2913 ある富豪の享楽④
牢屋から出された耕太は、機密保持の名目で目隠しをされ歩かされた。
時間にして十分ほどの距離を移動し、目隠しを外される。
眼を開ければそこには、まるで学校の教室を思わせるつくりの空間があった。
戸の正面向こうには縦に長い嵌め殺しの窓が並び、側面の壁には大きな黒板が設置されている。
部屋にはニ十組ほどの机と椅子が並べられ、その真ん中あたりの机には分厚い一冊の本が置かれていた。
「転移者はもれなく冒険者となり、この世界を脅かす魔王と戦う宿命を帯びている。まずはその机の上にある書籍に目を通せ」
「冒険者ってなんだよ。正気か? それともゲームか何かのイベントでもやってるのか?」
「そんなものは自分で判断しろ。もし俺が今真実を語ったとして、お前はその裏を取る事が出来るのか?」
「お前さ、さっきオギタエンタープライズって言ってたろ。それってなんだよ。制作会社?」
「冒険者ギルドに参加している人材派遣会社だ。冒険者は派遣会社の登録をもって初めて冒険者という公認を得る。仕組みは日本のそれと変わらん」
「なんだよそれ。ゲームイベントにしてはクッソつまらんし、ファンタジーにしては擦れすぎだろ」
「それが何だ。つまらん探りはよせ時間の無駄だ。うちの会社を蹴るのは一向に構わんが、冒険者ギルドは決して個人を相手にはしない。生活もままならない無一文でスタートするか、手厚い支援の元でスタートするか、好きな方を選ぶがいいだろうよ」
「おい、どこ行くんだよ」
話の途中で男は踵を返し部屋を出ていこうとした。
「お前にばかり構ってはいられない身でな。しばらくそこでおとなしくしているがいい。その本を読むも読まないもお前の自由、全てはお前次第だ」
「おまえさ――」
「一応言っておくが、逃げようとはするな。まぁ丸腰で逃げても魔物の餌になるだけだ。俺個人としてはむしろ逃げてもらいたい。お前の死は願ったりかなったりだ。だが、口惜しくも立場上それができない」
それだけ言い残し、男は部屋を出ていった。
代わりに、驚くほど鍛え上げた肉体の大男が三人中に入ってきて入口に立つ。
逃がす気はないのだろう。あからさまな警告に従い、耕太は仕方なく本の置かれている席につく。
――どれだけ俺の事嫌いなんだよ。面識ないのにあの物言いとか、逆に興味湧くわ。
席に着きはしたものの、何とか逃げられないものかあたりを見回す耕太。
後ろの空間はもう一クラス分の机が置けるくらいには広いが、出入口はない。屈強な男三人がいる場所以外に出入口はないのだろう。
高い天井には銀色の板が張り付けられている。外から入る光を反射するための工夫だろうか。
目隠しを外されたばかりの時には明るいと思ったが、目が慣れると室内の暗さを感じる。
外を見れば曇り空。陽は雲に隠れていた。
――この窓では打ち破って出ることも不可能だな。って、高いぞ。
景色から、ここが二階か三階くらいの高さであるのがわかる。階段を上った記憶がなかったので驚いた。
窓からのぞける景色は厚い雲の灰色と地に広がる雑草の緑の二色。木は一本もない。
厚みのある窓ガラスには、よく見れば細かい水滴がついていた。
どんよりと低く垂れこめた波状の雲は、嵐の前触れか。
今は小雨をぱらつかせている程度だが、数時間もすれば本降りになるだろう。
――いや、もしかすると災害級の豪雨になるかもしれない。
昔オーストラリアで見た嵐の前の景色を思い浮かべながら、逃げるには都合の悪いことが重なりすぎているなと耕太は内心でぼやく。
耕太の気を重くする都合の悪いことの一つには、ここが国内ではないという予想が含まれている。
ここが日本ではないと思える理由は風土だ。少なくとも冬の東京ではない。
しかしだとすると、自分はどこに連れてこられたのか。
――いせかい、とかいっていたが、……伊勢海……伊勢湾か?
それはないなと自虐的に声なく笑う。東京以外の天気予報は覚えていないが、しかし台風が近づいているとしてもこんなロケーションは伊勢にないだろう。
考えても答えは浮かばない。耕太はひとまず事態が動くまで様子見することを決めた。
暇を持て余すのももったいないので、とりあえず言われた通り本を読む。
冒険者教本。真っ白な表紙にそれだけの文字。
彼は本を開いた。
◆
「おい、そろそろいいか」
しばらくしオギタが入ってきた。
「なんだ。やっと給食か?」
耕太は開いた状態で裏返していた本を手に取り、読み残しがないか確認しながら悪態をつく。
「夕食前にお前にはやってもらわねばならない事がある」
「ああ、そういえば魔王が何とかいってたな。早速スライム相手にレベル上げでもさせるつもりか?」
「お前がスライムを侮るのは勝手だが、実践すれば死は確実だ。ぜひ試してくれ止めはしない。だが、今は別の事をしてもらおう」
そういってオギタが教室のドアを開けると、そこには金髪縦ロールの洋物人形を思わせる女が立っていた。
「何を――」
「これからお前には、この令嬢と結婚してもらう」
「…………は?」
何をすればいいのか、そう尋ねようとした耕太の言葉を遮り、オギタは理解しがたい言葉を発した。
――何を、言って……あぁ。
会って三秒で結婚? ……ああなるほど。政略結婚か――耕太はすぐに閃いた。
――しかしこの局面でまさかそう来るとはな。思い切ったカードを切ってきたものだ。そうかそうくるか。まぁわからんでもない。俺のような超絶有能金持ちを抱きかかえたいならそういう一手も裏の裏の裏をかいて打ってみるというのも悪い戦略ではないだろう。だとするならもう少しましな待遇があったのではないかという疑問は当然湧くわけだがさて、それらもすべて織り込みなのかな。だとしたら考えられる理由は――。
耕太の頭の中ではいつも通り、無数の選択肢を検証する作業が始まっていた。
瞬時に浮かびあがらせた仮説の検証。
それにより順位付けられた可能性ランキング。
根拠が希薄ないし具体性の乏しい仮説は即切り捨てられ、残った仮説の中でも現実味が薄い仮説は順位を下げていく。
そうして彼は、やがてひとつの仮定を採用し――
「なるほど、これは――」
「そうじゃない」
「――は?」
にわかに全否定を宣言したオギタに耕太は虚を突かれた。
「お前が賢しいのは冒険者カードの分析で分かっている。だがそのいずれも不正解だ」
「……お前、人の心でも読めんの? そういう能力は大抵悪役が使うもんだぞ」
「お前とはもう一秒だって顔を合わせていたくないんだ、がたがた抜かすな。いいか、もう繰り返しては言わん。お前はこの令嬢と婚約する。そして破棄する。期間は最長三か月だ」
「…………」
「理由は一つ。それが異世界転移ものの王道だからだ。訳は聞くな。聞かれても俺には答えられん」
「…………お、おう」
オギタの台詞に耕太が固まっていると、待機していた如何にも貴族たらんドレス姿の女が数歩前に進み出て、恭しく一礼をした。
「ヴィオレッタ=ドゥ=エンク=ローズ=ノイエジールと申します。転移者様がこんな素敵な殿方とは驚きですわ。宜しくお願い致しますね」
「――あ、お、う、い、え、は、い」
少し鼻にかかった特徴的な声で挨拶をした女は、たったそれだけで耕太をドギマギさせた。