8:力の暴走
その日からエレノアの怪力は暴走を始めた。止めようとしても止まらない。
屋敷にあるドアノブはことごとく砕け散り、ティーカップは弾け飛び、ナイフとフォークは芸術作品であるかのようにぐにゃりと曲がった。
「え、なんで? 力なんて入れてないのに……」
エレノアは呆然としながら呟いた。今日は机に軽く触れただけなのに、大きな穴が空いてしまった。パラパラと細かな木くずが床に散らばっていく。
どうしよう、どうしよう。
マシューとのお茶会は、もう明日に迫っているというのに。
とりあえず力を抑える方法を考えないとと思いつつ立ち上がり、椅子の背もたれに手をかけた瞬間、今度はその部分が鈍い音を立てて崩れ落ちた。
「エレノア姉様……!」
「ダメ、フローラ! 私に近付かないで!」
心配そうに眉を下げたフローラが近寄ってこようとするのを、エレノアは必死に制止した。力が制御できない手で妹に触れたりなんかしたら、怪我をさせてしまう。
そんなのは絶対に嫌だ。大切な人を傷つけたくない。
けれど、こんなことは初めてで、どうしたらいいのかさっぱり分からなかった。
「と、とりあえず明日のお茶会は延期してもらった方がいいわよね。マシュー様に手紙でお知らせしないと……」
慌ててペンを握ると、ペンが派手な音を立てて折れた。エレノアは真っ青になりながら、震える手の中にあるペンの残骸を見つめる。
これでは手紙ひとつ書けない。
ガタガタと震えながら立ち尽くすエレノアに、ジョセフが声をかけてきた。
「エレノア。手紙なら俺が代わりに書く。今は何もせず、とにかく休んでいろ」
「……うん、分かった。ジョセフ、迷惑をかけてごめんなさい」
「気にするなよ。力の暴走がおさまるまで、俺もフローラも全力でエレノアのサポートをするから」
エレノアはジョセフの言葉に頷くと、とぼとぼと自室に引っ込んだ。
何も触らないように気をつけながら、ベッドに横たわる。
このまま力の暴走が止まらなかったら、どうなるのだろう。
まともに生活するのは不可能だし、人と触れ合うことだってできない。
ということは、マシューとの未来も消えてなくなるということだ。
ぎゅっと目をつむると、まぶたの裏に優しげに微笑むマシューの顔が甦ってきた。エレノアと同じで、自分に自信がない美青年。彼は、いつも、いつも、エレノアを普通の女の子として扱ってくれていた。
今のエレノアは普通とは程遠い。
とんでもない破壊神だ。
(だ、大丈夫よね。こんなの一時的なものよね。すぐにまた、力を制御できるようになるわよ……)
けれど、エレノアの願いもむなしく、力の暴走はこの後も止まることがなかった。
一週間、二週間。
どんどん時ばかりが過ぎていく。
エレノアの力はよりひどくなり、周りに迷惑をかけないように自ら手枷をはめた。何をするにもひとりではまともにできなくて、使用人の手を借りることになる。
エレノアは必死になって力を出さないようにした。それなのに、その力はますます強くなり、悪化の一途を辿る。
なぜこうなったのか、原因が分からない。だから、どうしたら直るのかも全然予想がつかなかった。
手枷をつけたエレノアは、まるで罪人のようだった。
マシューからはお茶会を延期してもらった後も、まめに連絡が来る。
調子の悪いエレノアを心配し、お見舞いに来るとさえ言ってくれた。でも、破壊されたものであふれる屋敷の中を見られるのはまずい。お見舞いは遠慮してもらうしかなかった。
どんなに会いたくても、会えない。
こんなみじめな姿、マシューにだけは見られたくなかった。
昼間もカーテンを開けることはなく、自室はずっと薄暗いまま。ベッドの中で布団にくるまり、誰にも気付かれないようにしてエレノアは泣いた。
力が暴走している手では、その涙を拭うことさえ難しい。
(もう、ダメ)
ぼんやりする頭で、エレノアはひとつの結論を出した。
(マシュー様との関係、もう終わりにする)
こんな怪力が暴走しているような女と結婚なんて、誰もしたくないだろう。マシューだって、こればかりはさすがに無理だと言うに違いない。
だから、もうこのお見合い話は終わらせた方がいい。
エレノアが彼を諦めれば、彼は次の女性と出会うことができる。舞踏会の時、彼はたくさんのご令嬢たちから熱い眼差しを向けられていたことだし、すぐに結婚相手も見つかるだろう。
求婚される前でよかった。
いや、本当にマシューが求婚するつもりだったのかは分からないけれど。
マシューとの別れを決めた、その日の夜。
エレノアは自室にやって来た妹に向かって告げた。
「フローラ。私、マシュー様とはお別れするわ。だから、私の代わりに、お断りの手紙を書いてもらえる?」
「え……?」
妹が宝石みたいな紫の瞳を潤ませた。
「なんで? エレノア姉様はマシュー様のことを嫌いになったの?」
「そんなわけないわよ。でも、今の私はマシュー様の隣に立てない。だって、とても危険だもの」
「き、危険なんかじゃないわ! マシュー様だって、きっとそう言ってくださるはず……」
「なら、今の私の手、握れる?」
じゃら、と手枷の鎖が音を立てる。エレノアは手枷がついたままの手を、妹に向かってゆっくりと伸ばした。
妹はさっと青ざめて、恐れるように後ずさりする。
「ね、無理でしょう。実の妹の貴女でさえ、そうなのよ? マシュー様も、こんな私には絶対近寄りたくないでしょうね」
エレノアが淡々と言うと、妹はぽろぽろと涙を零し始めた。
ごめんなさい、ごめんなさい、と小さな声で謝りながら、それでもエレノアに近付くことができずに震えている。
エレノアは力なく微笑んだ。
「謝らなくてもいいのよ、フローラ。貴女は何も悪くない。力を制御できない私が悪いのよ」
「エレノア姉様……でも、私、お断りの手紙なんて」
「それならジョセフに頼むわ。そして、この話が終わったら、私はここを出ることにする。これ以上、貴女にもジョセフにも迷惑をかけたくないから」
「そんな……!」
妹は耐えきれず、その場にしゃがみこんで泣きだした。
それから三日後。まだまだ寒い冬の日の朝。
エレノアは住み慣れた伯爵家の屋敷から、静かに旅立った。