ず流水でしっかり洗い落とすように。いいね」

「はい。わかりました」

二人は敬礼した。

「スパイも君たちと同じカムフラージュスプレーで正体を隠している。といっても、それはカニ国人に対してだけで、君たちから見れば、同胞とすぐにわかる。それは相手にとっても同じことだ。スパイが君たちを見れば、同じ猿国の者だとすぐに知れる。スパイにとっては、何事だと警戒するだろう。君たちを送り込むという指示がないからね。もし、彼女が裏切り者でなければ、その警戒は容易に解けない。だが、もし裏切っていれば、逆に彼女の方から親しく接近してくるはずだ。これは謂わば心理戦だ。相手の心の裏を読まなければならない。従って、彼女が何の懸念も見せずに近寄って来たら、君たちは彼女が裏切り者だと断定しても構わない」

二人は黙って頷いた。彼女が裏切り者であれば、それが判明した瞬間から敵になる。こちらが準備するよりも早く、彼女からの攻勢が始まる可能性もある。いや、確実に彼女の方が早い。裏切った彼女からすれば、同胞が偽装してカニ国に潜入したということは即ち自分を殺しに来たとわかるのだから。嫌な役目だ。こちらは彼女の真意を確かめる必要があるのに、彼女には初見で宣戦布告と同じインパクトを与える可能性もある。いきなり撃たれることも想定しなければ。だが、それ以上に、同胞を自分らの手にかける苦々しさの方が強い。戦闘なら、単純に敵機を撃つだけと割り切れるのだが、生身の姿を眼前にすれば逡巡が生まれるだろう。どちらが生き残っても後味の悪い任務となるに違いない。それに追い打ちをかけるように野間が言った。

「カニ国への侵入は陸路とする。君たちの得意とするのは戦闘機の操縦と勿論心得ている。しかし、空路はほぼ不可能だ。アリの入り込める余地さえない。皮肉なことに、カニ国の空域警戒システムは我が国が売り込んだものだ。それだけにストロングもウィークポイントも承知している。侵入する飛行物体に対しては高度二00mの低空でも充分に感知する。鳥のような低速であれば別だが、そんな低速ではこっちが墜落してしまう。だが、逃げるものには感度が甘い。去るものは追わず。ご先祖様の訓示があるからな。だから、君らがカニ国から脱出するときはカニ国の戦闘機を奪うといい」

簡単に言ってくれるよな。英介も良太も同じ言葉を脳裏に浮かべただろう。しかも、重要な軍事技術を直面する敵国に売りつけるとは、開いた口が塞がらない。相変わらず思慮分別のない、行き当たりバッタリの政策ばかりだ。だから、いつまでも猿知恵などと陰口を叩かれるのだ。

「国境までは民間車両で移動し、検問所の手前で降車して徒歩に切り替える。君たちは既に偽装している。猿国人から見れば同胞だが、カニ国人から見ても同胞なのだ。混乱を引き起こすことになる。兎に角、カニ国に入ってしまうことだ。そうすればカニ国人として疑われることなく君たちは迎え入れられるだろう」

「我々はどこを目指せばよいのですか?」

「カニ国の首都カニールだ。スパイはそこに潜入している。しかも、カニ国の中枢に入り込んでいるはずだ。命令通りならな。最初から裏切るつもりだったのなら別だが、当初は命令通りに動いていた。送り込んできた情報もそうした内容だし」

「彼女を捜す手掛かりは?」

「ない」

あっさりした野間の回答に二人はテーブルに額をぶつけた。

「発信機でも付けられたのならよかったが、それはカニ国軍からも傍受される危険性があったからな」

「では、彼女からの情報はどうやって」

「伝書鳩だ」

「伝書鳩⁉」

また二人の声が裏返った。

「そんな、いまどき」

苦笑を通り越して、呆れる。

「馬鹿にしたものじゃない。さっき言ったように、警戒システムにもひっかからない。訓練すれば、確実に受け渡しが出来る」

「なら、その伝書鳩を放って、その後を追跡すればいいじゃないですか。確実に彼女の元へ導いてくれるのでしょ?」

「どうやって?」

聞かれて二人はちょっと詰まった。

「我々も考えない訳ではなかった。だが、これが意外に難しい。無論、小型機などで追えるものではない。鳩は小型機の旋回能力や図体を考慮しちゃあくれないからね。当然陸路からの追跡は無理だ。常に高速道路の上を飛んでくれるのなら別だが」

そのときだ。良太が大きく指を鳴らした。

「いい方法がありますよ!」


「ヤッホー!」

良太は歓声を何度も上げた。目の前を伝書鳩が翼をはためかせて飛んでいる。それを追いかけて英介と良太はスカイライダーを滑空させた。この一人乗りの凧は、最近開発されたレジャー用の飛行具で、背中に取り付けた両翼と両足に付けた尾翼とで方向と高度を調整できる優れものだ。民間の商品だけに、軍の幹部が知らないのも無理からぬことだ。オプションで小型モーターとソーラーパネルを付ければ、最大時速三00㎞までの飛行が可能だ。当然二機はそのオプション付きだ。これなら鳩の気紛れにも充分に着いて行ける。

「間もなくカニ国との国境だ」

「え? なんだって?」

英介は前方の岩山を指差した。その頂上にモニュメントが小さく見えた。肉眼では小さいが、この距離からでさえ見えることを思うと、実際には巨大なものに違いない。岩山との対比でもその大きさが窺える。

「あれはなんだ?」

「カニだ!」

良太の質問に英介は両手を広げて頬の横に宛がった。足が十本ある、大昔のカニを表現したのだ。確かにそのモニュメントは嘗てのカニの姿だった。

そのモニュメントを横目に見ながら二機は滑空した。鳩にとってはモニュメントなど関係ない。まるで愛しい彼女目掛けてまっしぐらという姿だ。二人の観光気分など一向にお構いなしだ。

鳩は幾つもの都市を過ぎて行く。目だった高層建築はないが、それなりに文明国家らしい都市部が眼下を過ぎて行く。ただ、猿国と違うのは、緑地が多い。むしろ森林地帯の中に都市があるようだ。英介は何だか意外な気がした。

すると急に鳩が高度を下げた。危うく見落とすところだった。二機は行き過ぎたが慌てて旋回して鳩を追った。

「しまった。見失ったか」

「いや。あれだ」

落胆する英介に良太が前方の古びた建物を示した。アパートのようだ。

「写真を撮るぞ」

良太は減速して旋回しながら真下の景色を撮影した。安全な場所に着陸してから、撮った写真を手掛かりに探索しようというのだ。それから二機は都市から離れた森へ降り立った。ここまでの道筋も写真に収めている。

スカイライダーを林の中に隠して、持参して来たリュックから革ジャンとジーンズを取り出して着替える。それから、二人は先ほどの建物を目指して歩いた。やけに良太が張り切っている。それもそのはずだ。英介は少将の佐竹が最後に差し出した写真を思い浮かべた。

「これが延田恭子だ」

途端に良太が口笛を鳴らした。それに高橋が険しい視線を投げた。軽く頭を下げる良太。だが、良太ならずとも、口笛を吹きたくなるほどの美人だ。士官学校主席卒という実績と目の前の美しく微笑んだ女性とが同一人物とはどうしても結び付けられない。

「天は二物を与えたもうたか」

そう呟いた良太の声がもう一度英介の鼓膜に蘇った。

カニールはカニ国の首都であり最大の都市だ。しかし、今歩くその街並みは猿国の首都サルダインとはかなり違う印象だ。都市の規模に差があるのだろうが、それだけでは収め切れない異質なものを感じる。それはなんだろう。英介は歩きながら一人考えた。最先端の技術が導入されたビルが立ち並んでいるのがサルダインだ。それに比較すると、カニールのそれはひと世代前の建物が多いように思える。といって寂れた感じがない。それは息づく人々の活気か。サルダインはビルとビルの間を大勢の人々が歩いているが、互いの干渉を避けるように距離を置いている。しかし、カニールでは皆が幾つかのグループを組んで歩いているから、笑い声や話し声が絶え間なく聞こえている。これはあくまでも英介の目に映るイメージだ。実際の常態が必ずしもそうだとは言えないだろうが、少なくとも英介自身のカニールに対する、いや、カニ国に対する先入観は崩れつつある。


ウストフは悩んでいた。長年の盟友カニ国との関係はこの千年、いや、猿蟹合戦での勝利以来良好な状態が続いている。一方の蜂国は隣国であり、やはり猿蟹合戦由来の同盟国だ。石臼国はカニ国と蜂国との間に挟まれた位置にある。というより、敗者である猿国を取り囲む形で、カニ、石臼、蜂、栗、牛の糞の五カ国があるのだ。我らが警戒すべきは唯一猿国だけではないか。最近の猿国における軍事増強を思えば、むしろ我々五カ国は一層の結束を図るときであるのに。何故蜂国は盟主であるカニ国を目の敵とするのであろう。蜂国の狙いはわかっている。カニ国を滅ぼして自分たちが盟主となり、その先には猿国を含めた残り四カ国の制圧にあるのだ。ハチルダめ。あの美貌の裏に魔性を隠しておる。だからといって、単独で蜂国を敵に回す力など石臼国にはない。援軍を頼もうにも、お人好しのカニ国が本腰を入れてくれるとは期待出来ない。他方で、牛の糞国は栗国と牽制し合って動けないだろう。栗国は宰相エドガーの振る舞いを見ても、既に蜂国と示し合わせているのは明白だ。そして、石臼国が迂闊に動けば、機に敏なる猿国が乗り出してくることは避けられない。この平和な日々が一変して戦乱の渦へと巻き込まれてしまう。何処が味方で、誰が敵なのかわからない紛争世界へと変貌するのだ。嘗てない、六つ巴の世の中となる。

「どうしたものか」

一人ため息を吐くウストフであった。そこへ秘書官が思いがけない客人の来訪を告げた。

案内もそこそこに大統領執務室に姿を見せたのは、蜂国女王ハチルダの弟ハチュードだ。ウストフは目を丸くした。悩みの種が向こうからやって来たのだ。しかし、この時、ハチュードの立場は微妙であった。

蜂国は代々女帝を立てて来た。いわゆる女王蜂だ。他国であるなら、ハチュードは第二位王位継承者となるのだが、蜂国では女以外の即位を許していない。男であるハチュードにはそもそも王位継承権さえないのだ。ハチュードは王族でありながらも何ら実権を持たない、つまりは冷や飯食いの厄介者である。男として生まれたがゆえの不運が彼にはつきまとっているのだ。それでも、ハチュードが芸術を愛するような男であれば波風の立つことはなかったのだが、彼の野心が自分の置かれた環境に満足することを望まなかった。めらめらとした激情の炎が彼の奥深くで燃えていた。その感情を表面上はひた隠し、あくまでも女王蜂に仕える忠実なしもべを演じていた。その姿は見る者すべてに見事なまでにけなげな男を印象付けたに違いない。無論、ハチュードを迎えたウストフとて例外ではなく、不運な彼に同情する一人であった。

