汚染は刻々と
ルシファーの視界には翡翠を称える雄大な翠が広がっていた。生い茂る林野。ここが滅び行く世界だと、誰がわかろうか。
汚染。それは林檎が腐り行くように世界が姿を変える物だ。
汚染とは何であるのか、何故汚染が起きているのか、一切わかっていない。只分かる事は汚染という現象が起きた世界では神の加護が通じないという事だ。神も不死でなくなり、歪みがその世界を喰らいだす。
汚染。その言葉でルシファーが思い出すのはかつてあった大規模な殲滅戦だ。
一度、汚染された世界を調査のため放置し、のちに終焉の序曲と呼ばれる出来事が起きた。黒い影が生き物を喰らい、そして星を、世界を喰らう。世界を喰らった歪みは鼠算式にもっとも類似した世界を汚染し、汚染された世界は再び滅びへと歩き出す。
まるで、病だった。現にこの現象は神々では世蝕と呼ばれ、病のように扱われている。
故に、汚染された世界は焼き払わなくてはならない。最後の審判。インドラの矢。
今思い出してもルシファーは胃がむせ返るような思いだ。
無垢な赤子が自らの炎によって焼かれ、愛を誓った夫婦を雷によって撃ち殺す。罪も無い人々を海に沈め、世界そのものをアラが消滅させる。
そして、殺した魂を糧とし、新たな世界をつくりだす。
あの時焼き払った人々の悲鳴が未だに耳からは離れない。
何も、世界を滅ぼす事はその時が始めてではない。しかし、神々が介入し、世界を滅ぼすならば、それ相応の理由がそこにはあるのだ。
ルシファーがバベルの塔を崩したように、奢り傲慢を振舞う知性の粛清。
ロキが核で世界を焼き払ったように、他世界の人間を拉致同然で連れてくる世界の粛清
何も気まぐれだけで、悪戯心だけで世界を滅ぼしているわけではなかった。滅ぼそうと言う結論に至るトリガーが必ず存在し、その事で後悔したこともない。
世界を滅ぼせば、アラから必ず罰則は受ける。それがどんなに正しい事であったとしても、殺したという事実には代わりが無いからだ。
しかし、終焉の序曲だけは罰則は受けなかった。
ロキとルシファーはその事で自らを自らで罰し、1000年もの間、様々な世界の生き物を正しい方向へと導く活動をした。しかし、アラからの罰則はなかったのだ。
滅ぼした世界に罪はあったか? 滅ぼすにいたるトリガーはそこに存在したか?
否。滅ぼした世界はどれも平和であり、種族間でのいがみ合いすらなかった世界だった。
だから、ルシファーには汚染された世界は嫌いだ。いつか、自分が殺さなければいけない世界であるために。
だから、だからこそ、今回の頼みごとである、調査でなんとしてもルシファーは原因を見つけたかった。これ以上世蝕を起こさない為に。
「さてさて。世蝕の調査か。調べる事はまず世界の変化か。汚染は何が原因で起こるのか。調べる事は大量か。」
この世界の長寿の者。この世界を治める神が妥当だ。しかし、八百万の中から探すのはとてもじゃないが時間がかかりすぎる。上位八十二士以外、誰が何の神かなど等しく価値はないのだから。
情報なら龍、それに人間。この辺りが妥当だ。人間は歴史を記す癖があるし、龍の寿命は長く、変化を詳しく読み取っているだろう。それに龍ならばルシファーが何者であるか説明せずとも理解を示すだろう。しかし、龍を探すのは手間がかかる。アラからは入らぬ騒ぎを世界で起こすなと釘を刺されている。汚染されたためである変化を見つけるためだ。つまり、ルシファーが神ということは悟られてはならない。だから、神技など使えない、空も飛べない。
ルシファーは草原を見渡すが、そこには若葉の臭いが漂っているだけだ。
仕方が無い、と溜息をつき、ルシファーは歩き出す。まず行くべきは人が住む村だろう。
しかし、そんなに上手く見つかるはずもなく、すでに日は傾いているが、村は見つからない。見渡せど、見渡せど、翠、緑、碧。「この世界には草木しかないのかぁあ!」とルシファーが叫べども、そんな事を聞く生き物など、周囲には存在しなかった。
もう、『魔法』を使ってしまおうか。そうルシファーが思い始めた頃だ、その耳に金属の摩擦音が聞こえたのは。
カンッ、キンッ! 鉄と鉄がぶつかる音があたりに響いている。音を聞く限り、それは2人が戦っているであろう音だ。ようやく人に会えると感じる反面、その方面から見覚えのある感覚をルシファーは覚える。それはそう、まるで終焉の序曲で感じた歪みの--
**
セレナ・ハニバルは必死に考えていた。
どうしてこうなったのかを。
戦争に巻き込まれた村から、先程まで一緒に逃げていた親友は豹変し、今は自らを殺そうと襲い掛かってくる。
――逃げ延びたら何をしようか、自分達は逃げ延びるのだ。彼らの分も。
そんな話をしていた数分前が嘘のようだ。ほっぺたのそばかすが特徴的な親友は涎を際限なく地面へとたらし、その口から死者の怨念のような唸り声を漏らしている。稲穂のような黄色の髪は今や闇を象徴するような黒色に染まり、体中から黒い霧を辺りに漏らしている。
セレナの本能は警告を発し耳に囁く、「逃げろ!」と。
だけど、自分の女性特有の華奢な体で逃げ切れるだろうか。追いかけてこないのだろうか。そんな不安がセレナの足に枷をかける。
時には直感に従った方がいいこともある。
迷っていたセレナに向かい、豹変した少女は犬のような脚力で飛び掛ってきた。少女は口を大きく開き、体に噛み付こうとしている。
セレナの生存本能が、右手に握られたナイフを少女の首筋へと運んだ。
カンッ!
