7:好きだよ
舞踏会の休憩室として割り当てられた城の一室。大きな四角い窓の向こうには、きらめく星空がどこまでも広がっていた。
耳を澄ませると、舞踏会の会場で奏でられている音楽がかすかに聞こえてくる。
部屋の淡い明かりに照らされたマシューは柔らかに微笑んでいるにもかかわらず、どこか寂しそうに見えた。
エレノアはカップに温かなお茶を注ぐと、そのカップを彼に差し出す。
「マシュー様、お茶です」
「……ありがとう」
マシューは湯気の立つカップを受け取り、こくりと一口お茶を飲んだ。けれど、それ以上は口にせず、すぐにカップを机の上に置いてしまう。
「情けないよね、僕」
マシューの声は震えていた。伏せた瞳は長い銀の睫毛に覆い隠されている。
「幼い頃から、そうだった。すぐに体調を崩して、人に迷惑をかけて。成人してからは少しまともになったと思っていたけど、社交の場に出ると馬鹿みたいに緊張して、倒れそうになってしまう。今まで会った女性たちはみんな、ふらふらになった僕を見て、呆れて去っていった。……エレノア嬢も、こんな僕と一緒にいるのは、嫌だよね」
自嘲気味に笑い、マシューは膝の上で拳を握り締めていた。力を入れすぎているのか、手の甲は筋張り、白くなっている。
(ああ、この人は本当に……)
自分に自信がないところが、エレノアとそっくりだ。きっと彼は、エレノアにお断りされると心の中で何度も思ってきたに違いない。
エレノアは、マシューに対して好意を持っている。
マシューと結婚してもいいかなと思うくらいには、心を許している。
だから、断るつもりなんて全くなかった。
エレノアはソファに座っているマシューの前でしゃがみ込み、そっと彼の手に触れた。
「私、マシュー様といるの、全然嫌じゃないですよ。むしろ私と一緒にいるマシュー様の方がお嫌なのでは?」
「え?」
「今日も怪力を披露してしまいました。女として、失格です」
触れていた手を離そうとすると、マシューの手が追ってきた。意外と大きくて男性らしいマシューの手に、エレノアの手が包み込まれる。
急なことに驚いて、エレノアはびくりと体を震わせた。
マシューはなんでエレノアの手に触れるのを恐れないのだろう。
あのジョセフだって、いまだに怪力であるエレノアの手に触れるのは警戒しているというのに。
鼓動が速くなる。と同時に、じんと胸が熱くなる。
普通の女の子になれたみたいで、嬉しくて、少し鼻の奥がツンとした。
「エレノア嬢」
マシューの柔らかな声で紡がれる自分の名前。導かれるように彼の顔を見上げると、彼は今にも泣きだしそうな表情をして、こちらを見ていた。
「僕はエレノア嬢のことが好きだよ。可愛いし、優しいし、元気だし……ずっと一緒にいたいと思ってる」
「マ、マシュー様?」
「だから、エレノア嬢。僕と……」
ここで、マシューは言葉を詰まらせた。それから、何かを言おうと口を開きかけ、また閉じるというのを何度か繰り返す。けれど、最終的には諦めたようにふるふると首を振った。
「こんな情けない状態で言うことじゃないね。ごめん、エレノア嬢。今のは一旦忘れて。その……次に会う時に言うから」
舞踏会の日から、十日ほどが経った。
(何を言うつもりだったのかな……)
新しい年を迎えてバタバタしていた屋敷の中も、少しずつ落ち着きを取り戻しつつある――そんなある日。
エレノアは自室の椅子に腰掛け、机に頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を見つめていた。冬の空はどんよりとした厚い雲に覆われ、吹き抜ける冬の風はいかにも寒々しい音を立てている。
(やっぱり、その、求婚とか……?)
じわじわと頬に熱が集まってくる。頭の中では、マシューの言ってくれた「好きだよ」という言葉が何度も繰り返されていた。
(次に会う時って、いつなんだろう)
ドキドキと高鳴る胸に手を当てて、ほうっとため息をつく。憧れの可愛い花嫁になれる日が、すぐそこまで来ている気がする。
しかも、相手はあの美青年のマシューだ。
ついつい緩んでしまう口元を手で隠しながら、エレノアは明るい未来に思いを馳せる。
けれども。
絶好調なエレノアとは反対に、マシューの方は舞踏会を終えてからずっと体調が優れないようだった。
エレノアの元には会えないことを詫びる手紙が何通も届く。エレノアはそのたび、謝る必要はない、早く元気になって、と励ましの手紙を返した。
会えない日々が続く中、エレノアは本格的に怪力を封印することにした。
舞踏会の会場で「怪力女」と言われたのはやっぱり悔しかったし、なによりマシューの隣にふさわしい女の子になりたかったから。
――マシューと一緒に生きていく、そんな未来を望んでいたから。
それからまた一ヶ月ほど過ぎた、二月のはじめ頃。
マシューからやっと体調が回復したという連絡が来た。手紙には「また今度、侯爵家でお茶でも一緒に」と書いてあったので、急いで了承の返事をする。
やっと彼に会えるんだと思うと、なんだかそわそわしてきた。
「エレノア姉様、ついに求婚されるのね! 本当に、本当によかった!」
「エレノア、おめでとう。幸せになれよ」
妹夫婦が揃ってお祝いの言葉をかけてくる。エレノアは頬を火照らせながらも、マシューからの手紙を両手でぎゅっと握り、少しだけ口を尖らせた。
「ま、まだ求婚されるって決まったわけじゃないわよ。それに、舞踏会の時からずいぶん間が空いてしまったし、マシュー様も考えが変わってしまったかもしれないし」
そう言いつつも、やっぱり期待してしまう。
マシューから求婚されたら、何と答えようか。すぐに返事をしたらがっついているように思われるかもしれない。でも、答えを焦らすと彼が不安に感じてしまうかもしれないから、タイミングには細心の注意を払わないと。
そんなことを考えながら、ふわふわとした足取りで歩く。
そして、居間の扉に手をかけた、その時。
バキッという、ものすごく不穏な音とともに、ドアノブが砕け散った。
「え?」
一瞬、何が起こったのかが分からなくて、目を瞬かせてしまった。
エレノアの手の中には、先ほどまでドアノブだったもののかけらがおさまっている。手のひらを開くと、そのかけらがパラパラと音を立てて床に落ちた。
(ちょっと待って。なにこれ、どういうこと……?)