「閣下。ご尊顔を拝し恐悦にございます。貴国に於かれましては益々ご繁栄のご様子。お慶び申し上げます」

「お世辞はその辺で結構。ご用件は何か」

ウストフは苦りきった表情である。それにハチュードは怪訝な眼差しをしたが、すぐに思い直したように笑顔をつくった。

「また姉が難題でも持ちかけましたか」

「それを貴方に笑顔で言われても困るのだが」

返答に困っているハチュードをウストフはソファーに勧めた。タバコを取り出しハチュードにも差し出す。火を点けて、二人は煙を吐き出しながら、互いに沈黙したままだ。

ハチルダとハチュード。この二人は本当に姉弟なのかと疑いたくなるほどに違っている。方や美しき悪魔、もう一方は篤実な、天使とまでは言い切れないが、誠実な男だろうとは思っている。すぐに顔に出るところを見ると、正直な男なのだろう。この男が蜂国を担ってくれたなら、どんなに安寧な日々を送れることか。ウストフはそれを願うように目を閉じ、ため息ともつかぬ声を発した。

「それで?」閉じていた目を見開いて、眼前の男を見つめる。「言い難い事でもおありかな?」

ハチュードは聞かれて幾度か頷きを繰り返していたが、半分ほど吸ったタバコを灰皿にもみ消しながら用件を切り出した。

「貴国は我ら、いや、ここは敢て蜂国と申し上げましょう。蜂国にお味方なされるのでしょうか?」

「ふむ……」

そう言ったきり、また例のだんまりが始まった。

「では、カニ国に?」

「ふむ……」

一向に返事らしい返事が返って来ない。

「どうなされるお積りで?」

「ふむ……」

もうこのだんまりはウストフの得意技と言える。

「まだ何もお決めではないのですな」

「ま。正直に言えば、そうだ。国の命運がかかっておる。そう右から左に決められるものではない」

フィルター近くまで燃えたタバコをウストフは灰皿に捨てた。

「では、ここは是非ともこのハチュードにお味方願えませんでしょうか」

「え?」

これまでに見せたことのないウストフの驚き顔だった。

「どういうことかね? ……貴方、まさか……」

ウストフは細い目をカッと広げた。それにハチュードは微笑んで頷いた。


歩き始めて二時間後、英介と良太の二人は先ほどの古びたアパートの下に立った。

「何階だった?」

「たしか最上階だ」

二人はアパートを見上げた。ベランダには洗濯物が干してある。長閑な風景だ。四階建てで各階に四部屋。全部で十六世帯。一軒ずつ当っても知れている。しかし、最初に当てが外れれば、その間に逃げられてしまうかもしれない。英介は写真と比較した。写真は真上から写しているので、どの階に鳩が飛び込んだかわかりにくい。

「最上階に行ってみよう。俺の勘だが、あまり馬鹿にしたものじゃないぜ」

良太の後に英介も続いた。

一気に四階まで駆け上がり、二人は廊下を眺めた。四部屋が向こう一直線に横並びとなっている。

「一番奥だな」

自信あり気に良太が顎で示した。

「どうしてそうだとわかる」

「見ただろう。他の三部屋には洗濯物が干してあった。一番奥にだけなかったぜ。生活感がない」

「たまたまかもしれないだろう」

「ここで議論をしていたところで結論は出ないだろう。百聞は一見にしかずだ。俺の勘を信用するんだな」

良太は構わずその部屋へ進んだ。ドアの前に立って周囲に気を配りながら手袋をする良太。それを隠すように英介が体でガードした。良太がドアノブをゆっくり静かに回す。ドアを手前に引いたが、鍵がかかっていて開かない。

「不在のようだ」

「中に居ても玄関の鍵くらいはかけるだろう」

それに良太は苦笑して、上着の内ポケットからペンケースのようなものを取り出した。その中から取り出したのは針金だ。英介が目を丸くして見ていると、

「本職は泥棒。なんてね」

ウィンクして良太は作業に取り掛かった。カチャカチャ数回音をさせていると、その内に少し大きくカチャリと鳴った。またノブを回してドアを引く。今度は開いた。

「空軍を追い出されたら、こっちに転職するか」

良太のジョークに英介は首を横に振るばかり。

ドアを閉めて中を覗くと、細い廊下の先に明かりが射している。部屋の電気ではなく、窓のカーテンレース越しに射す外からの陽射しだ。廊下の両側にトイレやバスルームがあって、玄関から奥のリビングまで見通せる。一LDKの間取りだ。

「やはりご不在だったようだ」

良太は壁際に置かれたソファーにどっかりと座って深く息を吐いた。軽口を装っていたようだが、彼なりに緊張していたのだろう。

「このソファーに洋服タンスが一つ。あとはテーブルにタブレットがあるだけか。想像通り生活感のない部屋だ。とても女の部屋とは思えないな」

それに頷きながら、英介はベランダのサッシ窓に歩いた。ロックを外して外を眺める。ベランダの端に鳩小屋が見えた。中に二人が追いかけた鳩が一羽収まっている。それを見ながら、ふいに英介は不審を抱いた。

「おい。おかしくないか。誰もいないはずなのに、鳩小屋の入り口が閉まっている」

そう言って振り向いた英介の視界に驚きの光景が飛び込んだ。ソファーの背後から女が立って良太の首筋に銃を突きつけているのだ。あの良太が何の抵抗も出来ず人質となっていた。流石は士官学校主席卒。見事に気配を殺していた。

「女の部屋らしくなくて悪かったわね」

女は不敵に笑った。それに良太は苦笑いして見せた。

「妙なことを考えてもムダよ。あんたの相棒の未来は私の手の内にあるのよ。それをあんたの一存で捨てるというのなら、別だけど」

女は自信に満ちた目で英介を見ている。余裕さえ感じられる。二人の兵士を前にしながらだ。良太が首を小さく横に振った。それに応じるように英介は両手を上げた。

「ものわかりがいいようね。褒めてあげるわ。さあ。理由を教えてちょうだい。どうして本国はあなたたちを送り込んできたの。大体の予想はついてるけど」

「おそらく君の想像通りだよ」

英介は女から目を逸らさずに応えた。取り繕えばそれが視線に出る。それは確実に状況を悪化させるだけだ。

「私が裏切ったと見ているのね。あいつらの考えそうなことだわ。いっそ、本当に裏切ってやろうかしら。その手始めにあなたたちから血祭りに上げるっていう選択もあるわね」

女は無表情に言った。その冷徹さが彼女の美しさをより際立たせる。

「どうして連絡を絶った。突然途切れてしまえば、誰しも想像しなくてもいいことを考えたくなる」

「これといった報告がなかったからよ。成果ばかり要求されてうんざりだわ。そんなに楽な仕事じゃないくらいあいつらだってわかっているはずなのに。それに途絶えたといっても、せいぜい二、三度なのよ」

「それでも連絡くらい寄越せば」

「あなたたちは知らないのでしょうけど、成果がないなんて報告出来ると思って?」

女は初めて泣きそうな目を見せた。やはり女なんだ。

「それで? 私をどうしようっていうの?」

強がっているように見えても、一度見せた弱気はなかなか消せない。先ほどまでの精悍さが揺らいでいる。ここで真意、と言っても、あの幹部たちの言葉など信用する訳がない。むしろ自分自身の考えを正直に話す方が理解されるのではないかと英介は思った。

「君がもし裏切ったのであれば抹殺するように命令された」

「おい」

良太が慌てて立ち上がろうとしたが、女の構える銃がそれを許さなかった。

「だが、君は少なくとも裏切り者ではないようだ。俺たちに対する行動がそれを強く訴えているよ。判断は俺たちに任されている。俺たちから説明すれば、君への誤解は解けるはずだ」

「それはどうかしら。本国に帰った途端に逮捕されたんじゃたまらないわ。あなたの言葉を立証するものは何もないわ」

確かに。英介には返す言葉がなかった。それは彼自身の軍上層に対する不信感がそうさせている。

「こうしたらどうだ?」

良太が口を出した。

「君の本来の役目を果たせばいいじゃないか。見事任務を遂行させれば、大手を振って帰れるぜ」

「簡単に言うわね。それが出来ればこんなに苦労なんかしないわ」

「俺たちが手伝うぜ」

「あなたたちが?」

女に動揺が生まれた。やはり女の扱いには一日の長がある。

「無理よ。私がどんな任務を背負っているか知らないから言えるのよ」

「だけど、このままじゃ、前にも後ろにも進めないんじゃないか」

「……」

「結論が出たみたいだな。そろそろその物騒な物を仕舞ってくれないかな」

「わかったわ」

女はそれでも銃口を油断なく二人に向けながらソファーから離れて、距離を置いた場所でようやく銃を腰に仕舞った。

「ひゅー。気の強い女にゃ敵わねえ」

それでも良太はほくそ笑んだ。

「延田恭子よ。知ってると思うけど」

恭子は右手を差し出した。

「いいのかい? 無警戒に握手なんかしない方がいいぜ」

「平気よ。試してみる?」

恭子は手を差し出したままニコリと笑った。

「やめとくよ。折角開放されたのに、またねじ伏せられたら色男が形無しだからな。俺は良太。姿良太だ。よろしく」

良太は素直に彼女の手に握手した。

「俺は手嶋英介だ」

英介が二人の手に自分の手を重ねた。

「それにしても殺風景な部屋だな。何度も言って悪いが、生活の匂いがまったくしないぜ」

英介と良太の二人はソファーに、恭子はテーブルの椅子に座って飲んでいる。数種類の木の実を発酵させた酒ウォルスキーだ。カニ国には流石に猿国の酒はないらしく、恭子の御手製とのことだ。なかなか旨い。それをさっきから良太はがぶがぶ飲んでいる。恭子の御手製というところが彼の胃袋を刺激したのだろう。かなり酔いが回っている。

「この部屋はつなぎ用よ」

「つなぎ?」

もう良太の目は半開き状態だ。いつ潰れるかと英介は呆れ返った。ここまで泥酔した友をこれまで見たことがない。

「伝書鳩はこの部屋にしか飛んで来ないの。ここなら他に同じような鳩がたくさん飛び交っているから、疑われずに済む。だけど、私が本来ベースキャンプとしているのは、ここじゃないの。ここではカニ国の重要拠点へのアクセスが悪いから。だから、本国から伝書鳩が飛ばされる前に送信があって、それを合図に私はここで待機しているのよ」