まるで石を叩いたかのような感触にセレナは驚愕する。柔らかいはずの首筋に当てたナイフの刃はこぼれ、セレナの腕は淡い痺れを感じる。
しかし、無駄ではなかった。
先程の一撃はたしかに少女の歯を逸らし、何者も居ないセレナの真横少女は通り抜ける。顔面から少女は地面に飛び込むが、痛みを感じた様子もなく、すぐさま起き上がり、セレナを、目の前の餌を見据えた。
逃げられない。
セレナは本能的にそう悟る。そして、自分が此処で死ぬであろうことも。
ナイフを握る手が彼女に語る。――こんなもの役に立たない。ここでお前は死ぬのだ。
声に従い、彼女はナイフを手放しかけるが、自分が逃げる為に見捨てた物。そして、ナイフが彼女に囁きかけた――最後まで抗え。
「ああああああああああああああああっ!」
膝が震える、涙がこぼれる。しかし、それを客観的に捉えるセレナもいた。
わけのわからないままに、豹変した親友に襲われ、自分は死ぬ。
それを悟りながらも、セレナは少女の振り下ろした腕をナイフではじいた。
キンッ!
まるで剣と剣がぶつかったような音だ。
体重をかけたナイフの一撃も、少女の腕を逸らしセレナを生きながらえさせる事しかできない。
しかし、その音を聞いているものはいた。
「吹き飛べ。」
不意に聞こえた艶やかな男性の声、その声は直接耳に響いてくるようにセレナには明瞭に聞こえた。
男性の声と共に、見えない塊に、変化した少女は遠くに吹き飛ばされ、数百メートル先に落ちていく。
「はは、は……。」
わけも分からずセレナの口を笑いがついた。手の痺れは酷く、気がつけば握っていたナイフは地面へと吸い込まれていく。そして、何かが自分の中で壊れたように、セレナはただ、膝を地面につけた。
音を聞いて駆けつけたルシファー。しかし、この状況に焦燥を隠せない。彼の心の中には、なぜ、黒き影がここにいる!? といった疑問で一杯だった。
黒き獣は高所から落ちたはずだが、一切怪我をした様子もなく、ルシファーを見据えていた。しかし、知能などというものは微塵も感じられず猪突猛進にルシファーの目の前に佇むセレナへと駆け出す。
チッ、と舌打ちをしながらも、ルシファーは黒き獣とセレナの間に割り込む。
黒き獣は構わずルシファーに飛び掛り、爪を振り下ろす! が、ルシファーはその爪が自らの顔に届く前に黒き獣を見据え、一言呟いた。
「『燃えろ』」
一言で決着はついた。黒き獣の体が煉獄の業火に包まれ、灰へと変わっていく。
黒き獣は空中で燃え尽きた。もうひとつ、ルシファーは舌打ちすると、踵を返し、セレナを見据える。
「なんなのよ、一体。私が何をしたって言うの!? 神に毎日3度は祈りを捧げたわ! 一日も忘れたこともない! けど、どうして。どうして神様は助けてくれないの。ユミも豹変して、化け物になって……。人殺し! 貴方がユミを殺したのよ!」
いわれの無い罵倒をルシファーは助けたはずの少女から浴びる。
ルシファーは困惑するが、そのセレナという少女の言葉が今は混乱しているだけだと悟るとセレナにルシファーは近づき耳元で囁く。
「『ゆっくりお休み、君は夢の中では幸福が待っている。』」
「ひと、ごろし……。」
少女は力なく崩れ落ちた。綺麗な茶色の色の毛を持った少女をルシファーは担ぎ上げ、林野の先にあるだろう場所を見据える。
草には少女達が踏みつけたであろう跡がくっきりとついている。
何故彼女がこんな日も落ちる時間にこんな場所にいるのか、そして、黒き獣の足取りが、そのヒントがその先にあると信じて、ルシファーは再び歩みを進めた。