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チーティング・フレンド

作者: 汁茶

 世の中には希に才能に恵まれたヤツがいる。

 才能とは努力や教育によって得られるものではない先天的な能力だ。

 例えば俺が今始めたロールプレイングゲーム。

 世間では何十万本売り上げたとかで有名なゲームだ。王様の命令で主人公の勇者は魔王退治に旅立つ。始めたばかりの勇者のレベルは1。資金も能力も貧弱。雑魚と戦うのも苦労する。

 けれどこの画面に映る俺の勇者は違う。

 レベルこそ1だが、資金と能力はカウンターストップ――いわゆるカンスト――上限値いっぱいまで成長している。

 成長している、と言うには語弊があるか。生まれ持った能力なのだから。

 俺の勇者はレベル1にして最強、真に才能に恵まれているとはこういうことだ。世間の勇者たちがちまちま雑魚モンスターと戦っている間に、俺の勇者は魔王をあっさりと倒す。努力の必要など無い。

 まあ、この勇者の代わりに俺が努力したわけだが。

 具体的にはチート――ゲームのデータを改造して、スタート時点の能力の数値を書き換えたのだ。

 このチート行為を悪いことだと言うヤツがいる。

 ゲームバランスを崩しゲームがつまらなくなる、他のプレイヤーに迷惑が掛かる、書き換えは著作権侵害にあたる……。

 だが、それがどうしたというのだ。

 改造にかける時間と労力は普通に遊んだ時のそれと比べて、はるかに安上がりですむ。

 例えば、このゲームで言えばある程度レベルが上がると能力の上昇が鈍くなる。魔王を倒せるくらいになると、もうレベルを上げるために雑魚モンスターと戦うのがバカらしくなってくる。かける時間と労力に見合わないからだ。つまりそこが実質的な成長の限界点。カンストまでやりこむのはよほどの暇人かマゾと言える。

 この勇者に才能があったとしても開花せずに終わるのだ。

 人生は短い。

 俺はもう成長期を過ぎた。具体的には二十代に入ったところ。努力しても成長する限界値が見えている。さらに年が経てば俺のパラメータは下降する一方だろう。

 なるほど、筋トレを毎日行えば低下するスピードを落とすことができる。毎日読書をすれば知力の衰えを緩めることができる。

 けれど上昇することはないのだ。

 人生を有意義に過ごすには時間と力をどう使うかにかかっている。どちらも無限ではない。一つのゲームに時間をかけるのはあまりにも無駄だ。

 ゲームの場面が移り変わる。モニターが一瞬暗くなり、わずかな光を反射して鏡のように俺の顔が映り込む。

 この瞬間がたまらなく嫌だ。

 忌々しいこの自分の顔を見るからだ。左右非対称の眼はあらぬ方向を向き、鼻はひしゃげ、右頬が麻痺していて口の端からはよだれが常に垂れている。

 もし神なんてものがいたとしたら俺の顔を作るときに寝ぼけていたのだとしか思えない。実の母親すら俺に乳を飲ますのを嫌がったほどだ。

 しかしこの醜い顔こそ俺が生まれ持った才能。パラメータで言えばバッドステータス。

 外に出ればどこに行っても好奇や嫌悪や嘲りの視線に遭う。腹の立つことに俺の聴力は良い方で、人の陰口はよく聞こえた。女たちは特に容赦がなかった。

 離れたところから「キモっ!」とたった一言で俺の心を抉った。

 だが、やつらには感謝している。

 俺が外界への接触を嫌い、家の中に、更には部屋の中に引きこもって、コンピュータプログラムについて興味が湧いたのもそのおかげだから。たとえそれが現実逃避と呼ばれるものであっても。

 学校にも行かず興味がわいた分野の本を注文して読み漁り、他の奴らが中学に通う頃には独学でプログラム解析技術やらハッキング技術を身につけていた。

 知識と技術を身につけた俺はある計画を思いえがくようになった。

 それはただのガキの妄想だった。

 ヤツと出会うまでは――




 * * * 




 世の中には希に才能に恵まれた人がいる。

 才能とは努力や教育によって得られるものではない先天的な能力だ。

 例えばぼくが子どもの頃から付き合ってきた彼。

 引きこもって家の中でゲームやコンピュータいじりなど趣味の世界に生きているくせにやたらと勉強ができた。

 ぼくが現実の社会で苦労しているのに平然としてその先のことを学んでいる。同じことを聞いて一度で覚えられるかどうか。学習能力という才能。ロールプレイングゲームで言えばレベルアップがしやすくてパラメータの伸びがいいキャラクターだ。

 あれこそ先天的な才能というべきものだろう。

 彼との出会いは十数年前。 十歳くらいの時、引っ越した隣の家に住んでいた。

 引っ越した、というのは正確ではないかもしれない。なにせぼくはその家の子どもではなかったのだから。

 ぼくは実の両親に虐待を受けていて、救助された後、その家に里子として預けられた。ちなみに実の両親とはそれ以来会っていない。養子縁組を自分で決められるようになった時、迷わず里親と縁組した。もはや会いたいとも思わない。

 新しい生活が始まって、どうしたものかと窓を開けてぼんやりと外を眺めていた。すると隣の家の窓が開いた。後の、彼の行動から推測すると、たぶん気まぐれか換気かどちらかだったのだろう。

 ぼくの顔をみるなり彼はギョッとした。口をパクパクさせてぼくの顔を無言で見つめていた。恐怖と、たぶん憎悪を伴って。

 彼の動揺ぶりが面白くて、ぼくは彼に興味がわいた。

「やあ」

 常日頃変わることのない笑顔で彼に話しかけた。

「お、おう」

 ぎこちない彼の返事。あまり人と接し慣れていないらしいのが見て取れた。

 彼の顔を見ても表情を変えなかったのはぼくだけだった、と後で聞いた。嬉しかった、とも。

 しかし、そんなことを言われたのはぼくにとって驚きだった。

 彼の顔は確かに酷いものだ。まともな美意識の持ち主なら即座に目をそむけるだろう。彼の両親も避けたように。

 しかしその時すでにぼくは心を壊していたので、いかに彼の顔が醜悪なものであっても、うろたえることはなかった。

 心が壊れている、というのは少し違うか。うろたえることがなかったというのも正確に言えば間違いだ。訂正する。彼の顔を見てぼくは驚いた。気持ち悪いとさえ思ったよ。

 けれどもそれが態度に表れることはなかったのだ。

 度重なる両親による虐待を受け、施設を転々とし彼と同じくひしゃげた顔の人にも出会ったことがある。けれど絶対にぼくは表情を変えない。

 それは相手が傷つくから、という思いやりからではない。

 心のなかでは『うわっ! チョーキモイぜ』と思っていても、それを表情として表すことがその頃にはできなくなっていたのだ。

 常に周囲の人間の顔色をうかがい、こちらの表情を読み取られないように笑顔の仮面を張り付かせている。それがぼくの真相だった。

 彼はぼくに「人付き合いの才能がある」と言っていたがそんなんじゃない。才能ではなく努力の結果。事前に他人の敵意を摘み取るための自己防衛策だ。笑顔以外の表情など作りようがない。