折角恭子が答えてくれたのに、聞いた当の本人はいつしか高鼾だ。それを見て、恭子はくすりと笑った。初めて見せる愛らしい笑顔だった。

「どうせ送信するなら、こんな回りくどい方法なんてしなくても」

「それではカニ国に受信されてしまうわ」

床に寝転がってしまった良太と入れ替わって恭子が英介の隣に移って来た。

「でも、伝書鳩を飛ばす意味の暗号文が何度も送信されているんだろ?」

「表現が悪かったわ。送信ではなく、ラジオ放送なのよ」

「ラジオ?」

「ラシオ放送なら、猿国のものだけじゃなく、カニ国や石臼国のものも国境を越えて流されているでしょ? その民間放送のCMに伝書鳩の情報が組み込まれているのよ」

恭子は悪戯っぽく笑った。そんな目で見つめられると、変な気分になってしまいそうだ。

「へー。そうなんだ」

英介はそれとなく視線を逸らせた。

「まだ君の任務がどんなものか聞かされてないけど」

「さっきはあなたたちに手伝ってもらえたら助かると思ったけど、やはり止めておくわ」

「え? どうして?」

「こうして話してみると、とても暗殺者のようじゃないもの」

話しながら恭子は眠った良太の耳を弄んだ。まるで少女の仕草だ。

「パイロットとしての腕前は一流かもしれないけど、スパイとしては素人よ。よくあなたたちを軍が差し向けたものだわ。本当に私を探し出すことが任務だったの?」

そう言って彼女は真剣な目を英介に向けた。その目で釘付けにされて英介はもう視線を逸らせなくなった。

「そ、そうだよ。それ以外には何も聞かされてない」

「本当に?」

なんだか彼女の顔が近付いて来るようだ。

「本当だよ」

「ほんと?」

とうとう彼女の唇が英介の唇と重なった。熱い衝撃が英介の全身を貫通した。


翌朝目覚めると、恭子の姿はもうなかった。彼女の温もりと肌の匂いがまだ英介を包んでいる。途中でいつ良太が起き出すかと気が気じゃなかったが、貪るように求めてくる恭子の渇望に英介もまた我を忘れた。彼女は一人この異国で孤軍奮闘していたのだ。サルダインとカニール。直線距離にすれば一000㎞ちょっとだろう。戦闘機ならあっという間だ。だが、国境を越えるとなると、そこには政治という大きな壁が立ちはだかる。彼女はその壁の向こうで一人きりだったのだ。その寂しさを彼女はきっと爆発させたのだろう。そう思うと、愛しさが増して来る。

「うーん……」

良太がようやく起きたようだ。それを英介は横たわったまま慎重に窺った。

「い、痛ってえ」

上体を起こす途中で良太は頭を押えてまた仰向けに寝転がった。

「二日酔いか」

英介は冷静を装った。ゆっくりと上体だけ起きた。

「これが二日酔いか。俺、なったことがないんだ。頭が割れそうだ」

「どうりでがぶ飲みすると思った。普通は途中でペースが落ちるもんだ」

「それを早く言ってくれよ」

「お前が俺の忠告など聞くかよ」

英介はそう言って立ち上がった。この様子なら、恭子とのことは気づかれていない。ふっと安堵の息をつく。

「彼女は?」

「いない。目が覚めた時はもういなかった」

「おい。逃げられたのか?」

起き上がった良太だが、また頭を抱えて横になった。

「しばらく安静にしていりゃ治る」

英介はテーブルの上にある一枚の紙に気づいた。置手紙か。

『ごめんね。可愛い寝顔を見たら、無理に起こすのは悪いかと思ったの。

やはり手伝ってもらうのは申し訳ない気がする。もともと私一人に出された命令だから、私が遂行しなければならないと思います。軍にはよく私のことを説明して頂戴ね。あなたたちの言葉なら、石頭の幹部も少しは耳を貸してくれるかもしれない。期待しています。それから、目的遂行にはもう少し時間がかかると伝えて下さい。これからは成果がなくても、報告はまめにするとも。じゃあ。また逢いましょう。

                                    恭子』

「置手紙かよ」

いつの間に起き出したのか、横から良太が覗いていた。

「可愛げのない女だ。素直に甘えりゃいいのによ」

良太はまた横になる。

「なんだ。また寝るのか」

「二日酔いは安静が一番なんだろ?」

良太は初めての失恋に自分がどう対処すればいいのか戸惑っていた。

良太の回復を待って、二人はスカイライダーを隠してある森へ向かった。その間、いつになく口数が少ない良太だ。体調は回復したものの、心の回復にはまだ時間がかかる。

「おい。ちょっといいか?」

ふいに良太が英介を呼び止めた。振り向く英介。

「このまま何もせず帰るのはどうも気に入らねえ」

「どうするって言うんだ」

「あいつの口からは聞けなかったが、軍に問い掛けりゃ、わかる話じゃねえか? 実際に命令が出ているんだからな」

「機密情報だろ。教えてくれる訳がない」

「わかんねえだろ。或いはってこともある」

良太は踵を返した。

「おい。本気か」

「……」

「おい。良太」

英介は良太を追いかけた。

「悪いな、英介。どうも俺はいつもの俺じゃなくなった」

「どういう意味だ」

「こういう意味だ」

良太は立ち止まって振り返った。その目には涙が溢れていた。

「あいつに本気で惚れちまったみたいだ。情けないが、どうしようもない。お前は先に帰ってくれ。俺はここに残る」

「残るって、お前」

「ムダかもしれんが、あいつの力になりたい。ただそれだけだ」

「なら、俺も残る」

「お前はいい。これは俺だけの問題だ」

「今さら水臭いこと言うな!」

先へ歩こうとする良太の肩を英介は乱暴に引いた。

「お前は俺の分身だ。俺もお前の分身だ。いつも一緒だ!」

「すまん」

良太は頭を下げた。その姿に英介は深い罪悪感で居たたまれなくなった。だが、喉元まで込み上げた告白を英介はねじ込んだ。昨夜の事を友に言える訳がない。

恭子がつなぎと呼んだアパートの部屋に二人はまた戻った。彼女と接触して確かめた状況報告と暫くは共に協力して諜報活動を遂行したい旨、そして、それに関わる新たな命令を発するようメモに書いて、鳩の足に固定されているカプセルに入れた。良太の手から放たれた鳩はアパートの上空をぐるりと旋回したあと、猿国方面へ飛び立った。猿国からの返事が来るまでには早くても二,三日はかかる。幹部の会議好きを思えば、おそらくそれ以上だろう。それまでどうして過ごすか。二人はすぐに現実の問題と思えず、しばらく何も考えずボーとしていた。心のどこかで、また恭子がこの部屋に現れるかもしれない、いや、きっと現れるはずだ、という期待が二人につきまとっている。それがなかなか二人をして前に進もうという気持ちにさせないでいた。


ウストフとの密談を終えた五日後、ハチュードは牛の糞国に姿を現した。どうもこの国は好きになれない。街並みはゴミ屑一つなく綺麗に清掃も行き届いている。国民の誰もみなきちんとした身なりで、外見はいずれも紳士淑女を気取っている。だらしない男や風紀を乱すような女の姿を見ることはない。むしろ蜂国の方が、昼間から呑んだくれた男たちが屯していたり、狭い路地に入れば売春宿があって、この国より余程薄汚い。なのに何故か、この牛の糞国に来る度に、何処か匂うような、得体の知れない雰囲気に包まれるのだ。それは彼らの血として受け継がれている先祖からの宿命なのだろうか。ハチュードは鼻をヒクヒクさせながらも、人と行き交うときにはその仕草を隠し、目一杯の笑顔で会釈を繰り返すのだ。この国の国民性は侮辱されることを極端に嫌う。彼らも自覚しているのだ。他の国民と違って、自分たちの由来があまり好ましいものでないことを。それだけにほぼ全国民が卑屈で陰湿ときている。何ともやり難い相手だった。しかし、無視は出来ない。伝説となった猿蟹合戦にあっても、この国のご先祖様は決定的な活躍を見せているのだから。止めを刺す石臼が逃げる猿の上に落ち易いように、猿の足を我が身を以ってすってんころりと転ばせているのだ。この献身的な活躍で猿は敗北したと言っても過言ではない。その貢献はすこぶる大きい。

だから、石臼国大統領ウストフのときとは異なり、ハチュードは予め牛の糞国大統領のプリンストンへは書簡を送ってあった。その返事が来て、今日の面会となったのである。この国を敵に回すか、味方に引き入れるか、その結果はハチュードの計画に大きな影響を与える。

大統領官邸を訪問すると、ハチュード来訪の伝達は門番にまでしっかり行き届いていて、ハチュードは何のストレスもなく大統領執務室まで入って行けた。無論、ノーセキュリティーだった訳ではない。それなりにチェック体制は敷かれており、例外なくハチュードも身体検査を受けた。だが、その対応が無駄なくスムーズで、感心する事頻りである。是非とも見習いたい運用方法だとハチュードは思った。この国の統制は蔑ろには出来ない。国名のイメージばかりで見誤ると大火傷する。決して侮れない国なのだと、改めて気持ちを引き締めた。

執務室に案内されると、そこには大統領の他に二人の男たちが待っていた。方や、ハチュードは一人きりである。まだ彼のバックボーンには組織然とした存在がなかった。唯一、蜂国女王ハチルダの弟という立場が彼の寄る辺だった。しかし、この歴訪を無事に済ませ、彼の思惑通りな結果となれば、それを足がかりに一万規模の有志を招集することは可能だ、というのが構想の第二段階である。

「ようこそ、ハチュード殿。遠路遥々と。しかも、お一人とは驚きましたな」

ねちっとした声である。陰湿な性格は声にも出る。しかし、プリンストンにはまったく悪気はない。これが彼らの正常な応対なのだ。それを知らずに態度を悪くすると、必ず相手からしっぺ返しを喰らう。喧嘩を売る積りのない相手に無茶な喧嘩を売れば、当然相手は怒って応戦してくる。その負のスパイラルに陥らないためには、よく相手のことを学ぶべきである。それがハチュードの政治家としての基本姿勢だ。

「私は蜂国の冷や飯食いなもので、女王の弟ということ以外に、私を支えるものは何もありません」

謙遜でもなく、ハチュードは日頃より心中に抱いている思いを吐露した。

「貴方のお考えは書簡でよく承りました。我が国としても悪いお話ではないと思っております。その証拠に、ここに呼び寄せましたのは、陸軍と空軍の司令長官です」

プリンストンの紹介に二人はハチュードに向けて敬礼した。思わぬ成り行きにハチュードは顔を輝かせた。

「しかも、お気軽な身の上なのかもしれませんが、どう転ぶかわからぬ他国へ単身で乗り込んで来られるとは、そのお覚悟に感じ入った次第です。どうぞこれを機に誼を結ばせて頂こう」

