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誘惑編

女の子に対する暴力表現があります。また、おとなしめですが女性性を想起させる表現があります。苦手な方はご注意ください。

ルナローズ・デイドリームの魔界追放から二カ月が経ち、世界王の疲労はピークに達していた。


『大陸王』トゥーリ・ストロングホーンの居城。大陸の中央、かつて人界最強の大国が建造したその城はいま、亜人の王の拠点となっていた。


「少しの間、政務をお休みになられても良いのではないでしょうか。主様」

トゥーリの優しい言葉が世界王の頬をゆったりと包む。


鍛え上げられたその全身のシルエットを惜しげもなく露わにする薄布の寝間着。牛魔の長たるトゥーリの見事な胸元、たわわに実る豊満の双母が世界王の額に体温を伝えてくる。

豪奢な天蓋付きの寝台に横たわるようにして天井を見上げる世界王の頭部を、トゥーリはその鍛え上げられ天然のクッションと化した太ももの上に抱いていた。


「そうも言っておれぬ。もとはといえば、われの甘さが招いたことでもあるしな」

祝賀の日にイブ=ラスティンが暴露したルナローズの裏切り行為。勇者は生きていて、いまもこの人界に潜伏しているのだろう。

世界王はあの日以来、『大陸王』トゥーリと『辺境王』ヴォルフに命じて勇者の行方を捜索させていた。


だが勇者につながる手がかりはまったく見つからず、その間、世界王は大陸と辺境すべての人間たちの統治にかかわる政務を一人でこなしていたのだ。


「私の力が及ばぬばかりに主様にお手数をかけてしまい……申し訳ありません」

トゥーリの眼差しが少し陰る。


人界では勇者たちは皆、死んでいることになっていた。

聞けば、人界軍を編成していた各国は、勇者の健在ぶりを知らせる宝珠を保有していたようだ。その輝きは日に日に強さを増し、勇者たちが魔界城に足を踏み入れたあの日、まばゆいばかりの光が人界をあまねく照らしたという。

魔王討伐の報せも近いと人間の王たちが喜んでいたのもつかの間、しかし輝きは突如消え、すべての宝珠は一斉に砕け散ったのだそうだ。


「その刻限は勇者が魔界城を去ったその時刻と一致していました。人間たちの王はそれをもって勇者の死とみなし、われらに降伏を申し出てきたようなのです」


「人間たちは勇者が死んだと思っているからこそ降伏してきた。もしその健在を知れば、また戦いを企てる者も出てくるだろう。その事実を人間たちに知られるわけにはいかぬな」

それゆえに人界で大っぴらに聞いて回るわけもいかず、勇者の捜索に時間ばかりが費やされてしまったのだ。


「それにしても人界がこれほどまでに苦境に陥っているとは思いませんでした。大陸王の称号を頂いていながら、自身のふがいなさに恥じ入るばかりです」

トゥーリが悔しさをその言葉の端ににじませる。


「トゥーリのせいではなかろう。そもそも人間の絶対数に対し、食料が足りておらぬのだから」


人間たちの統治を開始して分かったのだが、人界は未曾有の食料不足に陥っていた。

魔界との戦の半年間、働き手の多くが農地から徴収され、そして二度と帰らぬ人となった。圧倒的な人手不足。大陸の農地はその大部分が耕されぬまま放置され、あの年の収穫は散々だったようだ。

この状況のまま次の夏を迎えれば、秋の収穫はさらに落ち込んでしまうだろう。二年連続の不作の予感に、人間たちは為すすべなくただ震えている。


それに輪をかけてルナローズによる大量の食料買い占めがその状況を悪化させていた。本来なら不作の年のために蓄えられていた食料が、戦が始まる前にすべて買い上げられてしまっていたのだ。人界の食料価格は高騰、戦が始まった頃、市井の民、特に貧しい者はろくに食べることもできず、すでに飢餓に苦しんでいたという。


政情不安。飢えた民を大量に抱えた人界は治安が悪化、世界王は日々その対処に追われていた。


「魔界の平穏さだけが……唯一の救いか」


「魔界の民には十分な食料が行き渡っております。皆、主様からの寛大なる恵みに感謝しております。亜人たちによると、この先二年ほどは働かずとも困らないとのことです」

買い占められた食料は魔界城の地下に蓄えられていた。ルナローズ追放ののち、それをすべての魔界の民に平等に配分したのだ。


「もともと長年、魔界の財として皆で積み上げてきたのだ。それで買い上げたのだから、皆に分け与えるのは当然だろう」

魔界には陽の光が届かないため、農地はわずかしかない。亜人たちはそのわずかな土地をめぐっていままで種族間で抗争を繰り返してきた。当面、それもしなくて済むというわけだ。


