冷酷皇帝との仮面夫婦生活は難しい
(大丈夫、きっと大丈夫)
彼はかつて、とても優しい人だった。わたしは今でもあの人の優しさを覚えている。
思い出を頼りに、震える足をようやっと前に出した。この先にいるのは、冷酷な恐ろしき暴君、アシュレイ。
わたし――小国ポルカトの王女、ミルカはこれから、この人と婚姻の儀を執り行う。
恐る恐る、隣に立つ彼の顔を見上げた。
切れ長の鋭い目つき、恐ろしいほど整った顔。
思い出すのはあの日、お父様に連れられて初めて参加した国際会議。見知らぬ人に囲まれて不安だったわたしの手をとって、エスコートしてくれた優しい男の子。
あの時の面影はすっかりなくなってしまったけれど。わたしはあの日の彼の優しさを、ずっと覚えている。
「わかっているな、これはお前の国を救うための手段に過ぎない」
「……はい」
彼の冷たい眼差しを、まっすぐに見つめ返して私は頷く。
(大丈夫、きっと……大丈夫よ)
たとえ彼が、今はもはや『冷酷皇帝』と呼ばれるような人になってしまったとしても。
きっと大丈夫だと、己に何度も言い聞かせる。
過去の記憶とわずかな希望を持って、わたしは彼と結婚した。
いわゆる、政略結婚である。
◆
婚姻の儀式のあと、メイドに促され湯浴みをした。姫とはいえ、清貧を極めた母国ではこんなにたくさんの湯を使うなどとんでもないことで、湯に浸かるのは久しぶりだった。
身ぎれいに整えられたのちに、寝室に案内されたのだが、そこに陛下の姿はなかった。
「あの……陛下は?」
これからおいでになるのかと問えば、「ああ」とメイドは小さくため息を吐き、首を振った。
「陛下はいらっしゃいません。寝所は完全に分けるようにと、ご命令です」
「……そうですか」
メイドはわたしの顔を見ないまま冷たく答えた。ちくりとした痛みが胸を刺す。
わかってはいたことだけれど、この婚姻は本当にただの政略以上の意味はないだなと思い知らされる。
「わたくしも失礼いたします。扉の外には衛兵が二人控えておりますのでご心配なく。なにかございましたら、鈴を鳴らしてお知らせくださいませ。この紐を引っ張ればわたくしの控室に音が届きますので」
「わかりました。ありがとう、あなたもよく休んでね」
事務的に告げるメイドに礼を言い、彼女が退室するのを見送った。
さて、もうこの部屋には誰もいないし、誰も訪れることもないのであれば……寝るしかないだろう。
(……)
大きな寝台に一人横たわり、目を伏せ思いを馳せる。
アシュレイ――彼が『冷酷皇帝』と呼ばれるに至った、その事件。
現在、帝国と名乗るこの国は元々は五つの小国からなる連合国家のうちの一つに過ぎなかった。それを武力で持って制圧し、平定したのが彼だ。
元をたどれば、連合国らはかつては一つの王家だったが、時と共に勢力は分散し、それぞれ国家を持つことになった。つまりは、小国の王子であった彼は血のつながった縁者を容赦なく殺して、帝国皇帝として、王の座を得たのだ。
(……連合国の関係は破綻していたと聞くわ、国民達はいつ起きるかわからない戦争に常に怯えていたと……)
牽制状態にあった各国、虎視眈々と侵略を狙う国々は国家予算をほとんど軍事費にあてこんでいて、民たちは長年疲弊しきっていた。
アシュレイ、彼の行いを冷酷非道と呼ぶものもいれば、硬直を解き、一つの国にまとめあげたことを『偉業』と称えるものもいる。
(……わたしは、彼は……きっと、民たちを救うために戦争を起こしたのだと……信じたい)
布団に入っているはずなのに、なぜか冷えてきた身体をぎゅっと抱きしめる。
どうしても、考えても答えが出ないようなことばかり考えてしまう。はあ、と一人大きくため息をついた。
そして、なぜかその拍子に目の端からは涙が溢れてきたのだった。これは、一体何に対する悲しみの涙だろうか。
(いけない。わたしは、自国を守るために嫁いできた身。誇りを保っていなければ――)
ぐい、と涙を拭っていると、ドスン! と何か大きなものが落ちてくる音が聞こえた。
ネズミにしては大きな物音すぎる、ドラネコか。いや、こんな立派な城に野生の生き物が紛れ込んでくることなどあるだろうか?
恐る恐る、布団から顔を出し、音のしたほうに目を向けると……。
陛下がいた。
レンガ造りの暖炉の下で、煤まみれになって、ぶつけたらしい頭を押さえていらっしゃった。
信じられないことだけど……陛下が、暖炉からやってきたのだ。
「へっ、陛下!?」
「くっ……練習ではうまくいっていたのだが……」
慌てて駆け寄ると、陛下は悔し気に歯を食いしばっていらっしゃった。
(練習……?)
