思い出の花束
今日は雲一つない晴天。初夏を思わせる風は心地いい。私たちの心の内を無視するかのような天候である。
私は娘と二人、三階建ての小さなビルにやってきた。
長年雨風に晒された外壁は薄汚れて黒いシミが点々と広がっている。私が少し怖いと感じるほどの見た目は、五歳の娘には相当怖いと感じられたらしい。娘の手前怖がる姿を見せるわけにはいかない私は、「何かあってもお父さんが守ってあげるから大丈夫」とかそんな話をして私は娘を落ち着かせた。
建物に入る。どこにも建物内部の案内はない。さらに言えばエレベーターもエスカレーターもない。ここは外見通り、本当に古い建物らしい。
…探していた建物は本当にこれなのだろうかと私は不安になり始めていた。
娘に背を押され、私は半ば強制的に上の階に行くための方法を探す。エントランスをしばらく直進すると暗がりに上へと延びる階段があった。「三階?」と娘が聞いてきたので「うん」と返せば、また娘は私の背をぐいぐい押す。こういう強引なところは妻に似たのだろうと、ふと思った。
階段を上がってすぐ、『ロボット製作』という看板がかかっている扉が私たちの目の前に現れた。先ほどまで階段が暗くて怖いと半泣きになっていたはずの娘は、看板を見つけるや否や私の後ろから飛び出て、扉に全体重をかける。慌てた私が彼女に駆け寄って手助けをする前にその扉は開いてしまった。
「こんにちは!」。娘が元気よく扉の向こうに話しかける。私は、娘が開けた扉を支えてから彼女の後ろに位置した。
娘が呼び掛けた部屋の中には所狭しと金属製の頑丈そうな棚が並んでいる。部屋の中央の小さな若草色の丸テーブル一脚と椅子四脚が、ここをただの倉庫ではないということを辛うじて告げていた。
娘の声に反応してか、靴の鳴る音が奥から聞こえ始めた。その音は私たちのいる場所に近づいてきて…やがて棚の間から、濃い水色の作業着を着た初老の男性が現れた。
彼は娘を見て大層嬉しそうに頬を緩ませる。子ども好きなのだろう。
「あぁあぁ。こんにちは」
「こんにちは!」
「こんなに小さくて元気なお客さんが来るのは珍しいねぇ。ここはあまり人を受け入れる用に出来てないから君みたいな子には居心地が悪いだろう、申し訳ない…」
「大丈夫だよ!ちょっと建物は怖かったけど…」
「ここは古いからね。一九〇〇年代…今から二百年くらいの建物だよ」
「すごぉい!」
二百年前の建築物なのかと、私も思わず感嘆の声を上げる。そんな私を見た男性は楽しそうなほほえみを浮かべた。
「保存技術の進歩というやつです。…階段しかないから疲れたでしょう。ふたりとも、どうぞ座って」
男性に腰掛けるよう促され、娘が私の顔を見上げた。私は小さな彼女を抱き上げて、丸テーブルの傍の椅子に座らせる。それから私も娘の隣の椅子に腰かける。私たちが腰かけたタイミングで男性も椅子に座った。
「そちらは…お父様、ですかな?」
「えぇそうです」
「良かった、間違えたら事ですから…。娘さんとよく顔が似ていらっしゃるから間違いないだろうとは思いましたが」
「…似ていますか?」
「似ていますよ。輪郭が特に。同じ形です」
娘は自他ともに認める妻似だと認識していた私は、つい怪訝な顔をしてしまった。
「おや…?」
男性の顔に焦りの色が出て、私はしまったと思い釈明する。
「す、すみません。言われ慣れていないと言いますか…決して不快になったわけでは。娘と似ていると言われて嬉しくないなんてことはないですから」
「ははは。そういうことでしたか。刷り込みのようなものってありますよね」
男性はほっとしたように笑う。それから彼は姿勢を正し、作業着の胸ポケットからタブレット端末とペンを出した。
「それで早速ですが。本日はどういう要件でしょうか?ここに自由研究をしに来たという面持ちではなかったようですから、きっとお仕事の相談だと思いまして」
「あ…。はい、そうです。無駄話を長々とすみません」
「お母さんを作って欲しいの!」
私の話に被せるように、せっかちな娘が話し出す。私の腰が、驚いたせいで少し浮いた。
「ゆり、」
「お父さん寂しいの。だからね、お母さんを作って欲しいの。お母さんがいれば…」
前のめりで話し続ける彼女の体は今にも椅子から落ちそうだ。私は隣に座っている彼女の腰を持って、椅子に深く腰掛けさせる。
「危ないからちゃんと座って。お父さんがちゃんとおじさんとお話しするから」
「でもお母さんが、お父さんはお話下手だって」
「だ、大丈夫、大丈夫だから」
