4:痛い初恋の思い出
ジョセフが伯爵家に来た時のことは、今でも鮮明に思い出せる。
エレノア、十二歳の春。まだ少し肌寒い、晴れた日のことだった。
ミルクチョコレートみたいな茶色の髪に、海みたいな深い青の瞳を持つその少年は、緊張と不安が浮かぶ表情をして屋敷の前に立っていた。
あらかじめエレノアの婚約者となる予定の子だと聞いていたので、エレノアは少年にはりきって声をかけた。
「あなたがジョセフね。はじめまして、これからよろしくね!」
「……うん」
エレノアと同い年のその少年は、素直にこくりと頷いた。
お互いに、第一印象は悪くなかったと思う。それからしばらくの間は上手くやれていたし、これといったトラブルもなかった。
けれど、親しくなればなるほど、ジョセフはエレノアを女の子として見ることがなくなっていった。
そう――エレノアは、怪力だったから。
「少しはその怪力を使わないようにして、普通の女の子っぽくしろよ」
ジョセフは、事あるごとにそう言うようになった。でも、エレノアがその言葉を本気でとらえることはなかった。だって、怪力だろうがなんだろうが、自分はジョセフと結婚できると思っていたから。だから、何も問題なんてないと信じていた。
エレノアは、ジョセフのことが好きだった。
好きな人と結婚できる未来が確定しているというのに、わざわざ女の子っぽくする理由が分からなかった。
けれど。
十八歳の春。
エレノアの前にジョセフとフローラが神妙な顔で並んで立ち、こう言った。
「ごめん、エレノア。俺はフローラと結婚したい」
「エレノア姉様、ごめんなさい。でも私、ジョセフのことが好きなの」
エレノアは天と地がひっくり返るくらい驚いてしまった。
伯爵家としては、ジョセフがこの家に婿に入ってさえくれればいいのだから、結婚相手がエレノアでなくても特に問題はない。
そして、ジョセフとフローラは想い合っている。
そこから導き出される答えはひとつだった。
悔しかった。みじめだった。泣きたかった。
自分が邪魔な存在になっていたなんて、そんなの認めたくなかった。
エレノアの知らないところで仲良くなってしまった二人を、思いきり罵ってやりたかった。
でも。
エレノアは、二人のことが大好きだった。
だから、自分の気持ちを隠して、笑った。
「いいよ。二人とも、幸せになってね」
もともと怪力であるエレノアに問題があったのだ。
なのに、女の子らしくする努力さえしてこなかった。
愛される努力を何もしていない人間が振られるのは、当たり前のこと。
悪いのはエレノア。他の誰も悪くなんてない。
ジョセフとフローラが結婚して、エレノアは素直によかったと思えた。
二人が幸せそうに笑っている姿を見ながら、これで間違ってないと確信したのだ。
それでも。
ジョセフが「エレノアとの間に恋愛感情は一切なかった」と迷いなく答えたのは、やっぱり少し悲しかった。
エレノアには何の魅力もないと、そう言われたような気がしたから。
ほどなくして、お茶会はお開きになった。
帰る直前、マシューは申し訳なさそうな顔で謝ってくる。
「ジョセフさんのこと、聞いてしまってごめんね。でも、僕はエレノア嬢のことをきちんと知っておきたくて」
「謝らないでください、マシュー様。マシュー様は何も悪くないですから」
見合い相手の情報を得ようとするのは当然だ。こそこそと影で調べられるよりも、ここでズバッと聞いてもらえて、かえってよかったとさえ思う。
(まあ、今度こそお断りされて終了よね……)
婚約者に捨てられるような女と結婚なんて、頼まれたって嫌なはずだ。
帰りの馬車の中、エレノアはぼんやりと窓の外を眺めながら、もうあの美青年を間近で見ることは二度とないだろうと考えていた。
――けれども。
どうやらマシューは、とことんエレノアの予想と違うことをするのが得意な人間だったらしい。
数日後、マシューから届いた手紙に書いてあったのは、お断りの言葉などではなかった。そこにあったのは、十二月の終わり頃に城で開かれる舞踏会に一緒に行こう、というお誘いの言葉だった。
今から一ヶ月半も先の話。そんなお誘いをかけてくるなんて、マシューは一体どういうつもりなのか。
もしかして、本気でエレノアとの結婚を考えているとでもいうのか。
そんな、まさか。
エレノアは居間のソファに座り、頭を抱えて唸る。
「ううう、マシュー様が何を考えているのか、さっぱり分からないわ。私なんかと舞踏会に行って、どうするつもりなのかしら」
「それはもちろん、エレノア姉様ともっと仲良くなって、いずれ結婚するつもりだと思うけど」
エレノアの隣に座り、妹が優雅に紅茶を飲みながら答えた。
「ねえ、エレノア姉様。私ね、エレノア姉様には絶対幸せになってもらいたいの」
「フローラ……?」
「マシュー様はちょっと頼りない感じもするけど、いい人だと思う。だって、ジョセフとのことを知った後もお断りしてこなかった。エレノア姉様のことをきちんと理解してくれる人だって、私は思う」
妹はティーカップを机に置くと、そっとエレノアの手を取った。
「私はエレノア姉様が大好きよ。優しいし、力持ちだし、頼りになるし。だから、自信を持って。エレノア姉様は、ちゃんと愛されるべき人なのよ」
妹の白くて華奢な手は温かく、エレノアを優しく包み込んでくれる。エレノアはそっと目を閉じて、その温かさに感謝した。
今までのお見合いは「どうせ上手くいくわけがない」と思い込み、はじめから断られるようにふるまっていた気がする。
それに、痛い初恋の思い出が邪魔をして、結婚することに対してどうしても積極的になれていなかった。
マシューは今までのお見合い相手とは違う。元婚約者のジョセフとも違う。
(そろそろ私も考え方を変えないとダメよね。本気で、マシュー様に向き合わなくちゃ……)
断られると思い込み、ずっと逃げ腰だったけれど。
マシューはエレノアが怪力なことも、ジョセフとのことも、全部受け入れてくれている。
それは、きっと、とても貴重で幸せなことだ。
エレノアはぺちりと自分の両頬を叩き、気合いを入れた。
「フローラ! 私、ちゃんとマシュー様と向き合ってみるわ! それから、マシュー様に釣り合う女性になれるように努力する!」
一ヶ月半後の舞踏会で、マシューにたくさん褒めてもらえるような女性になりたい。
そして、いつか――可愛い花嫁になってみたい。
「よし、そのためにも今日から怪力を封印するわ! 重い本棚も、庭木も、もう運んだりしないんだから!」
エレノアの宣言に、妹が瞳をキラキラさせて拍手をした。
怪力を使わず、女の子らしくする。まずは、かつてジョセフに言われたアドバイス通りに頑張ってみよう。
それに加えて、舞踏会に向けてダンスの練習もしたいし、美青年の隣にいても見劣りしないようにおしゃれも研究したい。
(私だって、その気になれば素敵な令嬢になれるはず! 目指せ、か弱い女の子!)