6454 アサルト②
耕太が再び意識を取り戻したのは辺りがすっかり明るくなった頃だ。
体中がべたつく。頭はスッキリしているが心地よい目覚めとはいいがたい。
視線のすぐ先には懐かしい猫がいた。
――アヌビス。
感情があふれて、鼻の奥がツンとなる。
予防接種の時の院内感染が元で病死した彼女が、今、目の前にいる。
傍らに眠るその愛らしい姿を見て、彼は昔を思い出す。
◇
あの日、どんなに自分を責めたかしれない。
どんなに世を恨んだかしれない。
“形あるものは遅かれ早かれ壊れるのだ。”
思い出される父の言葉。
そんなことはわかっている。
あの時の自分は、どうしようもない怒りを父に向けていた。
今思えば、あの父はあの父なりに、あえてそんなわかりきった言葉を口にしたのだろう。
けれど齢一桁の子供に、その心が届くだろうか。
当時の自分には、その言葉がうっとおしくてならなかった。
全てのものは死ぬ。そんなことは理解できる。
理解できなかったのは、なぜ今なのか、だ。なぜあのタイミングなのかだ。
猫の平均寿命にはまだ時があった。
その体が衰えるには早過ぎた。
遅かれ早かれだと? ふざけるな。そんな根拠がどこにある。
そうとしか思えなかった。
彼は自分を納得させられなかった。
自然の摂理も自分を慰める周りの気づかいも。
何もかもを認める事が出来なくなっていた。
自分があの病院を選ばなければ――。自分が事前に綿密な調査をしておけば。
己が無能を許せなかった。
自分の無知を許すことができなかった。
無知とは罪。知っていれば罪に問われなかった。
知っていれば対処は出来たのだ。
死なせることはなかった。
超能力がなくても未来は予知できる。できないのは無能だからだ。
彼女の死期を早めたのは自分。それは紛れもない事実。
だからこそ、自分が許せない。自分を許さない。
彼は彼女の墓の前で詫びた。
泣く資格などないのに、涙がこぼれてしまったのだ。
涙をぬぐっては詫び、詫びては泣いた。
だがどんなに謝っても、気は晴れなかった。
彼女は自分を許さない。
彼女がもし自分を許してくれたのなら、どうして彼女は帰ってきてくれない?
自分の詫びがもし受け入れられたなら、きっと彼女は自分の元に帰ってきてくれる。
そのはずだ。
あの優しい彼女が意地悪を通すはずがないのだ。
だのに、いつまでたっても彼女は帰らない。
それは子供のわがままだ。頭ではそんなことは、わかっている。
けれど理屈ではないのだ。
感情が、それを受け入れないのだ。
どうしたら受け入れられるのかなど考える事すらできなかったのだ。
でたらめな理由をつけて、感情を振り回すことしかできなかったのだ。
けれど。心の傷は時が癒し、癒しは人を成長させる。
あれは――いつだったか。
現実から目を背け、そうやって何日もふさぎこんだ自分に、母は言った。
“死にたくて死んだわけじゃないだろうけど、貴方がそんな風に思っているのを知ったら、あの子はきっと悲しむわね――”
その何気ない言葉が、心の殻に小さな亀裂をいれた。
まるで天井の隙間から漏れ出た光を見たような、ひどく神々しい光景を見せられたような、そんな衝撃を伴って。
光は問う。
それは本当に、彼女への想いなのか、と。
――俺は……本当に、彼女の事を考えていたのか。
その問いに、考える。
自分は、自分の都合で、自分を許したくないだけではないのかと。
自分の失敗による悔しさを、大切なものを失った悲しみを、何かのせいにして自分を慰め続けているだけではないのかと。
彼女が自分を恨んでいるという客観的証拠は、なにひとつ持っていないのだ。
たったの一度だって、彼女にそう望まれたことはないのだ。
全て自分がでっち上げた妄想。自分を許さない理由として都合よく作られた虚偽。
院内感染で自分が死に至ったという事実を、恐らく彼女は知らない。
だがもし、仮に知っていたとして。
それで彼女が俺に恨み言を言ったり。
それを態度に示したり。――するだろうか。
