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婚約破棄された公爵令嬢〜実は誰よりも深く愛されてました〜  作者: aduchi


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第一章 崩れる日

挿絵(By みてみん)

登場人物紹介

エレオノール・ド・ブルゴーニュ

ブルゴーニュ公爵家の令嬢。婚約者ルシアンから突然の婚約破棄を告げられ、隣国サヴォイア公国への輿入れを決意する。


ルシアン・ド・フォンテーヌ

エレオノールの元婚約者。代々ブルゴーニュの国境警備を担うフォンテーヌ家の嫡男。


フィリップ・ド・ブルゴーニュ

エレオノールの父、ブルゴーニュ公爵。


マリー

エレオノール付きの侍女。幼い頃からそばに仕えている。


ヴィットーリオ・アメデーオ・ディ・サヴォイア

サヴォイア公国の公世子。エレオノールに求婚し、隣国へと迎え入れる。


ロベール・ド・フォンテーヌ

ルシアンの父、フォンテーヌ伯爵。


セシリア・ド・フォンテーヌ

フォンテーヌ本家の公爵令嬢。ルシアンの親戚。

プロローグ


「なぜですか。こんなに――こんなにも、あなたを想い、尽くしてきたのに。」


 まさか、この幸せな時間の先に婚約破棄という結末が待っているとは思わなかった。

 思えば、あの人と過ごした日々はいつも穏やかだった。互いの思惑の上に成り立った縁組だったはずなのに、いつしかそれを忘れるくらい当たり前のように隣にいた。

 だから、婚約破棄を告げられた日のことは、今でもうまく思い出せない。何を言われ、何を答えたのか。覚えているのは、これまで積み重ねてきたはずの時間が足元から崩れていく感覚だけだった。

 それでも、時は止まってくれない。

 行き場を失った身に差し伸べられたのは、顔も知らない他国の手だった。断る理由も選ぶ余地もないまま流されるように決めたはずのその縁が、やがて自分でも驚くほど穏やかな居場所になっていくとは、その時はまだ思いもしなかった。


第一章 崩れる日


 私の名前はエレオノール。ブルゴーニュ公爵家の娘。私は国境を警備するフォンテーヌ家、ルシアンとの婚礼をひと月後に控えていた。

 屋敷の中は慌ただしさを増し、招待客への手紙は連日書斎から送り出され、衣装部屋には仕立て上がったばかりのドレスが並んでいった。使用人たちの足取りは軽く、廊下ですれ違うたびに祝いの言葉を投げかけられる。私はそのたびに微笑みを返したが、胸の内では、あの逢瀬を目にして以来、小さな棘がずっと居座り続けていた。

 ルシアンの訪れは、週に一度ほどだった。だが、彼が来る日は決まって上機嫌で、以前と変わらぬ優しい言葉を並べる。その落差が、かえって私を不安にさせた。まるで、何かを取り繕うために、いつも以上に穏やかな態度を装っているようにさえ感じられたからだ。


「そろそろ、どこまで婚礼の準備が、進んでいるか確認しなければな。」


「ええそうですね。……こちらは公爵家専属の仕立屋が、来週にはこちらへ来てくれるそうです。」


「そうか、もうそこまで…。」


 庭のベンチで、ルシアンはそう言って微笑んだ。その笑みは、初めて出会った夜会の日から変わらない、穏やかなものだった。だからこそ、浮気現場のようなあの宿屋の光景を、彼の顔に重ねることができずにいた。信じたい気持ちと、信じきれない気持ちが、日を追うごとに綱引きを続けていた。

――

 ある夕暮れ、侍女のマリーが慌ただしく部屋へ駆け込んできた。


「お嬢様、フォンテーヌ様がいらしております。急な御用とのことで、応接の間でお待ちです。」


 いつもと違う夕刻の訪問に、僅かに眉をひそめた。急いで身支度を整え、階段を下りる。応接の間の扉を開けると、ルシアンが窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。夕陽の影が彼の輪郭を縁取り、その表情は硬く、いつもの穏やかさは感じられなかった。