なんのことだろうと陛下の顔をのぞき込んでいると、陛下もわたしをじっと見つめ、静かに眉間のしわを深めた。
「その恰好……。なんだ、もう寝ていたのか」
ハッとして、陛下に礼をする。
「申し訳ございません。メイドから、今日はおいでにならないと聞いていたものですから……」
「それを鵜呑みにしたのか」
「はい、申し訳ございません……」
なぜ陛下が暖炉からおいでになったのはよくわからないが、なんであれ、陛下の不興をかってしまった。
陛下のご意向を把握できず、一介の使用人の言うことを鵜呑みにして妻の責務を放棄しようとしていたのだから、それは当然のことだろう。
(どうして暖炉からいらっしゃったのかは、本当に……わからないけれど)
「このような姿で陛下を迎えること、大変な無礼をお詫びいたします。もてなす支度もできておらず、申し訳ございませんが、よろしければもっと寛げるところにおいでくださいませ」
いつまでも暖炉の下にいさせるのは障りがあるだろう。わたしをそっと陛下をソファに誘導した。
「……」
だが、陛下は眉間のしわをますます深くしてわたしを睨む。
(……今、ここにいらっしゃるのは、陛下の本意ではない……?)
なにしろ、暖炉からいらっしゃったのだ。もしかしたら、何か事情があってたまたま暖炉に入って、たまたま私がいる寝室に落っこちてきただけかもしれない。
(どうしよう、このまま部屋に招き入れてよいものかしら。でも、さきほどはメイドのいうことを鵜呑みにして寝ようとしていたわたしに不快そうなご様子だったし……わからない、わからないわ……)
前言を撤回することもできず、ただ立ち尽くして陛下の反応を待つ。どうしようかと思っていると、コツコツと硬い靴の音が聞こえてきてホッとする。
陛下はソファに座る前に律儀に煤を払い落してから着席なされた。
「ごめんなさい、お酒のひとつでも用意しておくべきでした」
「構わん。メイドが俺は来ないのだと言ったのだろう?」
冷たい物言いにやはり、メイドの言うことを真に受けたことを不快に思われたのねと思い知らされる。
わたしも彼の隣にそっと腰かける。隣に座ってよいものか悩んだけれど、一応は『夫婦』なのだから必要以上に距離をとる態度を見せるのはよくないだろう。
わずかに彼の肩が揺れたようだったが、それ以上拒絶するご様子はなかった。
整った彼の横顔を見上げながら、どうにか彼の真意を探る。
(……夫婦の務めを果たされにきた、ということでよいのかしら)
さて、その場合には自分はどう振る舞えばよいのか。
婚姻後の夫婦の過ごし方について、知識としては学んでいるが、どう考えても今回の結婚は政略的なもので、彼はあまり――自分に対して好意的ではない様子だった。
(でも、責務を果たそうと……おいでくださった、のよね?)
そうでなくては、わざわざ寝室を訪れた意味がないだろう。
「あの、陛下……」
おずおずと陛下の手に、己の手を重ねた。
そういうことであるならば――という意図があってしたことだが、陛下はわたしの手を払いのけた。
「あ」と思い、丸くなった目で陛下を見つめていると、陛下はため息をつき、払いのけたわたしの手を今度は掴んで、そっと手を膝の上に戻した。
払いのけたわりに、不思議なほど優しく行われた動作にますます困惑する。
(払いのけてしまったのは反射的に、だった? それをごまかすために、殊更に優しく手を取ってくださった……だなんて、まさか、そんなこと……)
怪訝に彼を見つめ続けていると、陛下はしかめ面のままゆっくりと口を開いた。
「俺はお前を愛する気はない」
(あ……)
それはそうだろう。初めからわかっていたことだ。
だが、こうして突きつけられると、その言葉は胸に冷たく突き刺さった。
頭の中で幼かった時に出会った彼がフラッシュバックし、そして黒く消えていく。
さきほど彼に優しく戻された手の平でぎゅっとナイトドレスの裾を掴む。
「これは政略的に結ばれた婚姻だ。……わかるな?」
「……はい」
鋭い眼光ににらまれながら、わたしは頷く。なるべく平静を装いながら。
「俺がお前を愛していると知られれば、障りがある。俺がお前と結婚したのはあくまでお前の国を侵略から守るためだ。俺とお前が想い合っているなどと思われるわけにはいかん。俺はそれに相応しい態度をとるつもりだ」
「はい。承知しております」
小国であるわたしの母国は、常に他国からの侵略の危機に怯えていた。
この大陸ではわたしの国でしか取れない燃料資源を優先的に帝国に輸出すること、そして王女を花嫁として輿入れさせること。それを条件に、帝国はわたしの母国を侵略の脅威から守ることを約束してくれた。
本来ならば帝国の要求は前者のみで成立した。そこに加えてわたしの嫁入りを指定したのは、つまりはわたしは人質、ということなのだろう。
(きっと陛下はこれから新しい妻……正妻を娶られるのでしょう)
約束を強固とするためだけに娶った花嫁ではなくて、陛下が心から愛せる女性と子を為すのだろう。
未来のことを思い、わたしはただ目を伏せた。
「そうか。お前が聡い女でよかった。婚姻の儀の最中ではろくに話せんかったからな。今日はこれだけ言いに来たのだ」
「さようでしたか」
わざわざ、なんと律儀なことだろう。
(そのために、暖炉からいらっしゃって……)
……わざわざ暖炉から来る必要は、あったのだろうか?