「人間どもに魔界へ追いやられて以降、亜人がこれほど穏やかな時を過ごしたことはありませんでした。もう、農地をめぐってお互いいがみ合うことも、食料を求めて人界で山賊まがいのことをする必要もないのです。戦から帰還した者、人間どもの手から解放された者、皆が豊かに幸せに暮らす。来年には皆、たくさんの子を授かることでしょう」


「そうか。それは良きことだ……」

子は宝。その言葉を口にしかけたとき、世界王の胸の内に一抹の不安が影を落とした。


「トゥーリ。亜人たちは一度にどれくらいの子を授かるのか」


「そうですね。双子、三つ子は普通に。多い種族であれば六つ子も珍しくはありません。それに一年に二、三回子を授かる種族もありますから、来年には亜人の数は今の倍になるでしょう」


「なに……!?」

もしもその勢いで増え続けるなら、再来年に亜人は今の三倍になる……いや、一年で成人し子をもうける種族もあるからそれ以上か!?

これまでは不足する分を人界から略奪して来たのかも知れないが、いまのままでは奪うべき食料もない。

亜人に分け与えた食料が尽きる二年後、すさまじい飢餓が魔界も襲うことになるのではないか?


「まさかルナローズはこのことを見越して……?」

世界王の背筋をひやりとした汗が伝い落ちる。


「主様は、まだあの女のことを考えておられるのですか?」

その名を思わず口にした世界王に、トゥーリの不機嫌そうな声が向けられる。


「お忘れになられた方がよろしいです主様。裏切り者が何をしようと、何を語ろうと、そこに意味を見出すのは徒労に終わるばかりかと」

トゥーリの胸のその柔らかな二つの重みが、世界王の頭部を包む。


不意に、世界王の喉に安らかで滑らかな雫が流れ込んだ。

それはほんのり甘く、鼻腔の奥に懐かしさの香りを残す。


「トゥーリ……?」

戸惑う世界王を、トゥーリはさらに強く抱きしめた。

世界王の唇に、柔らかくしかしそれでいてしっかりとした弾力の生身が、さらに雫を流し込んでくる。


「わ、私は……牛魔ですから。いつでもこうして地母の恵みを差し上げることができるのです」

頬と胸元を桜色に上気させながら、トゥーリが優しく世界王の額をなでる。


「牛魔の恵みは滋養強壮に効果があり、心身の疲れを癒します。もし……もし叶うなら私を……いつまでも主様のお側に……」


『大陸王陛下!失礼いたします!』


トゥーリがその言葉を言い終えぬうちに、寝室の外からトゥーリの部下の声が響き渡った。

焦りを帯びた声。悪い報せだろう。


「どうした。申せ」

トゥーリの声が戦士としてのそれに豹変する。


「魔獣です!魔獣が町を襲っています!」



   *



「ヴォルフ。なぜ魔獣が人界の町を襲っているのだ」


辺境にある大森林、その最奥に広がる緑豊かな花園に、『辺境王』ヴォルフ・シルバーファングは穏やかな表情でたたずんでいた。


「主様?」

突然この地を訪れた世界王の言葉の意味をとれなかったのか、ヴォルフは不思議そうに首を傾げている。


「トゥーリの治めている大陸の町の一つが、おまえの配下の魔獣に襲われているのだ。知らぬのか」


「知らない」

そう一言だけを返すと、ヴォルフはうんっと一息背伸びをし、花々の咲き誇るその足元にころんと寝転がった。


「いいお天気……」

立ったままの世界王を見上げながら、ヴォルフは自身の傍らの地面をぽんぽんと二度叩いた。

期待に満ちた眼差し。ヴォルフの尻尾がぱたぱたと揺れ、世界王がそこに座るのを今か今かと待っている。


世界王は小さくため息をつくと、ヴォルフに誘われるままに腰を下ろした。


「ここ……僕、好きなの」

ヴォルフは無造作に世界王の右手をつかむと、自分の後頭部に当てがった。陽にきらめく銀糸、その滑らかな艶が手先を通して伝わってくる。

なでて欲しいのだろうな。察した世界王は、ゆっくりとヴォルフの頭をなでてやった。


「ん……ふぅ……」

気持ち良さげなヴォルフの吐息が漏れる。

そのもふもふとした獣の耳から力が抜け、完全に気を許した者にしか見せない角度に傾く。


たいていの魔獣は激しい生存競争の中で傷つき、毛並みが荒れてくるものだ。だがヴォルフは違う。その神速ゆえに誰にも触れらることがなく、だからその毛並みが衰えることもない。


