私が自殺すれば世界が巻きもどるって……そんなこと言われても。
酷く恐ろしい夢を見た。
私は自らで足に重りをつけ、深い川に飛び込むのだ。
急激に体温が失われ、すぐに全身の感覚が薄れた。
自分から飛び込んだくせに、何故か必死に浮上しようともがいていた。
死ぬほど苦しかったのだ。普段なら息止めなんて1分そこらで苦しくなってやめるが、随分と長い時間その苦しみが続いていた。
最後には水中というのに息をしようとして川の水を飲み込んで、水面に手を伸ばしたまま意識が途絶えた。
――その直前、誰かが私の腕を掴んだような気がした。
「……夢、なんだよね」
私は汗だくになって飛び起きた。
未だに鼓動が激しく、呼吸も安定しない。
川の冷たさ、溺れる苦しさ、そのすべてが実際に体験したかのようなリアリティを帯びていた。
「……あんなに苦しいなら、溺死は嫌だな」
自殺を決意して1ヶ月。
勇気のない惨めな私はまた今日も死ねずにいる。
〜〜〜
何故そんなに死に急ぐのか。
人は私にそんな疑問を抱くだろう。
でも、私は死にたいんじゃない。
いなくなりたいのだ。生きていたくなんてないから。
いじめか、虐待か、不安なことがあるなら話してみなさい。
大人はそういうかもしれない。
正直、私は何不自由ない生活を送っている。
淡白で代わり映えのない日々をのうのうと暮らしている。
クラスメイトや両親は私に何も期待していない。
いじめも虐待もない。そもそも私に興味を示していない。
愛の対義語は無関心だとは、誰の言葉だったか。
世界の誰からも関心を向けられないなら、それは生きていないのと同じだ。
そんなことで軽々しく死にたいなどと口にするな。
生まれてきた幸運を棒に振るな。
生きたくても生きられない人がいるんだぞ。
そう偉そうに説教されるかもしれない。
私に言わせれば、生きたいと思えるだけ幸せだ。
死んだように生きている人の方がずっと不幸だ。
私がいなくなっても誰も悲しまない。
生きていく理由もない。
だから私はこの世界ではないどこかへと行きたいのだ。
授業中、そんなことを考えながら窓の外をぼうっと眺めていた。
青空を飛んでいる鳥を、自由で気持ちよさそうだな、なんて思いながら。
「……飛び降り自殺なら、楽に死ねるかな」
最後に空を飛んでみるのも悪くない。
そう思って私は屋上へ足を運んだ。
もちろん屋上へ続く扉は鍵がかかっているため、隣の窓を割って侵入した。
5限のチャイムはとっくになっている。
怒られるだろう。だけどもうどうでもいい。
私にはもう戻るつもりなどないのだから。
人生で一度は屋上に来たいと思っていたが、気分がいい。
今日は絶好の自殺日和だ。
今までいろいろな自殺の夢を見た。
その中でもここまで清々しいことはなかっただろう。
首を吊る夢を観たが、あれは最悪だ。
溺死とは比べ物にならないほど苦しかった。
それに……いや、思い出したくもない。
絞首刑を死刑の方法にしている日本はなかなかに無慈悲だ。
ギロチンのほうがよっぽど優しい。
あれに比べれば、飛び降りるのなんて容易い。
「……」
そう思っていたのに足が震えた。
策を乗り越え、淵に立った私は、それから一歩を踏み出せなかった。
下を見てはダメだ。空を見上げて一歩踏み出すのだ。
今日こそはこの世界に別れを告げるのだ――。
『やっと見つけた……今度は投身自殺かよ、自殺女!』
その時、背後で誰かが声を荒らげた。
知らない男子生徒が息を切らしてこちらを睨んでいる。
自殺女はともかく、『今度は』とはどういう意味だろう。
「……誰、あんた」
「お前のせいで迷惑こうむってる被害者だよ!」
「……は? 意味わかんない」
「何回も何回も何回も! いい加減にしろよお前! お前が自殺する度に世界が巻き戻ってんだよ!!」
彼は私を指さして激怒した。
あまりにも突拍子のない発言に、私は突っ込むことすらできずにいた。
「やっと突き止めてやったぜ! 何故か突然その日を繰り返す謎現象の正体をよ! お前に分かるか……意味もわからず時間が巻き戻って、誰もそのことに気づいていない地獄を!」
「……それが本当だとして、私となんの関係があるの?」
「この前だ。偶然、川に飛び込んだ女の子を見つけて助けようとした途端、時間が戻ったんだよ。お前の死が関係しているのは日を見るより明らかだってんだ!」