娘に話下手だと思われていることに驚愕する。考えをまとめるのに時間がかかることは自負しているが、話下手だとは思っていないし、そう言われた経験もない。とてもショックである。妻がこの場にいたなら文句の一つも言いたい。
男性を置き去りにして思考していたことに気が付いた私は、急いで男性の方へと向き直る。彼は微笑ましいやら困ったやら、というような笑い顔で私たちを眺めている。
「さっきからすみません…」
「あはは。いいんですよ。ご両親思いの良い娘さんですね」
「はい。自慢の娘です」
私が間髪を容れずにそう返せば、男性はまるで自分が褒められたかのように嬉しそうな顔をした。
「……それでその。妻を再現していただきたくて、こちらに来ました」
先日妻が亡くなった。乳がんだった。
私と幼い娘を一人残すことが心残りだと最期まで言い続けた彼女は、とある技術─“自分の記憶を外部メモリーに出力する技術”を活用することにした。
メモリーを残してこの世を去った妻。彼女の記録を、意志を、どうするべきか。
悩み続けた挙句、私は『人間そっくりのロボットを作る』ことで有名な、彼の会社を訪ねることにした。
私は机の上に細長いメモリーをそっと置く。ここに持ってくるだけでも緊張したそれは、手のひらに乗るくらい小さいのに、やけに重く感じられた。
「これがそのデータの入っているメモリーです。これをAIに覚えこませれば、きっと彼女に近いロボットができるはずです。どうか、お願いいたします」
男性はメモリーを一瞥したが、触ろうとはしなかった。
「…なるほど。この度はご愁傷さまでした。お悔やみ申し上げます」
「あ…。ありがとうございます」
ぺこりと頭を下げる。男性はそれきり黙りこくってしまった。私も何を言うべきか悩み、私たちを沈黙が包む。
「おじさん、凄いロボット作る人だってテレビで言ってたよ!私も、テレビで見たロボット、ロボットだって最初気づかなかった!」
「あぁ…!」
無言に耐え切れなくなった娘が、また前のめりになって話し始めた。これ以上娘の体が動くことのないように、自分の腕を彼女の前に置く。
「そうかぁ。いくつになっても褒められるのは嬉しいねぇ。…でもごめんね。私は誰かに似せたロボットは、作らないことにしてるんだ」
「えっ」
私と娘は男性の顔を見る。彼は眉をハの字にして肩を丸めた。
「私の仕事は誰かの理想…想像上の誰かを作ることです。現実にあるもの、あったものを作るのは、不可能なのですよ。少なくとも私にはね」
「…でも…でも。あなたならできますよ。あんなに人そっくりなロボット見たことがない…」
馬鹿な、と思う。テレビで紹介されていた彼の製作したウエイトレスは、娘の言うように、言われなければ人間だと思ってしまうくらいの出来栄えだった。あんなに素晴らしいロボットを作製できる人間が、人間を再現できないなんてはずはない。
「ねぇ貴方!今日のご飯は…」
困惑する私をよそに、奥から女性が出てきた。ショートヘアの良く似合う、茶色い髪の三十代くらいの女性だ。
「あらお客様?こんにちは」
「こんにち…」
「ねぇ貴方、今日のご飯は何がいい?あらお客様じゃない、こんにちは」
挨拶をしようとした私の喉がキュウと締まる。
女性の後ろに、瓜二つの女性が立っている。その後ろにはまた女性がふたり。今度は初老の女性、女子大生、女性、動きのぎこちない無骨なロボット…。
「ねぇ貴方…あら、お客様がいらしたの?こんにちは。今日はこんなに可愛いお客様が来てくれたのね。喜ばしいわぁ」
「あぁそうだね」
「あら貴方。今日は個人のお客様がいらっしゃったのね。こんにちは。…うちのお店史上最年少のお客様じゃない?かわいらしいわね」
「うん、そうだと思うなぁ。可愛くて羨ましいね」
「ねぇ貴方、今日はうどんで良いかしら?このところ気候が変わってきたから胃が…あら、お客様がいらしていたのね、ごめんなさい。こんにちは」
「いいんだよ。でもご飯を食べるのは少し遅くなってしまうかもしれないから、ご飯はゆっくり作っておくれ」
「とし君…、あ、お仕事中!?ごめんなさい!ゆっくりしていってくださいね!」
「あらあら…、じゃあ私は引っ込んでいるわね。ごゆっくり」
「こんにちは、お客様。貴方はお仕事頑張ってちょうだいね」
「ありがとう」
様々な年代・容姿を持つ女性が、一斉に部屋の奥へと引き返す。今出てきた以外の女性らも、私たちの部屋を少しだけ覗いては去っていく。
…一体何人いるのだろうか?