いや、こんな疑問、些末なことだと振り払う。気持ちが落ち込んでいるからだろうか、どうもどうでもいいことが気になってしまう。よくない。
席を立ち、暖炉に向かって歩いていこうとされる陛下の背に、意を決して声をかける。
「陛下。一つ……よろしいでしょうか」
「なんだ」
陛下は振り返らないまま、返事をする。
「陛下は昔、わたしとサミットでお会いしたことを覚えておりますか?」
「ああ。もちろんだ」
覚えている、と返され、にわかに胸が弾む。
陛下も――あの時の男の子も、覚えていてくれたのだ――と。わたしは一歩陛下に近づき、そしていまだ振り向かないままの陛下に、頭を下げる。
「あの……あの時は、助けていただいてありがとうございました。わたし、あの日のご恩を忘れたことはありませんでした」
「……ふん、なんだ、そのことか」
ゆっくりと、陛下がわたしを振り向いた。
「たいしたことではない。それだけか?」
陛下は眉根を寄せながら、短くそう言った。
その表情も、声も、冷たく感じられて、わたしは「あ」と思わずこぼしかけた口元を瞬時に引き締め、改めて彼に礼をした。気持ちに蓋をするように、恭しく見えるように。
「……はい。もう一度、お礼を言えてよかったです。引き留めてしまってごめんなさい。……おやすみなさい」
陛下は一言も答えることなく、暖炉の中に消えていってしまった。
◆
『仮面夫婦』。昨夜の宣言通り、陛下はわたしにはまるで関心がないというように振る舞われた。
わざわざ初夜に宣言しておいてくださったのは、陛下なりの優しさだったのだろうか。
いきなりこのように冷たく接されるのとどちらがマシだったろう。
(……そうね、わたしは……陛下に幼いころのお優しいあの子の影を追っていた。前もって伝えてくださったおかげで、余計に傷つかずに……すんだのかもしれない)
今日はもういらっしゃらないだろうと、わたしは早々に床についていた。
起きていても余計なことを考えるだけだから、早く寝ようと思っていたのだが――。
なんと、今日も陛下は寝室においでになったのだった。
そう、例の暖炉からニョキっと顔を出して。
(あっ、今日は着地に成功したのですね)
きれいな輪郭の頬にすすをつけながらも、涼しい顔の陛下にホッと胸を撫で下ろす。
「……なんだ、また今日も寝る気でいたのか」
「も、申し訳ございません。昨日でもう……お話はすんだのかと」
「ずいぶんと物わかりのいい姫だな。文句の一つも言いたいのではと思っていたが」
「あ……え、えっと。もしかして、わたしが不満を言いたいかもしれないからと、聞きに来てくださったのですか……?」
言うと、陛下はむっつりと不機嫌そうに眉を歪められた。
「も、申し訳ありません。出過ぎたことを……」
「不満を聞く甲斐性くらいはあるつもりだ。言ってみろ」
「いえ、どうしていらっしゃったのかが気になっただけで、不満など……」
ふん、と陛下はしかめ面のまま、ソファに座り込んだ。
「……今日はそっちに座るのか」
「え?」
対面のソファに座ったわたしに、陛下がぽつりとこぼす。
瞬きをして見つめ返すと、陛下は「なんでもない」とそっぽを向いてしまわれた。
「あの……昨夜、『愛する気はない』と仰っておりましたので、わたしが隣に座るのはおこがましいのではないかと、そう思ったのです」
「……ここに人目はない。だが、徹底するのもありだろう。判断はお前に任せる」
「は、はい」
陛下は難しい顔をしていたけれど、とりあえず怒ってはいらっしゃらない様子なのでひとまずホッとする。
「俺とお前が夫婦としての時間を過ごすのは今このときのみだ。なにか言いたいことがあるならば今のうちに言っておけ」
「は、はい。お気遣いありがとうございます。おかげさまで不便はありません、みな、嫁いできたわたしに親切にしてくださっておりますし」
「ふん、当然だ」
「はい、陛下の臣下はみな素晴らしいです」
そう言うと、陛下は少し満足げに口角をあげたようだった。
(冷酷皇帝とは呼ばれているけれど、臣下たちとはしっかりとした信頼関係があるのね)
誇らしげな様子に胸が温かくなる。
「くれぐれもお前のことは丁重に扱うように言い聞かせている。だが、もしもなにかあればすぐに俺に報告するように」
「はい。承知いたしました」
反乱分子を警戒されているのかしら? と思いながら頷く。
ぎしり、とソファが軋む音。陛下は姿勢を変え、長い脚を組み替えたようだった。
「お前も一国の姫であれば、わかるだろう。俺には他にももっと強い力を持つ国と協力関係を持つために、その国の姫と婚姻を結ぶ選択肢があったのだ。それをなぜ、こうも小さな国の姫を娶ったのか……。その理由を色恋と判じられるわけにはいかんのだ」
「はい。仰るとおりでございます」
陛下は厳しい眼差しとお声で淡々とお話になった。
もしも、この婚姻が色恋沙汰ゆえと思われれば、陛下にとって、わたしとわたしの祖国が足枷となる。情があるのだと思われれば、それが弱点となってしまう。
陛下はわたしのことなど、どうとも思っていらっしゃらないけれど、そう思われてしまう可能性は極限まで減らさねばならない。
少し迷って、口を開く。ならば、わたしも婚姻の理由を訝しむものに適切な説明ができていなければいけないだろう。陛下の真意を、知っておくべきだ。
「……あの、でも、わたし自身……不思議なのです。燃料資源のため……とは仰いますが、ポルカトなどちっぽけな国、あなたならばいとも容易く支配できるでしょう。それを……」
おずおずと問えば、陛下は小さくため息をつき、わずかに首を振るしぐさを見せた。