 真の才能に恵まれた彼を羨み、偽りの笑顔を浮かべて、ぼくはたまに遊びたまに勉強を教えてもらう程度の付き合いをしていた。

 転機は中学に上がり、ぼくが勉強の難しさに泣いていた頃。もちろん人前では笑っていたけど、そのままじゃ最低レベルの高校にすら行けなさそうで焦っていたものだ。

 そんな時、彼が勉強を教えると言ってきた。




 * * * 




 偶然窓を開けたら目が合った。

 ヤツは俺の顔を間近で見ても顔色一つ変えず、微笑を浮かべて気さくに話しかけてきた。

 ヤツの笑顔には暗い地底世界に差した一筋の光明くらいに鮮烈な印象を持った。

 話してみたら同い年だったというのも運命を感じた。

 俺よりも少し遅く生まれたのだから、やはり神は悪辣だ。俺を創った時の怠慢を反省してヤツを創ったに違いない。そして俺に逢わせて帳消しにしたつもりでいるのだろう。

 だがそうはいかない。誰が神の思い通りになってやるものか。

 俺は神がプレイするゲームのキャラクターなんかじゃない。

 ヤツはいつもニコニコしていて誰とでも付き合える才能を持っていた。俺には無いもので、会うたびに羨望とも嫉妬ともつかないモヤモヤした感情が生まれたものだ。

 ただ、そんな友でも欠点があった。

 学力が低かったのだ。率直に言えばバカだった。

 学校に通っていなかった俺よりも、だ。はっきり言って意欲の差だろう。友はお世辞にも学習意欲が高いとは言えなかった。

 その頃の俺には漠然とした計画があった。知識と技術を活かして世界に復讐を果たすのだ。

 だがその計画には決定的に欠けているものがあった。

 俺の代わりに外の世界で動いてくれる人間だ。

 ネットで手に入る情報は誰かが書き込んだものだ。裏を返せば書き込まれなければネットには上がらない。

 当事者のみが知る最新の情報、生の情報は決して手に入ることはない。

 ハッキングでできることにも限界がある。金はデータの書き換えで少しはなんとかなるとして、技術と設備はどうしようもない。

 そこで目をつけたのが誰にも嫌われることのないヤツの才能。それを利用する。

 ヤツには俺の代わりに外で働いてもらう。俺が計画するロールプレイングゲームのキャラとして世界という名のダンジョンに冒険に行かせるのだ。

 そのためにはバカでは困る。バカのままの方が操りやすくはあるが、行動範囲は狭まる。俺の目的のためにはヤツのステータスをアップさせる必要があった。

 計画の前段階としてヤツに受ける気があるのかを確かめる必要がある。

 もちろん、本音は隠してだが。


「なあ」

 俺の部屋でゲームをやりながら話しかける。対戦型の格闘ゲームだ。パズルなどの頭を使うものはヤツが苦手で、勝負にならない。自らの手足を縛るようにハンデキャップを与えるのは、ヤツにとっては面白くなるかもしれないが、俺にとっては面白くない。

「なに?」

 負けそうになっているにも関わらず、切迫感のない微笑を浮かべたまま返してきた。

 たまにこいつが楽しんでいるのかどうかわからなくなる。こいつが何かに興奮しているところなど見たことがない。

「学校楽しいか?」

「うん? 行きたくなったの?」

 バカ言え。そんなんじゃない。質問に質問で返しやがって。お前のことを訊いているんだ。

 しかし質問が悪かったかと反省する。

「そうじゃねえよ。お前、成績悪いだろ? だから、行ってても楽しくねえんじゃないかと思って」

「ありがとう。でも、大丈夫だよ。勉強するだけが学校じゃないから」

 まったく望んでいない答え。お前の心配をしているわけじゃない。

 やはり回りくどいのはダメか。

「勉強教えてやろうか?」

「え? 別にいいよ」

 むう……乗ってこない。プログラムと違ってリアルな人間なんてどう説得したらいいのかわからん。

 直接的な物言いしかないか。

「お前、俺の駒になれ」

 ヤツは柔和な笑みを浮かべたまま、こちらを振り向く。画面のヤツのキャラは隙を突かれて敗北していた。

「どういうこと?」

 俺はヤツに語った。今は話せないが、ある計画を持っていること。そのためにはヤツの協力が必要なこと。学力をつけて行動範囲と権限を広げてもらいたいこと。

「それはキミの夢なんだ?」

「夢……と言えるのかどうかはわからん。強いて言えば復讐だな。俺の顔を見て逃げ出した奴等への」

 ヤツは俺の言葉をゆっくりと咀嚼するように考えこむ。

 大丈夫だ。こいつは勉強ができないバカだが、判断を間違えるようなバカじゃない。

「勉強しなくちゃならないのが面倒だな。単に成績を上げるだけならキミにハッキングしてもらえばいいんじゃないかな?」

「それでは普段の行動にボロが出てしまう」

 実の所、成績はハッキングで書き換えが可能だ。

 しかし普段の授業などで疑いを持たれるかもしれない。リスクは可能な限り減らした方がよい。いざという時には使うかもしれないが、使ってもヤツにはバラさない。ヤツは努力のおかげと信じるだろう。ゲームのキャラクターが戦闘に勝利したのは自分の力と誇るように。

「明日、楽をするために今日を努力しろ」

 俺はそう呟く。

 ゲームを止めたまましばらく時間が流れる。画面には繰り返しデモ画面が映し出された。

 長い。そう感じた。実際にはデモは二回くらいしか繰り返されてなかったが、ヤツの答えを重たいデータをダウンロードする時のようにイライラして待ち続けた。

「わかった。ぼくに勉強を教えてくれ。どこまでできるかどうかはわからないけどやってみるよ」

 ダウンロード終了。やっと計画が起動できる。

 ほっとしたものの、ヤツのスペックとパラメータを上げるのは中々大変そうだと先が思いやられた。




 * * * 




『明日、楽をするために今日を努力しろ』

 彼の言葉が耳に残る。

 なんとも奇妙な提案だった。

 彼がぼくに勉強を教えるという。ある計画のためだという。ぼくを説得する態度に彼の熱意感じられた。長考して焦らしてやったけど、めずらしく彼は邪魔しなかった。本気なのだろう。

 それでいて、ぼくに何の利益があるのかがまったく抜けているところが彼らしい。

 そう、彼は結局自分のことしか言わなかった。

 だからこの提案にぼくの利益があるかどうかを自分で判断しなければならなかった。

 勉強を教われば成績が良くなる。養父母も喜ぶ。けど、それだけじゃあまり面白くない。

 ぼくには目的がなかった。

 毎日を惰性で生きていた。

 彼の話にぼくが見出した一番の利益は生きる目的ができることだろう。

 この時点では彼が何をたくらんでいるのか、わからなかったがすぐに心は決まっていた。

 でも、即座に了承するのもつまらない。

 だから考えるふりをして彼を観察していた。

 じっと答えを待つ彼の様子から真剣味を感じられた。そう簡単にはぼくを見限ることはないだろう。

 これは利用できるかもしれない。彼の才能をぼくのために使わせる。どんなことに、とは決まっていないけれど。

 彼の話からすると実際に行動するのはぼくだけになりそうなところが不安だった。




 * * * 




「……そうじゃないだろう」

「あれ、そうだっけ?」

「何度も言わせんな」

「覚えているよ、たしか六度目だったよね?」

「……その通りだ」

 ヤツは都合が悪くなるとはぐらかす。潜在的なスペックはともかく操作性は最悪の部類に入る。

 他に使用できるキャラがいないためカスタマイズするしかないのが辛い。

 頭は悪くない。物覚えはいいはずなのだ。

 だが関心が知識方面に向いていない。受験勉強のような詰め込み型の学習は不得手だ。問題が正解か不正解かを考えるよりも俺の顔色を窺う。選択問題だとそこから当ててしまう。

 世渡りの素質を感じるし、目をつけたのもそれが理由なのだが、たまにイライラさせられる。

 ところがそのイライラもヤツの口車で解消されてしまう。怒りのやり場がない。もっともその場しのぎで、何日か経つとぶり返すわけだが。

 しかし成績は中々向上しない。目標とするのは最難関とされる高校。他でも構わないが計画に沿う形ではそこがベストだ。

「それで、できたのか?」

「ああ、ほら」

「……そうじゃないだろう」

「七度目だね」

 どうやら真剣にカンニングのやり方について考えたほうが良さそうだ。




 * * * 




 彼から勉強を教わるにつれて、世界が広がったように感じられた。知れば知るほど深くなっていく。

 歩みは遅く、何度も何度も間違えて彼を怒らせることになったけど、彼は辛抱強くぼくに教えてくれた。どうせ他に頼る人間がいないからだろうと心のうちで思っていたけれどね。