「みんな……お腹空いているんじゃないかな」

世界王の手にその身を委ねながら、ヴォルフがぽつりと言葉をつないだ。


「お腹が空いたら、食べなきゃ」


「だが食料は十分に与えていただろう。なぜ町を襲う必要がある?」

くるりと、ヴォルフがその身を翻し、座っていた世界王を花園に押し倒した。


「足りないよ。あんなの」

ヴォルフのすらりとした両脚が世界王をまたぎ、その下腹部が世界王のへその辺りに初々しい重みとなって圧し掛かってくる。


「僕ももう食べちゃった」


……そういうことか。

魔獣はその巨体を維持するために、大量の食料を必要とする。

食物連鎖の頂点たる肉食の獣。

魔獣の数は限られているから亜人や人間に比べれば全体の割合としては少ないが、一頭一頭の絶対量で考えれば、断トツに食料を消費してしまうということなのだろう。

魔界城から配分した食料、それは魔界の民ひとりひとりに平等に分けたのだった。亜人たちにしてみれば二年間遊んで暮らせる量だとしても、魔獣たちにとってはわずか二カ月にも満たない分でしかなかったというわけだ。


「それに……死んだ肉はお腹が空きやすい」


「生きている方がいいということか?」

ヴォルフの鼻先が世界王の唇のすぐそばで小さく息を吸い込む。


「主様はすごく良い……良い匂いがする」


良い匂い……もしかして魔力の香りか?

恐らくだが、魔獣は単に物理的に食料を必要としているだけではなく、魔力的な要素も取り込む必要があるのだろう。

魔力。生きた亜人や人間ならば宿しているだろうが、死んだ牛や魚を加工したものだとそれは期待できない。


「何か良い方法はないのか。おまえの話がその通りなら、いずれ魔獣は人間を食い尽くしてしまう」

そしてそのあとは亜人に牙を向けるだろう。


「うーん……わからないや」

ぺろりと、ヴォルフの舌が世界王の唇をひと舐めした。


「前もすごくお腹が空いたことがあったけど。僕は平気だった」

もしも亜人も食い尽くした後は魔獣同士の弱肉強食の争いが始まるのだろう。そこで生き残るのは……そう、最速にして最強の魔獣ヴォルフ・シルバーファングに違いない。


「でも主様のことは大好きだから……食べないでおいてあげる」

ヴォルフは世界王の上からするりとその身を引き、花園を駆ける風にその銀髪をなびかせた。


「行ってくるね。町を襲ってる子に主様が困ってるって言ってみる」

一陣の風が吹いたかと思うと、次の瞬間、ヴォルフの姿は銀色のきらめきだけを残して消えていた。



   *



魔界城、謁見の間。

魔王のためのその玉座に、世界王は深々と腰を下ろしていた。


「なるほどのぅ。人間どもは飢え、魔獣も腹を空かせて人間を食い荒らしておる。とまあそういうことじゃな」

玉座に座る世界王のその股座またぐらに、すべての魔族の血の源流たる『魔王』イブ=ラスティン・ド・アークネッツァの小さな体躯がちんまりと座っていた。


「それだけではない。このままでは魔界もいずれ飢えてしまう。増えすぎた亜人が痩せた土地からのわずかな収穫を奪い合い、さらには人界になだれ込んで人界の農地から根こそぎ食料を奪うだろう。人間どもは飢えと魔獣により滅び、そののち亜人も滅ぶ。後には魔獣たちだけが残り、その彼らも血で血を洗う戦いで数を減らして行くことになる」


「これこれ主様よ。動くでない」

イブ=ラスティンがその小ぶりなお尻をぐいぐいと世界王のへその下に押し付けてくる。幼さの残るふくらみにはしかし温もりはなく、ひんやりとした感触だけを伝えてくる。


「この玉座はどうもいかん。主様のためだけにしつらえてしもうたからなんじゃが、わらわが座るには大きすぎるのじゃ。主様のこの股座くらいの大きさが、わらわにとっては一番具合が良いのう」