「……なによ、それ。意味わかんない」
確かにあの夢の最後、誰かが私の腕を掴んだような気がした。
だけど、こんな話信じられるわけがない。
でも、もし本当にあのリアルな夢が本当にあった世界で、私が死んで時間が巻き戻ってるとするなら――なんて迷惑な話だろう。
「無関係の私に迷惑かけないでよ」
「はあ!? 迷惑なのはそっちだろ!」
「きっと、あんたのせいで死ねないのよ。お願いだから邪魔しないでくれる」
「心底性格の悪い女だな。悪いが明日を迎えるためにも全力でお前が死ぬのを阻止させてもらう!」
こいつの言うことが本当なら、私は死んでもまた時間が巻きもどるだけ。
なら確かめてやる。私は死の直前の記憶を夢として引き継ぐのなら、こいつの顔を覚えているはずだから。
「お、お前――」
私は彼の顔を見ながら飛び降りた。
怒りに任せて飛んだので恐怖はなかった。
身体が空中に投げ出されると、重力が死へと引きずり込んだ。
私は無様に空中で泳ぐようにもがいていた。
何も掴むものなんてないのに。
どうしていつも、死ぬ直前に足掻いてしまうのだろうか。
目を瞑ろうとしたその時――彼が、飛び降りてきた。
〜〜〜
「……変な夢」
身体が震えている。
飛び降り自殺は途中で気を失うと聞いたことがあるが、最後の最後まで意識は残ってた。
彼が、私を空中で抱き抱えたからだ。
でも結局、二人とも地面にたたきつけられて死んだ。
空中にいたのは数秒のはずなのに、まるで数分程度は落下し続けている感覚があった。
走馬灯というやつだろうか……もう二度とあんな思いはしたくない。
「……高所恐怖症になっちゃったじゃん」
なにより、会話のほとんどを忘れてしまったが、ひとつだけ確かなことがある。
私は自殺する度に記憶を失って時間が巻き戻っているということだ。
「もう嫌だ……なんでこんな思いしなくちゃいけないのよ」
私はベッドの上で膝に顔を埋めて泣き続けた。
ただ、彼に抱きしめられたあの温もりが妙に身体にまとわりついている気がした。
〜〜〜
気がつくと駅のホームに立っていた。
もうとっくに通勤通学の時間帯は過ぎており人はほとんどいない。
黒い手が線路から伸びてきて引きずり込まれそうになる。
死ねないと分かっていても、私は何度も死を求める。
願わくばこれが最後の自殺になりますように。
『おい! 誰か落ちたぞ!』
人々の悲鳴が列車のブレーキ音と混ざり合い、ホームに木霊した。
巨大な鉄の塊が、轟音を立てて近づいてくるのは今までに味わったことのない種類の恐怖だった。
……だけど、終わりの瞬間はいつまで待ってもやってこなかった。
車輪が火花を散らし、列車が減速していく。
その光景を間近に眺めていた。
人々の悲鳴と喧噪の中で、かすかに賞賛の声も混じっている。
「馬鹿野郎……なんでそんな簡単に死ねるんだよ」
飛び降りた直後、ぶつかってきた何かに覆いかぶさられていた。
「なんで……」
「お前が電車通学だって知って監視してたんだよ」
「そうじゃなくって……なんでそこまで」
私が死ねば時間が巻き戻る確信があったとしても、屋上から飛び降りる人に飛びいたり、電車の前に身体を晒したりできるなんて異常としか言えない。
「ああ? そんなの明日を迎えられなければ死んだって変わんねえからな。それに――」
彼は急に血相を変えて拳を振りかざした。
殴られると思って目を閉じると、額に鈍い痛みが走った。
「俺は命を無駄にするやつが大嫌いだ。自分のことを愛せずに自傷するやつも大嫌いだ!」
その表情は見るまでもなく激怒していた。
明日を迎えられない理不尽よりも許せない様子だった。
でも、そのまっすぐすぎる正義感に私は反発したくなった。
「ねえ……死にたい人には死なせてあげる方が良いとは思わない? 死にたい人に生きろって言うのは、生きたい人に死ねって言うようなものでしょ。勝手に価値観押しつけて助けんじゃないわよ。迷惑なのよ!」
「まったく、一ミリも思わねえよ、そんなこと。生きる理由なんざなくたっていいんだよ。そんなもん持ってるやつの方が少ねえよ。でも、死にたい理由を持っているやつは大勢いる。だったら、まずはその原因を解決しようとするべきなんだよ。死にたい人には死なせてあげる方が良いなんて、助けることを諦めたやつの体の良い逃げ文句だ」