 それと、勉強していい学校に入るのは養父母も賛成だったから、ぼくにとっても利益があることだった。

 彼の目的はなんだろう? それを知りたいがために、時々探りを入れるように彼を怒らせるような間違いを繰り返してみた。

 けれど、中々怒らない。普通、これくらいイライラさせれば怒りとともに「何のためだと思ってるんだ!」とぶちまけてくれてもよさそうなものなのに。

 ますます興味が湧いてくるじゃないか。

 善意からではないことには気づいている。そのことを気取られないようにしながら、彼の目的を知ることがぼくの密かな愉しみだった。ちょっとした推理ゲームの気分だった。

 だから勉強の時間はとても楽しかった。勉強そのものが目的ではなく、終始彼がイライラして醜い顔をさらに醜悪に歪めるのを見て楽しむという悪趣味なものだったけれども。

 実際のところ間違えていたのは彼をからかうためであって、結構頭に入っていた。目的に対して真剣なためか、彼の教え方はとてもわかりやすかったように思う。少なくともぼくが通っていた学校の先生なんかよりはずっと。

 だから受験が近づいた時、彼がカンニングについて言い出したのには驚いた。

 模擬試験の成績では合格ラインに達していたのに、彼は普段の印象の方を優先したのだ。




 * * * 




 バグは取り除かなければならない。可能な限り、ではなく全てを、だ。

 一点でも見逃せば不具合が起きる。この場合、軽微な不具合ですめばいいが、実際のところは起きてみないとわからない。

 しかし起きてからでは遅すぎる。

 取り返しがつかない場合のことを考慮すれば、バグの存在を許せるはずもないのだ。

 ヤツの試験態度はバグだ。

 なるほど模擬試験の結果はおおむね良好だ。

 しかしその実力が常に発揮されるとは限らない。百回演算して百回とも同じ結果がでるくらいの確実性がほしい。  俺が見ている範囲ではその確実性が足りない。そのためバグを潰そうとしたが潰せなかった。当たり前のことかもしれないが、ヤツはコンピュータとは違ったのだ。

 機械は命令したことしかやらない。だからいい。

 人間はその時々の感情や調子に左右される。計算が立たない。バグを放置したまま市場に投入するしかない。ハッカーとしては恥ずべきこと、憎むべきことだが。

 そのため必要になったのがカンニングという追加パッチだ。試験結果を操作するハッキングも考慮したのだが、人の手で採点するという愚かな風習が残っていたため、目標の試験には適用できなかった。

 ヤツはこれを嫌っている。オリジナルのプログラムとしての誇りでもあるのだろうか。バカバカしい。

 機械の存在意義はただ一つ。俺の役に立つか、立たないか。それだけだというのに。ヤツは俺が操作するゲームのキャラクターであるべきなのだ。

 プレイヤーの意志に背くな。




 * * * 




 試験当日。

 ぼくは彼の望み通り、カンニングをした。たとえ答えはわかっていても、逆らわずに。

 問題文を眼鏡に取り付けた小型カメラで撮影し、髪の毛に模したコードを伝い、服の中の送信機で彼に送り、口の中に含んだ受信機で彼からの指示を受ける。ぼくからは一言も喋ることはない。

 この日のためにわざわざ髪を伸ばし続けた。知り合いには願掛けということにしておいた。

 事前に模擬試験で予行演習していたおかげで滞りなくやり終えた。拍子抜けしたほどに。彼は妨害電波などを危惧していたが、そういうこともなかった。

 バレた時のことも考えたが、ぼくはビクビクしていてもそれが態度に表れることがない。そのため挙動不審になることもなく、怪しまれなかったのだろう。むしろ彼の方が焦っていて、結果がわかったときはとても安堵した表情を浮かべていた。ぼくが冷静だったのが気に入らなかったのか、すぐに不機嫌になったけれど。

 さて、ぼくは彼のおかげで国内最難関の高校に進学することができた。通常の授業に限って言えば、ついていくのに支障がない水準の学力を身につけている。

 つまり、彼無しでもやっていけるということだ。

 彼の目的がぼくを合格させて終わりというわけではないだろう。しかし僕の側はここで彼との関係を切ったとしてもなんら困ることはない。

 思い切って、彼にそう言ってみた。

「……本気か?」

「キミの目指すところをこのまま教えてもらえないのならば、そういうこともありうるというだけさ」

「せっかくキャラを育てたのに途中で別れるゲームがあったのを思い出した」

 忌々しげに彼は愚痴った。

「感動的な別れ方であっても、掛けた時間と金を返せと叫びたくなった」

 ぼくは彼の繰り言を黙ったまま笑って受け流す。このまま愚痴以上のアクションを起こさないのならば、彼に別れを告げるしかない。

「いずれ、恩は返すよ」

 心にもないことだが、ぼくの口からはそんな言葉が出ていた。こんな時でも他人を欺くこの笑顔は健在だ。もっとも彼はこの笑顔の正体を知り抜いている。他の人は騙せても、彼に通用するとは思えない。

 実際、彼の表情はますます険しくなった。

 そのまま彼に睨まれる。ぼくは黙って見返す。時間の流れが凍てついたように感じていた。

「……遺伝子の研究をしてもらいたい」

 ややあってようやく彼は重たい口を開く。

「遺伝子の?」

 なんのために?

「俺に施されたプログラムを書き換える」

 彼の瞳が妖しく光ったように思えた。憎悪、苦悩、悔恨、憧憬、いろんな感情のほとばしりで瞬いている。

「俺はコンピュータプログラムの解析を得意としている。そうして気がついた。生物には遺伝子というプログラムコードがあることに。ならば解析してそのデータを書き換えてしまえば、俺の望む人間になれるのではないか」

「そんなことが……」可能なのかな? と言いかける。

 彼はそれを察したように続ける。

「もちろん、万能ではない。遺伝子には生命プログラムの設計図が詰まっているとは言っても、人に翼を生やしたり、水の中でも息ができるようにすることはできない。だが、遺伝子異常が原因の病気がある。様々な種類があるが、概して身体機能が正常に働かず、ある物質を分泌できなかったり、その逆にある物質を過剰に分泌しすぎて病気を引き起こす。言わば遺伝子プログラム上のバグだ。俺はこれに目をつけた。意図的にバグを引き起こせばチート改造と同じ結果が得られるのではないか。この身体はそのままで、例えば何らかの物質を過剰に分泌させることができるのではないか、と。

 だが、現状では机上の空論にすぎない。何よりも知識と技術と設備が必要だ。そのためにもお前にその分野へと進んでもらいたい」

 ぼくは彼の言葉にじっと考え込む。

 面白い試みだと思う。けれどまた肝心な部分が抜け落ちている。彼はどのように自分を改造したいのだろうか。そしてぼくはこの試みからどんな利益が引き出せるのか。

 彼は自分のことばかりで、ぼくがどんな利益を得られるのかを示してはくれない。協力や交渉とはとても言えないものだ。

 ならばぼくが自ら見出すしかない。進むか退くか、ここが人生の分岐点だ。

「断ったら?」

 試しに訊いてみる。

 彼は歪んだ口をさらに歪めて答える。

「カンニングの情報をリークする」

「記録を残しておいたのかい?」

 当然だ、と彼はぼくを睨めつけながらせせら笑う。

「でも、そうしたらきみの野望も終わってしまうよね? リセットボタンを押してもコンティニューができるわけじゃないんだし」

 彼の眉がつり上がる。わかり易いほどに苛立っている。まさか考えてなかったのだろうか。彼ほどの人が。

 ぼくの進路を潰しても彼の目的も潰してしまう。誰も得をしない。そのことがわからないと?

