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こぼれる翼

作者: 雪宮千歩

 ──空を飛びたい、と何度思ったことだろう。




 私の頭上にはいつも何かの影がある。ほら、今だって一羽の鳥が通り過ぎた。


 でも、私はそれをただ眺めるだけだ。別に眺めたところで何かが変わるわけじゃない。自分は飛べやしないから、半ば惰性で見上げているだけなのだ。それどころか、私は動き出すこともできやしない。


 だからこそ、未練がましく、その自由に空を駆ける姿へ、羨望と嫉妬が入り混じった憧憬を、私は毎日彼らに向けている。


 空を飛びたい、と思うことは許されない事なのか。あのどこまで続く青い空へ、なだらかに並んだ雲の海の下で、あの鳥のようにどこまでも自由に、気ままに、果てのない旅をと望むことは、傲慢な事なのだろうか。


 そんなことはないと私は思う。無理だと分かっていても、決して叶わない夢だとしても、願う事は誰にも止められないはずで、そこには自由が約束されてしかるべきだ。


 だから、私は今日もただ一つの願いを抱いている。




 ──空を飛びたい、と。




 例えこの身が自由に動くことすらままならない、ちっぽけで矮小な、一介の野花に過ぎない身であるとしても。





 生まれた時、つまり、「私」という個が確かに生まれた時、他の花々は何を最初に考えるのだろう。


 私にそれを知る術はないけれど、きっと彼、彼女らと比べて、私のものは少し変わっていたに違いない。


 それか運が良かった、と言い換えてもいいのかもしれない。あれは、まさしく運命と呼ぶに足る出会いであったのだから。




 黒く、光できらめく道の端。ひび割れ、狭間ができたところで私は芽吹き、拙いながらも根を伸ばし、水を吸い、そしてその短い一生涯を始める事となった。


 できればもっと土壌が柔らかく、栄養豊かな土地に芽生えたかったものではあるが、一介の花として、流石にそれは高望みが過ぎるというものだろう。ましてや、その後の出会いを運命と考えるのならば、これもまた運命と呼ぶべきだ。そして、それならば仕方がない。運命は等しく受け入れるべきものなのだから。




 とにかく。私はアスファルトの、碌に栄養もないような固い地面に囲まれ育ち、そして気が付けば「私」は生まれていた。


 何故ここにいるのか、何故私は生まれたのか、だなんて小難しい事を、生まれながらに考えるものなどいやしない。勿論私もその例に漏れなかった。


 今思えば、当時は自分が生まれたことに気づいてなんかいなかったのかもしれない。「私」を獲得しながらも、自身の身の内に到来した、自我の萌芽という衝撃で何も考えられず、ただただ亡羊としていただけのように思う。




 そしてその時だった。今現在も変わらず私の頭上をすぎるように、その時もまた一羽の鳥が頭上を通り過ぎて行った。


 初めて他の生命を目にした瞬間だった。


 美しい、と思った。


 初めて抱いた思いはそんなシンプルなものだった。


 澄んだ空をどこまでも自由に駆けるかの姿に。風を全身で感じながら羽ばたいていく姿に。それでいて風の強さを全く寄せ付けず、力強い羽ばたきで自らの舵を取る姿に。美しいと思ったのだ。


 そして、私も同じように飛びたいとも。


 けれどむべなるかな。私は根を張り、水を吸い。ただ花を咲かせ、種を残し。そして散るだけの命である。それが我が身に受けた天命である。




 一つの場所に縛られる自分と違い、好きな場所へ行ける彼らが羨ましかった。自由に動かすことのできる体を持つ彼らが妬ましかった。


 一体、彼らの目には何が見えるのだろう。何が聴こえるのだろう。何を感じているのだろう。


 空を飛び、雲を掻き分け、風をその身に受けて。どこまでも飛び行く彼らには、世界がどう映っているのか。それを考えるだけで、私の心は深い嫉妬に駆られ、同時に身動きさえ許されない我が身へ、果てのない憎しみを抱くのだ。




 一度、近くへ降り立った鳥に話を聞いた事がある。


 そいつは私の住処と同じように、全身を真っ黒に染め上げていた。


 太陽の光を受けて、不思議な色合いを醸し出すその姿は、濡れそぼったかのような艶やかさを演出し、しかしながら高貴さすら感じられた。少しだけ目を奪われたことは、私が一生隠しておきたいことの一つだ。