行ってること分からなくはない。
私だって、いじめや虐待が原因で自殺しようとしている人がいたら、同じことを言わないだろう。
でも、彼は知らないのだろう。
そんなたいそうな理由がなくたって、何となくで死にたいと思う人がいることを。そういう人たちを笑う大人を私は何人も知っている。
「あんたにはわからないでしょうね。何も知らないくせに……どうせ、他人の悩みをちっぽけだって笑うんでしょ」
「笑わねえよ、絶対に。他人から見たらどんなに些細でくだらないことでも、誰かの自殺する理由になる可能性があることを知ってるから。知らねえよ、お前のことなんか……話してくれなきゃ何もわかんねえんだよ」
そんな悲しそうな顔をしないでほしかった。
私だって所詮、彼のことを何も知らない。
いや、家族や友達でも、人は誰かの気持ちや考えを知ることはできないから。
「お前だって本当は誰かに救ってほしかったんだろ。誰かに聞いてほしかった。そうじゃなきゃ。そんな異能力が目覚めるはずないから」
異能力。確かにこの超常の力を説明できる言葉はそれ以外には見つからない。
「貧血で倒れたってことにしとけば、罪には問われないだろ。じゃあな、面倒ごとに巻き込まれる前に俺は去らせてもらうぜ」
彼は身体を起こすと、何事もなかったかのように歩き出した。
その服は何故かボロボロで、とても無傷には思えなかった。
「待っ――」
やっと言葉を発するくらいの冷静さを取り戻したときには、すでにその後ろ姿はどこにもなかった。
『ねえ君、大丈夫なのかい!?』
その直後、車掌らしき男性が近寄ってきて私を見て目を丸くした。
「私は大丈夫です。どこも怪我はしていません」
「そ、そうか……それは良かった。でもおかしいな……確かに何かが当たった音がしたんだけどな」
車掌はなにか突っかかっているのか怪訝そうにしていた。
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その後、私はゆっくりと立ち上げると、車掌に事務室へと連れられた。
親には迷惑をかけたくないから連絡しないでくれといったが、そういう事態ではないようだ。
結局、私は死ねずに周囲の人に迷惑をかけただけだった。
彼が線路へ飛び込むのを見た者はすくなからずいるだろうが、私は貧血で倒れていて記憶が曖昧だと話した。
彼のことを下手に口外しない方が良いと思ったからだ。
「もうすぐで親御さんが来てくれるそうだから」
「そう、ですか」
正直に言えば、会うのが少しだけ怖かった。
あの人は私になんて興味なんてないから。
迷惑だけはかけたくなかったのに……きっと、怒鳴られる。
『真理!?』
と、慌てた声が私の名を呼ぶ。
聞き飽きるほど聞いた声。でも、聞いたことのないような声だ。
「お母さん……」
母は気息奄々とした姿で私を見つけると、泣き出しそうに私に抱きついてきた。
「心配したのよ! 本当に怪我はないのよね!? 頭ぶつけたりしてない!? 貧血で倒れたって、あなたそんなこと今までなかったじゃない! もしかしてちゃんと寝れてなかった!?」
「だからどこも大丈夫だって! 慌てすぎ」
まくし立てるように話す母を私は見たことがなかった。
いや、知ってる。昔、私が熱中症で倒れたときも同じ顔をしていた。
私が死んじゃうと思って泣きながら助けを求めたそうだ。
なんで、忘れていたんだろう。
どうして自分が愛されていないなんて思ったのだろうか。
「学校で嫌なことがあったら話しなさいよ!」
「だから、ちゃんと寝れてるってば」
「本当に悩みとかないのよね」
「悩みなんて……」
悩みなんてあるはずがない。
私はただ、消えていなくなって楽になりたかった。
それだけのはずなのに……なんで、涙が溢れてくるんだろうか。
「お母さん……ごめんなさい」
私は何故かこびるように謝っていた。
それは命を何度もゴミのように捨てたことに対する母への謝罪であり、何より自分に対しての謝罪でもあった。
母さんは波も言わずに抱きしめてくれた。
彼の言うとおりだ。
私は本当はこの痛みを誰かに聞いてほしかったのだ。
家に帰ったら話してみよう。
上手く伝えられるか分からないし、面と向かって悩みを打ち明けるのが怖いけど。
きっと、死ぬことより恐ろしいことなんてそうそうこの世界にはないのだから。