 彼は本当に交渉事が下手だ。コンピュータを相手にする時とは全く違う。相手の立場や感情を思いやれない。数字に表れせないデータは全く考慮できないらしい。

 けど、だからこそ彼は利用できる。才能を持ちながら活かし方を知らずにいるからこそぼくにも付け入る隙ができる。  彼の目的からどんな利益が引き出せるか、考えどころだ。

「ぼく自身も改造できるのかな?」

「お前の? 何のために?」

 意味があるのか? とでも言いたげに不思議そうな顔になった。

「さあ? 何のためかはわからないし、できるかどうかもわからないけど、上手くいったらぼくも改造してもいいのかな?」

「俺の邪魔をしなければそれでいい」

「ありがとう」

 何ができるかはともかく、ぼく自身に目標がないのだから彼の目的に協力することはやぶさかではない。

「そう言えばきみは何のためにどんな改造をしたいと思っているんだい?」

 目指すところくらいは聞いておきたい。遺伝子改造云々の実現性はともかく、それで何をしたいのか。彼のような天才がぼくを使ってしたいことは何なのだろう。ぼくの進路の参考になるかもしれない。

 けれど彼は躊躇している。当惑ぎみに思案する。

「どうしても聞きたいのか?」

 ぼくは頷く。どうせ実現するためにはいずれは明かさなければならないと思う、そう付け加えて。

「む……確かにそうかもしれん……それじゃ言うが……」

 笑うなよ? と前置きして、

「外に……出たい……」

 消えそうなほど小さな声でポツリと呟いた。

「外に?」

 出ればいいじゃないか、と出かかった言葉を飲み込む。

 それなら遺伝子改造してまですることじゃない。今だってできるはずだ。

「ああ……けど、この顔じゃ……」

 悲しそうに彼は自分の顔を指さす。

 でもそれなら、

「覆面をかぶれば――」

「ダメだ!」

 彼は強い口調でぼくの言葉を遮った。

「俺はこの顔が嫌いだ。指さされ、恐れられ、笑われて、嘲られる。それが嫌で、俺はこの部屋に閉じこもった。隠して外に出ることは奴らに負けたことになる。今の俺を作ったのは間違いなくこの顔だ。俺はこの顔が嫌いだと言ったが誇りを持っている。俺はこの顔を、世間の、特に女どもに認めさせたいのだ!」

 鬱積した想いを迸らせるように彼は言葉を吐いた。

 けれど、ぼくには彼が何に対して憤っているのかよくわからなかった。顔にまつわる屈折した思いを抱いているらしいということを除いて。

 顔に対する思いならばぼくも持っている。表情と気持ちが一致しないことだ。他人を怒らせないよう、他人に気持ちを悟らせないよう常に笑顔が貼り付いている。

 そんなぼくの顔も改造できるだろうか。

「整形するでもなく、覆面をかぶるわけでもない。素顔を晒して恐れられもせず、笑われもせず過ごすことができる。遺伝子を変えればそんなことができるのかい?」

「それを確かめるためにもお前に働いてもらいたい」

 彼は暗い瞳で薄く笑った。ぼくの決断を促すように。

 実の所、ぼくの答えは決まっていた。彼から離れても利益がないのは明白だったから。

「わかった。これからもよろしく頼むよ。ぼくにいろいろと教えて欲しい」

 彼の目的を達成したその先にぼくの利益を見つけたいものだ。




 * * * 




 それから計画は順調だった。呆れるくらいに順調だ。

 もっとも、やることはヤツの勉学の手助けくらいで、それ以外ではネット上の情報漁りとハッキングと暇つぶしのゲーム改造くらいなものだ。本格的に始動するのはヤツが大学を卒業、ないしは遺伝子工学の研究機関に出入りできるようになってからだろう。

 目標を明確にしてやったせいか、ヤツが勉学に力を入れるようになり、前ほどは教えるのに手こずらなくなった。内容がより高度に専門的になったのに、楽になるとはおかしなものだ。

 しかし、ヤツの態度で気になることがある。

 このところヤツは何か悩んでいるらしい。以前にも増して曖昧な笑顔で、何を考えているかよくわからない。俺が話しかけても上の空で生返事だったこともある。

 ヤツが何を考えていようが悩んでいようが、計画に支障がなければどうでもいい。俺の望み通りに動いていてくれさえすればそれでいい。

 だが、今はいいとしても将来俺を悩ませることになるかもしれない。バグは早めに潰しておいた方がいい。

 ということでデバッグ作業だ。ヤツの身辺を洗い、今何に悩んでいるのかを明らかにしてやる。友として障害は排除してやらねばな。

 さしあたっては同じクラスの生徒の情報を入手する。ヤツのIDからクラス名簿を割り出し、生徒の名前を調べ、さらに個人情報を入手する。一つ解れば数珠つなぎに判明していく。ネットの利点は部屋にいながらにして、ほしい情報が手に入るところだ。必要なのはセキュリティを突破する技術。

 個人情報保護をうたうならば、いかなる情報もオンラインには載せないことだ。

 他の生徒と教師のブログ、SNS、メール履歴、掲示板。ヤツ自身は警戒してこれらを利用するのを避けているようだが、他の人間の動向まで止めることはできない。膨大なネットの情報からヤツにつながる発言と記録を抜き出していく。

 手に入った情報を整理する。

 ヤツの評判はおおむね悪くはない。むしろいい方だ。どうやら学校では目立たぬようにしているらしく、ヤツのことが話題にのぼることはあまり無い。試験の成績くらいだろうか。常に上位を維持している。学年トップになることも可能なはずだが、わざと間違えているらしい。必要以上に目立たぬようにという処世術だろうか。よくわからんが。

 ふむ。調べていくと数少ないヤツに関する噂の中に気になるものがあった。

 とある女子生徒との仲が取りあげられている。噂の域を出ていないが、相手の女子生徒はまんざらでもないらしい。

 ヤツが女に惑う、か。なかなか興味深い。あのいつも変わらぬ微笑がだらしなく崩れていく様など想像できない。

 しかし俺にとってはよくない徴候と言える。

 女のせいで人生を狂わすということはままある。かく言う俺もその一人だ。俺の人生の目的を作り上げたのは、この顔とそれに対する女たちの反応だったのだから。子供の時とはいえ、あの時の怒りと憎しみは片時も忘れられない。

 ヤツにもそういうことが起こりかねない。そして俺を裏切る行動に出るかもしれない。

 ならば、だ。

 この際、ヤツにも俺と同じようになってもらおう。




 * * * 




 恋を、した。

 高校三年の春、新しいクラスで彼女を見た。隣の席に座り、本を読む彼女の横顔にぼくは見とれていた。

 これが一目惚れというものだろうか。まさか自分の身に起きるとは思ってもみなかった。

 基本的にぼくのクラスは理系だ。理詰めで合理的な思考を持ち、科学や数学絡みの話が多い。よく読まれる小説だってSFとか、近未来ものとか、ミステリーなどのような科学的で論理的なものがほとんどだ。

 しかし彼女はファンタジーや恋愛小説を読んでいた。

 窓際の席に座り、桜吹雪を背景に熱心に読書をしている彼女の姿は、そこだけ幻想世界のように感じられた。

 彼女は他の生徒とは異なる雰囲気を持っていた。

 ぼくは息をするのも忘れ、ただ黙って見つめていた。話しかけようなんて思わなかった。美しい世界を壊してしまうような気がしたから。

 ぼくは努めてこの気持ちを隠そうとした。たぶん気恥ずかしかったのだろう。それでもチラチラと無意識的に彼女の様子を窺う。

 ある時に、ぼくが彼女のことを好きなのではないかとクラスメイトに訊かれたが全力で否定した。ぼくらしくもなく取り乱していたかもしれない。その場は納得してくれたようだが、陰でぼくのことを噂しているように思えた。

 告白しようなんて気は起きず、ぼくはただ彼女の横顔を見つめていられれば、それで充分だった。

 彼女が誰かと付き合っているらしいという話を耳にするまでは――


 ぼくは焦った。

 いったい誰と? 誰が彼女の笑顔を独占しているというのか。ぼくはそれとなく聞いて回ったが確証を得られない。

 仕方なく、本当に仕方なくだ。彼女の周りを探ってみた。学校から家まで後を尾けてみた。彼女の部屋の明かりが消えるまで誰か来ないか待ってみた。

 でも、何もわからない。

 しばらくすると彼女はたびたび後ろを振り返るようになった。その度にぼくは慌てて身を隠す。

 これではまるでストーカーだ。いくら探ってみても付き合っている男の影さえ見えない。何もないのだ。もうやめよう。そう思った。

 けれど、やめられない。もしかしたら、という思いは消えることはない。むしろますます膨れ上がっていく。

 そのくせ、彼女に直接問いただす勇気は出ない。人とのトラブルを極度に恐れる、幼い頃に培ったトラウマは健在だった。

 次第に彼女は笑わなくなった。

 心配になったぼくは教室内で話しかけてみた。いつものように曖昧な笑顔で。

「最近、元気ないね」

 彼女はどこか疲れたような顔色で、ぼくと同じように曖昧に微笑んだ。

「そう?」

「うん……」何かあったの? 相談にのろうか? 普段ならば何の気無しに口にする言葉が出てこない。相手が彼女だから?