「こんな夕刻に、いきなりどうしたのですか。」


 声をかけると、ルシアンはゆっくりと振り返った。その目には、これまで見たことのない色が浮かんでいた。


「エレオノール。……座ってくれるか。」


 促されるまま、私は長椅子に腰を下ろした。ルシアンは向かいに座らず、暖炉の前に立ったまま、しばらく言葉を探すように沈黙していた。暖炉の火が爆ぜる音だけが、部屋の中に響いていた。


「単刀直入に言う。……この婚約を、白紙に戻したい。」


 その一言が、部屋の空気を凍りつかせた。


「……今、何と。」


「婚約を、破棄したいと言っている。」


 繰り返された言葉は、最初に聞いた時よりもさらに重く耳の奥に響いた。膝の上で重ねた両手に、自然と力が入る。


「なぜ…ですか。理由を、聞かせてください。」


「……好きな人が、できた。」


 その一言はあまりにも簡潔で、あまりにも残酷だった。何か言葉を返そうとしたが、喉の奥で息が詰まったように、うまく声が出てこなかった。


「やはり…宿場町の女性ですか。」


 ようやく絞り出した問いに、ルシアンは僅かに目を見開いた。だが、それも一瞬のことで、すぐに視線を伏せた。


「……知っていたのか。」


「見かけただけです。……偶然、通りかかっただけで。」


 沈黙が落ちた。暖炉の火が、パチリと小さな音を立てて爆ぜる。私は俯いたまま、膝の上の指輪――誕生日に贈られたアメジストの指輪を、無意識のうちに強く握りしめていた。

 ふと、脳裏に教会で交わされた誓約の下書きの文言がよぎった。婚礼の細目を確認する手紙に記されていた、あの几帳面な文字。式の日取り、招待客の順序、誓いの言葉――あれほど事務的に、あれほど淀みなく整えられていた準備の裏で、この人は既に、この結末を思い描いていたのだろうか。そう思うと、これまで感じていた違和感の一つ一つが、まるでパズルの欠片のように、音を立てて嵌まっていくようだった。


「彼女とは、幼い頃からの付き合いだ。……君と婚約してからも、時折会っていた。すまないとは思っていたが、どうしても、断ち切ることができなかった。」


「……ふざけないで…ください。」


「君には、本当に済まないと思っている。だが、このまま偽りの結婚生活を続けるより、今はっきりさせておく方がいいと思った。」


 整然と並べられた言葉は、まるで以前から用意されていたかのように滑らかだった。あの手紙の事務的な文言と同じ、少しの淀みもない口調。そのあまりの滑らかさに、かえって胸の奥が冷たくなっていくのを感じた。


「父には、もう伝えたのですか。」


「いや、まずは君に話すべきだと思って。……フィリップ公爵閣下には後日、改めて正式に謝罪に訪れる予定だ。」


「そうですか。」


 私は静かに立ち上がった。長椅子から離れ、窓辺へと歩み寄る。庭では、夕陽が最後の光を投げかけながら沈んでいくところだった。かつて二人で眺めた庭園の薔薇は、とうに剪定され、棘だけの枝が寒々しく並んでいる。


「一つだけ、教えてください。」


「何だ。」


「あの誕生日の指輪を渡した時、あなたは『ずっと』と仰いました。あれは、嘘だったのですか。」


 ルシアンは答えなかった。ただ、その沈黙が、何よりも雄弁な返答だった。


「……分かりました。もう、結構です!」


 私は、抑えきれない感情を投げつけるように彼に告げた。振り返った先で、ルシアンは何か言おうとして、結局口を噤んだ。


「今日は、お引き取りください! 父には、私からも伝えておきますので!」


「エレオノール……」


「お願いです……もう関わらないで!」


 その声には、それ以上の反論を許さない硬さがあった。ルシアンはしばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて一礼し、部屋を後にした。扉が静かに閉まる音が、やけに大きく響いた。