「力を持たぬ国が武力によって侵略される前例はなるべく作りたくない」
「は、はい」
大陸内の情勢を保つため――と納得しかけたところで、陛下は言葉を続けた。
「……ポルカトは小国だが、美しく雄大な自然を持ち、今時珍しいほど伝統工芸が続いている国だ。この国を滅ぼしては将来的な損失は大きいと踏んだ。他国が支配してしまっては、その文化の継承が絶たれる可能性が高い」
「……陛下……」
「こう説明して納得がいかぬものは俺の良き理解者ではないと切り捨てるつもりでいる。よもや、お前までそうではなかろうな?」
「滅相もございません」
言い聞かせる口調の彼に、そっと首を横に振る。
ああ、また呆れられてしまったかしら、と思いながら目を伏せる。
(でも、こんなふうに我が国を評価してくださっているだなんて……思っていなかったから……)
祖国を称える言葉に、つい目元にじわりと涙がにじんでいた。
それをごまかすように、顔を上げてわたしは陛下に微笑む。
「……陛下、ありがとうございます。わたしは国のため、あなたにこの身を捧げるつもりで嫁いでまいりました。『愛する気はない』ようでしたら、そのご意向に従います。でも、なにかわたしにできることがあるのならば、どのようにでも、わたしをお使いください」
「不用意にそのようなことを言うな。俺はお前の意思を無視したいわけではない。不満や意見があればなんでも言え」
「……はい、ありがとうございます」
陛下は口早に言うと、またそっぽを向いてしまわれる。
その横顔を見つめながら、ぎゅっと拳を握りしめる。
『愛する気はない』――けれど、彼は、わたしを尊重してくれるつもりらしい。
(でも、そんな。わたしの国を守るために結婚してくださったというのに。これでは私に都合がよすぎるわ。もっとわたしに、なにかできることがあればよいのだけど……)
現状、思いつくのは彼が真に想う相手と婚姻を望むときに、最大限自分が邪魔にならないように務めることくらいだ。
「では、今日はこのくらいで退散する。元々寝るつもりだったのだろう? 夜更かししては身体も冷える」
「はっ、はい、ありがとうございます! 陛下も……よくお眠りください」
陛下は席を立つと、わたしを振り返ることはなく、暖炉の中に姿を消した。
(……陛下……)
この暖炉の向こうは陛下のお部屋につながっているのよね? と思いながら暖炉を覗き込む。
「……おい」
「あっ、は、はい!」
まだ、そう遠くないところにいらっしゃったらしい。わたしの気配に気が付いた陛下が頭上からわたしを呼んだ。
「お前になにかを望むわけではない――なかったのだが……」
「は、はい」
「俺がここに来るのをそう驚くな。眠たければいつでもさっさと寝ていて構わんが、毎回驚かれると思うと居住まいが悪い」
「……? え、ええと、は、はい」
頭の中が疑問符でいっぱいになるのをこらえて、なんとか「はい」と返事する。
(??? 毎回? ということは? これからも、定期的にいらっしゃるので……??)
どのくらいのペースで、だろう。
政略婚の仮面夫婦といえど、夫婦そろって行う式典なども多いから、その打合せとかで話をしなければならない機会もあるだろう。そのことを仰っているのだろうか。
(でも、人目を忍んで、毎回暖炉からこっそりだなんて、大変すぎるから……そう、何度もはないわよね?)
ちなみに、明日も、明後日も、そのまた次の日も、陛下はこの暖炉から毎日せっせといらっしゃるのだということをこの時のわたしはまだ知らない。
◆
それから、数か月が経った。
陛下は毎日かかさず、寝室に通ってきてくださった。
日中人目につくところではわたしに対しても厳しい態度でいらっしゃったけれど、夜にお会いするときは……なんというか、その、ちょっぴり、どこか抜けてる……というか、かわいらしいというか……というご様子で。
(どうもわたしたち、認識に誤解がある気がするわ)
そのころには、わたしはそう思うようになっていた。
仮面夫婦生活は順調で、わたしは「あんな冷血に嫁ぐことになって」と憐れまれたり、「初日からずっと別室で愛されていないとか。さぞやお寂しいのでは?」とよからぬ雰囲気で声を掛けられることが増えていた。(後者の方は、次の日に陛下になんだか呼び出しを受けて以来お姿を見かけなくなったけれど、息災でいらっしゃるかしら)
陛下の寵愛を受けていると思われるわけにはいかないから、わたしも陛下のことなど興味はない、ただ政略の駒として、嫁いできた王女として、「個人の感情はないが、陛下の妻としての責務はこなします」という体を貫いた。
(陛下はわたしになにも望まない。ならば、わたしが陛下にできることといえば全力で仮面を被ることだけ……)
わたしの国を守るために、わたしと婚姻するという形を取ってくださった陛下の恩に報いるため、わたしは頑張った。
直球で「陛下のことはどう思っているか」と探ってくるものもいたけれど、「皇帝としての彼以外には興味はございません」とツンと言い払うのも慣れたものだった。
そういったことを言うときに、陛下がお近くにいるときもしばしばあるのだけど、そうすると陛下が地獄の鬼のように険しい眉間のしわをお作りになるナイスアシストをしてくださるので、我々の不仲はもはや公然であった。
……けれど、そんな世間からの印象と反比例するように、こっそりと寝室でお会いする陛下とわたしとの距離は、確実にどんどんと近づいてきていた。
今日も今日とて、陛下は暖炉からいらっしゃる。
メイドを下がらせたあと、自分で薄化粧をしてわたしは陛下を待っていた。