「それでは、私にご賛同頂けますか!」

「賛同も何も、動かぬで良いのであれば、簡単なこと」

「しかし、栗国はそれを口実に攻め入ってくるかもしれませんぞ」

ハチュードはプリンストンの本音に探りを入れるべく、わざと栗国の名を出した。

「栗国とは因縁浅からず。責めてくるのであれば、むしろ好都合。積年の屈辱を晴らすよい機会となるでしょう」

やはり栗国には強い恨みがある。ハチュードは確信を持った。

「他所のご心配をなされるより、貴方ご自身は大丈夫なのですか? 先ほどの言葉では、貴方を支えるものは何もないと」

「今は、という意味でございます。この旅が終われば、私の後ろに幾万、いや、幾十万、或いは、数百万のお味方が立って下さるでしょう」

ハチュードには自信があった。自然とそれは態度に現れる。一方のプリンストンは頼もしげにハチュードを見つめた。この国の国民性からすればかなりの信頼の表れである。


猿国軍司令部へ飛ばした鳩がアパートに戻って来たのはそれから五日後だった。それはあっさりと二人の要求を受け入れる内容だった。そして、恭子に出されていた命令も記してあった。指令部の対応としては早い方だ。だが、その間、恭子は一度も来なかった。伝書鳩を猿国から放つとき、ラジオ放送でそれを暗示するメッセージを流したはずだ。恭子はそれを聞いたはずなのだ。しかし、彼女の姿はおろか、連絡さえなかった。

「はずだ……か。不確定要素ばかりだな」

良太は自嘲の笑いを見せた。その不確定にしがみついている自分を笑ったのだ。この五日間、恭子に姿を見せない何らかの事情があるのだと、自分に言い聞かせてきた。だが、日が経つに連れて、その思いは、不安へとすり替わって行く。本当は祖国を裏切っていたのではないかという絶望感だ。とすれば、自分も英介もまんまと嵌められたことになる。あの美しい仮面の裏側に、悪魔の顔を隠していたのだ。それでも、一度は惚れてしまった弱みからか、この期に及んでもまだ一縷の望みを託している自分が情けない。彼女の微笑が脳裏に張り付いて、振り切れないでいる。

一方で、英介も複雑な思いだった。恭子はどうして自分を求めたのだろう。その自問ばかりが頭を廻った。たまたま良太が酔い潰れて、自分が起きていたからなのか。あの縋るような熱い眼差しはなんだったのか。絡み付いて離れなかったあの唇は……

「ここでじっとしていても始まんねえだろ。俺たちも重い腰を上げようぜ」

良太が缶ビールを飲み干して立ち上がった。この五日間で空けたビール缶が部屋の隅でうず高く積もっている。カニ国のビールは猿国のものより少し塩気があるが旨い。ただやたらと泡が出る。

「と言って、何処へ行く?」

「軍からのメッセージがあるだろ」

「ああ。彼女に出されていた命令と同じものだ」

英介はメモを広げた。そこには、“アスカルを引き込め”とだけあった。前後の文脈からして、これが恭子に下された命令に間違いないのだが、その意味がまったくわからない。

「んったく。もっとわかりやすく伝えて欲しいもんだね」

良太は両手を掲げて首を横に振った。いつもの困ったポーズだ。これが出ると本来の彼だ。それに英介は顔を輝かせた。釣られて自分にも元気が移ったような気がする。これでこそ英介と良太の最強タッグだ。

「彼女と同じ命令の発行を依頼したからだ。仕方ない」

「相変わらず工夫のない奴らだ」

軽口も戻って来た。もう大丈夫だろう。

「兎に角、地道に捜査を始めるか」

英介も立ち上がった。

二人はアパートを出た。恭子は、アパートからはカニ国の重要拠点へのアクセスが悪いと言っていた。ならば、彼女はよりアクセスのいい場所にいるはずだ。その利便性は果たして何処に対するものなのか。政治の中心か、軍部組織の中心か、はたまた経済拠点か。そもそもアスカルとは何か。カニ国人の名前か、地名か、それとも何かの兵器か。だからと言って、やたらと聞きまわる訳にも行かない。カニ国人にとって知っていて当然の名称なら、それを知らないことが二人に対する不信感を抱かせることになる。二人は立ち止まった。

「仕方ないな。惚けて聞くしかねえだろ。俺は軍事拠点の一つだと睨んだ。猿国のセンタービルみたいなやつだ。そこにアスカルていうどえらい装置があって、それの機能停止か破壊を命じられたんだぜ、きっと」

「そんな大きな任務を彼女一人に任せたのか? それはないだろう。軍事装置ならそれなりに厳しいガードがあるだろうから、入り込むことさえ出来やしないさ」

「士官学校主席卒だぜ」

「それと実戦は違うじゃないか」

「ま、そうだけどな。議論ばかりしていても仕方ない。想定されるものを一つずつ潰して行くしかないさ」

良太は片手を上げてタクシーを拾った。

「陸軍本部まで行ってくれ」

「陸軍本部?」

運転手は怪訝な顔で振り返った。

「たしかアスカルっていうところだ」

「アスカル? 知りませんねえ」

首を横に振る運転手。ちょっと気まずい雰囲気。

「オスカルだったかなあ」

良太、本当に惚けた。

「友達と待ち合わせしたんだよ。田舎から出て来たばかりでね。右も左をわからないから、カニール市民がよく集まるところらしいんだが」

不審を取り消すための方便だ。ここは誤魔化して適当なところで降りて、また別のタクシーに違う切り口の行き先を打診するのだ。陸軍がダメなら、次は空軍。それも外れなら、参謀本部と、下手な鉄砲でも打ち続ければその内。ところが、

「それならお客さん。浄水場じゃないですか? 通称アスカルでしたよ。たしか」

「え? 浄水場?」

意外な答に二人は驚きの声を上げた。少し顔を見合わせたが、良太が運転手に告げた。

「じゃあ、そこに行って」

半信半疑な二人を乗せて、タクシーは走り出した。

「本当に浄水場なんだ」

タクシーから降りた二人の第一声だ。目の前には大きな正門があって、その先には噴水が立ち上る芝生広場が遠くまで広がっている。何組かのカップルや家族連れが気ままな余暇を過ごしている。なんとも長閑な風景だ。

「見事にハズレだな。折角来たんだ。散歩でもして行くか」

良太に仕方なく英介も同意して、二人は門を入った。守衛さえいない。こんなノーガードな施設にカニ国の重要機密などある訳がない。初日は空振りと潔く諦めるしかない。

芝生広場をしばらく歩くと平屋の建物が見えてきた。浄水場の管理センターのようだ。入り口には浄水管理センター“アスカル”と確かに看板が掛かっていた。透明で分厚いガラス扉を押し開いて、二人は中に入った。中はガランとしていて、点々と展示台が置かれてある。施設の紹介スペースのようだ。

「アスカルには違いないが」

良太がため息をつく。

「おい、良太」

フロアーの中央にダムの大きな模型が設置されており、その脇に掲示されている説明パネルを眺めていた英介が呼んだ。

「このセンターがカニール全域の水をコントロールしているそうだ。しかもこのダムの貯水量はカニ国全体の二0%に当るらしい」

「ふーん。すごいもんだな」

「一元管理とはたいしたシステムだ」

「ああ。……」

「……」

「こいつだ!」

二人が同時に声を発して向き合った。そして、慌てて周りを見回してお互いの口止めをする。二人は管理センターから一旦外へと出た。途中から駆け足となって、少し離れた場所のベンチに座る。しばらく押し黙っていたが、怪しまれた様子がないのを確認すると、一転、二人同時に噴き出した。

「まったく何がどう繋がるかわからんもんだ」

とは良太。

「まさかだよ。まさか」

ひたすら感心する英介。

「恭子はきっと、ここのシステムに関わる命令を受けたんだ。浄水場の機能を全停止させたら、カニ国は緊急事態に陥ること間違いないぜ。指令部もバカじゃなかったって訳だ」

「そんな都合よくあるかなあ」

暴走気味な良太に英介は慎重論を投げた。

「あるのさ。だから軍が目をつけた」

「なるほど」

それは納得できる推察だ。

「カニ国人は大昔水生生物だったと聞いたことがある。その生態を今でも引き継いでいるのであれば、断水は重大問題だ」

「まさしく命の水か」

「どうする?」

良太はもう前のめりになっている。延田恭子の任務がわかったのだ。ここを張っていれば、彼女に会える公算が高い。

「まずは様子を見よう。入り口こそ守衛もなく無警戒だが、それはこの設備の展示パネルがあるからだろう。一階は来館者への公開スペースみたいだった。だが、流石にシステムの心臓部には厳重なセキュリティーが張り巡らされているに違いないよ。なんといっても国家の生命線だからな。それに俺たちは施設の図面も持っていない。コントロールが何処で行われているか知らないじゃ、攻めようもない」

「じゃあ、もう一度一階でだいたいの概要を見よう。機密部分は公開されてないだろうが、逆の見方をすれば、公開されていない場所にターゲットがあるということだ」

「そうだな」

二人は立ち上がって、もう一度管理センターへ歩いた。透明なガラス扉越しに見えるフロアに人の姿はなかった。一般客を装って二人は中へ入る。それぞれ分かれて展示パネルを眺めながら様子を探る。フロアの四隅にさりげなく目をやると、防犯カメラが設置されていた。ダミーでもなさそうだ。赤ランプが小さく点いている。良太が目配せで英介を呼び寄せた。英介が近づくと、良太が見つめる壁に管理センターの構内図が示されていた。外観は一階建に見えるが、地下は四階まである。その各部屋の名称も書いてある。地下に潜るほどその機能の重要性が増すのは部屋の名称で知れた。そして、最深部の四階にコントロール室アスカルがあった。

「ご丁寧にちゃんと書いてある。ちょっと拍子抜けだな」

良太が小声で言って笑った。

「一般市民にはさして重要な情報でもないさ。むしろ、税金でこんな大層な施設を建設したことへのアピールをしているのさ」

英介も小声で答える。それに良太は音を出さずに口笛を鳴らす仕草をした。

地下四階まではエレベーターの他に左右二か所に非常用の階段がある。潜入するにはエレベーターは無論選択外だ。ルートは階段しかない。しかし、発見されたときの逃げ口を思うと、かなり難しい。二か所しかない出入口を封鎖されたらお終いなのだ。構成図を写真に撮りたいところだが、防犯カメラが見つめているから憚れる。二人は分担を分けて各階の配置を頭に叩き込んだ。アスカルがある四階だけでなく、逃亡ルートの可能性を考えればすべてを熟知していないと対応出来ない。記憶に焼き付けて、他の展示パネルを眺めた二人は素知らぬ振りでセンターを出た。記憶が鮮明な内にその配置図を書き残す必要がある。先ほどのベンチに戻ると、二人は無言でそれぞれの記憶を手帳に書きだした。

「こうやって見ると、そう簡単じゃないな」

二人が書きだした図面を眺めて良太が唸った。

「恭子はきっとこの管理センターの組織に入り込んでいるんじゃないか。そうじゃなきゃ、無理だぜ。地下は厄介だ」

「だろうな」

英介も同意した。

「なにも俺たちが危ない橋を渡る必要はないだろうさ。組織に入り込んでいるなら、恭子のサポートをすればいい。初めからその約束だ」

良太の真意はわかっている。恭子との再会を念頭に入れているのだ。しかし、英介としてはあまり気乗りしない。恭子と良太を前にしてどんな顔をすればいいのか。恭子の自分に対する態度も懸念される。妙に馴れ馴れしく接してきたら、良太が不審に思うのは目に見えている。