「イブ。魔族にも配分した食料だが、それを人界に配給しようと思う」

とにかく今は大陸の農地からの今年の収穫を少しでも増やす必要がある。わずかではあるが魔族の分の食料を人間たちに与え、農地のための労働力を強化するのだ。


「なんじゃ。深刻な顔をして相談したいというから何かと思えばそのような些事じゃったか」

イブ=ラスティンはつまらなそうにそのメガネの位置を正すと、言葉を続けた。


「構わぬよ。どうせわらわとその眷属は食物など口にせずとも永遠の命を謳歌できるのじゃからな。あのような野蛮なゴミを受け取っても喜ぶ者はおらん」


不死者。この悠久の時をただ生きる魔族たちは太古の竜の時代から魔界に巣くっている。

新たな生を産み出すことは稀で、魔術的にその存在を消し去られでもしない限り数が減ることもない。

飢えず、老いず、いつまでも永らえる。

そんな彼らにとってみれば、食料を必要とする常世の生者たちはさぞかし野蛮で愚かしく見えることだろう。


「そうじゃ。頼まれておった主様の居城の件じゃがのう。どこに建てるのが良いか検討して欲しいと主様は言っておったが。まあいちいち色々な場所を見て回るのもバカバカしいから、この魔界城を増築し、主様の城とすることにしたぞ。もう建築資材の手配も済んでおる」


「資材を?だが支払いはどうしているのだ。宝物庫は空っぽのはず」

世界王の言葉に、イブ=ラスティンは大きなあくびをしたあと眠たげな声で答えた。


「そんなことは気にせんでもええじゃろう。大陸王と辺境王に命じて人界から税を取り立て、それで支払えばよいのじゃから。税を支払えぬようであれば、その分現物で建築資材を奪えばよいだけのことじゃしな」

イブ=ラスティンがその可愛らしい頭で世界王のたくましい胸に寄りかかる。


「あの忌々しい小娘が使い込んだ金銀財宝、その分も人間どもから取り戻さねばならぬしな。主様があのような愚か者に良いように騙されるから余計な手間がかかる」


「しかしそれだと税はかなりの高率になるのではないか?飢えている人間たちが支払えるとは思えないが」

イブ=ラスティンの頭が世界王の胸を強く突き上げた。


「主様はほんにお人好しじゃな。野蛮な人間なんぞのことなど気にしても仕方なかろう。税も払えぬ、建築資材もないということなら、その身体で支払わせるまでじゃ。聞けば魔獣どもが腹を空かせておるのじゃろう?税を払えぬなら彼奴等のエサにしてしまえば万事解決ではないか」

「いやしかし、それでは農地のための働き手が減って……」

今一度、イブ=ラスティンの頭が世界王の胸を突き上げた。


「あー!うるさいうるさいうるさい!農地がなんじゃというのじゃ。人間どもが飢えたところで、わらわに何の関係がある?人間にしろ亜人にしろ、どうせまたぞろぞろと性懲りもなく増え散らかすに違いないのじゃ。いままでもそうじゃったし、これからもそうじゃろう。頼みもしないのに勝手にわらわの庭に住み着きおって。ええい、考えるだけでもいまいましい!」

小さなその手足をばたばたと振り回しながらひとしきり喚き散らした後、イブ=ラスティンはまた一つ大きなあくびをした。


「ふあぁ……わらわは疲れておるのじゃー。今回は主様の頼みで戦もしたし、眠くて眠くてかなわぬ。そろそろまた一休みするとするかのう……」

魔族の休眠期。下級の魔族であれば亜人や人間と同じく半日も休めばまた活動を再開するが、上級魔族、それもイブ=ラスティンのように特別な存在であればその休眠期は長い。活動していたときの消耗具合にも依るのだろうが、長いときは百年以上眠り続けることもあったと聞く。


「イブ、おまえは魔王であろう。魔界のことはどうするのだ」

世界王の股座からイブ=ラスティンの幼子のような体躯がふわりと宙を舞う。


「主様の話じゃと、このあと世界は滅びるのじゃろう?わらわとその眷属が眠りにつけば、世界には主様以外に誰もおらぬようになるのじゃから、何もせずとも問題はなかろう」

イブ=ラスティンはそのままゆらゆらと謁見の間を漂い、その隅で陰る闇へと吸い込まれていく。


「次に目覚めたとき、そのときはわらわと主様の祝言を挙げようぞ。主様の城を闇の魔力で飾り立て、生きとし生ける者々の生き血で祝杯をあげるのじゃ。くっくっく……楽しみじゃのう……」



