9:もう二度と会えない
エレノアが伯爵家の屋敷を出て、一ヶ月の時が経った。
今、エレノアは田舎の領地にある小さな屋敷で、両親とともにのんびりと暮らしている。
田舎の空気はどこまでも穏やかだった。両親は力が暴走し続けているエレノアを、何も言わず、ただ温かく迎え入れてくれた。
妹夫婦からはまめに連絡が来る。そこにはいつも、エレノアを気遣う優しい言葉が並んでいた。
力の暴走は、まだおさまる気配がない。
エレノアの手には相変わらず手枷がつけられたままだった。
田舎の屋敷では、少し広めの部屋を使わせてもらっている。小さな机と椅子、そしてベッドが置いてあるだけの簡素な部屋だ。
エレノアは椅子に腰掛け、大きな窓の向こうに広がる空をぼんやりと眺める。
(マシュー様、今頃何をしているのかな……)
自分からマシューとの関係を終わらせたくせに、エレノアは毎日、毎日、彼のことを思い出していた。
そして、そのたびに情けないほど大粒の涙を零してしまう。
――彼との結婚を諦めて、初めて分かったことがある。
(私、マシュー様のことが好きだった)
エレノアはジョセフとの婚約が解消され失恋が確定した時に、もう二度と恋なんてしない、できない、と思っていた。だから、マシューへの気持ちになかなか気付けなかったけれど。
それは、間違いなく恋だった。
しかも、ジョセフに抱いた想いよりももっと強く、切ない想い。
会いたい。
声が聞きたい。
もう一度、あの手に触れたい。
今はもう叶わない願いばかりが溢れてくる。
胸が痛くてたまらない。
なんでエレノアは怪力なのだろう。
こんな力、欲しくなかったのに。
エレノアはぽろぽろと大粒の涙を零しながら、ただぼんやりと空を見つめ続ける。
そこに、父と母がやって来た。
「エレノア、少し頼みたいことがあるんだが」
「あら、エレノアったらまた泣いていたの? 可愛い目が赤くなっているわよ」
母がポケットから白いハンカチを出して、エレノアの涙を拭ってくれた。父は困ったような顔をして、エレノアの頭を慰めるように撫でてくる。
まるで幼い子どもみたいな扱いで少し恥ずかしかったけれど、そのおかげでエレノアの心は少しずつ落ち着いてきた。
そうしてなんとか泣き止んだエレノアの顔を見ながら、父が先ほど言いかけていた頼みごとを口にする。
「実はこの屋敷のすぐそばの道で、大きな馬車が脱輪してしまったようなんだ。エレノア、力を貸してくれないか?」
エレノアは少し頬を膨らませ、「なんで私が」と呟いた。
いや、父がそう言った気持ちは分からないでもない。エレノアの怪力で馬車を持ち上げろ、とそういうことなのだろう。
でも、大嫌いな怪力を使え、なんて。
そんなの、絶対、嫌なのに。
「エレノア。すぐそこに困っている人がいるんだ。助けに行ってあげてくれないか?」
そんな風に言われたら断れなかった。伯爵家の娘として、結婚すらまともにできないエレノアが役に立てるのは、こういう時だけなのだ。今その力を役立てなければ、エレノアは本当に役立たずになってしまう。
「……分かったわ。力の調整ができないから、上手く助けてあげられるか分からないけれど、行ってみる」
エレノアは頷き、のろのろと立ち上がった。
屋敷を出るとすぐに、問題の馬車が目に入ってきた。田舎の狭い道を無理矢理通ろうとして、車輪が溝に落ちてしまったのだろう。田舎の風景には似つかわしくない豪華な装飾のついた大きな馬車は、斜めに傾き、前にも後ろにも進めなくなってしまっている。
(一体どこのお貴族さまよ。うちの伯爵家のものよりも良い馬車じゃない)
エレノアは呆れつつも、斜めになっている馬車に近付いた。すると、その馬車の御者であろう青年が、エレノアを慌てて止めようとする。
「お嬢様、危ないので下がってください!」
「平気よ。私、怪力令嬢だもの」
ぽかんとする御者の横をすたすたと通り過ぎ、豪華な馬車に手をかける。けれど、両手につけた手枷が邪魔でどうにもやりにくい。しかたがないので、とりあえず力任せに鎖を引きちぎった。
小柄な令嬢が手枷の鎖を難なく壊したのを見て、御者が腰を抜かす。
「お、お嬢様。あの、馬車の中にはまだ主が乗っていらっしゃるのですが」
「それなら、あまり揺らさないように気をつけるわね」
壊れた手枷の鎖をしゃらりと鳴らし、エレノアは再び馬車に手をかけた。ぐっと力を入れると、少し車体が浮き上がる。
――思っていたよりも重い。じわりと額に汗がにじむ。
(くっ……何が乗ってるのよ、これ! すごく重いじゃない!)
とはいえ、持ち上げられないほどではない。エレノアは歯を食いしばり、ゆっくりと馬車を持ち上げた。
ぐぐぐ、ぎぎぎ、と馬車の軋む音が、田舎の小道に響き渡る。
こんなに思いきり怪力を使うのは久しぶりだ。舞踏会の日、マシューを持ち上げたあの時以来だろうか。
怪力を封印して生きていくつもりだったのに、と少し自嘲してしまう。
馬を驚かせないように、慎重に馬車を小道へと戻した。とりあえず、馬車の装飾を傷つけることもなく作業を終えることができて、ほっと胸を撫で下ろす。
「これでもう大丈夫よ」
エレノアは汗を拭いながら言った。その頬を少し冷たい春の風が優しく撫でていく。
日の光を浴びたエレノアの金の髪がふわりとなびいて、キラキラときらめいた。
何気なく、手のひらを見る。いつも通りのエレノアの手。
ずっとずっと、怪力なことが嫌で、目を逸らし続けていた手だ。
思いきり力を使ったからなのか、もやもやしていた気分はすっきりと晴れていた。
こうして春の風に吹かれていると、自分の手のひらも少しだけ許せそうな気がしてくる。きゅっとその手を小さく握り、胸に引き寄せた――その時。
馬車の扉が開く音がして、中から人が降りてくる気配がした。
「……久しぶり、エレノア嬢」
何度も聞いたことのある、穏やかな声。
エレノアはひゅっと息を呑み、その人の顔を確認するために振り返る。
青空の下できらめく銀髪。優しげに細められる翠の瞳。
まるで妖精か天使みたいな、その人は――。
「マシュー様……?」
もう二度と会えないと思っていた人が、そこにいた。