 一人残された部屋で、私はしばらく動くことができなかった。暖炉の火が、ゆっくりと弱まっていく。窓の外はすでに夕闇に沈み、庭の輪郭も曖昧になり始めていた。

 膝から力が抜け、長椅子に座り込む。指先には、まだ指輪の感触が残っていた。それを見つめながら、自分でも驚くほど冷静にこれまでの日々を思い返していた。夜会での出会い、庭での穏やかな午後、雪の日に交わした約束、初夏の川沿いで囁かれた「いつか」という言葉――そのすべてが、今この瞬間、意味を失って崩れ落ちていくようだった。

 涙は、不思議と出てこなかった。ただ、胸の奥に、これまで感じたことのない冷たい何かが、静かに広がっていくのを感じるだけだった。

 しばらくして、マリーが控えめに扉を叩いた。応えがないことを訝しんだのだろう、そっと顔を覗かせる。


「お嬢様……いかがなさいましたか。フォンテーヌ様は、もうお帰りに。」


「……ええ、知っているわ。」


 声の平静さに、マリーは却って不安を覚えたようだった。恐る恐る部屋の中へ足を踏み入れ、長椅子の傍らに膝をつく。


「顔色が優れません。何か、温かい飲み物でもお持ちしましょうか。」


「……お願い。」


 マリーが下がった後、私は暖炉の火をじっと見つめ続けた。薪が崩れ、火の粉が舞い上がっては消えていく。その様子が、まるで今しがた崩れ去った自分の日々そのものであるように思えた。積み上げてきたはずのものが、こんなにも呆気なく灰になっていくのかと、どこか他人事のように考えている自分がいた。

――

 その夜、父に事の次第を伝えると、普段は落ち着いている父が珍しく声を荒げた。


「フォンテーヌ卿が、そのようなことを……! 到底許されることではない。」


「お父様、もう、済んだことです。」


「済んだこと、で片付けられる話か。お前がどれほど心を尽くしてきたか、私も見てきた。」


 父の声には、娘を思う怒りが滲んでいた。だが、私はそれを静かに遮った。


「怒りは十分彼にぶつけました。これ以上は何も変わりません。……それより、これから先のことを、考えなければ。婚約破棄となれば、我が家の体面にも関わります。」


 そう言葉にしながら、私は自分の声が、ひどく遠くから聞こえるような気がしていた。しかし、自分でも驚くほど淡々とした口調だった。父は私の変わりように戸惑うような表情を浮かべたが、やがて深く息を吐き、書斎の椅子に腰を下ろした。


「……分かった。ひとまず、フォンテーヌ家との話し合いは私が引き受けよう。お前は、しばらく静かに過ごすといい。」


「お心遣い、感謝いたします。失礼します。」


 一礼して部屋を出る際、私は廊下の窓越しに、夜空を見上げた。雲の切れ間から、いくつかの星が瞬いている。かつてルシアンと並んで見上げた時と同じ星空だった。その時交わした「あの灯りは、街道の見張り塔だろう」という何気ない会話が、今では遠い昔のことのように感じられた。

 自室に戻り、鏡台の前に座る。鏡に映る自分の顔は、思いのほか落ち着いていた。侍女が心配そうに髪を解きながら、何度も声をかけてくれたが、そのたびに「大丈夫」とだけ答えた。

 夜が更け、屋敷が静まり返った頃、私は机の引き出しから、あの指輪を取り出した。燭台の光の中で、アメジストは濁ったような輝きを見せていた。それを見つめる目に、以前のような温かさはもう宿っていなかった。

 指輪を小さな箱にしまい、引き出しの奥へと押し込む。それから、日記帳を開いた。数週間ぶりに開いたページには、あの夜に落としたインクの染みが、そのまま残っていた。

 ペンを取り、静かに文字を綴り始めた。悲しみを記すためではなかった。ただ、これから自分がどう生きていくべきか――その道筋を、自分自身に問いかけるように筆を走らせた。

 窓の外では、冬の訪れを告げる淡雪が静かに舞い落ちていた。かつて幸福だけを映していたはずの庭園は、今はただ静かに、冷たい白い花を積もらせる姿になっていた。私は筆を走らせながら、心のどこかで、静かに一つの誓いを立てていた。