娘がしがみついてきたことで、私は我に返る。
彼女は私を見上げて涙目になっている。同じような顔が沢山並んでいる光景が、幼い我が子には恐ろしかったのだろう。私は娘を抱きしめて、「怖くないよ」と撫でた。
「……すみません。怖がらせてしまいましたね。彼女たちに悪気はないのですが」
男性の声に、私は娘から男性へと視線を移す。彼は申し訳なさそうに縮こまっていた。
「悪気なんて…。挨拶をしてくださっただけですし」
「あぁ…分かっていただけて嬉しいです。お叱りを受けることがあるものですから」
「彼女たちはロボット…ですよね?」
「そうです」
「…様々な見た目の方が」
「出来も色々だから怖いですよね。はは」
初期の頃の彼女もいるから、と彼は付け足した。
「実は私も妻を亡くしていまして」
二十年前、彼も私と同じく、病気で妻を亡くしたのだという。そして彼の妻も、『最近はメモリーを残す人が多いから』と、彼のためにメモリーを残してくれた。
「私たち夫婦には子供もいなかった。寂しかったのです。だからメモリーを活用して妻を作ろうと思い立ち、ロボット製作を始めました。それが今の仕事に繋がっているのですから面白い話ですよ」
男性は苦笑いを浮かべる。
「記憶に見合ったものは作れません。記憶は膨大にあるのですから。覚えていなかったとしても、長さはどうあれ沢山の時間を共に過ごしたことに変わりはない。それらをすべて再現なんてできないから、どんなに作っても違和感がある。…しかしどの妻にも私の思い出が詰まっているから…壊すことも捨てることも出来なくて、今に至ります。お恥ずかしい話です」
俯く彼に「おじさん泣かないで」と娘が声をかける。男性は返事をする代わりに顔を上げ、ほほえんだ。
「ありがとうね。…妻と共に過ごしていても作れないのですから、誰かの大切な人を作るなんて出来るわけがないのです。仮に作ってもきっと、強烈な違和感を抱かせることになる。私はそれが嫌なのですよ」
男性は上品にほほえむとペンとタブレット端末をポケットに戻した。
「娘さんにはあなたが、あなたには娘さんがいる。だからあなたにはどうか、別の選択肢を選んで欲しい」
「…」
私の口が塞がる。男性に伝えたいことがあっても言葉にならない。どれも安っぽい言葉になってしまいそうだったから。
「お父さん帰ろう?」
そんな私の背を、娘がまたしても押した。
「ねぇ帰ろう?ねぇ」
娘は私の腕を揺らして急かす。彼の妻がそんなに怖かったのか、はたまた男性の言葉に動かされたのかは分からない。ただ娘の急かし方が尋常ではないことは、私がこの店から立ち去る理由になった。
「目が覚め、ました。ありがとうございました。…お仕事の邪魔をしてしまって、申し訳ありません」
「とんでもない。悩んだ末にこちらに来てくださったこと、感謝いたします。同じようなことを考える方に出会えて嬉しかった。可愛らしい娘さんに出会えたことも」
男性はペンとタブレットの入っているポケットに手を入れる。そこから彼は赤い包み紙が可愛らしい飴を取り出して娘に差し出した。娘はそれを、目をキラキラさせて受け取った。
「…すみません…」
「先ほど怖がらせてしまったお詫びですから気になさらず。また何か悩むようなことがありましたらここにお立ち寄りください。娘さんほど力になれるとは思いませんが、話を聞くことくらいなら私にも出来ますから」
男性は私にも飴を差し出す。今度はオレンジ色の包み紙だ。娘が羨ましそうに見てくるから、あとであげようと思って受け取った。
建物を出る。相変わらず外は天気が良く、絶好のお出かけ日和といったところだ。妻のメモリーを持ったままなのは気がかりだが、せっかく遠出をしてきたのだから、どこかで遊んで帰ろうと思う。
「ごめんな。怖かったな」
「怖かったのもあるけど…。帰った方がいいと思ったの」
娘の表情はなんとなく暗い。娘に心細い思いをさせてしまったのだということに気が付いて、私は酷く反省した。
「お父さん寂しかったら言ってね。元気にしてあげるから。私がお母さんの分まで頑張るよ」
「…ありがとう。お父さんも、ゆりのために頑張るよ。一緒に、頑張ろうな」
「うん」
「それと今日はゆりの好きなものを食べて、好きなところに行こう」
「ほんと!?じゃあ今から遊園地に行って、カレー食べて、遊びたい!」
「うぅん…この近くに遊園地あったかな」
娘が振り向かないよう、娘の後頭部を手のひらで押さえてから私は振り返る。
三階の複数ある窓の側で、何人もの女性がこちらに向かって手を振っている。彼女たちに会釈をすると、どの女性も可愛らしい笑顔を返してくれた。
もう私は、妻の残した娘と、妻の記憶と共に生きていくということを決めている。
…決めてはいるものの、沢山の思い出に囲まれている男性のことは、少しだけ羨ましいと思った。