部屋には陛下が好きな香りだと話していた金木犀の香を焚いている。
「そんなところで待っていたのか、座ってくつろいでいればよいものを」
「ごめんなさい。もうすぐいらっしゃるのかしらと思ったら、ここにいたくなってしまって」
「ぐ……そ、そうか。ふん、殊勝なことだな」
暖炉の前で座り込んでいたわたしは、暖炉の中で屈んでいる陛下に手を差し出し、陛下が出やすいように手を引っ張った。
そのまま手を繋いで、一緒にソファまで歩いていき二人並んで座る。陛下のほうが身体が大きいから座面が深く沈んでしまう。その傾きに乗じて、わたしはこっそりと陛下にもたれかかる。
「陛下、失礼します」
今日はお鼻の頭にすすがついていたので、用意しておいたハンカチでそっと拭う。
おとなしくされるがままにしてくださる陛下に「ふふ」と微笑みつつ、わたしは小さく口を開いた。
「……あの。わたし、思ったのですけど」
「なんだ」
「毎日来てくださるのは、とても嬉しいんです。わたしたちにとっては、愛のない夫婦という仮面を取り払えるのはこの時間、このお部屋だけですから……でも……」
陛下の黒曜石のような真っ黒い瞳を見つめ、問う。
「どうして……暖炉なのでしょう? 大変でしょう、登るのも、降りるのも……」
「俺の部屋とお前の部屋を、確実に人目につかないように行き来するには最適なルートだからだ」
それは――そうだろう。まず、人目にはつかないことは間違いない。
だけども、もっと良い方法はないのではと思って、おずおずと進言する。
「あの……たとえばですよ? わたしの衣装部屋と陛下のお部屋は構造的に隣り合っておりますので、衣装部屋のタンスの奥と陛下のお部屋をつなげるとか……」
陛下は切れ長の目を見開く。
「ご、ごめんなさい。あまりにも……安直すぎましたね。陛下は……人目につかないことを最重要視されているのですから」
「い、いや、なんて妙案だと驚いていた。なるほど、衣装部屋……」
口元に手をやり、真剣に思案くださっていた陛下だけど、不意にハッとして目を見開いて大きく首を振った。
「待て! 衣装部屋ということは……お前の服とか……その、色々置いてあるわけだろう!? やはり、ダメだ! やめよう!」
「そ、そうですか? わたしは気にしておりませんが……」
「いや……や、やはりよくない。あ、安全面でも、よくない」
「そうですか……。毎日暖炉を通ってきていただくのは申し訳なくて……安直な考えを申し上げてしまい、申し訳ございませんでした」
「いや、素晴らしい案だった。俺を慮ってくれた提案だったのだろう? ありがとう」
そんなに必死に却下されるような案だったろうかと反省する。
(でも、陛下はいつもすぐに『ありがとう』と『すまなかった』と口にしてくださる。……好き)
仮面夫婦ではあるけれど――陛下にとっては、政略でしかない婚姻だけど――わたしは、かつてサミットで出会いずっとあこがれてきたときと同じ気持ちを再び彼に持ち始めていた。
そして、もしかしたら彼も、わたしのことを……少なくとも、嫌いでは、ないのでは? と。
そんな期待をにわかに持ちながら、わたしは確かめるように彼の身体にそっとだけ身を寄せるのだった。振り払われることはなく、時間は過ぎて、また彼が暖炉の中に潜っていくまで、わたしたち夫婦はそうして過ごすのだった。
◆
そんな日々がいつまでも続くと思っていた。
しかし、世は激動の時代。わたしの父の代にも、祖父の代にも、大きな戦争が起きて、様々な新しい国ができては滅びる国が無数にあった。
今このときだけ、ずっと平和な変わらぬ日々が続く――なんてことはなかった。
そう、祖国ポルカトに火の粉が降らなかっただけで、そもそもわたしが嫁いだ帝国という国は陛下が起こした戦争によって平定された国なのだから。
そして、わたしと陛下が結婚したのだって、わたしの国が他国から狙われている状況を鑑みてのことだ。
陛下はいつだって、戦の芽を気にされていた。国内情勢だけでなく、近隣諸国、海を隔てた向こうの大陸にまで気を配っていらした。
そのお姿を見て、わたしはかつての戦争は連合国の不要な消耗を最小限に抑えるためだったのだと、確信を得ていた。
陛下は冷徹な表情を浮かべてはいても、その心はとても優しい人なのだと。
あの時、サミットでわたしを助けてくれた時と変わらず、彼はずっと優しいままなのだと。
(……陛下。もう帰ってきたのに、どうして今日はなかなかいらっしゃらないのかしら……)
この頃の陛下は城を空けることが増えていた。王妃として過ごしていると、いろんな噂が耳に入る。戦の気配がする――と。
おそらく、陛下はそれを警戒し、けん制するために外交に力をいれていらっしゃっていた。
久しぶりに帰ってきた陛下。お疲れだろうけど、少しだけでも話せるだろうかと胸を弾ませていたというのに。
いつもは来るはずの時分になっても、陛下が暖炉から現れることはなかった。
そんなこともあるだろう。疲れて、眠ってしまったのかもしれない。
晩餐会では普段よりも多くお酒を飲んでいたから、そのせいかもしれない。
(どうしてかしら、こんなに胸騒ぎがするのは……)
胸元を押さえながら、暖炉をじいっと見つめた。
静かな暖炉を見つめていると、言いようのない不安感が襲ってくる。
なにかが、いつもと違う気がした。
重苦しい息をなんとか呑みくだし、わたしは駆け出した。
今、陛下のもとにいかなければいけない。なぜだかわたしは、そう思ったのだ。
◆
うるさい心臓の音を響かせながら、暗く、狭い通路を潜り抜ける。
この戸を開けば、陛下の部屋だ。
(……!)
