ゴキブリ
夜、家に帰って電気をつけると、ごきぶりが壁を這っていた。みなさんよくよくご存知の、真っ黒い奴である。
「うわっ!ゴキがいる!」
おいらは上着も脱がずに、半狂乱で殺虫剤を探した。虫が大の苦手なのだ。
「あった!」
緑のスプレー缶を手に取り、黒い奴を探した。さっきテレビ台の後ろに隠れたのは知っている。さあ、出てきたところをプシューだ。2分ほど待ち、そしてその時は訪れた。ゴキブリはテレビの後ろからこそこそと這い出てきた。
「よっしゃ、噴射!」
しようとしたその時、どこからともなく声が聞こえてきた。
「殺さないで!」
部屋にはおいらしかいない。気のせいか?
「わたしよ、ごきぶりよ!頼むから殺さないで!」
おいらはまさかごきぶりが話しかけてくるとは思わなかったが、ごきぶりが話すたびに長い触角が、上下に揺れている。
「おい、ごきぶり、お前なのか?話しているのは」
「はい、そうです。実は私は神の使者なのです。もしあなたが七日間私を殺さないでいてくれたら、きっと天からすばらしい贈り物があるでしょう」
神の使者?天からの贈り物?意味がわからない。おいらは無視してスプレーしようとした。
「あわわわ、本当なのです。私は神の使者です。信じてもらえないようですね、それでは、ひとつ明日の事を当ててみましょう。明日は午後夕立があります。そしてこの窓から見える、あの電波塔に雷が落ちます」
おいらはまだ信じられず、一刻も早く視界からこの黒い虫を消したかったが、ごきぶりが必死にお願いするので、明日まで命を生かすことにした。
「とりあえず、明日雷が無かったら、即スプレーな!」
「はい、ありがとうございます!」
翌日は雲一つない快晴だった。夏の日差しが焼けつくように体にしみる。おいらは「何が神の使者だ、早速はずれやがった」と内心ほっとしながら、仕事場に向かった。しかし午後はだんだんと雲が出てきて、4時を過ぎるころには、空は夕立雲に覆われた。
「ひと雨来そうですね」
事務の長田さんが窓の外を見上げて言った。そして雷鳴が轟き、雨が降り出した。雷は激しく窓を光らせ、そしてしばらくしてどこかに落ちたようだった。
「落ちましたね!電波塔の辺りですかね」
まさにごきぶりの予言が的中した形になり、おいらは呆然とするより腹立たしかった。今日もおいらはごきぶりと寝るのか、まったく。
家に帰り、電気をつけると、どこからともなく、ゴキが這い出てきて、
「ね、言った通りだったでしょう?」
と言った。おいらは無視してテレビのサッカー中継に見入った。
それから5日間は苦痛の日々だった。ごきぶりがいるのに、殺すことができない。贈り物だか何だか知らないが、おいらはごきぶりごときに騙されているだけかもしれないな、そう思うとすぐにでもあいつを殺したい衝動にかられた。
そして耐えに耐え、7日目の夜がやってきた。この日が終われば、おいらは天から素敵な贈り物をもらえるらしい。
「最後の日ですね!いままでありがとうございました。あと3時間で、素晴らしいことが起こりますよ!」
いつものように、おいらはごきぶりの方を見ずにいた。視界に入ってしまった時は、座る位置を変えたりした。同居すれば愛情が湧くとか、そんなことは絶対にない。
そして時計が10時を回った頃のことだった。どこからともなく蚊が飛んできてこう囁いたのである。
「おめえさん、ずいぶんあのゴキブリ野郎に温情をかけてるようじゃねえか。でもだまされちゃいけねえぜ。今日あいつは、いまから卵を産むつもりだ。そしたらこの部屋はもう、占領されたも同然、お前の負けだよ。お前はここにはいられねえ。そうなる前にやっちまいな!」
おいらは蚊の言葉ごときに、心を乱されてしまった。まさか、本当じゃないだろうな?あいつはただの時間稼ぎをしているだけなのか?そして卵を産んで、ごきぶりの巣を作ろうって魂胆なのか?
「おい、ごきぶり!」
おいらは真意をただすために、ごきぶりを呼んだ。
「はい、何でしょう」
「結局おいらは何をもらえるんだい、天からの素晴らしい贈り物って何だ」
ごきぶりはぴくぴくと脚を動かし、壁を行ったり来たりしている。明らかに挙動がおかしい。
「え~と、あの~それは…」
「答えられないのか?」
おいらはスプレーをそっと握った。
「今から卵を産むつもりだったんだろ。ずっと俺を騙してたんだろ」
おいらがそう言うと、ごきぶりは焦ったような声で、
「ええっ!そんなこと誰が言ったんですか!断じて違いますよ!信じてください!あと30分待てばいいんです。こらえてください」と言った。しかし、おいらは「ひきがね」をついに引いてしまった。
「問答無用!」
おいらがスプレーを噴射すると、ごきぶりは身もだえ、逃げまどった。
「まさか、こんな…うっ」
ごきぶりは断末魔の声を上げると、ばたっと腹這いになり、息絶えた。
「ふう、安らかに眠れよ」
おいらは、何となく悪いことをしたかなと思ったが、仕方ないと自分を納得させた。そして死骸をチリトリで片付けようとした時、声がした。
「あ~あ、ついに殺しちゃった!バカだね!俺の言葉なんて普通信じるか?」
それはさっきおいらにアドバイスをした蚊だった。
「とりあえず、血はもらっていくぜ!」
蚊はおいらの右手の血を吸い終わると、
「じゃあな、他人のいうことを軽々しく信用するなよ、自分だけ信じてろよ、けけけ!」
と言って飛び立ってしまった。
「何なんだ、まったく」
おいらは死骸をごみばこに捨てようとした。そして、その時、黒光りするごきぶりの姿が、突然発光したのである。
「何だこれは!」
おいらはその発光体の中に、ごきぶりの姿とは違った、何ともかわいらしい天使の顔が映っているのを見た。おいらは、もっとよく見ようと思い、まばたきを2・3度してみた。しかし、発光も、天使の顔も、既に終わってしまっていた。
「本当に神の使いだったのかな」
後悔しても始まらないが、もう終わってしまったことなのだ。そして、何だか腑抜けになった気分でいたら、どこからともなくまた現れた蚊に、腕を3か所も刺されてしまった。