王家の影は悪女を見張る
ある意味テンプレ
ばりんっ
床にティーカップが落ちる音。
ばたばたばた
「何事ですかっ!!」
その音を聞きつけた侍女たちが、慌てて駆け寄るとそこには、先ほどティーカップを投げた女性が、目に涙を浮かべて、
「お姉さまが、わたくしに……」
とティーカップを投げられて怪我した少女を指差す。
だが、侍女たちは表情一つ変えない少女をきっと一瞬だけ睨んで、
「メリンダ様。なんておかわいそうに」
「お怪我は?」
と怪我をしている少女をほうって投げた少女を連れて部屋から出ていく。
「…………」
怪我をした少女はそっと持っていたハンカチで怪我をした頬に充てる。
表情は変えない。
それがもう当たり前になりすぎて心が麻痺してしまったのだ。
それを、天井裏で隠れている【俺】はずっと見ていた。
『アリアン・プロリーズ公爵令嬢をしばらく探ってほしい』
ある日。主君が扇で口元を隠して命じた。
アリアン・プロリーズ公爵令嬢。
王太子の婚約者であるが、最近悪女と噂される人物だ。
曰く、最近義理の妹になったメリンダにつらく当たる。
曰く、侍女などに暴力を行う。
曰く、夜な夜なこっそり抜け出して、男漁りをしに行く。
などなど。
そんな存在に王太子妃が務まるのか。今からでも遅くない婚約を解消して別の女性を選んだ方がいいのでは、ああ。そういえば、義理の妹は品行方正で素晴らしい人物だとか……。
と、そんな感じだ。
『アリアンをじっと見ていたけど、そんな噂とは程遠い子よ。だけど、わたくしの前では取り繕っている可能性もあります』
だから探ってきなさい。そう命じられて、
『是』
と、忍び込んで探る事にしたのだが。
(これは婚約破棄させたい何者かが流した噂みたいだな)
何者と言っても義理の妹なのだが、それにしてもここの家の侍女の目は節穴だろうか。なんで割れた位置とか怪我を見て気づかないのか。
あまりにも節穴過ぎてイライラすると残されたアリアン嬢がそっと割れたカップを片付ける。
侍女たちは来ただけで片付けもしなかったのか。
「…………」
片付けているアリアンの目は暗く澱んでいる。全て諦めて期待するのを辞めた目だ。
ずきっ
王家の【影】として感情に左右されないで客観的に判断しないといけない立場のはずが、そんな彼女相手に一瞬役目を忘れそうになった。
それほど、彼女の立ち位置からしてこんな状況に置かれる事もそんな人生を諦めるような目をするほどの事はないはずなのに。
そんな事を思っていたらふとアリアン嬢が視線を上げる。
曇った紫水晶のような瞳はまるでここにいる【影】に気付いたのかと思えるような動きをしたのだから。
「これをやっておけ」
王立学園の生徒会で生徒会長である王太子は他の生徒会のメンバーを引き連れて大量の書類を生徒会メンバーではなく、お手伝いという名目で来ているアリアン嬢に押し付けている。
「殿下。これは殿下のサインが」
アリアン嬢のか細い声に、
「ああ。いつも通りお前がやっておけ」
「ですが……」
「命令だ!!」
必死に抵抗するアリアン嬢に冷たく言い捨てて、彼らは出ていく。
「…………」
アリアン嬢は去っていく姿をしばらく見ていたが、やがて諦めたように机に向かって書類に目を通す。
書類を見て、サインをしていいか。再検討が必要な書類を分けていき、夕日が差し込み暗くなってもなくならない書類に目を通していた。
そんなアリアン嬢をじっと見ていた。
「…………」
見る事しか許されない。本来なら。
「交代だ」
先輩がスッと隣に現れて、【影】同士にしか伝わらない【言葉】で声を掛けてくる。
それに頷いて答え、アリアン嬢の姿を確認してから。
書類を見ていて喉が渇いたのでお茶を入れようと立ち上がり掛けて止まった。
「えっ?」
机の上には湯気の出ている疲労によく効くハーブティーと好んで食べるチョコレートがそっと置かれている。
〈お疲れ様です〉
一行だけ書かれているメモ用紙。
そっと口元に運ぶ。
毒の心配はしない。だって、毒は幼い頃から混ぜられた物を用意されて来たので感覚で分かるようになってしまった。
こくん。
ハーブティーは人によって好き嫌いが分かれる飲み物だが、アリアンにとってこれは好みの味であった。何よりも、誰かが自分のために入れてくれた飲み物などすごく久しぶりだったのだ。
「ありがとう」
誰か分からないので直接お礼を言えないのが寂しいが、いつか直接会って告げられたらいいと辛い日々から心を守るために凍らせていた心が少し溶けてきたのをそのハーブティーを用意した人物は優しい眼差しで見つめていた。
(命令違反だぞ)
そんなハーブティーを用意した瞬間を見た【影】は後で主君に報告しないといけないと後で叱られるのが分かっているからげんなりした。
やがて、別の角度からこの件を調べていた【影】からこの件の真相が発覚した。
王太子の仕事を婚約者であるアリアン嬢に押し付けて自分はその義理の妹であるメリンダと出かけて享楽三昧。