薄く開いた戸の向こうには、ベッドに横たわる陛下。そして、いままさに陛下の喉にナイフを突き立てんと振りかぶる男がいた。
「陛下!」
たまらず声を張り上げ、わたしは飛び出した勢いで男を突き飛ばす。
「なっ……」
予期せぬ乱入者に驚いてか、男は握っていたナイフをするりと落としてしまった。
床を転がるナイフ、キィンと金属音が響く。
「くっ……!」
「あっ……」
不意をつかれて得物を落としたものの、女の細腕ではたいしてよろめきもせず、すぐに体勢を立て直した男はわたしの髪をぐいと掴む。
男はわたしの顔を見ると、またも驚いたようで目を丸くした。
(この男……ずっと陛下の侍従として仕えていた方だわ……)
陛下からの信頼を裏切り、暗殺を実行しようとしていたのだ。瞬時に悟ったわたしは、さして驚かず、男を睨んだ。
――なぜここに王妃が。不仲であるはずではとでもいいたげである。
隣り合うように作られたわたしの部屋と陛下の部屋。その構造はだいたい同じである。
男に髪を掴まれたまま、わたしは腕を伸ばし、ベッド近くに設けられた従者を呼ぶベルの紐を引っ張る。
「このアマ……!」
男は床に落ちたままだったナイフを掴み取ると、先ほど陛下にそうしていたのと同じように振りかぶり、今度はその刃先をわたしに向けた。
「――俺の妻に何をする。この愚物が」
「はっ……!?」
地を這うような低い声。男がナイフを掴むその手を、大きな手のひらがグッと握り潰していた。
「へ、陛下……?」
「……なんだ、これは、悪い夢か……?」
陛下は男とわたしの姿を交互に見やり、険しく顔を歪ませた。
「くそっ、なんでだ!? クマも眠らせられる薬だったのに!」
「……ああ、お前がなにか盛ったのか。どうりで……」
陛下はまだ重たげな瞼で男を睨んだ。
「俺が妻の苦しげな声を聞いて、目を覚まさぬわけがないだろう。貴様、地獄の底で己の行いを悔やむのだな」
「ひいっ……!」
陛下はわたしから男を引き剥がすと、あっという間に男を羽交い締めにし、わたしに指示を出して縄を持ってさせて、手際よく縄でガチガチに縛りつけてしまった。
「手慣れていらっしゃいますね……」
「戦場に身を置いていれば自然とこうなる」
あっけにとられているわたしの髪を、陛下の手がさらりと撫でた。
「……こんなに美しい髪を。許せんな」
「陛下……」
「痛かったろう。他に怪我は?」
「いいえ、少し髪を引っ張られただけです。すぐに陛下が目を覚ましてくださいましたから」
「……クソ、このような不覚をとろうとは……」
わたしを労りつつも、陛下はきつく歯を食いしばって悔いているご様子だった。
やがて、わたしが先ほど鳴らしたベルの音でやってきた陛下の従者が二人、この部屋の有様を見て仰天していた。
陛下に長年支えていたはずの男が陛下に縛られているのも驚いたようだけど、なによりも、わたしが……夜のこの時間、陛下の隣にいることに。
「え、あ、あの、王妃殿下……? えっ、あれ……」
「おい、さっさとこの狼藉者を牢屋に放り込め」
「はっ、ははっ!」
陛下に厳しく言われ、彼らは男を連れて、そそくさと退散していった。
◆
「……全く、明日一番に尋問をせねばな。一体いつから謀反を企てていたか、よもや誰かに唆されたのか、問いただせねば」
「陛下……心中お察しいたします」
信頼していたはずの侍従に裏切られ、お辛いだろう。
しかし、陛下は首を横に振り、不機嫌そうに眉間のシワを深めた。
「裏切りなど慣れたものだ。それよりも、お前に危機が及んだことが腹立たしい。この俺の不甲斐なさにな」
「そ、そんな。陛下のせいではございません。わたしが勝手に飛び出してきたのですから」
ハッとした様子で陛下は改めてわたしをまじまじと見下ろす。
「……そもそも、そういえば、なぜ、ここに……?」
陛下は眉を引き上げて疑問をあらわにする。
「ここは、お前の部屋だったか? しかし、さっきやってきたのはメイドではなくて、俺の従者……」
陛下は身の回りのことは女性にはさせず、男性の使用人を使うようにしていた。
わたしの部屋でベルを鳴らしたのなら、メイドがくるはずだ。男性の従者が来たのならば、ここは俺のお部屋で間違いない、と困惑している様子の陛下にわたしはそっと声をかける。
「わたしが、陛下の部屋に来たのです。自分で」
「お前が――か?」
陛下はサッと暖炉に目をやった。
「違います、わたしには暖炉の中に入って登るなんてこと、できません」
「どういうことだ」
怪訝な陛下に、人差し指で部屋の壁ぞいに置かれている箪笥を指し示してみせる。
「あの、このベッドのすぐそばに置いてある箪笥。ここと壁の穴を開けて、わたしの衣装部屋と繋げてしまったんです」
「――なんだと?」
陛下は片眉を大きく吊り上がらせる。
「わたしが内緒で、作っておりましたの」
「とんでもないことをする……」
そんな彼にそっと呟けば、陛下は深いため息をつき、大きな手のひらで顔を覆って俯いてしまった。
「よもや、自分で穴を開けたのか?」
「はい、最近陛下のご不在が続いていたので……今だ! と」
「それで、作ったと? お前が?」
「ポルカトの民は、みな手先が器用なのを誇っておりますので……。その、私たちが夜な夜な秘密の通路で密会していると知られるのはよくないでしょう?」
だから、職人には頼まず自力でなんとかしたのだ。
