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憩いの春風


 穏やかな春の日差しが執務室に差し込んでいた。

 執務室で眉根を寄せ、書類に目を通していたディルは溜息を吐き出す。よくクレイはこんな作業を黙々とやっていけるものだ。いや、正しい皇子の在り方としてはクレイのほうがずっと正しいのだろう。他国から見ればディルは放蕩息子だ。それでもディルに回ってくる政務はある。国王が外交という名の旅行に出ていなければ、色々な案件の決定権を委ねることができるのだが、結局はディルとクレイ、そしてシグナル公爵で国は回っている。

 あの馬鹿親父はいつ帰ってくるもなのか。などと考えていると、執務室の扉がノック無しに勢いよく開かれた。ディルは眉をひそめる。


「キョウ。仕事の邪魔をするな。エルピスに読み書きを教えるよう言っただろう?」

「そのエルピスがさ~~~信じられないくらい馬鹿なんだよぉ」


 嘆きのように言うキョウにディルは眉根を寄せる。エルピスは確かに読み書きはできないかもしれないが、言葉遣いや語彙は豊かなほうだ。そう苦労するわけがない。ディルが黙り込んでいるとキョウは説明をしはじめた。


「まずさ、簡単な所で四則演算を教えてすんなりできたから、集合連鎖式もできると思って教えたら急につまづいてさ。2時間以上かけて教えて、今度はグリッジ係数とナビヤ幾何学についても」

「待てキョウ」


 ディルはストップをかける。頭痛がした。


「読み書きっていうのは、数式の話じゃないだろう……」

「え、でもオレが小さい頃やってたのってそういう読み書きだったぜ」

「……お前に頼んだのが間違いだった」


 天才は馬鹿の気持ちが分からない。特にキョウとは圧倒的にレベルが違い過ぎる。国内一の大学で飛び級の少年に頼むのは間違いだった。ディルは立ち上がるとキョウへと言う。


「キョウ。お前にあとは任せた。数字関係の執務ならお前も出来るだろう?」

「クレイ兄にまた怒られるよ」

「バレなきゃ良い話だ。白のエレメンツ、クレイの目にはキョウは俺の姿【有】れ」


 キョウがニヤリと笑う。


「兄上は本当に悪いなぁ」

「バレて怒られるのはお前もだけどな。共犯者」


 そう言って執務室を出れば、扉越しに「卑怯者-!」との声が聞こえた。

 ディルは城内にある図書館へと向かう。天井が高く三段に分かれた図書館は、古今東西の文献や資料が収容されている。その中には初心者用の語学教科書もあり、子ども向きから大人向きまで様々取り揃えられていた。教育として頭に凄まじい量の情報を叩き込まれたのを思い出して、ディルは苦い気分になる。学ぶことは嫌いではない。ただ書物より目で見たい。そこで感じたことを信じたい。論理というよ直感なのかもしれない。

 エルピスは椅子に座って難しい顔をしていた。その翠の瞳は教科書をじっと見ている。おそらく生真面目にキョウが置いていった数学の本と睨めっこしているのだろう。100%分からないだろうに粘るその姿勢は褒めるべきだろうが、無駄でしかない。

 ひょいと教科書を取り上げると、あ、とエルピスが声を上げる。エルピスが不満げに見上げる。


「あの……勉強しているんですが……」

「お前の頭じゃ理解できん」


 ディルはそう言うと初級編の語学の教科書をと取って渡す。


「これが全部出来るようになったら中級だ」


 ぱらぱらと初級編をエルピスは捲るが顔は険しい。それはそうだろう。さっきまで語学ではなく数学をやっていたのだから、エルピスにとって読み書きイコール数学なのだ。案の定、エルピスは言う。


「キョウ様が教えてくれたものと全然違います」

「あいつは頭がおかしいから無視しろ」


 そう言ってディルはエルピスの隣に座る。目をぱちくりさせるエルピスに言う。


「……何だ」

「もしかして教えてくれるんですか?」

「他に誰がいる」


 そう言うとぱっと明るい表情をエルピスは浮かべる。


「ありがとうございます。がんばります」


 まるで子どもだな、とディルは思いながら教科書をめくる。懐かしい文字が並んでいて、くたびれたそれは「兄弟たち」で使ったものだ。


「あの、ディル」

「なんだ」

「気分が悪いなら無理せず休んだ方が良いと思います」


 どうやら顔に出てしまったらしい。らしくもない。ディルは「平気だ」と言うとエルピスに教え始めた。キョウが悲嘆していたよりもずっとエルピスは賢かった。知識に貪欲といったほうがいいのかもしれない。学べるということに喜びを見出しているように見えた。