 そう、ぼくがこれらの言葉を発する時は本心からではない。相手のことを気遣っているフリに過ぎない。話を聞いたところで実際は何もしない。せいぜい「頑張れ」とか「誰でもよくあることさ」とかどこかで聞いた助言を二、三するくらいだ。言葉以上の行動に出ることはない。

 けれど大抵、話を聞いてあげれば、柔和な印象を与えるこの笑みのおかげで、ぼくのことをいい人と認識してくれる。何の解決にもならなくても相談してすっきりしたと言ってくれる。

 しかし彼女が相手だと踏み込めない。言葉で済ませてしまうことに罪悪感を持つ。言葉以上の行動にはぼくは決して出ない、出れないことを知っているから。

 ぼくの心のバリアは、十数年分、恋心よりも強力だった。

「大丈夫だから」

 彼女の答えに、つい安堵してしまう。

 言葉通りに受け取っているわけではない。深く関わらなくてよかったと思っているのだ。

 ぼくが彼女のためにしてあげられるのは遠くからそっと見守ることだけだった。

 そして――

 放課後の教室で彼女はある男と二人きりになっていた。

 男はバレーボール部の主将。背が高くがっしりとしていて、成績もいい方で、何よりぼくとは違い表情が豊か。女子の評判はそれなりにいい。

 彼女はそんな男の胸に抱かれて、さめざめと泣いている。

 ぼくはそれをドアの隙間から覗く。なんとも間抜けだ。自分が何もしないうちにこんなことになっていたなんて。

 拳に思わず力が入り、拍子でドアをうっかり開いてしまう。

 教室内の男と彼女がこちらに気がつく。

 顔を上げた彼女は驚いたように固まる。

「や、やあ」

 ぼくはこんな時も曖昧な笑みのまま、二人に声をかけた。忘れ物を取りに来たんです、なんて体を装う。やっぱり間抜けだ。

 けれど、

「あなたがストーカーだったのね?」

 彼女に冷たい眼で睨まれる。

「え?」それはどういう……

「な、言ったとおりだろ」

 男の言葉に彼女が頷く。

「そうね。心配するフリをしてわたしをからかっていたのね。変なメールとか、書き込みとか、全部あなたがやったんでしょ?」

 なんのこと? そう言いたかったが言葉に出ない。言ったところで彼女の態度からすると、聞いてもらえるかどうか疑わしい。完全にぼくをストーカーだと認識しているようだ。けれど、なぜ?

「ここで付き合っているフリをしていれば、出てくると思ってたぜ」

 男の言葉に安心する。フリ、フリだったんだ。良かった。

 しかし状況はそんな気持ちとは裏腹に転がっていく。

「部活にも入っていないのにこんな時間までうろついているなんておかしいじゃないか」

「それは忘れ物を……」

 そう言い訳しようとした矢先、男に携帯を奪われる。あっと言う間もなく。そして画像フォルダを開くと、男は一瞬にやりと笑い、すぐに表情を強ばらせて彼女に携帯を突きつけた。

 彼女の表情が驚愕に、そして怒りへと凝固する。

 見られて困るような画像は入っていない。そもそもフォルダは空のハズだ。ぼくに画像を撮りためる趣味はないのだから。

 でも、彼女の手からぼくに突きつけられた画像には――着替え途中の彼女の半裸画像があった。

「……どういうこと?」

 どういうこと? それはぼくが聞きたい。けれど口を半開きにさせたまま何も言えず、

「どうもこうもないだろ。こいつが犯人なのはこれで確定だし、犯人じゃなくてもこんな画像を持っているだけでアウトだ」

 そう言って彼女の手から携帯を奪った男は、

「このストーカー野郎!」

 とぼくに向かって投げつけてきた。

 ぼくはすっかり気が動転して、携帯を拾い上げると教室から逃げ出した。

 以来、彼女の笑顔をぼくが見ることはなくなった。



 どこをどうしたものか覚えていないが、とにかくも家に帰り着くと隣の家が目に入る。そこでようやく彼のことが思い浮かぶ。

 嫌で嫌でたまらなかったが、ぼくの失態はいずれ彼にバレることになる。

 これまでのこと、そしてこれからのことを洗いざらい彼にぶちまけた。破れかぶれになっていたのかもしれない。

「なるほどな」

 一言も口を挟むことなく、いつになく真剣に彼は聞いてくれた。

「俺に任せておけ」

 彼はそう言ってくれた。

 何をするのかと訊き返しもしなかった。とにかく逃げたかった。忘れたかった。

 全てを彼に任せてぼくは家に帰った。




 * * * 




 俺はいくつかあるうちのメールボックスの一つを開く。

 着信が一件あった。

『おかげで彼女と付き合うことができます。ありがとうございました!』

「ククク……アーッハッハッハ!」

 先程まで我慢していた笑いを解き放つ。

 いや、それにしてもここまで上手くいくとはな。頭のいい奴ばかりが集う学校のはずなのにバカばかりだ。インテリの仮面の下には誹謗中傷、嫉妬、憎悪の気持ちが隠れている。それをちょっとばかり刺激してやればよかった。

 久しぶりに味わった爽快感。神ゲーだな、これは。

 ふむ、しかし製作者は俺だから、俺が神ということか。そう考えると微妙だな。「あー、楽しかった」で済ますことはできないのだから。

 ここで終われば充実感だけが残るのだが、後始末をしなければならない。ここから先の真エンドがまだ残っている。面倒くさいこと、この上ない。

 さしあたってはこの男。ヤツが惚れている女につきまとっていた本当のストーカー。こいつをどうにかする必要がある。

 この男のことを俺はこいつのブログで知った。偽名で自分自身の体験を元にした小説じみたものを載せていた。一応フィクションということだったが、他の人間のメール履歴やネットに流れるSNSの情報を照らし合わせて、俺はこいつが何をしているのかを知った。

 そこで脅しと協力を持ちかけてみた。あまり乗り気ではなく、態度からすると初めは冗談だと思ったのかもしれない。

 しかし女のメールアドレスと履歴の一部、そしてストーキングしている証拠となりそうな携帯の位置情報の記録を開示してやると全面的に協力を申し出てきた。

 男という生の情報源を手に入れた俺は実際のヤツの行動を探る。ヤツは自分のことで頭がいっぱいで男の存在に気がついていないようだった。

 男にはヤツの行動に合わせて動くように命じた。ヤツが女の周りから外れた時を見計らって行動させた。

 それとこの女の方にも細工を施した。嫌がらせとなるメールを何通も、日によっては自動で何百通と送信してやった。掲示板サイトに悪い噂を書き込み、女の友人にも女のアドレスから送ったように偽装工作した悪意のあるメールを送り続けた。

