10:外堀を完全に埋められている
なんで、こんなところに彼がいるのだろう。
混乱するエレノアに、マシューは柔らかな微笑みを向けてくる。
「会いたかったよ、エレノア嬢」
マシューはゆっくりとエレノアに歩み寄り、手を伸ばしてきた。その手は、壊れた手枷がついたままのエレノアの手を掴もうとする。
恐れることなく、まっすぐに――。
(ダメ! マシュー様に怪我をさせちゃう!)
エレノアはさっと青ざめて身を引いた。ドレスのスカートがひらりと揺れる。
こんなところにマシューがいるわけがない。
会いたいと願い続けていたから、きっと彼の幻覚でも見ているのだろう。
そう思うけれど、たとえ幻覚だったとしても、大好きな人を傷つけるのは嫌だった。
「ち、近寄らないでください、マシュー様!」
「大丈夫だよ」
「な、なな、何が大丈夫なんですか! その手を握り潰されたいのですかっ?」
まるで脅し文句のようなセリフを言ってしまった。
いや、でも冗談ではなく、今触れられたらその手を握り潰してしまうだろう。
エレノアは涙目になって、ふるふると首を振りつつ後退した。
けれど。
「エレノア嬢、恐がらなくてもいいよ」
マシューはふわりと微笑み、エレノアとの距離を詰める。そして、ごく自然にエレノアの手を取り、きゅっと優しく握ってきた。
手から感じる、確かな体温。
信じられない――けれど、目の前の彼は幻覚などではないようだ。
あまりに予想外のことが起こったせいで、エレノアの頭の中は真っ白になる。
「あ、あああ……握り潰す……握り潰しちゃう……」
ガタガタと体が震え、手枷の鎖がしゃらしゃらと鳴る。背中には嫌な汗をかき、鼓動は馬鹿みたいに速くなっていた。
「ダメ……離して、マシュー様……」
「だから、恐がらなくても大丈夫だよ、エレノア嬢。ほら、君はちゃんと力を制御できてる」
「えっ」
思わずマシューに握られている手を凝視した。確かにエレノアの手は暴走することなく、彼の手の中で大人しくしている。
マシューの手は軽くエレノアの手を弄び、指と指を絡ませてきた。
そのまま二人の手はゆっくりと組み合わされる。
(ああ、本当に制御できてるみたい……)
そう思った途端、エレノアの視界がじわりと歪んだ。
ぼたぼたと大粒の涙が頬を伝っていく。
声もなく泣き始めたエレノアを、マシューが優しく抱き寄せてくれた。
「もう何も心配しなくていいよ。大丈夫、大丈夫……」
いつまでも田舎の小道に突っ立っているわけにもいかないので、エレノアはひとまずマシューを屋敷に招き入れることにした。
応接室に通し、改めて彼と向き合う。
「それにしても、なんでマシュー様がこんな田舎に?」
泣き顔を見られた恥ずかしさからマシューをまともに見ることができず、エレノアは少し彼から目を逸らしながら聞いた。
マシューがくすりと笑う気配がする。
「舞踏会の日に言いそびれたことを、言いに来たんだ」
マシューはソファから立ち上がると、エレノアの前にひざまずく。
それから、まっすぐにエレノアを見上げ、真剣な表情で告げた。
「エレノア嬢。僕と、結婚してください」
どきりと心臓が大きく跳ねた。
マシューとの見合い話は、もう終わっているはずだ。
なのに、なぜ。
エレノアはただ目を丸くして、マシューを見つめることしかできなかった。
言葉を失ってしまったエレノアに、マシューはにこりと笑いかけ、これまでのこと――エレノアが知らなかった裏話を語り始める。
「エレノア嬢と僕のお見合い話は、まだ続いているよ? 君の妹さんとジョセフさんのおかげで」
「えええっ?」
なんと妹とジョセフはマシューに断りの手紙を送るどころか、エレノアとの結婚話を進めるために協力を申し出たのだという。エレノアの怪力が暴走したことも、それを理由にお見合いを終わらせようとしたことも、全て話した上で。
「それから、エレノア嬢の力の暴走を止める方法も聞いた」
「え、止める方法?」
「うん。君のご両親から、ちょっと前に手紙で教えてもらった」
「……へ?」
頭の中が疑問符で埋め尽くされる。暴走を止める方法なんてあったのか。いや、そんなものがあるなら、父と母はなぜもっと早く教えてくれなかったのか。
というか、エレノアが知らないところで、みんな動きすぎではないか。
「あ、あの、暴走を止める方法って……?」
「思いきり、力を使うこと」
エレノアはぽかんと口を開け、停止してしまった。そういえば、あの重い馬車を持ち上げた後から、確かに制御できるようになった気がする。
「エレノア嬢、君は幼い頃に何度か力を暴走させたことがあるみたいなんだ。その暴走は決まって、その力を使わず我慢した後に起きていた。でも、力を思いきり使うと、その暴走はぴたりと止まっていたらしいよ」
なんてこと。エレノアはぺちんと自分の額を叩いて、天を仰いだ。
じゃあ、エレノアがあの馬車を持ち上げることになったのも、父や母が仕組んだからなのか。
ここで、ふと気付く。あの馬車がすごく重かった理由。
エレノアの怪力を思いきり使わせるために、馬車の中にわざと重いものを乗せていたのではないだろうか。中を直接覗いてみたわけではないけれど、恐らくそうだ。というか、そうとしか思えない。
「エレノア嬢」
優しく名前を呼ばれて、エレノアはマシューと目を合わせた。
マシューの翠の瞳に、きらりと明るい光が揺らめいている。
「君の妹さんも、ジョセフさんも、ご両親も。みんな、僕が君と結婚することに賛成してくれて、たくさん協力してくれたんだ。だから、僕は君が頷いてくれるまで、何度だって言うよ。――僕と、結婚してください」
知らないうちに、外堀を完全に埋められている。
こんなの、断れるわけがないではないか。
エレノアはじわじわと頬が熱くなるのを感じつつ、こくりと頷いた。
「はい。……よろしくお願いします」
エレノアの怪力を恐れず、全てを受け入れてくれたマシュー。
もう、絶対に、彼から逃げたりなんかしない。
マシューが立ち上がり、笑顔でエレノアに向かって両手を広げた。エレノアはその胸に迷わず飛び込む。
ふわりと柔らかな温かさに包まれて、ふにゃりと頬が緩んだ。
応接室の窓から、春の日差しが降り注ぐ。キラキラときらめく光の中、マシューがエレノアの耳元で小さく囁いた。
「大好きだよ、エレノア嬢。もう絶対、離さない。だから、できるだけ早く結婚式をしようね」