するかもしれないと思うのは、ただの身勝手な願望だ。
それらはすべて、なにもかもを彼女のせいにした、自分の弱さによる逃避行為だ。
自分のミスで大切な友を永遠に失った。
愚かなふるまいをした自分が憎い。
楽しかった過去を思い出せばつらく。
許されざる罪を抱えたまま生きていく未来は苦しい。
母の優しい一言は、自分に現実を突きつけ、どうしようもないくらいにその弱さを見せつけた。
そして続いた母のセリフは――
“――逆の立場で考えてごらんなさい”
その一言は自分の心を泡立てた。なんて空々しい言葉だろう。
相手の気持ちなんてわかるわけがない。
人の気持ちがわかるなど詐欺師か宗教家の用いる商売言葉だ。
故に逆の立場で考える事に意味はない。そんなものは弱者のたわごと。それなのに――。
そこでようやく気が付いた。
自分はいつの間にか――彼女の気持ちを知っているつもりになっていた。
――俺はどうして……。彼女の何を、わかったつもりになっていたのだろう。
人の気持ちはその人だけのものだ。
他者にはわからない。だからこそ尊重されるべき唯一無二のものなのだ。
人は他者を分析しその行動を予測する事は出来ても、その気持ちを理解する事は出来ない。
気持ちはいつだって自由であり、自分自身ですら時にわからなくなる事があるくらいなものなのだ。
――そんなの、当たり前じゃないか。
だから考えた。
もし自分だったら――そんな風に思いつめられたら、嫌だ。
自分の事を覚えていてくれるのは嬉しい。
けれどその場面は、ハッピーなものであって欲しい。
アヌビスが自分と同じように考えるかはわからない。
でも二人の楽しい時間は、自分にとっては嘘じゃなかった。
アヌビスは違うかもしれない、だって彼女は猫なのだから。
でも、それこそそんなのわからないじゃないか。
もしアヌビスが心の底で舌を出していたならそれはそれでいいのだ。
でもそうじゃなく、もし自分と同じ気持ちを彼女が持っていたとするならば――。
抱えて来た罪悪感は、二人の歴史に対する自分の身勝手な裏切りだ。
自分は彼女を裏切らない。
とどのつまりそれだけの話。答えはシンプルだった。
彼女のいなくなった未来に向き合う勇気こそ、きっとその証明となる。
ありのままを受け入れること――これは勿論自分の為であるけれど、ともすれば彼女の為でもあるのだと、自分は過去の自分と決別した。
今、目の前には、そんな忘れがたき友がいる。
やはりここは異世界なのだろう。
もうそれでいい。
この世界がどんな世界であったとしても、この世界に閉じ込められているうちは、この世界のルールに沿って生きていく必要がある、きっとそれだけの事なのだ。
耕太はしばし彼女の体を指や掌で撫でまわしながら見つめる。
この世界が例え嘘にまみれたものだとしても。
彼女との再会は――自分の中に満ち溢れてくるこの喜びは真実。
――いかに血も涙もないと陰口をたたかれ続けたリアリストな俺とて、真実を前にしては涙腺の一つや二つ決壊しそうにもなるさ。
耕太がソレを奇跡的にこらえる事が出来たのは――涙する事を彼女が期待していないだろうという憶測による――彼の浅慮によるものだった。
◇
アヌビス曰く、建物にある風呂は温泉で、かつ屋上にあるのだという。
地中からくみ上げている温泉はかけ流し。いつでも湯を楽しめる環境にしてあると彼女は説明した。
――へぇ、そりゃいいな。
睡魔から解放された耕太は、さっそくその浴場へと案内してもらう。
「お前も一緒に入るか?」
脱衣所で、彼はアヌビスを誘う。
「はいですに! ご一緒しますですに!」
アヌビスは昔から猫のわりに水を怖がらず、むしろお湯が好きだった。
しかも泳ぐのが得意で溺れたりしないので、耕太はよく一緒に風呂に入った。
彼は服を脱ぐと、先陣を切って風呂に入った。
その後ろを四つ足の彼女が、軽い足取りでついてくる。
「広いな。申し分ない」
天然石を切り出して作ったかのような趣向の岩風呂。
天井は高く、亀甲型のガラスをいくつも組み合わせ作られた屋根には青空が透けていた。