 男からの情報で女は精神的に不安定になっているのを感じた。

 しかしこの女、フィクションを読むのが好きなわりには想像力が足りなさすぎる。まあ、誰しも自分の身に起きたことには冷静でいられなくなるものだが。

 そしてヤツが動きだす前に最後の仕込み。男には優しく女を元気づける役柄を割り振る。女にストーカーの正体を確かめるための芝居と偽って近づかせた。

 不安を感じていた女はこれに乗る。ヤツの携帯に男に入手させた画像を送っておいて、仕込み完了。後は女が誤解してヤツが犯人だと信じきってしまったわけだ。

 ヤツが女に振られて一件落着。俺の駒としてこれからも働いてもらいたい……ところだが、このままにしておくのは良くない。

 ヤツがストーカーだったと言いふらされてはまずい。経歴に傷がついてしまっては困る。ヤツの弱みを握るのは俺一人で十分だ。

 そこで後始末だ。この女と男にはヤツの前から消えてもらう。

 と、くく……これは傑作だ。男はさっそく行動を開始したらしい。女と男は今、男の家にいる。女の方は連れ込まれたというべきだろうか。

 男に睡眠薬と手に入れ方について事前に教えてやったら勝手に動いた。さしずめ俺が教えてやったとおり「ヤツをどうにかするための相談をしたいから、ちょっと寄っていかないか?」などと言ったのだろう。

 男が本性を表すのは時間の問題。

 これで女の方が自殺でもしてくれれば楽なんだが……そう、うまくいくとは限らないしな。

 どっちにしても男と女には社会的に死んでもらう。ヤツの邪魔にならないようにひっそりと。

 女の裸の画像をネットにアップする。ヤツの携帯に入れたのとは別の画像だ。発信元が男と特定できるように細工を施す。クラスの生徒と教師の目に留まるように拡散させる。

 さて、と。

 最後の仕込みとして、男を警察に通報する。事後になるように時間を調節してやるのが俺の温情だ。

 男との痕跡を示すものは全て消去する。

 ご苦労さん。さようなら。




 * * * 




 バレー部の主将がストーカーで逮捕された。

 彼女は遠くに転校していった。

 クラスは事件でざわめいている。

 けれど不思議だ。何の感慨も湧かない。幼い頃に受けていた虐待のせいだろうか。

 あの時と同じように、自分の身に関わり合いのあることなのに、どこか遠くの出来事のように思えてしまう。あれほど恋焦がれたはずの彼女がいなくなって悲しいとも思えないのだ。

 それは心を守るために身につけた技能。

 ぼくの心は守れているのだろうか。感慨が湧かないとは言ったけれど、なくなったわけじゃない。心の深いところに押し込めただけのような気がする。恐怖や憎しみといった負の感情は沈殿して、ぼくの心を濁らせていく。それはいつか火が点いたら爆発してしまうような揮発性の高いガスのようだ。

 火が点いた時、ぼくはどうなるのか。本当の不安はそこにある。

 彼女を助けたのは彼、らしい。通報が間に合わなくて済まないと言っていた。

 本当のところはどうかわからない。けど、信じることに、いや信じたふりをした。

 ぼくは彼に協力する決心を固めたのだ。

 彼の目指すところを自分なりに調べた。そして賛同した。ぼくが望むような遺伝子改造があるのではないかと思い至ったから。

 ぼくはぼくの心を――守りたい。




 * * * 




「それで例のものなんだけど、目処がついたよ」

 友の言葉に俺は満足する。

 空気が淀む深き穴の底のようなこの部屋に身を潜めて十数年。モニター越しに見えた、人を世界を呪わなかった日はない。

「努力の甲斐があったな」

 地底でうずくまる蝉のように耐え忍んできた今までの苦労も報われるというもの。

「『明日、楽をするために今日を努力する』だろ? もちろん、そのために頑張ってきたさ。君への恩をようやく返せる」

「ああ、頼むぞ」

 ようやく俺は光の下を歩けるのだ。



 女のことがあってからヤツは変わった。

 以前よりも率先して動くようになった。自分で情報を調べるような積極性が出てきたのだ。

 俺の頭脳とヤツの行動がうまくかみ合い、ヤツは大学在学中に遺伝子工学の研究機関に出入りがかなう。院に進むと信用を勝ち得て一つのチームを任されるまでになった。

 そのチームが研究する内容こそ、俺が欲してやまなかった技術。遺伝子のチート改造、生物情報科学バイオインフォマティクスと遺伝子操作だ。

 ヒトの遺伝子の配列構造自体は解析が終了している。しかしそれがどのように作用しているのかはわからない。その仕組みを解き明かすのが生物情報科学だ。そして得た情報を基にピンポイントで遺伝子改造を施すのが遺伝子操作だ。遺伝子異常を起こした病気の治療などに役立つ。

 ヤツから研究所が持つ情報と技術を入手し、それを元に俺が独自にプログラミングしたソフトを開発し、解析、研究を進める。

 俺たちの二人三脚は非常にうまくいった。

 研究には資金が欠かせない。ヤツはスポンサー企業の社長の娘と付き合って金を引っ張り出すことまでやってのけた。

 その今までの俺たちの努力の成果がここにある。

 ヤツから手渡された薬。

 研究所から横流しさせた秘密の試薬だ。  これは俺の身体に遺伝子異常を引き起こす。しかし、たった一錠で変えられるわけでもなく、何日も飲み続けなければならない。薬を飲み続けて一ヶ月、新陳代謝が進み以前の俺とは変わったはずだ。

 俺は思い切って日の光の当たる外界へと歩き出した。




「ねー、次はどこ行くぅ?」

「えー、次はあたしと付き合ってよ」

「みんな一緒ならいいと思うよ! キャハハ」

 光の下で素顔を晒しながら女たちをはべらせて街を歩く。長年の努力の味を噛み締めて、俺は満足感に浸っていた。

 この顔は変わっていない。女たちは何も変わっていない。それでいて女たちは俺につきまとい、醜いと蔑んだこの顔にためらうことなくキスの雨を降らせる。おかげで顔中が唾液まみれになってしまう。

 俺は自分自身に遺伝子異常を起こした。フェロモン大量分泌症ともいうべき病気にかかっている。女たちはフェロモンに刺激され、向こうから寄ってくるのだ。

 男たちの嫉妬の視線が心地よい。気持ち悪いと怖れながらもフェロモンの臭いに勝てない女たちの浅ましさが、俺の胸を愉悦で満たす。

 しかし長年の運動不足が祟って、この状況はかなり疲労する。

 外に出る度にフェロモンに敏感な女どもが寄ってくる。正直鬱陶しい。


 幼い頃に誓った復讐も達成されると物足りなさを感じる。ゲームクリア後の世界をだらだらと続けているように。

 新しい目標があるわけでもなく、己の力を高めていくのみ。しかしすでにカンストしているものだから、その楽しみもない。

 ヤツを目的実現のために動かしていたときが一番楽しかったかもしれない。

 もっとも用が済んでしまったため、ヤツともすっかり疎遠になってしまった。ヤツはもう隣の家には住んでいない。

 俺に試薬を渡して、ヤツはいつも通り曖昧な微笑を浮かべてこう言った。

『女の子にモテまくったって、別にいいことはないよ』

 俺はムキになって反論した。そんなことのために十数年を過ごしてきたのか、と暗に言われているような気がしたから。

 しかし、ヤツの言っていたことが今なら少しだけ理解できる。ゲームはクリアする過程が楽しいのだということも。

 実質病気で俺に自分自身のフェロモン分泌量を調節することはかなわない。パラメータを下げるには再びチート改造を行わねばならない。

 いろいろ不便だ。

 そろそろヤツと連絡を取った方がいいかもしれない。新しい情報を引き出させてコントロールできるような方法を模索してみるか……。

「ねー、どうしたの?」

 俺が黙ったままなのに不安でも感じたのか、女の一人がじゃれついてきた。鬱陶しいと思いつつも、胸を揉みしだいてやると女は甘えた声を出して喜ぶ。

 柔らかい胸を堪能していると、やはり人前でこんなことができる能力を失うのは惜しいと思える。他人の憎悪の視線もまた気持ちいい。

 そのまま歩き続けて、繁華街に差し掛かる。目ざとくブランドショップを見つけた女たちは「何か買ってあげようか?」と俺に訊いてきた。

 俺のご機嫌を取ろうとして女たちは物で釣ろうとする。俺が何かねだられることも買ってやることもない。世の男たちには腹立たしいことだろうが。

 とは言っても物質的に欲しいものなど特にない。欲しかった羨望や満足感は手に入れてしまった。

 だいたいこの女たちの金では大したものを買えない。土地や資産、会社組織なんかを貢がせてみたいところではあるが、そんなものは持っていない。

 ふと、気づく。

 最近、女たちの質が低下しているのではないかと。

 フェロモンに釣られるくらいだから生物的な欲望に突き動かされた女が多い。それはわかる。しかし美人や金持ちの女が少なくなっているような気がする。そういう女こそ従わせてみたいのに。