「彼女とまた会える保証はないよ。ここが彼女の本当の任務対象だったとは限らないからな」

「いやに否定的だな。ここに決まっているさ。アスカルの存在といい、この浄水施設はカニ国人の生命線を握っているんだぜ。必ずしも軍事施設だけが戦略対象じゃないさ。考えようによっては、このアスカルを壊滅させればカニ国全体に及ぼす影響は絶大だ。致命的とさえ言える。もう戦争どころじゃなくなるさ。いくら最先端の武器を破壊しても、技術や人手があればまた次を作り出せる。切りがないさ。俺は指令部の睨みを見直したところなんだ」

「しかし、彼女とどう接触するんだ? 彼女は俺たちの協力を拒否したんだぜ。向こうから遠ざける可能性だってある」

「とことん否定するねえ。今日のお前はおかしいぞ」

「いや別にそんなことはない……」

英介は少し俯いた。心の内を見透かされはしないかと内心では落ち着かない。

「そのときはそのときさ。だが、俺たちは彼女と共に行動すると司令部からの了解を取り付けているんだ。それを説明すれば、彼女だって頷かざるを得ない。それさえ同意しないのなら、話は振出だ。彼女の裏切り疑惑がまた再燃する。すぐそれに気付くだろう。頭脳明晰な彼女なら当然の結論だ。ただ、裏切りが真実なら別だが」

「裏切っていると思うのか」

「思わねえよ。思わないから言っている」

良太は胸を張った。その目が態度以上に彼女の潔白を信じて疑わないと言っている。いい加減なように見えるが、その実は純粋過ぎる男なのだ。それがわかるだけに、友を裏切っている自分が許せない英介である。だが、やはり告白出来ない。

「どうした? お前は疑っているのか?」

「いや。俺だって信じているよ」

むしろそれは良太より強いかもしれない。関係を持った女を疑いたくはないものだ。まして、疑うということはその瞬間から彼女を敵として認識しなければならない。そんな表裏一体の感情をコントロール出来るほど自分は強くない。英介は湧き上がりかけた疑念をねじ込んだ。

「そうと決まれば、あとは彼女との接触をどうするかだ。今何時だ」

「三時を少し過ぎたところだ」

「そうか。まだ早いな。管理センターの入館時間は五時までだった。それなら業務はせいぜい六時までだろう。その頃になれば職員が帰り始める」

「それまで待つのか」

「まさか住み込みじゃないでしょう? 地下に住宅があるとも思えねえし」

「閉館時間頃にまた出直すか」

「何処に行く? 折角ここまで来たんだ。何かの都合で行き違いになっても面白くない。待つしか……いや、いっそ訪ねてみるか」

良太はセンターに歩き始めた。

「どうする気だ」

横に並んだ英介が聞いた。

「あそこにインターンフォンがある。あれで聞いてみる」

「なんて?」

「もち、延田恭子さんはいらっしゃいますかと聞くのさ」

「偽名を使っているかもしれないんだぞ」

「そのときはそのときさ」

構わず良太はインターフォンに近づきボタンを押した。時折こんな悪さをするのがこの男の癖だ。

呼び出し音が鳴ってからしばらく待つと応答があった。当然恭子の声ではなく、男だ。

「姿良太と申します。こちらに延田恭子さんはいらっしゃいますか?」

よそ行きの声で良太が話しかけた。しかも本名を名乗った。確かに本名を告げなければ、恭子に良太だとはわからない。

「しばらくお待ち下さい」

男の声の後に保留音が鳴り響く。良太は親指を上げてウィンクした。

「居たぜ。たいしたもんだ。しっかり入り込んでやがる」

良太は小声で英介に告げた。保留中だから相手に聞こえるはずもないが、ついそうしてしまうのは誰も同じだろう。良太の本音からすれば、派手なガッツポーズでもしたいに違いない。

ふいに保留音が止んだ。

「はい。延田です」

インターンフォン越しで声が少しくぐもっているが、恭子のようだ。

「俺。良太。来ちゃった」

良太は喜びを押し殺して答えた。顔がにやけている。

「わかりました。少々お待ち下さい。今まいります」

それだけ言って声は切れた。いやに冷たい感じが気になる。

「少々お待ち下さいだって」

良太はそれさえ気に留めてない。再会の嬉しさがすべてに勝っているようだ。

それから数分後、フロアで待つ二人の前でエレベーターが開いて誰かが出てきた。恭子だ。間違いなくそれは延田恭子だった。今日は地味な作業着に身を包んで何処から見ても事務員だ。すっかり組織に溶け込んで、見事にスパイの影を消していた。恭子は二人を認めると、笑顔も見せず、顎で外を示して一方的に館外へ出て行く。仕方なく二人も後に続いた。そして、例のベンチまで来て振り向いた彼女の目は既に吊り上がっていた。

「どういうつもり!」

それが再会した彼女の第一声だった。良太の狼狽は言うまでもない。

「どう、て……」

「あんたたち私を売国奴扱いした後は、私の苦労を潰す気なの!」

恭子の怒りは治まるところを知らない。

「そんな……俺たちは君の手伝いをしに……約束したじゃないか」

「それはお断わりしました。手紙読まなかったの!」

「読んださ。読んだけど……」

まったくしどろもどろの良太だ。こんな良太を見るのは初めてだ。英介は目を丸くするばかりで、助け船の出しようもない。今のところ、良太にその矛先が向けられているように見えるが、実際は違うと承知している。たまたま受け答えしているのが良太というだけで、時折英介に向けられる視線も冷たく鋭い。あのとき自分にしだれかかってきた女と同一人物とはとても思えない変貌ぶりだ。女とはかくも魔物だったか。

「兎に角、帰ってちょうだい! もう来ないで!」

恭子はそう捨て台詞を残して去りかけた。それを良太が手を伸ばして彼女の肩を掴んだ。

「そうはいかない」

「離してよ!」

「もうそうはいかないんだ。俺たちが君のサポートをするよう司令部からの命令が出た」

「え?」

初めて恭子の表情が変わった。驚きより不安げに見えるのは何故か。

「なんですって?」

向き直る恭子。

「俺たちの使命は君と協力して君の任務を遂行させることになった」

「勝手なこと言わないでよ!」

思わず恭子は声を張り上げた。近くを歩いていた家族連れが三人に注目した。

「大声出すなよ」

なだめるように恭子の背に手を回し、良太は殊更笑顔を振りまきながら、彼女を落ち着かせるような仕草で移動させる。流石にこんなときの女の扱いには手練れている。何度も別れ話をこうして収めて来たのだろう。そして、人目を避けるような木陰まで進むと、良太は恭子と対面した。

「どういうこと? 説明して」

恭子の顔はまた険しくなっている。

「俺たちが司令部に伝言を飛ばして、了解を取ったのさ」

「また勝手なことを。大きなお世話だわ。私一人で出来ます。むしろあんたたちは足手まといになるわ」

そっぽを向く恭子。こうなると女はもう手に負えない。というのが英介の経験値だ。ところが、

「大きなお世話さ。ああ。足手まといで結構。だがな。俺はお前に惚れたんだ」

おい。ここでそれを言うか⁉ 今度は英介が驚く番だ。

「真剣なんだ。一目惚れなんだ。もう俺自身どうすることできん!」

それを威張って言うことか。英介はただ唖然とするばかり。

「バッカじゃない」

案の定、恭子は苦笑した。心なしか、彼女の視線がチラッと英介に向けられたようで、英介はドキッとした。ここであのときのことを彼女に打ち明けられたら、それこそ万事休す。英介は逃げ出したくなった。

「馬鹿とはなんだ」

声こそ張り上げてはいないが、良太のそれには怒気が込められている。

「馬鹿は、馬鹿よ。よく考えてみなさいよ。私たちは今戦場にいるのよ。諜報活動というのは毎日が戦場なのよ。戦闘機のパイロットさんにはわからないでしょうけど、私はいつも死と背中合わせにいるのよ」

恭子の目が潤んで見えた。彼女には辛い毎日が続いているのだ。良太も押し黙ってしまった。そんな告白をされてはグーの音も出ない。

「生きるか死ぬかの境界線で色恋なんて考えられないわ」

それなら、あのときの君はなんだったの? 英介は疑問を抱くと同時に、彼女への恋慕が萎んでいくのを覚えた。やるせなさに俯く英介。そして、また顔を上げた彼に、恭子が人差し指を口に当ててウィンクした。良太に気付かれはしないかと思ったが、良太もまた俯いている。その隙をついて彼女がサインを送ったのだ。英介とのことは黙っているという意味なのか。やはり女は魔物だ。

「何と言われようと、俺の気持ちは変わらない。それに、経緯はどうあれ、君のサポートは司令部の命令だ。それを覆せば、どうなるかぐらいは君ならわかるだろう。俺たちは構わないが、君にはいよいよ反逆者のレッテルが張られてしまう。それは絶対に避けたいんだ」

おいおい。俺たちはいいのかよ。お前一人で決めるな。英介の胸の内は右往左往だ。

「そうなったら、いっそ一緒に逃げる?」

「え?」

恭子の思わぬ言葉に二人は唖然とした。

「ふふ。冗談よ。わかったわ。兎に角今日は帰ってちょうだい。また連絡するから、それまではこんな無謀な真似はしないで欲しいわ」

「どう連絡するんだ」

まだ縋るか良太。

「あの部屋に私が行くわ。本部に報告することもあるから」

「わかった。待ってるからな」

態度は毅然として見えるが、その実は情けない未練ありありの良太だ。

それには答えることもなく、恭子は背を向けて片手を振っただけだった。それを二人はただ見送った。

エレベーターで地下四階まで下りた恭子はそこから真っすぐ延びた廊下を通って一番奥の部屋まで歩いた。ドアの前に立って、胸ポケットからICタグを取り出しセンサーにかざす。ピッという金属音に続けて暗証番号をキーに打ち込む。それで初めてドアのロックが解除された。だが、その先にもう一つドアがあって、そこは顔認証が許可されないと入れない。顔型の凹みに顔を合わせると、「ようこそ」と子供のような音声が流れてようやく目の前のドアが横にスライドした。ここまでたどり着くのにどれだけの苦労を積んだことか。時に女を使ったこともある。それは、超がつくと自他共に認めるエリートの自分にとって、拭い去れない屈辱として心に刻まれている。軍はこの任務をまったく軽く考えているのだ。恭子は軍に対する不快感を禁じえない。この任務を命じたときの上司の顔を今でも覚えている。自分たちの計画に小躍りせんばかりの浮かれようだった。誰も思いつかない奇策、そして、歴史を覆す作戦と自惚れ、猿国の明日に勝利をもたらすと信じて疑わない愚かな幹部たちの顔だった。私はあいつらのためにここに居るのではない。自分の心の奥深くに秘めた計画を実行するためなのだ。それが彼女の支えだった。ようやくここまでこぎ着けたのだ。誰にも邪魔させる訳には行かない。だが、そんな彼女の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。それは彼女自身思いもしないことだ。何故? 彼女は戸惑った。自分の変化に彼女自身気付いていなかった。どうして? 馬鹿な。あれはいつもの遊びだったはずよ……。私にはやり遂げなければならない事がある。恋愛ごっこにうつつを抜かしている暇なんてないわ。彼の残像を消し去るように否定の首を振る恭子だった。

