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ヘテロレクシスの鍵韻典(ユーブンゲン)  作者: にーりあ
latéralité ≪ラテラリティ≫
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4108 アサルト①

暗闇の中を彼は走った。

額の汗を手の甲で払い、ここまで来れば大丈夫かと時折振り向く。

安全を確認しては、油断は出来ないと心に念じ、また走る。

三か月を待つまでもなく婚約は破棄だ。願い下げだ。婚姻なんぞに未練は無い。

恐い。異世界が恐い。理解できない超常現象は恐怖の対象でしかない。

ケツの穴がムズムズするのはきっと気のせいではない。彼は星明かりを頼りに走り続けた。


霧雨はいつからか本降りを通り過ぎ土砂降りとなっていた。

体を叩き続ける雨粒。普段着のジャージは余す所なく水に浸っていた。

これが機能性を重視した最高級品でなければここまで走り続けることはできなかった。

格好つけてファッション性重視の服やスーツ等の礼装で出かけなくて本当によかった。

思った以上に息の続く自分に少し驚きながら、耕太は心から自分の選択を褒めた。


それからどのくらいの距離を走ったか。だだっ広い平原の向こうに川が見えた。

川幅はかなり広い。茶色く濁った濁流が物騒な音を立てて流れている。

歩いて渡れる雰囲気ではない。ましてや泳ぐなど不可能だろう。

耕太はあたりを見回す。橋はどこかと。

上流、下流、どちらを見ても橋はない。

――こんな川。無理ゲーだろ。

氾濫寸前の川を前に耕太の足が止まる。

まずい。かなりやばい。これでは追っ手から逃げきれない。

どこまで来ているのか――来ているかどうかもわからない追っ手に耕太は焦燥を駆られる。

追手は何人か。馬を使っているか。馬と人では速度が違い過ぎる。

もし馬なら、今まで走って稼いだアドヴァンテージなどあっという間に詰められるだろう。

耕太は考えた。一分にも満たない時間だが考え、川沿いを走りだした。

こんなところでイチかバチかをかけ川渡りを強行するなどありえない。

自分は錯乱している。考える必要などないことだ。彼は大きく息を吸う。

――川でも社会でも流される人生は御免だ。

皮肉を言って紛らわせようとした気分も、下手なセリフのせいでままならなさが募る。

下流へ向かおう。下流へ行けば海に出る。海が近くなればたぶん町がある。

人が住む地は整備される。規模にもよるが、橋の一つくらい作られているのではないか。

彼はそう考えて下流へ進んだ。



しばらく走ると橋らしきものが見えた。

やはりな、と発見した瞬間は喜べたものの、彼はすぐに様子がおかしいことに気が付く。

近づくと、それが橋と呼ぶには心もとないつくりをしているのが見て取れた。

伐採した木を組んで作ったのだろう丸木橋。橋の両端は地中に埋まっている。

川が増水しているせいで、橋の下部が濁流にぶつかり、揺れていた。

どう見ても安全ではない。いつ濁流に飲まれてもおかしくない雰囲気。

――どうする俺。

迷っている時間はない。

渡るはスリル。

追手が見えたらサスペンス。

えぇいままよ! とばかりに彼は橋に足をかけた。

選択肢はない。

捕まったら間違いなくアレに犯される。いや、それだけでは済まないだろう。

得体のしれない何かを思い出し、耕太は自然と身震いした。

アレの恐怖に一瞬さいなまれたからか――橋にかけた足はすんなりと運べた。

橋は揺れたが、一気に、簡単に渡ることができた。

――拍子抜けだ。何だったんだよ今のフラグ。

時には思い切って飛び込んでみるものだな。耕太は再び走り出した。



川を渡りしばらく走ると、前方に明かりが見えた。

追手が来る方向ではない。民家が近いのか。耕太の胸に小さな希望が湧く。

だが、距離が縮むにつれ、耕太はその様子のおかしさに気が付く。


明かりは一方向を照らしている。

明かりの周りには十名以上の大柄な人影。

明かりの先には小柄な少女。


犯罪の臭いしかしない。

耕太はその場に足を止め、身を低くする。

――なんだよあれ。バッドイベントフラグなんじゃ……。

引き返すか――耕太の脳裏に浮かんだ選択肢。

しかしどこへ逃げろというのか。耕太は左右を見回す。

後ろには逃げられない。周りには身を隠すものがない。

移動はできる。豪雨の雨音はこちらの足音をかき消すだろう。だがどこへ行けばいい。

集団はまっすぐこっちへ向かっている。このままここに伏せているのは愚策だ。

せめて予想進路からそれなければ。気配を消して闇に乗じやり過ごしたい。

耕太は川の下流側へと動く。

目立たぬよう、足音を抑えつつ、慎重に注意深く。


だがなぜなのか。

光の向きが変わった。――耕太を正面にとらえる方向に、明らかに曲がった。

――くそミスった。こっちじゃない。

耕太は反対側に素早く忍び足で移動した。


だがなんということか。光は、それを追うように曲がった。


――っ!? まさか、見えてないよね……めっちゃ距離あるんだけど。

光が近づいてくる。

足元には雑草が生えているが、伏せても身を隠せるほどの丈はない。

これは襲われるイベントなのか。一人用のRPGではよくある構図である。

自衛するにも武器はない。野党どもの凶刃を防ぐ防具も無い。

――こんなゲームの中みたいな世界であんな奴らに囲まれてみろ。戦闘不能にされて鉱山奴隷として売られた後色々小イベント乗り越えた結果恩人に樽につめられて死体を流す水路から海に流され教会に流れ着くとか、とにかくそれっぽい末路しかない。

考えたくもない。逃げるしかない。

けれどどう動いても迫りくる光。走ってくる子供のような人影。

距離が縮んだことによってわかるその走力。百メートルを五秒かからず走っている。

――嘘だろ!? あの距離で見つかっていた!?