ごつごつした岩の湯池からは、いい塩梅に湯気が立ち上っている。
「桶、ある?」
「そちらにございますに」
耕太は入り口横に積まれていた手桶を一つ手に取る。
まずはかけ湯をして体を洗う。
本当なら最初に体をボディソープで洗いたい。
シャンプーも。
しかし残念ながらそういった日用品はない。タオルすら持っていない。
仕方がないので耕太は木の桶で池から湯をすくいガンガン湯をかぶる。
そして手で体をこすり洗う。
頭の整髪料も落とし、それでようやく、ごつごつした岩の湯船へダイブした。
「ぷはーっ! やっぱ風呂はいいな!」
湯が大きくはね、波打つ。
湯の温度は四十度と言ったところか。
湯の中で肌を触るとつるつるした。アルカリ性の泉質なのかもしれない。
彼は楽し気にアヌビスに声をかけながら湯の池を泳いだ。
クロール、平泳ぎ、背泳ぎ。きわめてはしたない姿であるが構わない。
ここには彼と猫しかいないのだから。
「うーむ。やっぱタオルは欲しいな。タオルでお湯を掬って顔をごしごししたい」
ひとしきり泳いだ後。
彼は岩湯の奥側の階段状になっている場所に腰かけていた。
「わかりましたですに。ではさっそく用意させますに」
「あと石鹸も欲しいな。っていうか、日用品一式ほしいな。整髪料とか……あー、それは無理か。この世界の時代設定じゃ」
「では、取り寄せてはどうですに?」
耕太の隣。段差を利用しうまく座って湯に浸かっているアヌビスが、少し伸びた声で言った。
「取り寄せるって、人間の国にか? なんつったっけな。のいえなんたら家がどうのこうの言ってたっけか」
「いえ、そうではなくですに。耕太君は神の誉れたる黒の極点ですにから、経典を開けば簡単に召喚できるかと思うのですに」
「経典って。俺は金持ちだけど宗教に手を染めるほど権威欲旺盛じゃないぞ? ――というかだね、そうだ思い出した、昨日の件。なんで魔王様?」
耕太は唐突に思い出す。そういえばアヌビスは、昨日自分の事を魔王様と呼んでいた。と。
「え……耕太君? ……もしかして――」
そう言ってアヌビスは口をつぐむと、じっと耕太の瞳を覗き込む。
そのシリアスな空気に耕太は動揺し、硬直した。
「ん? なんか、マズイ状況なの? どした?」
「耕太君。もしかすると、人間どもに何かされたですに?」
そう改まって聞かれると、なにもされてないとは断言できない。
耕太はアヌビスの様子に不安を覚えた。
「え? 何か不自然感じる? 俺、なんか変?」
「変というか、耕太君。力の使い方を人間に忘れさせられているのかと思ったのですに」
「力って何? ごめん意味が分かんない。どっかおかしかったら直してくんない?」
その求めに対し、アヌビスは神妙なトーンで返答する。
「もし姑息な晩暮人どもの暗示で奪われた記憶があるなら、それを戻すのは難しいのですに。ですが、今お持ちの力の解放は容易いのですに。私と耕太君は、既にエニシで繋がっているですにから」
アヌビスはそういうと、お湯を泳いで耕太の胸に飛び込んできた。
耕太はそれを優しく受け止め抱き上げる。
「耕太君。アイテムの占有化をするために細胞が必要ですに。頬の裏側なめてもいいですに?」
「内頬ってこと? え、口の中のって事? ……マジか」
そういう経験の希薄な耕太としては、たとえ猫といえど、それは即答しがたい難問であった。
平たく言えば、キスに抵抗があるという事だ。
が。
――ぐぬぬ。……まぁ、アヌビスならいいか。俺の愛猫だし。考えすぎだな、俺。
「えぇっと、ち、ちょっとだけなら、いいぞ」
耕太が許可を出すと、アヌビスは可愛く目を細め「ありがとうございますに!」と、上ずった声でテンションの高さを示した。
「では、耕太君の固有能力【鍵韻典】を発動させる為、ご協力をお願いいたしますに。左手で本を持つように手のひらを上にして少し前に出してくださいに」
アヌビスの言う通りに左手を前に出す。
「そしてご唱和くださいに。Ouvrez un carnet」