アスカルと呼ばれるコントロール室に入ると、恭子は一人の男の元へ歩いた。

「中座しまして申し訳ありません」

「あの男たちは何者だ」

男は前面の壁に組み込まれた幾つものモニターに向いたまま振り向きもせず、恭子に聞いた。恭子の背筋を冷たいものが走った。やはり監視されていたのだ。油断のならない男だった。会田洋二。アスカルの総責任者であり、恭子の直属の上司だ。いつも何を考えているのか読めない。表情を変えた瞬間を見たことがない。喜怒哀楽という言葉がこの男には存在しないのだろう。常に冷静で、穏やかな顔だが、その内側に別の顔を持っている。そんな男だ。恭子は密かに会田をマスクと呼んでいた。この男が大きな壁となって、恭子の計画は停滞していると言ってもよかった。

「幼馴染で、急に田舎から出て来たんです。前もって連絡くらい寄越せと叱ってやりました」

恭子は笑顔を繕った。

「そうか。わかった」

相変わらずモニターから目を逸らさない会田はそれでもう興味を失ったのか、それ以上の言葉を発しなかった。恭子は何とか誤魔化せたようで小さく息を吐いた。しかし、背を向けて自席に戻る恭子を会田が目で追ったことに彼女は気付いていない。


それから三日後。ようやく恭子が二人の待つアパートに現れた。抱きつかんばかりに喜ぶ良太をかわして、恭子は持っていた手提げバッグをソファーに放り投げてベランダに駆け寄りサッシ窓を全開した。

「なによいったい。酒臭いし、タバコ臭いじゃない」

全開した窓から入り込む空気に深呼吸する恭子。ここまで息を止めていたようだ。

「仕方ねえだろ。男二人なんだから」

良太は愛しい恭子に無視されて少し不貞腐れたようだ。

「ちゃんとゴミ出ししたの?」

「ああ。二日前に出した。なあ、英介」

「ああ。確か一昨日だ」

英介はソファーに寝転がったままだ。この三日間、二人は昼と夜が関係ないような生活だった。エリートパイロットの面影は微塵もない。

「それで任務が務まるの?」恭子は呆れている。「いざという時に動けるのかしら?」

「おい。久々に感激のご対面なのに、いきなり説教かよ」

良太がそう言いながらソファーに腰かけた。追いやられて仕方なく英介も起き上がり腰かけた。

「決行するのよ。わかって?」

「え! 本当に?」

思わず立ち上がる二人。それに入れ替わって今度は恭子がソファーに座った。二人は彼女を前に床に胡坐をかく。まるで説教を受けている絵だ。

「会田がいないの」

「会田? 誰だい、そいつ」

当然の良太の反応だ。一度も説明を受けたことがない。

「アスカルの総責任者。私の上司よ」

「ふーん。そいつがいないとやれるんだ」

一向に要領を得ない二人。まったく反応の鈍い二人に恭子は苛立ちを隠せない。が、それも仕方ない。ほったらかしにしていた自分も悪かったかと思い直す恭子。気を取り直して説明を始めた。

「アスカルがどんな施設かは二人とも理解しているわよね」

それに素直に頷く二人。まるで母親を前にした幼子のようだ。

「二人がアスカルを訪ねて来たときは本当に驚いたわ。流石はエリートよね」

少しおだててみた。テンションを上げないと、これからの話に着いて来れないかと思ったからだ。それに二人はまんまと乗った。

「あの施設では毎日一0億tもの水を供給しているのよ。十億tよ。カニ国の総人口が約二千万人。産業に使う水が多いけど、それでも一人七千~一万リットルの水が必要だと言われているわ。ほとんど一日垂れ流し状態ね」

「二千万人か。意外に少ないな。俺たちの三〇%もいないじゃないか」

そこ? そこに関心がいくの? 恭子は頭を抱えたが、もう一度仕切りなおす。

「そうじゃなくて。水に注目してよ」

「わかってるさ。でも、なんでそんなに使うんだ?」

良太が初めてまともな質問をした。それに思わず微笑む恭子。やっと本題に入れる。

「カニ族は今でこそ私たちと同じ人の姿をしているけど、大昔は沢蟹と呼ばれていたのよ」

「俺たちだって、大昔は猿だろ?」

「もうちゃんと話を聞いて」

「わかった。わかったから、続けろ」

「ん、もう! ……いい?」

「おう。いいよ」

OKマークを指で作る良太。

「沢蟹は水がきれいな場所にしか住めないの。それは人になる遺伝子があっても、その体質は現在も変わってないのよ。だから、日に何度かきれいな水、それも溜め水じゃなくて、流水に体を浸けないと、皮膚が硬化して、酷くなると死んでしまうらしいの」

「へえ。不便な奴らだ」

「だから、私だって、疑われないように日に何度もシャワー浴びているから、お肌が荒れちゃって」

「おい」

良太が注意した。恭子自らが脱線している。それに恭子はペロッと舌を出した。愛らしい。照れる良太。苦笑する英介。

「まさしくアスカルはカニ国の生命線なのよ」

「そこまでは俺たちも想像していたよ」

そう言った英介に恭子は笑顔で頷いた。良太と明らかに対応が違う。英介は良太を気にしたが、彼は何も言わなかった。

「本部からの指令を受けてから、私はこのアスカルに潜入する機会をずっと窺って来たのよ。ようやく採用されたのが半年前。派遣としてだけどね」

本部? 諜報本部のことだろうか。兵士には一般的に知られていない組織だ。あるだろうという噂程度だ。優秀な者しか入所出来ないと言われている。

「君はいつからこのカニ国に潜入しているんだい?」

英介が聞いた。

「二年前からよ」

え! 二人とも絶句した。そんな前から恭子はこの敵国に入り込んでいたのか。あっさりと彼女は答えたが、その間にはどんな苦労があったのだろう。言いたくない事情もあったに違いない。何もなかったように二人の前に居るが、時折見せる彼女の険しい表情の背景にはそんな過去が由来しているはずだ。

「最初の一年こそは時々本国に戻って来れたけど、ここ一年はもうどっぷりね。すっかりカニ国人だわ。見て」

恭子はおもむろに後ろを向いて髪をたくし上げた」

彼女の襟足に小さな突起物がある。

「本当のカニ国人ほどじゃないけど、私にも出来ちゃったの。この国の水を飲んだり、体に浴びていると、体質が変わってくるようだわ」

元に向き直って恭子は笑った。悲しそうな笑顔だ。

「私、その内本当にカニ国人になっちゃうかもね。もう猿国には帰れないかな」

「そ、そんなことはないさ」

慌てて良太が否定した。

「君に何があったって、猿国人さ。俺がみんなに証明してやるぜ」

「ありがとう。その時はお願いね」

恭子が良太に頭を下げた。

「カムフラージュスプレーは使ってるんだろ?」

それを体に吹き付けられたとき、光彩に変化をもたらせるだけでなく、外部からの肌感染を防ぐ働きもあると説明されたことを英介は思い出していた。異国に行けば、免疫力のない細菌に感染して重篤になる場合もある。

「持ってるわよ。携帯用をね。でも、あなたたちも説明受けてると思うけど、あれは全身に塗布しないと絶対じゃないの。少しでも隙間があれば、細菌レベルなら楽に入り込んでくるわ。携帯タイプは補修用でしかないから、どうしても隙間を見逃してしまう。それに口から入るものには無防備だし。時間の蓄積って本当に怖いわ。今のところこの突起しか見つけてないけど、他にも症状があるのかしら」

そう言って恭子は英介を見て、すぐに視線を逸らせた。私の体に異変はなかったかと聞きたいのだろう。良太がいるから出来ない。それに英介はさり気なく首を横に振った。恭子は安心したように顎を引いた。

「また脱線しちゃったわね。話を本題に戻すわ。半年前に採用されて、アスカルに異動となったのが三か月前よ」

「アスカルって、実際にはどこを指すの?」

素朴な英介の疑問だ。

「コントロールセンターよ。あなたたちがいたあの建物自体は浄水管理センター。その地下四階に浄水施設の心臓部であるアスカルコントロールセンターがあるの」

「あの構内に施設案内図があって、すべて表示されているみたいだけど、大丈夫なのかなあ」

敵国なのにあまりのオープンさに変に心配してしまう。

「笑っちゃうでしょ?」

会話の中心は恭子と英介の二人になっている。良太はそれを黙って聞いているようだ。いや、実際には恭子に見惚れているのだ。だから、恭子と英介の間に妙な視線のやり取りがあっても気が付いていないようだった。

「カニ国人て、総じてオープンな国民性があるみたいなの。もっと言えば、隠すことを知らないみたい。流石に軍事機密は秘密にしているけど、私から言わせれば、かなり甘いセキュリティーね」

「それじゃあ」

言いかけた英介に恭子は首を横に振った。

「アスカルは違うわ。いいえ。あの男がいなければ、簡単だったかもしれない」

恭子の顔が少し険しくなった。

「それが、その……」

「会田。会田洋二よ」

「でも、その会田だって、四六時中監視している訳じゃないんだろ?」

「そうよ。確かに週休二日だし、日中しかアスカルには居ないわ」

「なら」

さらに首を振る恭子。

「アスカルに居ないだけで、彼の目はいつも光っているの」

その言い方に英介は寒気を覚えた。まるで怨霊にでもとり憑かれているかのようだ。

「一度、休日に試しに入ったことがあるの。後の面倒をなくす為に、ちゃんと守衛に挨拶してね」

守衛はいるんだ。

「アスカル本体に入るには二度のセキュリティーチェックがあるの。ICタグと顔認証」

なかなかじゃないか。褒めている自分が可笑しい。カニ国に妙な親近感を持ち始めたのではないかと英介は思った。

「入室までは何の支障もなかったわ。ところが、入った途端にデスクの電話が鳴ったの。初めは守衛からだと思ったけど、表示されている番号を見て凍り付いたわ。それは携帯の番号だった。すぐにそれが誰か想像ついたわ」

「会田から?」

恭子は黙って頷いた。まるで観念した者がするような頷きだ。

「だけど、それは守衛からの連絡があって」

「違う。直感でわかったの。彼にはセキュリティー情報が瞬時に伝わっているのよ。彼が何処に居たって、それは伝わるんだわ。彼が急行しなくても、彼の指示で緊急警備が敷かれる」