王太子妃になりたいメリンダのおねだりでアリアン嬢を悪女に仕立て上げようと計画されたのだ。
それだけではなく、悪女の噂と共に使われた豪遊はすべて王太子とメリンダが行っていて、その資金は婚約者に使うはずの予算として用意されていた税金で、アリアン嬢が未然に防いでいたが、税金の着服もしようとしてそれを邪魔したから余計目障りだと排除しようとされていたのだ。
さらに、アリアン嬢が持っていたドレスや装飾品はすべてメリンダによって奪われて、それを取り戻そうとしたアリアン嬢に盗人だと喚いたのはメリンダ。
そのメリンダを信じたアリアン嬢の父であるはずのプロリーズ公爵と侍女たちによってアリアン嬢は悪女だと嵌められたのだ。
客観的に調べる立場である自分がそのやり口に怒りがわいてきたのを抑えるのが大変だった。
「自分の思い通りに事を進めるために噂を流すのは政治的にはよくある手段だわ」
主君が溜息を吐く。
「でもね。実の息子を王にしたいという親心と国を守るというのはまた別なのよ」
今まで息子がやっていると思っていた政策がすべて婚約者が行っていた事であった。そして、婚約者が未然に防いでくれたが国を守っているからこそ、納められた血税を自分たちの私利私欲で使おうとする実の息子とその息子を利用している真の悪女に主君は怒りを隠せない。
「よく調べてくれたわ」
主君の手に証拠の品を渡すとこの件は終了だ。後は、主君が……王家が動く。
後日。王太子の廃嫡と婚約解消。そして、メリンダの処刑が決行された。
「お嬢様。お花をお持ちしました」
「…………」
王家からの謝罪と共に療養地で暮らしているアリアン嬢は部屋でぼんやりと外を見ている。
婚約を解消されて、元凶の妹と……公爵家に帰さない方がいいと判断されたアリアン嬢はすべてが終わった後まるで人形のようになってしまった。
自分の置かれた境遇がいきなり変化したのだ。戸惑い、どうすればいいのか分からないので途方に暮れているのだ。
今まで悪女だと噂されて、家族や召使に冷遇されていた状況。王太子教育。王太子に押し付けられた仕事のほとんどをいきなりしなくていい環境。
かといって、自由は奪われてしまっている。そのまま解放するには知ってはいけない事を知りすぎた。
毒杯を賜る場合も……。
「わたくしはいったい何だったんでしょうね……」
ぽつりと呟く声に花瓶に花を飾っている従者は何も言えない。
「ねえ、ヨハン」
「なんでしょうか。お嬢様」
花瓶に花を飾っている従者はいきなり呼ばれて、花瓶を置いて振り向く。
「今までありがとう」
じっと見透かすような栗色の瞳。
「貴方でしょう。わたくしにさりげなくお茶を用意してくださったり、薬や食事を持ってきてくれたのは」
「…………」
今はヨハンという名前を与えられた【影】は答えない。どう答えても正解ではないし、どう誤魔化せばいいのか正直に頷けばいいのか判断が出来ないからだ。
「毒杯を賜る事になったわ」
その言葉に【影】として訓練をしていなかったら動揺を隠せなかっただろう。それほどの事だった。
予想はしていた。だが、実際に行われるとは。
「今までありがとう。――ずっとそれを言いたかったの」
そう告げて微笑むさまはとても美しかった。とても綺麗で儚げで。
――死を覚悟している。
「…………っ」
なんで。
自分達も国を王族を守るために覚悟をしていつでも【死】を受け入れてきた。自分の【死】が国を守ると信じて。
だけど、彼女の【死】は間違っている。
王族に嫁ぐために厳しい教育を受けて、王族としてすべき事を学んできたのに。
それなのにそれを蔑ろにしたのは嫁ぐはずの王家なのに。
「貴女が死ぬのは間違っている……」
本来なら【影】として漏らしてはいけない言葉を漏らした。
アリアン嬢は困ったように微笑むだけだった。
そして、彼女は。
――表向きは病気で儚く亡くなった。
「って、せっかくの貴重な人材を失うなど勿体ない事をすると思っているのかしら」
主君は口元に扇を持っていき楽しげに笑う。
「後々問題になるから死んでもらう事になったけど、新しい戸籍を用意して国のために尽くしてもらうわ」
妃殿下の言葉に。
「今回の騒動の時に尋ねられたの。どうしたいかと」
騙してごめんなさいと謝るのはアリアン嬢。いや、その名はすでに彼女のではない。
「王家の【影】を一人ください。とお伝えして、次は好きな方を結婚相手にしたいと」
名前はこれから与えられる彼女は表では死んだ事になり、これから【影】――王家の諜報員として働く事になったのだ。
「とはいえ、お前預かりで様子を見てもらう」
どこか面白がるような声に、
「ああ。お前たちの子供も【影】として育てるからな」
と告げられて。
「これからよろしくお願いします」
と彼女は頭を下げる。
どうやら、これからも悪役令嬢にされた彼女を監視する事になりそうだと。やれやれと思いつつも嬉しさを隠しきれなかった。
王家の影の人を実は庶子にしようか本気で迷った。