 今度、ヤツに連絡を取って調べてみるとしようか。

 そう思った矢先だった。

「うわ、きしょーい」「何あれ、きもーい」

 女たちが声を上げた。視線の先には店先に展示されたテレビ。画面に映っているのは、左右非対称の眼があらぬ方向を向き、鼻はひしゃげ、右頬が麻痺していて口の端からはよだれが常に垂れている男。

 俺だった。

 画面からではフェロモンの影響を受けないせいか、俺という本人を前にして、女たちは口々に率直な感想を述べる。

 俺の心を抉るように、吐き出される言葉の数々。克服したはずの劣等感をむき出しにされ、引きずり出される。

 なぜ、俺が映っている? あまりの衝撃でそのことについて考えるのが遅れた。

 映像が流れて俺はうろたえながら携帯を取り出し、ネットのニュースを調べる。

『遺伝子研究所から情報漏えい。二人に逮捕状』

 膝が震える。携帯を持つ手がわななく。なぜだ? どうして? 頭の中にいくつもの疑問符がわく。

 考えられるのはただ一つ。ヤツがへまをしたのだ。

 周囲の人間たちが俺に気づき始める。不審顔に指さす者もいる。女たちは何も気にしていないようだったが、俺は慌てた。女の一人から俺には似合いもしない帽子をひったくると、それで顔を隠してその場から逃げ出すように走り出した。

 ヤツを探さなければ。しかしいったいどこへ?



 この顔ではどこへ行っても目立ってしまう。警察がうろつく家にも帰れず、俺は途方に暮れていた。携帯の電源を入れるのも危険だ。位置情報が漏れるのかもしれない。

 こんなイベントは想定していない。俺はゲームのプレイヤーだったはずで、キャラじゃない。そんなふうに現実に反発しても何も変わらない。それどころか刻一刻と状況は悪化していくように思えた。

 女たちの間を転々とする日々。次第に辛く当たる女が増え、匿ってくれる者も減っていく。フェロモン分泌薬の効果が薄れてきているのを感じる。新陳代謝が進み、状態異常を克服しつつある。本来の遺伝子の働きを取り戻そうとする生命力に俺は怒りを覚えた。もちろん理不尽だというのはわかっている。

 状態異常は固定化していなかったのだ。

 一部の遺伝子の書き換えはやはり一部でしかなかった。本気で作り変えるならば、幹細胞からして変えなければならないのだろう。

 だが今はそんなことを考える余裕はない。

 なぜ追われたのか。ヤツはどこにいるのか。それを調べるのが先決だった。

 どうすればいいのかはその後だ。

 女たちに貢がせたコンピュータを使い、手当たり次第に調べる。ログが残ることなど気にしていられない。時間がない。

 情報漏えいが発覚したのは内部通報があったためだ。政府の補助金を受けていることもあってか、ヤツには背任罪が取りざたされているらしい。

 ヤツがヘマをしたのだろうか? それとも自らバラしたのか? だが、そんなことをする理由が思いつかない。

 警察やマスコミの情報からするとヤツはまだ捕まっていない。どこかに潜伏しているらしい。

 最後にヤツと連絡をとった通信記録から追跡する。

 いくつかの経路を辿り、連絡相手から分析して、行き着いた先は――

『君の部屋で待っている』

 俺へ宛てたメッセージだった。




 * * * 




 彼がいないこの部屋を見たのは初めてのような気がする。なんだか不思議な違和感がある。現実ではないような、夢の世界の出来事のような。主のいない部屋というものはそこに物が溢れていても空虚で、電気の熱を帯びていても冷たい。

 彼はこの暗い部屋でぼくが来る時以外はずっと一人ぼっちだった。家族からもその顔を忌まれて嫌われていた。そのことへの恨みが彼を今日まで動かしてきた原動力だった。


 ここから全て始まった。ぼくは彼の期待通りに動いた。ぼくの望みなどそこにはなかった。

 けれど彼に協力していく過程で、ぼくが本当に欲しいものをわかった気がした。

 そしてぼくはついに手に入れた。本当に欲しいものを。

 それは彼が自分の顔に固執したのと同じように、ぼくのこの顔に関わるものだ。

 彼はメッセージを受け取ってくれただろうか?

 この喜びを伝える相手はやはり彼しかいない。

 代償は払ったけれど、手に入った今ではどうでもいい。

 早く来て欲しい。

 ぼくたちの成功を祝おうじゃないか。




 * * * 




 間違いない。俺の家の周りには多数の刑事たちが待ち構えている。それも全員男ばかりだ。

 フェロモン異常と長年に渡る穴倉生活のせいで、人の気配には敏感になってしまった。求めた結果ではなく副作用とでも言うべきものだ。

 ああ、最近の逃亡生活もあったな。

 まあ、そんなことはどうでもいい。

 問題なのはヤツだ。こうも周りに罠が張り巡らされていることからすると、ヤツがここにいる確率は五分といったところか。ここに誘導されたのは確かだが、いない可能性もある。あのメッセージを仕掛けたのは警察かもしれない。俺が出てきたところを逮捕というわけだ。

 みすみす捕まるわけにはいかない。かと言って、ヤツに会える可能性も捨てるわけにはいかない。俺を裏切ったのならばその報いを与えねばならない。

 使えないキャラはデリートされるのが運命だ。

 女の一人に命じて、携帯を持たせてあの家に行かせる。

 ヤツが出るかどうか。いないのならばすぐにここを離れられるようにしておく。あの女のことなど知ったことではない。

 女が家の中に入る。

 俺は携帯から発信する。ほどなくして電話は通じた。

 電話口に出たのは……ヤツだった。

『久しぶりだね』

「なぜ、俺を裏切った?」

『別に裏切った覚えはないよ』

「では失敗したのか?」

『失敗……でもないね。ぼくは目的を達成したのだから』

「目的?」

 ヤツにそんなものがあったのだろうか?

「目的とはなんだ? うまくいったのなら、なぜ追われている? 失敗したのではないのか?」

『とある遺伝子異常を調べていね。どうにかしてこれを引き起こすことができないものかと考えた。君に頼んでも解析してくれないだろうから他の人に頼んでみた。それから君の薬を作ろうとしたんだけど、あいにく資金と設備が足りなくてね。スポンサーと話し合ったところ、成果を世間に発表したいって言うから、解析と僕自身への投薬がすんだ後でという約束をした。で、君には内緒で君の成果と合わせて報告したわけさ』

「バカげている。わざわざ背任罪に問われるようなマネをしたのか?」

『ぼくと君のこれまでの記録は貴重なサンプルになるそうだ。警察が動いているけれど、大丈夫、どこかの施設に軟禁されてデータ取りに協力させられるだけだから。実際に刑罰が適用されることはないと思うよ』

「俺はモルモットじゃない。そうなるつもりはない」

『君ならそう言うと思ったよ。けど、気になるんだろう? ぼくの身にどんな遺伝子異常を発現させたのか。だから確かめに来た』

 気にならないと言えば嘘になる。自分と俺の身を危険にさらしてまでヤツが何を手に入れたかったのか。キャラデザインの俺自身さえ予期しなかったバグ。それが何なのか。

「俺は近くにはいない」

『嘘だね。いくら君でも女の人に言うことを聞かせるためには近くにいなくてはならない。離れてしまえばフェロモンの幸かなんて薄れる』

 そう、効果のある距離は限られている。特にフェロモンに敏感な性的欲求の強い女を選んだわけだが、それでも限度はある。ついでに近づきすぎると俺がその女に襲われかねない。フェロモン分泌は惚れさせることはできても言うことを聞かせるとなると結構不便なものだった。

