幻影
「……ジレちゃんは、ずるいよぉ」
ボロボロになった身体をなんとか奮い立たせるように、エミールは立ち上がった。
「たった、これだけの言葉を言いたくないから……ずっと逃げてるぅ」
「黙れぇ!」
練習所全体に響くような、怒声。
まるで自分の声じゃないような感じだ。
どこか遠くでこの場所を見ているような居心地だった。
「どこにも逃げる事なんてできないよ」
「言うな! 私は、痛みなど知らぬ! 痛みなど、捨てた」
「じゃぁ、なんで、そんなに痛そうな顔をしているの?」
どんな顔なのだろうか?
私には分からない。だってエミールの瞳の中に私はいない。
「レメウス様は……笑っていた。溺れたジレちゃんを助けられて、きっと」
「違うんだ! そうじゃないんだ……兄様は、兄様は、私が、私が、」
幾重にも幾重にも闇の中で、ぐるぐると絵が回る。
微笑む兄。微笑むエミール。微笑む私。
骸となる兄。骸となるエミール。微笑むわたし。
「レメウス様は!」
私の混濁した意識の濁りを吹き飛ばすかのようにエミールは大声で叫んだ。
擦り切れた服の間から白い柔肌がこぼれてみえた。
繊細な肌には赤い血が滲んでいる。
それでも、それなのに、
「レメウス様は、ずっと、ジレちゃんを見ていた……ジレちゃんしか、見ていなかったんだよ」
エミールは笑っていた。
でも、その笑顔は嘘なんだ。
分かっていたはずのエミールの想い。
誰よりも悲しんでいるのは私なのよ! そう言ってくれれば、そう私を憎んでくれれば。
「……どうして笑えるのエミール?」
手の中にある木刀を強く握りしめる。私にとって確かな存在を握りしめ、振り上げる。
エミールの左手が真っ赤に腫れ上がっている。
傷つきたくない、誰からも、傷つけられたくないんだ。
痛いのはもう、嫌なんだ。
「エミール、私は……笑えないよ」
上段に構え踏み込もうとしたとき。
『やめるんだ』
エミールの瞳の中に兄がいた。
やはり、兄様はエミールを守るのですね。
「ジレちゃん待って!」
エミールの言葉と兄の幻影から私は逃げだした。