 もう二度と、真実を見抜けずに足元をすくわれることはしない。

 その誓いは、涙よりもずっと冷たく、けれど確かな熱を持って胸の奥に根を下ろしていった。

――

 翌朝、屋敷は一変していた。

 昨夜のうちに父が手配したのだろう、衣装部屋に並んでいたはずの花嫁衣装は姿を消し、廊下を行き交っていた仕立屋の者たちの姿もなかった。あれほど賑やかだった屋敷は、まるで何事もなかったかのように、しんと静まり返っている。使用人たちは誰も、婚礼の話題を口にしなくなった。皆、すでに事の次第を知っているのだろう。すれ違う侍女たちの視線には、憐憫と気遣いが入り混じっていた。

 私は自室の窓から、片付けられていく庭を見下ろしていた。婚礼のために特別に設えられるはずだった花壇の準備も、すでに中断されている。雪を被った土だけが掘り返されたまま、そこに植えられるはずだった花の姿はどこにもなかった。


「お嬢様、朝餉の支度が整いました。」


「……ええ、すぐに行くわ。」


 いつも通りの声を出せていることに、自分でも驚いていた。まるで、心のどこかが凍りついてしまったかのように、悲しみさえも遠くに感じられる。それでも、階段を下りる足取りだけは、いつもと変わらぬ速さを保っていた。

 食堂では、父が既に席についていた。互いに、昨日の出来事には触れなかった。ただ、父の給仕を受け取る手つきが、いつもより少しだけ丁寧だったことに気づいた。窓の外では、冬の朝日が、掘り返されたままの花壇を静かに照らしていた。

――

 三日後、フォンテーヌ家の伯爵――ロベールが、正式な詫びの使者として屋敷を訪れた。ルシアン本人ではなく、その父が出向いてきたことに、私は奇妙な違和感を覚えた。まるで、この一件のすべてを、若いルシアン一人の意思ではなく、家全体の判断として処理しようとしているかのような、そんな印象だった。

 廊下で対面したロベールは、深々と頭を下げた。


「此度のこと、フォンテーヌ家として、誠に申し訳なく存じます。息子の不始末、私にも監督不行き届きの責がございます。」


「……頭をお上げください、伯爵様。」


 私は静かにそう促したが、内心では、その言葉のどこか芝居がかった響きに、微かな引っ掛かりを覚えていた。深く頭を下げながらも、その視線はどこか落ち着いており、動揺や恥じ入る色よりも、むしろ何かを見定めるような静かさを湛えていた。


「息子は、今後しばらく領地の方に下がらせるつもりです。お嬢様には、ご迷惑をおかけしたことと存じますが、どうか、この件については穏便に……。」


「家名に傷がつくことは、我が家としても望むところではございません。父とも、そのように話しております。」


「ご理解いただき、感謝の言葉もございません。」


 ロベールはそれから、慰謝の品として用意したという小箱を差し出した。私は中身を確認する気にもなれず、それをマリーに預けるよう指示しただけだった。会話はそれ以上続かず、ロベールは形式通りの挨拶を残し、応接の間で父と面会をした後、屋敷を辞していった。

 馬車が門を出ていくのを窓辺から見送りながら、ふと、あの人の視線の奥にあったものを思い返していた。監督不行き届きを詫びる父親にしては、あまりにも落ち着き払った態度だった。

 その考えを振り払うように私は窓辺を離れた。今はまだ、確かめる術も、それを追及する気力も残っていなかった。ただ、胸の奥に沈んだ小さな違和感だけが、静かにその場に留まり続けていた。


ここまで読んでくださり、ありがとうございます!

物語はまだ序盤ですが、少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。

この作品では、登場する花や宝石にもすこーしだけ意味を込めています。気になった方は、調べてみると面白いかもしれません……?

感想や応援、とても励みになります。よろしければ気軽にコメントいただけると嬉しいです!

この先の展開も、楽しみにしていただけますように。

引き続き、よろしくお願いいたします!


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