「では、なぜ警察にそのことを伝えない?」

 女が近づいた時点で俺の接近を察知してもよさそうなのに動きはない。

『君と話がしたくてね。逢って話したいんだ』

「何をだ? 話ならこのままでいいだろう」

『君は逢いたくないのかい?』

「逢えるのか?」

 ならば――俺は懐に手を突っ込み拳に力を入れる。

『ああ。警察は近づかせない。なんならぼくから逢いに行こうか? 君の好きな場所を指定するといい』

「いいだろう。ならばこのままこちらの指示通りに動け」

『昔のようだね』


 俺は携帯を手にその場を離れた。



 俺はヤツを見通しのよい公園へと誘導した。ここならば、誰か近づけばすぐにわかる。逃げるための足、車もエンジンをかけたまま待機させておく。

 ほどなくしてヤツが現れる。周りには誰の気配もない。俺は車から降りてヤツと向き合う。

「やあ」

 変わらぬ柔和な微笑み。人に好印象を与えるために身につけたというヤツの才能。それは今、俺に向けて発揮されている。

 騙されるな。怒りを忘れるな。そう自分に言い聞かせる。

「いったい何だ?」

 時間が惜しい。グスグズしていたら再び取り囲まれる。単刀直入に訊く。お前は何を手に入れた?

「君はぼくが高校生の時、出会った彼女を覚えているかい?」

「彼女?」

 高校? 誰のことだ? 記憶を探ってみる。思い出せない。自分のことではないし、ゲーム中のイベントはどうもクリアすると忘れてしまう。ややあって、ヤツが先に答えた。

「ぼくが好きになった女の子さ。バレー部の主将に強姦されて転校していってしまったけど」

 思い出した。そうだ、神ゲーだ。俺が作って楽しんだ神ゲーだった。思い通りにことが運んでスゲー楽しかったのを覚えている。

「ああ……思い出した。それでそいつがどうかしたのか? 逢えたのか?」

「いや、あれ以来逢っていない。けれどあの時は君のおかげで助かったよ。誤解をされてしまったまま、ぼくが学校にいられなくなるところだったからね」

「そうだろう、俺が早く対処したおかげであの女もお前も助かった」

「さて、それはどうなのかな。ぼくはあの後しばらくして男の方に会ったんだ。面会ににね。そこで彼から教えてもらった。誰かに唆されたんだって」

 ぐっと言葉に詰まる。盲点だった。

 女を転校させ、男を少年院送りにして俺の痕跡を消したはずだったが、面会に行っていたとは。

「彼は申し訳ないって泣いて謝ったよ。彼女ではなく、ぼくに対してね。『罪を被せようとして済まなかった』だってさ。初めて怒りが湧いたんだと思う。けれど、ぼくは何もしなかった。できなかった。ぶん殴ろうとしてもガラス越しだったというのもある。けど一番の理由は感情表現の仕方がわからなかったから」

 ヤツはそこで一旦言葉を切った。

 何もかも見透かしたかのような瞳で俺を見つめて続ける。

「唆したのは君だと推測するのは簡単だった。怒りを込めてぶん殴ってやろうと思った。でも君の前に出ると――やっぱりぼくは怒り方がわからなかった」

 この期に及んでも変わることのないヤツの微笑み。俺は呆れ、怖れる。胸に復讐心をたたえながら何もしなかったヤツをただのヘタレだと断ずることは簡単だ。

 しかし、それでいて一切の感情を顔に出さずにきた。

 俺が醜悪な顔をさらに歪ませて世間への復讐を目論んでいたその傍で、俺への怒りを持ちながら平然としてヤツは俺に協力してきた。そのことに対して俺は戦慄する。

「つまり……これはお前なりの復讐か?」

 自分自身で復讐できないから?

「そうでもあるし、そうでもないよ。ぼくは君に協力した。恨むべき君が望みを叶えるのにね。これはなぜだと思う?」

 わからない。わかりたくもない。わかる必要はなかった。俺の言うとおりに動きさえすれば、他はどうでもよかったのだから。

「わからない?」

 ヤツは楽しそうに言う。声がどこかしら弾んでいる。ムカつく。

 ふと思ったが、ヤツがこんなに感情の伝わる話し方をしているのは初めてな気がする。

「もしかして……つまり、そういうことか。感情をいじったのか?」

「ああ、さすがだね。その通り。感情に関係する、ある脳内物質の分泌異常。それを研究するために君に協力した」

 ヤツは誇らしげに語る。

「そんなものが欲しかったのか? 脳内麻薬を分泌させてハイになりたかったのか?」

 捕まり、モルモットになる危険を冒してまで?

 ヤツは口の端を心持ち上げて答える。

「まあ、そういうことさ」

 相も変わらず微笑のままだ。

 バカバカしい。顔に合わせて己の怒りを殺すなんて。それこそ心を殺すようなものではないか。

「くだらねえ」

「君にとってはそうかもしれないね。顔の醜さに心も醜くしてしまった君にとっては」

「なんだと? 俺の顔を笑ったのは世間だ。女たちだ。俺の心は醜くない。奴らが俺をそうさせたんだ」

「ああ、そうだ。君は世間の方を自分の顔と心に合わせようとした。けれどぼくはその反対、ぼくの心を顔と世間に合わせようとしたのさ」

「もういい」

 俺は首を振った。こいつと話していても益はない。何を手に入れたとかはどうでもいい。逃れる道を探ろうとしていたのだが、こいつに逃れる気がない以上、もはや無駄だ。

 俺は懐から刃物を取り出す。用済みだ。デリートしてやる。

 ヤツは刃物を見ても顔色を変えることはない。平然としたものだ。それがまた俺に怒りを起こさせる。

「へらへら笑ってんじゃねえ!」

 刃物を構えて体ごとヤツに向かって体当たりをする。

 驚いたことにヤツは避けもせず、そのまま俺を受け止めた。ズブリと肉を貫く感触。立ち上る錆びた鉄のような血の臭い。ぽたりぽたりと刃を伝って落ちる赤い血液。俺の手も深紅に染める。

「な……ぜ……?」避けなかった?

 お前なら避けられたはず。穴倉生活の長い俺よりも運動能力は高いはずだ。

「ぼくはね……」

 呼吸を荒げながらヤツは微笑む。……こんな時まで。

「とても今、幸せなんだ……。彼女を見つめていた時のように……。彼女を失っても心動かなかった時……ぼくは、ああこれなんだって思った……。どんな時だって脳内物質が幸せを感じさせてくれる……。楽しくて……嬉しくて……怒りとか悲しみとかそんな感情は起きない……」

 だからといって――

「死ぬのも怖くないんだ……なんだか、ああ死ねるって嬉しくなってくるよ……」

 バカなことを――

「でもちょっと寒いかな……心地いい寒さだけど……これで君の醜い顔を見ずにすむのかと思うと……なんだか嬉しくなっちゃうね……」

 ――しやがって。

 流れていく血は止まらない。地面に落ちてようやく固まる。ヤツから体温が徐々に奪われていく。

 ヤツは満ち足りた表情で死んでいた。

 心からの笑顔。ヤツが手に入れたかったのはおそらくそれなのだろう。表情を変えられないのならば心を変えるしかない。

 そして遺伝子異常の薬は完全ではなかった。身体に耐性が付きいずれは効果がなくなる。

 微笑の下に隠された怒り、悲しみ、憎しみ。それら全ての負の感情。心動きながらも、人前でそれを晒すことができない。俺と違って行動に移すことができない。

 ならばそれらを捨て去る心のチート改造。

 ヤツはそれを永遠のものにしたかったのだ。薬の効果があるうちに。

 そんなことを考えて、ヤツの死に顔に見とれてしまい、俺はその場を動けずにいた。

 周りを警官たちに取り囲まれる。

 ただ呆然となすがままにされていた。


 全てのしがらみから解放されたような安らかなヤツの微笑みだけをただ見つめていた。

当初は五千字くらいの予定でしたが、なぜかここまで増えました……。

最後まで読んでくださった方、ありがとうございました。

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