ポルカトに生まれ育つと、五歳になればみんな自分の彫刻刀を持たされる。そして行事やなにかの節目ごとに人形細工などの木彫りを仕込まれるので、自然と刃物の扱いに慣れ、巧緻性が高まるのだ。
王女のわたしが例外であるわけがなかった。
(陛下がわたしの嫁入り道具のナイフを取り上げたりしないでくださって助かったわ)
結婚したばかりのときは陛下のお気持ちがわからなくて落ち込んだりもしたけれど、よくよく考えれば人質同然の花嫁に刃物の扱いを任せておくわけがない。自刃する可能性や、陛下を害する可能性だってゼロではないのだから。
それなのに、陛下はわたしにナイフを持たせたままにしてくれていた。それに気がついたときには、すでにわたしは陛下とすっかり仲良くなっていた。もう少し早く気がついていたら、あのときあんなにガッカリしなかったのに、と思ったものだ。
愛しい気持ちでたくさんになりながら、壁に穴を開けたことをこの人生でわたしが忘れることはないだろう。
陛下は驚いた様子で小さく首を横に振った。珍しく、苦笑を浮かべられている。
「そんなにやんちゃとは知らなかった」
「勝手なことをしてごめんなさい、だって、寒くなったら暖炉には火をくべてしまうではないですか。冬の間はずっと会えないだなんて、寂しいですもの」
「……!」
素直な気持ちを話すと、陛下は切れ長の目を見開き、わたしを凝視した。
「あの、ごめんなさい。はしたないとは思いましたの。妻とはいえ、夜に女が男のもとにやってくるなんて」
あまりにも衝撃を受けたご様子だったので、おずおずととんでもないことをした、と謝る。
「む……そ、それは、その、そう……だな……。……いや、い、いまはそんなことは脇に置いておけ」
陛下はしどろもどろに応えた。
「ご、ごめんなさい。いつもは絶対に来てくださる時間にあなたがいらっしゃらないのはどうしても、変な気がして……いてもたってもいられなくて……。でも、やはりはしたなかったですね? 恥ずかしい……」
「わ、悪い。いや、今回は助かったし、それに俺はお前ならいつでもいくらでも来てもらっても……」
「え?」
「な――なんでもない」
キッと陛下がお顔を険しくさせる。
「ともかく……ありがとう、お前がいなければ、俺はどうなっていたことかわからない」
「陛下のお力になれたのなら何よりです」
「……だが、もうこんな無茶なことはしないでくれ。お前に危害が及んでいたかと思うと、気が気でなくなる」
「わたしはあなたに救っていただいた人間です。あなたのために命を散らせるのなら本望ですわ」
「……頼む、そんなことは言うな」
力強い腕が、背中に回る。熱い体温と、早鐘を打つ鼓動が直に伝わっていた。
陛下に抱きしめられているのだと気がついたのは、少し間があってのことだった。
「わたし、あなたのために何かをしたくてしょうがなかったのです」
「それならば、ずっと俺のそばにいろ。それだけが俺の願いだ」
「……陛下……」
熱くしとやかな声が耳に囁かれる。
もう疑いようはなかった。
陛下は、わたしを愛してくださっている。
陛下の背に腕を回し、わたしも陛下を抱き返す。
そして、背の高い陛下を見上げながら、ずっと気に掛かっていたことを彼に問うた。
「なぜ、あなたはわたしを……。わたしたちを救ってくださったのですか?」
「愚問だな」
「誤魔化さないでください」
以前似たことを聞いたときがあった。そのときは彼の言い回しのうまさで誤魔化されたが、やはり、それだけでは説明がつかないとずっと思っていたのだ。
「本当は……あなたに利点など、なにもない婚姻だったでしょう? 我が国にしかない資源を求めて……伝統文化の継承のため……とは言っても、こんなもの、どうとでもできたはず。どうして、わたしとの婚姻を対価にわたしの国を守ろうとしてくださったのですか?」
「……」
陛下はゆっくりと口を開いた。
「一目ぼれ、だ」
短く、だけれど、しっかりとした発声で彼は言った。
「あの日、サミットで泣いていた顔がずっと頭から離れなかった。……今も、あんな顔をしているのではと思ったら、居てもたってもいられなかった」
「……陛下……」
嬉しさと戸惑いで、じんと目頭が熱くなるのを抑えられなかった。
あのときのことを覚えていてくださっただけじゃなくて、まさか、ずっと想っていてくださっただなんて、信じられない。
「そ、それならどうしてわたしがサミットでのことを聞いた時『たいしたことじゃない』……と?」
「? たいしたことではないだろう、泣いている女性がいるならば助けるのは当然だ」
陛下はきょとんとしてわたしの問いに答えて、それから再び眉間にしわを寄せて、申し訳なさそうにわたしを見つめた。
「悪かった、お前からしたら、それならば何も婚姻などせずともと思うだろう? それに、このように冷え切った関係を望まれるなど、ひどい扱いをして……」
陛下は抱擁していた腕をとくと、優しい手つきでわたしの身体をやんわりと離した。
感情を読み取りにくい漆黒の瞳がまっすぐにわたしを見つめる。
「ポルカトを守ることになんの対価もなければ国内の文官らを説得できなかった、それで資源とお前の輿入れを望んだ。だが、もしも俺がお前を愛しているからこその婚姻だったと知られれば、お前とお前の祖国がそのまま俺の弱点となる。守るつもりが俺のせいで余計に狙われることになってはいけない。だから、今のような状態になってしまった。すまなかった」