 そいつが言うことには、この世には見なければ信じられないことがある、らしい。触れられるようで触れられない青い大地。雲すら貫く灰色の岩。自身よりずっと大きな羽ばたかない鳥。そのほかにも世の奇々怪々な物事や事象を、まさしくそれは真であると証明するかのように、淡々と私に教えてくれた。


 君には縁のない話だろうけど、と最後に言い残し、また空へと旅立っていったことは、今思い出しても腹が立つ。




 それはともかく。


 この世は摩訶不思議に満ち満ちている。


 それはきっと真実で、彼らはそれを幾度となく目にしている。


 ああ、この目の内に納められたら、何と素敵な事だろう。私も彼らのような翼があれば、どれほどよかったことだろう。


 翼をはためかせて自由に空を飛び、その摩訶不思議に満ち溢れた光景を目にしている、そんな想像をするたびに、同時に我が身を呪う他なくなるのだ。





 ──空を飛びたい、と思ったのは何度目だろう。




 幾度となく願った今では、あやふやなことで、回数など覚えてはいない。




 遂に私も花開く時が来た。この身が花を咲かせれば、残りは幾ばくかの余命の後、花を散らし、種を蒔くのみである。


 種としての使命を恙なく終えられそうなことは、生命として生まれ、そのために生きた身としては感慨深いものがある。けれども、心は少しも満ち足りてなんてはいなかった。むしろ、そうした充足感や安心よりも、失望が多く胸を占めていたのは、それも当然のことかもしれない。




 私は何も成し遂げてはいなかった。


 青の大地も、雲すら貫く灰色の巨岩も、巨大かつ羽ばたかない鳥も。何一つ目にする事なく、このまま無為に、のうのうと一生を終えてしまおうとしている。この命は緩やかに終わりへと、その命の坂道を下っている。


 


 それがたまらなく悔しかった。


 私をいつも照らしてくれた太陽が憎いと思うだなんて、初めてだった。


 光あって息をするこの身が呪わしいと思ったのは、初めてだった。


 もはややむなしと、どこかで諦めてしまっているのと同時に、まだ希望はあるかもしれないと、どこかに縋り付く、捨てきれない希望が堪らなく醜いと思った。


 考えるのは自由だ。思うのは自由だ。思考は何者にも束縛されることなく、拡げるができる。


 けれど同時に、変わらず時間も進むのだ。




 そして私は、花開いた。









 散って行く。私が少しずつ命を散らしていくのがわかる。 


 はらはらと、さながら結ばれた紐が自然と解れ離れていくように、私が自然と消えていく。


 私の願いは、分不相応だったのだろうか。


 最初から叶わないことは知っていた。それでも、願わずにはいられなかった。


 今でもやっぱり心残りで、つきやむことのない渇望が胸を掻き立てる。けれど、我が身が消えていくこの狭間の中で、こんなにも苦しいと思うのなら、最初からあの空を見なければよかったのだ。




 見なければ惹かれる事もなかった。


 世界を見上げなければあの青い世界を知ることもなかった。


 空を駆る鳥を見つけなければ、空を泳ぐ願いを抱くこともなかった。


 私はきっとこのまま後悔と共に消えていく。何も為すことなく消える運命に、絶望しながら消えていく。


 


 消えていく。消えていく。


 意識がなくなるその間際、最後に目にしたのは、どこまでも広がる青い世界と、その隅で風に揺れて撒き上がる、黄色い小さな花弁の渦だった。






 




 風が強く吹いている。


 かの花も風に吹かれてそよぐ。


 つられて綿毛も揺れた。


 揺れるその姿はとても儚く。そして、脆い。


 揺れた勢いで、綿毛たちは離れていく。アスファルトの隅に、ひっそりと生きていたたんぽぽから、まだ見ぬ空の向こうへと旅に出る。


 何処に行くのかも彼らはまだ知らない。何のために旅に出るのかもわかっていない。それでも、綿毛たちは気の向くままに、風に揺られるがまま、この広い空の下、どこかへと運ばれていく。


 どこまでも、どこまでも。






 ──空を飛びたい、と思うがまま。




                               『こぼれる翼』

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