「そんなたいした人数じゃないだろ。君だけなら兎も角、俺たちが今はサポートするんだぜ」

久しぶりに良太が口をはさんだ。ここは出番だという意気込みがある。

「気付かなかった? 管理センターの隣に警察の機動部隊があるのよ」

「え?」

一気に萎む良太。

「カニ国もそこまでお馬鹿さんじゃないわ。自分たちの生命線だもの。それくらいの体制は敷いているのよ。守衛だけならまだ入り込める余地はあると思ったわ。何か異変があればまず見回りをしてからのはずだから、通報までに時間がある。だけど、あいつはダメ。躊躇なく機動部隊を呼び寄せる。あいつにはその権限が与えられているし、容赦ない男よ。いつも何を考えているのかわからない。隙がないのよ。あんな男初めて見たわ。きっと色仕掛けだってあいつには通じない。顔の内側にもう一つ顔があるんじゃないかしら。だから私はあいつをマスクと呼んでるの。マスクの通報ですぐに囲まれるわ」

「そうか……」

言葉がない良太。恭子の「色仕掛け」という意味さえ気づかず、しょげている。惚れた女に幾つも否定されてすっかり落ち込んでいるのだ。

「それなら、先に電話線を切っておけば」

英介が良太のフォローとばかりに提案したが、恭子の回答はけんもほろろだった。

「それくらい私だって考えたわ。でも、すぐに無駄だと気付いた。一般回線こそ切れても、機動部隊への直通回線は地下ケーブルを通してあるのよ。おまけに無線もある。しかも、通信の制御盤は守衛室の他に非常用としてアスカルの中にもあって、それらすべてを断線させるのは無理なの」

三人が同時にため息をついた。手も足も出ないとはこのことだ。

「だけど、聞いて」

ここまで男二人を落としておいて、女は勝ち誇ったような笑いを見せた。どこまで勿体ぶるのか。

「千載一遇のチャンス到来よ。あのマスクが明日居ないのよ。身重の奥さんが産気づいて出産間近なの。しかも難産らしく、帝王切開するみたいなの。その手術が明日」

「へー」

二人の男は嬉々とする女に反してありきたりな反応だ。

「どうしたの? 絶好の機会じゃない」

浮かない男共に女は不満顔だ。

「意外だな。君の話からしたら、その会田に家庭があるなんて思わなかった」

「でしょ? 私も意外だったわ。マスクにそんな一面があるなんて。しかも奥さんの手術に立ち会うのよ。その連絡メールが緊急連絡網で今朝流れて来たの。マスクにしては迂闊じゃない? 私にまで送って来るなんて。一斉配信だから、私のことを意識してなかったんでしょうけど。ここら辺がカニ国人よね。お人好しというか、無警戒ていうか」

「でも、通報が行けば、どうせマスクから機動部隊へ連絡が入るんだろ」

良太の力ない言葉だ。諦めモードが彼を支配している。それはアスカルに対してよりも、恭子に対するそれが強い。

「誰が通報するの?」

「え?」

ずっと俯いていた良太が恭子を見上げた。

「明日の日中ならみんな勤務しているわ。マスクに頼らなくても、私を含めて出勤しているメンバーが監視役になるのよ。そのメンバーたちを封じれば、通報なんてあり得ないじゃない」

「それはそうだろうけど」

また俯く良太。どうもこれまでと勝手が違うようだ。重症らしい。

「私は通常に勤務しているわ。マスクがいない職場でね。一旦部屋に入ってしまえば、そこにいる職員を片付けるだけ。マスクのデスクに緊急通報ボタンがあるの。そこに誰も近づけなければ、後はゆっくりと仕事が出来るわ。勿論、その前に守衛二人を始末しておいてちょうだい。監視モニターが守衛室にあるから」

「だけど、俺たちはアスカルに潜入出来ない。君一人でやるというのなら別だけど」

英介が言った。あまりに友に対して冷たい恭子の態度に少々の反発を禁じえない。だが、勝手に片思いしている友に原因があるとも理解している。彼女に責任がある訳ではないのだ。彼女の言葉を借りれば、今は作戦会議中なのだ。いわば戦場での会議と言っていい。そこに色恋を持ち出して一人項垂れている友が悪いに決まっている。生死を賭けた戦略に一分の隙もあってはならない。まして心の迷いがあれば、それは即ち死につながる。自分たちが戦闘機上にあれば、そんな乱れなど存在しないはずなのだ。しかし、ここが戦闘機の中ではなく、まして参謀本部でもないことも災いしている。アパートの一室で男二人と女一人が顔つき合わせて面談しているのだ。火中にある女と違って、男二人に戦争の臨場感が欠けていることも仕方ないことではないか。

「初めはその積りだったわ。あなたたちが現れるまではね。ま、あなたたちに会っても一度は断ったけど。それが昨日から急に五人体制になったの。マスクを加えたら六人よ。マスクがいない以前の三人なら何とかなるかと思っていたけど、男五人はちょっとね。か弱い女の私には荷が重いわ」

恭子はペロッと舌を出した。先ほどの言葉とは真反対だ。きっと五人でも斃せる自信はあるのだろう。だが、相手をしている間に一人でも通報ボタンに触れさせたらお終いだ。万全を期す彼女の考えに違いない。

「あなたたちが潜入する方法が一つだけあるの」

恭子は二人を見やった。妙に相手の反応を楽しむ癖のある女だ。

「それは守衛室にある荷物搬送用の小型エレベーターよ」

「荷物?」

男二人は嫌な予感に襲われた。荷物搬送専用となればかなり狭い空間だ。

「これが管理センターの館内図」

恭子は持ってきたバッグから図面を取り出し広げた。

「これを手に入れるだけでも一苦労だったわ」

地上一階のフロアと地下四階の構成が手書きで示されている。彼女が書き出した物だろう。

「あなたたちが守衛の存在に気付かなったのも無理はないわね。展示ロビーからは見えない位置にあるもの」

恭子は玄関と守衛室の位置関係を指で示した。守衛室は玄関とは反対側にある。

「この守衛室に毎朝10時にお弁当が届くの」

「10時?」

「そう。10時きっかりよ。私が勤め始めてからこの三カ月、一分の遅れもないわ。或いはその前に届いていて、守衛が決まった時間にこのエレベーターに乗せているのかもしれない」

聞いた英介を見つめた後、恭子は守衛室の一画を指さした。そこがエレベーターの場所らしい。

「他の荷物が届いたとしても、それはすべて午後なの。発送物との兼ね合いもあって、一度に受け渡ししているの。だから、あなたたちはそのお弁当と一緒に降りて来てちょうだい。無論、その前に守衛を片付けてもらわないといけないけど」

「殺すの?」

まさかと思いながら英介は言葉にした。戦闘機で何度かスクランブルの経験はあったが、それは威嚇だけで、これまで一度も相手を撃ち落とした経験などなかった。まして生身の敵に対峙するのは初めてだ。人が機上しているとはいえ、ターゲットが戦闘機なら物と割り切れるが、果たして相手と直面してその命を奪えるのか自信がない。それは良太とて同じはずだった。

「それは任せるわ。私だって、敵人とは言っても、無益な殺生は避けたいもの。でも、身柄の拘束はしっかりしてね。口も塞いで。騒がれたら厄介だから。これで縛ったら控室に閉じ込めておいて」

恭子はバッグからロープとガムテープを取り出した。一体何が入っているバッグなんだ?

「突然、守衛がいなくなったら、不審に思われないか?」

「誰が不審に思うの? 大丈夫よ。守衛は見回りで不在にすることが多いし、あなたたちも知っているように、管理センターを訪れる人なんて滅多にいないわ。来るのは、午後の運送屋くらい。それまでには片付けなくちゃいけない。当然、そこまでかかる計画でもないけど」

「職員が来ることは?」

専ら聞き役は英介だ。良太は目をしばたかせながら聞き役に回っている。惚れた女の有無を言わさぬ指示にただただ驚いているのか。相手が有能なスパイであることを改めて思い知らされているのかもしれない。

「ない」

恭子はきっぱりと言った。

「職員は一旦仕事部屋に入ったら、業務終了まで部屋を出てはいけないの。だから、あなたたちが訪ねて来たときは、特別にマスクの了解を取ったのよ」

さも迷惑だったと言わんばかりだ。

「ところで、武器は持っているの? 持っているはずよね。場合によっては、私を殺す可能性もあったのでしょうから」

強烈な皮肉だ。男二人は革ジャンを開いて、内ポケットに入れた小型銃を覗かせた。

「その銃を持って、あなたたち管理センターに来ていたの?」

恭子は呆れたという顔をした。

「身体検査されたら一発じゃない。私だって巻き添えを食らっていたかもしれないわ」

「でも、あのフロアは出入り自由なんだろ?」

「もしもよ。いろんな想定をしておくのがプロじゃない?」

「……」

俯く二人。

「ま、いいわ。過ぎたことをとやかく言っても仕方ないし。他に武器は?」

ちょっと投げやり。こんな男たちに作戦を打ち明けた自分を後悔しているのか。

「これがある」

英介は胸ポケットに挿したペンを抜き取った。それを恭子は怪訝な顔をして見つめる。

「至近距離じゃないとダメだけど、このペンには猛毒が仕込まれているんだ。肌に付着しただけでも、数秒で確実に死ぬらしい」

「なるほど。それで私を始末するよう言われたのね」

恭子の表情が一変して冷たくなった。否定は出来ないが、その積りはなかったと説明しても聞く耳をもたないだろう。嫌な空気に包まれた。それを打ち消すように、恭子が大きく息を吐き出した。そして、表情を崩した。

「よかった。あなたたちと仲間でいられて」

それに男二人も表情を和らげた。

「だけど、アスカルに入ったら、覚悟してちょうだい」

また険しい顔に戻して恭子が言った。どれが本当の彼女なのか。いや、どれも彼女に違いないのだが。

「下手な手加減はしないこと。それは私たちを窮地に追いやるだけだわ。五人全員始末するの。いいわね」

まるで空軍学校の教官を前にしているようだ。いや、それ以上だ。緊張させかと思うと緩めたり、彼女の見事な洗脳で男たちの感覚は麻痺し始めている。五人全員始末という言葉にさえ反応が鈍い。

「返事は?」

「は、はい」

思わず敬礼してしまった二人。

「繰り返すわよ。しっかり頭に刻んで。10時ちょうどに荷物専用エレベーターに乗るのよ。いいわね。10時きっかりよ。その前に、守衛を片付けないといけないから、その数分前に管理センターには待機している必要があるわね」

「数分?」

「自信がないなら、もう少し前でもいいけど。管理センターの開門時間が9時30分。門とロビーの玄関を開けて守衛が戻るわ。その頃に弁当屋が来て弁当を持ち込む。それを終えて、弁当屋がセンターを出て行くのが9時40分から50分と見ているわ。」

「10分か」

男二人は不安を露わにした。

「充分よ。たった二人じゃない。一対一なのよ。しかも相手は一般人なんだから」

君にはそうかもしれない、と言いたいところだが、男たちは黙って頷くしかない。男にも意地がある。いや、やるしかない。

「手際よく進めるのよ。生かしても殺しても、控室に押し込んでおくのよ。忘れないでね。威嚇している時間なんてないから。最悪でも気絶させないと、縛るのに手間取るから。いい?」