陛下がわたしを娶ってくださったそのとき、祖国ポルカトはまさに侵略の危機にあった。そこに、陛下の……帝国から『燃料資源の融通と姫を嫁入りさせること』を条件に、国を守ってやるという打診があった。
わたしたちの国はその打診に飛びついた。
あまりにも都合の良い打診になにか裏があると疑うものもあった。
反対する家臣を説得したのは、他ならぬわたしだった。
この人ならば、きっと、大丈夫だと。
「わたしも。あなたをずっとお慕いしておりました」
陛下の冷たい両頬を手のひらで包み、しっかりと目を見て言う。
陛下は目を丸くしてわたしを見下ろしていた、
「……お前が、俺を? 信じられん」
「わたし、結構積極的だったと思うのですけど……手を繋いだり、密着して座ったり……」
「…………無理やり嫁がせたから、俺を立ててくれてるだけかと……夫を立てる良い妻であろうとしてくれているだな、と……」
「もう。その気もないのに『愛する気はない』と言ってきた相手に媚びたりなどしませんよ。わたし、そんなにはしたない女ではありません」
「い、いや、実際お前は俺への不満もこぼしていたようだし……」
「だって、外では『仮面夫婦』を演じなければいけなかったでしょう? わたし、頑張りましたのに……」
「そっ、そうか……!?」
なんだか陛下はショックを受けていらっしゃるご様子だった。
「俺はいったいいままで何を……」と大きな手で顔を覆いながらなにやらブツブツと呟く陛下。
「わたしたち、言葉が足りませんでしたね。お互いに」
背伸びしてよしよしと頭を撫でながら、しみじみと呟く。
「振り返れば陛下は最初からわたしに、この婚姻がどんなものなのかを教えてくださっていましたね」
当時のわたしには、うまくその言葉の意図を読み取れなくて『愛する気がない』ということが彼の本意なのだと思ってしまったけれど……。
実は彼は最初から、さきほど言った言葉とほとんど同じことを、伝えてくださっていた。
(もうちょっとわかりやすく言ってくださっていたらよかったのに、と思わなくもないけど!)
そんなことは些事である。
こうしてハッキリと想いが通じ合ったこと、それが最も大切なことだ。
「……でも、見られてしまいましたね。わたしたちが夜、共に過ごしているところを……」
今後、陛下のお部屋は徹底的に調べられることだろう。あの男はどうやって忍び込んだのか(恐らく、なんらかのタイミングで紛れ込ませた睡眠薬で眠らせた陛下とともに普通に部屋の中に入ったのだろうが)、部屋に侵入経路があるのではないか、部屋の中になんらかの不審物が隠されていないか……などなど。
「わたしと陛下の部屋をつなぐ秘密の通路もきっと見つかってしまいますね……」
これからのことを考えて、しゅんと肩が落ちた。
夜な夜なわたしと陛下が、こっそりと会って親睦を深めていたことも、そこから芋づる式に明るみに出てきてしまうことだろう。そうなってはもう『仮面夫婦』生活はパアだ。
「ごめんなさい。秘密の通路は暖炉だけにしておけばバレなかったかもしれないのに。わたしが安易に壁に穴を開けたから、きっとバレてしまいます」
「いいんだ。お前がそうしていなかったら俺の命は今頃なかったかもしれない。それに、お前の気持ちが嬉しかった」
陛下はわたしの頭を優しくなでて、そしてもう一度わたしを強く抱きしめた。
「ミルカ。俺も決心がついた。お前を隠すように愛するのはもうやめる。お前と、お前が愛している国を守るために、俺は戦って力を示す」
「陛下……」
「俺が愛するものに手を出せばどうなるか、わからせてやる」
「お、お手柔らかに」
「一切の侮る隙も許さずわからせる。そうでなければ意味がない」
(……冷酷皇帝の顔をされてらっしゃるわ)
意志の強い真っ黒の瞳をギラギラとさせている陛下に苦笑しつつ、彼の手に手のひらをそっと重ねる。
「陛下。お気持ちはとても嬉しいですが、どうか御身お大事に。その先の未来にあなたがいなくては、意味がありませんから」
「…………うむ」
陛下はどこかバツが悪そうに頷く。
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意を決した彼は開戦の気配を匂わせていた諸国に武力を示し、時には交渉し、時には戦い、たちまちに平定してしまったのだった。
のちに、彼は『平定王・アシュレイ』と呼ばれるようになったのだが、それはさておき。
あの一件以来、わたしたちが『仮面夫婦』を続けるのはやはり難しくなってしまった。
部屋に隠し通路があることや夜な夜な会っていたことは一部の臣下の口に留めさせておきたかったけれど、人の口に戸は立てられぬとはよく言ったもので、あれよあれよと公然の秘密という状態になってしまい……。
結婚三周年を迎えた式典の最中、わたしたちは結婚式ぶりの口づけを民衆の前でして、その関係を公にしたのだった。
……口づけが結婚式ぶりなのは、人前でするのが……で、すでにキスはわたしたちの日常になっていたのだけど。
そのころには、もはや彼に逆らえるものはおらず、巨大な力を持つ帝国とその帝国に守られるわたしの国に手を出そうと考える国はもういなくなっていたので、わたしたち二人は生涯穏やかに互いを愛し合い、おしどり夫婦として歴史に世を残したのだった。
最後までお読みいただきありがとうございました。かわいい夫婦が書けて満足です。
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