――おぅ、フランス語かよ。
フランス語くらい出来るんだぜ。
そういわんばかりに耕太は半端な笑みを浮かべその通り繰り返す。
「Ouvrez un carnet」
〈――鍵経典開帳〉
その時。彼の脳裏に浮かんだ言葉はフランス語ではなかった。
理解できない異国の言葉を、ナニかに言わされた感覚。
刹那湧き上がるゾッとする強い恐怖感。
いつか深い海の底を覗いた時におきた心の奥底のさざめき。
全身を一瞬駆け抜けた焼け付くようなしびれ。
目がくらみ、視界が閉ざされる。
その後訪れた光。
じわじわと回復する視界。――目の前に見慣れた操作卓が見える。
目に仕込まれたインプラントデバイスが自立起動したのだろう。
「あれ、時計は脱衣所に置いてきたのに、っていうか、前は役に立たなかったのに、今更起動した?」
耕太は疑似映像のコンソールに指をやる。
動く。操作可能。コンソールは正常に機能するようだ。
彼はそのまま操作を続行し、グラフィックユーザーインターフェイスを有効化する。
「は!? なにこれ」
呼び出されたのはアイコン群。
まるで数十年前に使われていたという大昔のOS、通称【林檎窓】のような画面だ。
――ふっる! いつの時代のだよこれ。
耕太は突然の異常に驚きながらも、出ているアイコンの名前をひとつずつ確認した。
――書き換えられたのはステータス云々だけじゃないってことか。なんだこれ。異世界ショッピング? 簡単魔法ツクール? 建築ビフォーアフター? ゲームアプリばかりか?
オフラインゲームをやる奴の気が知れないと公言していた自分に対しての改編か。
アプリケーションのラインナップについて、耕太はつまらない皮肉と読む。
作為的すぎてくだらない。呆れてものも言えないとはまさにこのことだ。
――これ、どんなゲームよ。
耕太は試しに【異世界ショッピング】のアイコンをタップしてみた。
反応し浮かび上がる複数の項目アイコン。
食品、家電、雑貨、衣料。
何の変哲もないショッピングサイト。だがその数はかなり多い。
「これ、注文進めたら、サバンナが配送してくれたりすんのかな」
興味半分で彼は日用品の中からツリーを辿ってハンドタオルを選択した。
――サバンナポイントは確か百二十万点くらい残っていたか?
つい先日。ネット仲間に物資を送りつける為百万ほどサバンナコインを購入したばかりだ。
このアプリがサバンナプライムサービス――サバンナポイント自動決済かつサバンナが最速で代理配送配するシステム――に対応しているなら、数時間後には配送ドローンがここまで飛んでくる、はずだ。
――来られるなら来てみろよ。まぁここが本当に異世界なら、絶対来られんだろうけどな。
耕太は確認ボタンを押す。楽しみだなぁ、とほくそ笑む。
その三秒後。
――んンッ!?
激痛。
医療用電気マッサージ器の電圧を最大にした時のような。
肉が飛び散るのではないかと思うほどの刺激が、体全体に走ったのだ。
「いでででででででで!!」
彼は体を痙攣させ絶叫した。
――何だこれ! 何が起きた!?
だが激痛はすぐに収まった。
痛みを覚えた次の瞬間、大口を開けた耕太の口に、何かが覆いかぶさった。
同時に柔らかいぬるっとした感触が、彼の口の中を這うと、嘘のように痛みは消えた。
――は!?
耕太に覆いかぶさったもの。彼の混乱は別の混乱に上書きされた。
その感覚――覆いかぶさる柔らかい、皮膚と皮膚をこすり合わせる事で起きる奇妙な感覚――は、いまだ知覚されている。
追加される彼の首に回された細い腕の感触。
時間差で増える他の様々な触覚。
ぬめぬめと小さな弾力ある何かは、まだ彼の口内を蠢いている。
――あうあ、うあ?
鎖骨から首元辺りに小さな弾力を二つ感じる。
俺の胴体は、足のような柔らかいつるつるした何かにはさまれている。
――うあぅ、ぁう?
間違いない。
彼はさらに数秒の時を経て、自分の仮説の正しさを確認する。
いったい、いつからいたのか。
耕太の上には少女が――年端もいかぬ裸の少女が乗っかり、しがみ付いていた。