進路は耕太のいる方向へ一直線。

彼は振り向き後ろを確認したが、そこには何もない。

標的は自分。彼がそう意識した時には、相手がたの様子がすべて見えていた。


その子供は身をかがめて走っているのではなく、四つ足で走っていた。

追っているのは人型の――黒づくめの集団。

もう右か左かなどと言っている場合ではない。どっちに逃げてもあの速度では振り切れない。

耕太は覚悟を決める。

「ちぃ!」

耕太は意を決して構えた。開き直りはしたが、自暴自棄になったというわけではない。

無手ではあるが、彼には自衛の為に小さな頃から叩き込まれてきた体術があった。

八極拳、合気道、柔術等々の技術を科学的な視点でまとめ上げた綜合武術格闘術(ネオクラヴマガ)

いつ命を狙われるかわからない一族だからこそ、その帝王学に組み込まれた必修技術。

この世界でどの程度通用するかは未知。だが今の彼には、それ以外で身を守るすべがない。

この世界が異世界であるなら――文明が未発達な中世以前程度であるなら――野党の体術などたいしたことはないはずだ。

少なくとも江戸の町民はまともな走法すら知らなかったという。

――今はそれを信じる! そういう風に聞いただけで根拠ないけど!

心を決め、集中力を一気に高めた彼。

その間合いに、脱兎のごとく迫りくるその小さな物体。

耕太は勢いよく飛びかかってきた対象物との、必殺の間合いを見極めた。


「ッ!?」――なんだ!?


息を呑んだために発生した、一瞬の判断遅れ。

彼はその小さな物体の突進を許してしまう。

迎撃に動いた彼の右腕が止まったその隙に、それは彼の懐に飛び込んだ。


「魔王様! やっと会えたですに!」



ソマリ。

子供に見えた人影は猫だった。何がどうなってそう見えていたのかはわからない。しかし飛び込んできたのは、猫。

耕太に触れた途端、猫の体毛は黄金色の柔らかい光を発した。

照らし出される、見覚えのある愛らしい姿。

見覚えのある毛並み。綺麗な金毛の猫。

それは幼少時、彼が両親から買い与えられた唯一のペット。

彼の人生において、最初で最後の、人間以外で友と彼が認めた唯一の存在。

そして――彼の心の奥底に眠っていたはずの――今は亡き最愛の彼女。

「アヌ……ビス?」

自らの半身とまで思っていたその(かのじょ)を見間違うわけはない。

スペイン系猫である事からその地域の神の名を付けた。

耕太は確信する。この猫は、間違いなくアヌビスだと。

「はいですに! そうですに! ご無事でよかったのですに!」

だが同時に、彼は一つの不自然に気が付く。

何故――(かのじょ)が日本語を話すのか。


今まで見てきた人々は、みな自然な日本語を話していた。

ここは異世界。転移者はこの世界にかけられた世界魔法によって意思疎通が可能だとあのガイドブックには書いてあった。

しかしだ。このご時世、日本にいる外人が日本語を話すのは何ら不思議な事ではない。

それを魔法だのなんだのという不思議パワーのせいにされても説得力がない。

設定があさって過ぎてリアリティがあまりに欠如している。だからラノベオタクの妄言と切り捨てていた。

だが――だとすると。猫がしゃべるのは、一体どういう仕組みなのか。

「ここは、本当に、異世界、なのか……」

耕太は混乱する。考えなければならないのに、何を考えればよいかわからず呆けた。

「魔王様! お力をお借りしますに!」

「え、あ、おう」

呼ばれて我に返る。見れば追手がすぐそこまで迫っている。耕太の思考を呼び戻した猫の声に、彼は何も考えぬまま生返事をした。

すると次の瞬間。彼の胴から足にかけて一瞬小さく電気が走ったかと思うと、体の周囲が青い光で満たされた。

――なっ!?

それは本当に一瞬の出来事。

瞬き一つ後に見えたのは、別の景色。

――移動した?

まるで今まで夢を見ていたのではないかと思えるほど、世界は簡単に切り替わった。

耕太の視界一杯に広がったのは洋館の豪邸によくあるロビー。

赤いじゅうたんが敷き詰められたフロア。正面には二階へと続く屈曲した大階段がある。天井からは大きなシャンデリアが吊り下がっていて、きらきらと光をあちこちに散りばめている。

幻覚か。そう思うのは当然だ。人間がまるごと空間を移動するなんてありえない。人間がその質量を保ったままワームホールを抜けるなど物理法則に反する。

それはまるでスーパーファンタジーのテレポーテーション。絵空事。妄想世界。しかし――だとすると、目の前に広がるこの景色はなんなのか。

耕太の両脇に一列に整列しているメイド服の女性たちは、皆一様に頭を下げている。

混乱で言葉が出ない耕太に礼をしたまま、彼女たちは告げる――

『おかえりなさいませ! ご主人様!』

息の合ったメイドたちの唱和に、耕太はただただ目を白黒させた。


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