それに無言で頷く二人。

「荷物エレベーターは四階直通になってる。途中の階には止まらないわ」

「途中の階で弁当を降ろすことは?」

「ないわ。よく見てちょうだい」

恭子はまた図面を指さした。

「地下一階から三階は無人なの。一階には会議室や資料室があるけど、二階は機械室、三階には水道管が通っているわ」

「水道管?」

「そう。それも巨大な送水管。大量の水を送るんだもの。貯水ダムから持ち込んだ水をこのセンターで浄化して、カニール全域と近隣の都市にも送水しているの。小割された部屋があるけど、それは送水管のメンテを行う場所。異常でも感知されない限り、いつも無人よ」

「水道管の下で仕事してるんだ。それじゃあ」

「そう。アスカルにいる職員はコントロールセンターにいるメンバーだけ」

恭子は片手を広げた。五人という意味だ。

「エレベーターが着いたら、私が入り口にいるわ。係なの。いつものことだから誰も不審に思わない。ドアが開いたら一気に飛び出るのよ。狭いから、乗り込む時に、飛び出せる体勢で乗るのよ。そうしないと遅れる。背中から乗ると間違いないわ。それから、飛び出る時には出口の段差に気を付けて。床まで八0センチくらいあるから。あなたたちが襲ってきたら、私はマスクのデスクに走るわ。緊急ボタンを押す振りをして。そして、メンバーたちが近づかないようにガードするわ。あなたたちの役目はメンバーを封じることよ。他は一切考えないで。私は自分で身を守る。絶対に緊急ボタンには触れさせない」

それは大丈夫だろう。男たちは苦笑した。

「メンバーは撃ってもいいけど、計器には銃を向けないで。緊急停止なんかされたら、通報したのと同じだから。空軍でも射撃訓練はしたんでしょ?」

「う、うん」

「弱い返事ね」

「多少は自信がある」

良太が小さく言った。さっきから女の勢いに押されっぱなしだ。

「多少じゃ困るんだけど、いいわ。信用する。今さら訓練しても始まらないし」

良太はムッとしたようだった。彼は空軍ナンバーワンの射撃の名手だ。英介は反論しようかと思ったが、やめた。この住宅地で実射する訳にもいかない。

男たちの不快感を他所に、女は話を進めた。

「それから、これを持って来て。セキュリティーで私は持ち込めないから」

またバッグから掌に載るほどの四角い金属製の物を取り出した。不思議に見つめる男たちにニヤリと笑って、女はこう言った。

「核よ」

思わず仰け反る男たち。

「安心して。起爆装置が作動しない限り、この四階から落としても爆発しないわ」

その核をおもちゃのように手で弄ぶ女。男たちは生きた心地がしない。それをからかうように女は男たちに向けてその核を放り投げた。それを慌てて英介が受け取ろうとしたが、迂闊にも指先で弾いてしまった。コンといい音をさせて床に落ちた後、コロコロと転がって止まった。その間、男たちは無様にも頭を抱えて突っ伏している。その姿を見て大笑いする女。まったく性格悪い。

「そんな防御で防げる訳ないでしょ。言ったじゃない。四階から落としても大丈夫なの」

恭子は立ち上がって核を拾い上げた。

「あなたたちに安全だということを示したのよ。今日から預けるんだから」

「今日から?」

男たちの目はまだ不安気だ。

「教えて上げるわ。これが私の任務なの。私は二年間。この核と一緒に生きて来たのよ。一刻たりとも手放したことはないわ。これを失った瞬間から、私は裏切者になってしまうから」

恭子が戦場にいると言った意味が初めてわかる気がした。いくら安心と説明されても、一日とて気の休まる日はなかったのではないか。常に死が隣り合わせにあるのだから。彼女の任務はアスカルに潜入する以上に、この核を守ることにあったのかもしれない。男たちは茫然とするばかりだ。

「……」

恭子の目から涙が零れ落ちた。それを見つめながら、英介は思った。いっそ、その核から逃げた方がよかったのではないかと。裏切者のレッテルを張られたとしても、まだ追われる方が楽な気がする。それはその立場になっていない自分だから言える甘い考えかもしれないが。或いは、それを人質にカニ国への亡命だって。それを彼女はどうしてしなかったのだろう。そうか。猿国に残した家族を盾にされてしまうのか。そう言えば、彼女から家族の話を聞いてない。ま、こちらから尋ねてもないけど。

「君、家族は?」

ふいを突かれたからか、恭子は一瞬きょとんとした。

「何よ。藪から棒に」

恭子は涙を拭った。

「いや、ちょっと気になって」

「母がいるわ」

「お父さんは?」

それに恭子は首を振った。

「そう」

それ以上の深堀を英介はやめた。彼女の目がそれを拒んでいるように見えたからだ。

「今、感傷的になるのはやめてちょうだい。任務に差し支えるわ」

恭子は毅然とした態度を取り戻した。


翌朝。英介と良太は早めに始動した。体を馴らしておかないと、俊敏な行動が出来ない。それに、昨夜は一睡もしなかった。初めての実戦と核を身近に置いた不安がそうさせたのだ。だが、不思議と眠気はなかった。緊張の糸がずっと張りつめている。これが二年間も続けば、きっとその前に発狂しているだろう。恭子の強さを改めて思い知った。

二人はタクシーを乗り継いで、浄水管理センターよりずっと手前で降りた。タクシーを乗り換えたのも、あのアパートと自分たちとの接点を消すためだ。タクシーを降りてから、二人は管理センターまでジョギングした。英介が背負うリュックにはあの核が入っている。不安はもうあまり感じなかった。今は任務遂行の責任感が勝っている。

管理センターまで来てその正門前を二人は通り過ぎた。そのまま管理センターの外周を一回りする積りだ。しかし、いくら走っても管理センターの壁は続いた。広大な敷地だ。約束の刻限まで充分に時間はある。二人は走り続けた。すると、視界の先に橋らしい物が見えて来た。アーチ状の橋だ。二人はその橋を尚も走り続けて、思わず途中で立ち止まった。足元にとてつもなく巨大なダムを見たからだ。その大きさは、ダムと並行して架けられた橋の終点が肉眼で確認出来ないほどだ。貯水池というより湖だった。対岸が見えない。

「すげえな」

今日初めて良太が声を出した。朝からずっと無言だったのだ。英介にしてもさして変わらない。タクシーの運転手に行先を伝えたくらいだ。それほど二人に緊張感は重く圧し掛かっていた。

「これがこの国の命の源なんだな」

英介は面白い表現をするものだと思った。このダムに蓄えられた膨大な水がカニ国人の食糧という訳ではない。しかし、水がなければ生命の危機に陥る。確かに命の源に等しい。

「どうする。この橋を渡りきるか」

聞かれて英介は遠く橋の先を見つめながら答えた。

「まだかなりあるな。へとへとに疲れてちゃ、恭子の元へたどり着いたときには口もきけなくなっているだろう。また説教されるから、引き返そう」

それに良太はニヤリと笑って、同意した。

管理センターと道路を挟んで反対側に喫茶店があったので、時間までそこに腰を落ち着けた。その店の窓際に座れば、管理センターの正門がよく見える。昨夜から抱えていた緊張感が今は嘘のようだ。さっき橋の上でお互いに会話してから、気付いたら消えていた。むしろリラックスさえして、ゆったりと構える二人が在る。

「このままこの国に留まって、こうしてこの国の食い物を摂り続けたら、俺たちも恭子みたいになるのかな」

英介たち以外に客の姿は見えなかった。二人いた店員も、先ほど注文を聞きに来た方の女性が見えない。きっとシャワーを浴びているのだろう。恭子の話では二時間毎に20分の入浴かシャワー休憩が法律で義務付けられているとのことだった。当然、こうした飲食店にしろ、オフィスにしろ、工場にしろ、すべての労働環境に水浴び施設が設置されていないと、営業の許可が下りない。二時間という間隔を実行出来なかった場合、たちまち死に至る訳ではないが、外皮に変質が現れ、そのまま無視すると、六時間で硬化が始まり、一日で重症、二日で確実に死亡する。

「常に水を意識していないと生きて行けないなんて、俺にはごめんだな。外国に行くときはどうするんだ」

「強力な保湿クリームが最近開発されたらしいよ」

「すっげえ高いってんだろ? いつも何処も、金持ちには便利に出来てやがる」

英介は苦笑した。英介と良太の家庭には貧富の差があった。英介の家庭は祖父が空軍将校だったこともあって、父親から自分とその血脈は引き継がれている。無論、家庭は裕福だ。それに反し、良太は幼くして父親を事故で失い、以来貧しい暮らしぶりだった。空軍へは、叔父が勤めていて、その伝手で何とか潜り込めたのだ。経緯は違うが、家庭環境は恭子と似ている。

「気にするな。お前のことを言ったんじゃない」

「ああ。わかってるさ」

英介は良太に笑って見せた。そんなことを気にするような仲じゃないのはお互いに承知だ。

「あのダム。凄かったな」

「ああ。あんなの初めて見たぜ」

「俺たち、今からあのダムを破壊しに行くんだぜ」

「実際には放射能汚染させるだけらしいが、結果は同じだな」

英介は天井を見上げて深いため息をついた。

「どうした」

良太は敏感に友の変化に気付いた。

「迷いが出ちまった」

「迷い?」

「あのダムにあるのは、この国の命だ。それを俺たちは破壊しに行くんだ」

「仕方ないだろう。それが任務だ」

「戦争中なら、俺も割り切れたと思う。だが、今は、表面上だけかもしれないが、両国の関係は良好だ。むしろ、この事件をきっかけに、我が国はこの国に戦争をしかけようとしている。壊滅的なダメージを受けたカニ国に抵抗する力などありはしない。これは完全な侵略だ。侵略なんだ」

「わかった。お前は残れ。俺が一人で何とかする。誰も行かなきゃ、恭子を見殺しにすることになる」

「いや、俺も行く。お前だけでは危険だ」

「ダメだ。恭子も言ってただろ。迷いがあったら、必ず作戦に歪が出る」

「すまん。余計な心配をさせた。だが、もう大丈夫だ」

「どう大丈夫なんだ」

「お前や恭子を死なせるわけにはいかない。お前たちとなら、俺の命と引き換えても構わない」

「バカ。そう簡単に命を捨てるな。お前にはやるべきことがある。行くぞ」

良太は立ち上がって、右手を差し出した。それを掴んで英介も立ち上がる。

「お前は頭でっかちだから迷うんだ。俺みたいに単純になれ」

「見りゃわかるだろ。もう単純な男になってるさ。お前と出会ってからな」

「フン」

良太が英介の肩を軽く小突いて、二人は店を出た。道路の向こうでは、守衛が正門を開けている。




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