   *



魔族たちが次々と闇に眠り、静まり返った魔界城の玉座で、世界王はひとり頭を抱えていた。


このままだと人間は早晩、飢えと魔獣により滅ぶ。

次に飢えた亜人が食料の奪い合いと魔獣により滅ぶだろう。

そして魔獣が共食いで滅ぶ。

休眠した魔族たちが目覚めるのは五年後か、はたまた十年後か。


われは生き延びるであろうが、しかし滅びた世界で一人どうしろというのか。

世界王の名がいまは虚しいものに思えてくる。たった一人だけの世界、そんなものの王だとして何になる。

『世界王は世界そのもの』……それが例えでもなんでもなく、その言葉のままの意味になるだけではないか。


詰んでいる。

何度考えても、どう考えなおしても、すべてを丸く収める策が見つからない。


先にヴォルフに命じて魔獣の数を減らすか?いや、そうだとしても二年後の亜人の食料危機は回避できない。

魔獣を使って亜人たちの数を抑え込むか?そんなことをすれば亜人たちは魔界を逃げ出して人界になだれ込むだろう。人界の農地はすぐに枯れ果て、その先は同じことだ。

人間たちだけを残し、魔獣と亜人を魔界に……何を考えているんだ。それは戦前のあの苦しみを魔界の皆に再び強いるだけではないか。


ふと、あの祝賀の日の記憶が蘇る。玉座のすぐ目の前、そこでルナローズが最後に絞り出した言葉。


『私は……世界を愛しています……それだけです』


その一言一言が世界王の耳の奥で何度もリフレインする。

ルナローズは……ルナローズはこの滅びしかない状況を望んでいたのだろうか。


魔界の民を人界に売り払った、それは絶対に許せない悪行だ。

城の金銀財宝で食料を買い占めた、それは己の私利私欲を満たすだけの愚行以外のなにものでもない。


だが本当にそうなのか?

ルナローズは本当に愚かで無能で、自らの欲のためだけにそんなことをしていたのか?


……いや待て。

世界王の脳裏で今までに見聞きした話がぐるぐると絡みあっていく。


人界は戦争が始まる前から、食料の酷い高騰に苦しんでいた。それはなぜだ。ルナローズが魔界城に眠っていた莫大な金銀で人界から根こそぎ食料を買い占めていたからだ。

しかも魔界の民、亜人が働き手として人界に連れ込まれたことで、人界の貧しい者たちは職を失い、さらに貧しくなっていた。


そしてとどめが魔界との戦争だ。

腹を空かせた兵士たち。食料の高騰で政情不安定になった国家の立て直しに手一杯で戦争どころではない国王たち。そんな状況で人界軍が満足に戦えたはずがない。


人界は、戦争が始まる前からすでに負けていた……われら魔界軍はそこに攻め込んだだけに過ぎないのではないのか?

このすべてがルナローズの仕組んだことだったとしたら……?


何か……そう、何かが一つに結び付いた気がした。

今一度、あの日『映し見の幻影』に映し出された光景がまぶたの奥に浮かぶ。


『ルナローズ、君の本当の出番はここからだったな』


勇者はそう言っていた。

『本当の出番』……つまりルナローズは自ら作り出したこの絶望的な状況に対する策を、あの時すでに立てていたのではないのか?

『きっと世界を変えてみせる』、ルナローズのその言葉はまさに、この状況を決定的に変える秘策があることを意味していたのではないか?


世界王は顔を上げ、玉座を立った。


「われはルナローズに会いに行かねばならぬ」

そして……そう、ルナローズと話をするのだ。


ぱちぱちぱちぱち……。


不意に、空虚な謁見の間に小さな拍手の音がこだました。


……誰だ?

その拍手のする方向、入口の大扉のそばに一人の男が立っていた。


「こいつぁ驚いた。ほんとにルナローズの言った通りになったじゃねぇか」

広間の暗がりを抜けて玉座に近づいてきたその男に、世界王は見覚えがあった。


勇者だ。


金色の鎧も白銀の大剣も身に着けておらず、行商人のような恰好をしているが、それは確かに勇者その人だった。


「よう、世界王さん。元気にしてたかい?おっと。こうして直接会うのは初めてだったか?」

軽いノリで、勇者は世界王に敬礼した。


「ルナローズに会いに行くんだろ?迎えに来たぜ」



土下座編に続きます。

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