吉田くん
「2回もエラーするから負けたんだぜ、ちゃんと捕れよ」リョウタは内野ゴロを二度も取れなかったタカシに文句を言った。
「だって、僕は内野は守ったことないんだから、しかたがないだろ」ふくれっ面をしたタカシは、グラブをリュックに詰め帰り支度を終えたリョウタに言い訳をした。
「吉田くんがいれば、内野の守備は完璧なんだけど、しばらくいないんだから、タカシは内野も練習しておけよな」リョウタはそういうとリュックを背負い、さびしそうに自転車の置いてあるバックネットの裏に歩きだした。
2人は都内から一時間ほど離れたニュータウンの小学校に通う小学5年生で、小学校1年の時からクラスは一緒で気の合う野球友達だった。今日は三日後にある地区大会の野球の試合に備えて、公園で近くの地区の野球チームと練習試合をしていたのだった。
内野手の吉田くんは、彼らの野球仲間の一人なのだが、二ヶ月前の野球の試合中に、内野ゴロを捕ったあと急に倒れてから、ずっと病院に入院しているのだった。3人の中で一番野球が上手でルールもよく知っていたため、なんとなく、名前ではなく名字にくんを付けることで、ふたりは一目置いているつもりだった。
練習試合を終えた2人は、どちらがいうともなく、自転車で吉田くんの入院する病院に向かった。陽も暮れかけて、真っ赤な夕日が丘の上の病院の後ろに落ちようしていた。吉田くんは、その病院に心臓の病気で入院していた。
練習試合あとで体はくたくただったが、2人は黙って、自転車をこぎ続けた、病院までの坂はきつく、病院の入り口に着いた時は汗だくだった。
「吉田くん、元気かな、二回もエラーしたことは言うなよな、心配するからさ」タカシは自転車のスタンドを降ろしながら、リョウタに言った。
「なに言ってんだよ、元気に決まってるだろ、タカシは吉田くんにボールの取り方教えてもらえよ」とリョウタ。
吉田くんが入院している病院は、ニュータウンができたときに同時に建設され、心臓病治療ではトップのO大学の教授が代々院長に就いており、地域の総合病院として多くの患者さんを集めていた。
時間外の面会の入り口は、玄関から左側に回った所に玄関の大きさからは想像できないほど小さな入り口だった。
「やあ、また、面会かい、その顔じゃ試合に負けたってことかな」入り口を入った所にある受け付けから、もう顔見知りになった守衛さんが二人に声をかけた、
「吉田くんがいないと内野が締まらないんです」とリョウタはチラリとタカシの方をみて言った。
「そうかい、残念だったね、さっき、吉田くんのお母さんがこられてたから、面会今なら大丈夫だと思うよ」守衛さんは、部屋の奥に掛かっている時計をみてから、受付簿に二人の名前を書き込んだ。
吉田くんの入っている病室は三階の307号室、二人はいつものように、音を出さずに階段を二段飛びで3階まで駈け上がった。
「吉田くん、来たよ、タカシがね・・・」リョウタは病室の様子が少し違うのに気づいた。胸の辺りにコードをつけられ、眠っている吉田くんが、二人の目に入った。
病室には吉田くんのお母さんがいて、病院の先生との話しがちょうど終わり、二人の方に振り向いた。
「まあ、来てくれたの、ありがとう。さっきまで起きていたんだけど、"練習試合、どうなったかな"って、言っていたのよ」
吉田くんのお母さんは、二人に話したあと、子供の顔や体を、さわり続けた、もうさわれることがないかのよう。
リョウタとタカシは吉田くんを見ると、もうそれ以上、何も言えなかった。
「明日、手術なの。治ったらいっぱい野球するっていってたわ、また、来てあげてね」お母さんは精一杯の笑顔を見せようとしたが、涙が流れでているのを、二人は見てしまった。
病院からの帰り、二人はだまって自転車を走らせた。お母さんが泣いていた、吉田くんがいなくなる、もう一緒に野球が出来なくなる、リョウタとタカシはそう思った。でも、お互い相手にそれを話すと本当になってしまう、そんな受けることのできない悲しい気持ちが二人を黙らせたのだった。
リョウタは、どう家に着いたかも、タカシとどこで別れたかも覚えていなかった。リョウタは、生まれで初めて人の死を考えた、今まで、テレビや漫画でしか知らなかった死が、あんなに仲の良かった吉田くんにも訪れることが信じられなかった。
「お帰り、リョウタ、遅かったわね、ごはんできてるから早く入りなさい」家の玄関ドアが突然開きお母さんがリョウタを出迎えた。リョウタの目に、吉田くんのお母さんと自分の母親が重なった。
「お母さん、あのね、吉田くんがね、吉田くんがね、もういなくなるかも知れないんだよ、僕ね、僕ね」リョウタは、それ以上言葉にならず、母親の胸に飛び込んだ。そして、これまで生きてきた中での涙を合わせた以上の涙を流した。
「タカシ、内野の守備はまかしたぜ」リョウタはグラブを二度ポンポンと叩いて言った。
「OK、OK、まかしとけ」とタカシ。二人は元気よく声を掛け合った。
「エラーしたら、すぐにコーちゃんに交代だからな」リョウタはベンチにお母さんと一緒に座っているコーちゃんに聞こえるように大声を張り上げた。
吉田康介、コーちゃんの心臓の大手術は奇跡的にうまくいった。今日は手術後初めて外出が許された日だった。野球が見たいとせがまれ母親はリョウタ達の野球の試合を観にきたのだった。
コーちゃんは、大切な友達のリョウタとタカシをニコニコと見続けていた。
リョウタは、手術のあと、吉田くんと読んでいたのを"コーちゃん"と呼ぶようになった。何故だかわからないけど、その方がなんだかうれしく思えた。
「リョウタ、タカシ、ありがとうな」グラウンドにいる二人に、コーちゃんは大声をかけた。
「なんだって?」聞こえない振りをしたリョウタはまっすぐに外野の位置に走っていった。持っていたボールを思いっきり空に投げた、3人の思いのつまった真っ白いポールは、真っ青な空に弧を描いた。
終わり。