 興味のある単語は何でも教えた。花の名前、学部の名前、街の中にある店の名前の書き写しなど……ディルが指摘しなくてもエルピスの学習が進むようになった頃には、紙が捲る音で眠くなってきてしまった。最近、苦手な内務に追われていたからかもしれない。気付いたエルピスが翠の瞳を細めて微笑んだ。この女、こんなに綺麗だっただろうか。いやきっと眠気の所為に違いない。


「……ディル? 眠たいなら寝ていていいですよ」


 エルピスの華奢な手がディルの滑らかなウッドブラウンの紙を撫でる。

 黙れ、と言ったのか、言わないのか。よく分からないまま、ディルの意識は眠りのなかに落ちた。




***




「おや休憩ですか?」


 中庭に出ると日差しを遮るガゼポの中、ベンチに座るクレイに声をかけられた。外にいるクレイなんて珍しい。エルピスもひんやりとしたガゼポの中に入った。


「はい、ディルは寝てしまったので」

「……兄上が?」

「? どうかしたんですか?」

「いえ、また執務を放っておいたのか、と」


 キョウを使ったな、と溜息を吐くクレイは苦労人のようだ。


「そういえばエルピスさん。勉強で疲れたでしょう。甘い物はいかがですか?」


 丸テープルに置かれていたクッキーやマドレーヌを見てエルピスはクレイを交互に見る。

 

「本当に頂いても良いんですか……?」

「良いですよ。よく頑張ったご褒美です」

「学ばせて頂いているというだけ有り難いのに……でも、有り難く頂きます」


 クッキーをひとつ摘まんで口にすると、優しい甘みがじんわりと広がって、思わず顔がほころぶ。


「美味しいですね。クレイ様、甘いものが好きなんですか?」

「そうですね。頭を使う仕事が多いので」


 眼鏡の奥で優しむアッシュグレイの瞳は普段と違って柔らかい。きっと仕事中はカリカリしているだけで、本当は穏やかな人なのだろう。意外だ。意外といえば、意外だったのがディルのことだった。


「ディルって意外と教えるの上手ですね」

「……そうですね。長兄ですから」


 どこか寂しさを滲ませて言うクレイをエルピスは不思議に思う。それをクレイは誤魔化すように言う。


「とは言っても成績で言えばキョウが優、私が上、兄上が可でしたね」

「ええっそうなんですか」


 あの傲慢な態度を見るに、成績はトップのように思えた。けれど「可」なんてディルらしくもない。普通だ。

 そこでくつくつと可笑しそうにクレイは笑う。


「兄上は敢えて『可』でいたんですよ。本当は抜群に頭が良いのに、自分を侮る教師や生徒を叩き落とす為に敢えて『可』でいたんです。全く、兄上は変わらない」

「わぁお……」

「実際の頭の良さで言えば、キョウより少し劣るくらいじゃないですかね。チェスの腕前も半々ですし。ただし、2人とも壊滅的に悪い科目があったんです。何だと思いますか?」


 キョウとディルのことを考えて、ふと思いついたことをエルピスは口にした。


「家庭科!」

「正解です。正しく言うなら家庭技術科です。2人は料理といったエレメンツ無しの生活が全くできなかったんです。生活の知恵というやつですね」

「確かに……あの2人は発狂しそうです。クレイ様はその科目の成績、良かったんじゃないですか?」

「ええ。古来史を鑑みれば、エレメンツの無い生活もありますし、料理はセンスの問題でしょうか」


 話しながら、しっとりとしたマドレーヌを口にすると、上品な甘みが口の中を幸せにする。

 美味しいなぁ、と言うと、そう頂けて嬉しいです、と言葉が返ってくる。

 

『そう言って頂けてうれしいです?』


 という言葉が引っかかってエルピスは尋ねる。


「もしかしてとは思うんですが、こちらのお菓子、市販では……」

「ないですよ。私が作りました」

「えっ」


 青天の霹靂というべきか、何と言うべきか。

 驚くエルピスに、くすりとクレイが笑う。


「やはり男なのにお菓子作りなんておかしいでしょうか?」

「いえ全く。むしろ尊敬します。こんなに美味しいものを作れるクレイ様を私は見習いたいです」


 そこまで言って、ふと思いつく。エルピスは言って良いものか惑いながら問う。


「あの……もしよければ今度私に料理を教えてくれませんか? 今の私は穀潰しでしかないので……」

「……穀潰しなんかじゃありませんし、歓迎しますよ。今取りかかっている執務が終わったらすぐに──」

「エルピス!」


 会話に割って入ってきたのはディルだった。その手の中にはエルピスのストールがある。眠るディルが寒くないようかけておいたのだが、間違いだっただろうか。エルピスは「また馬鹿者」と飛んでくるんだろうなぁと思っていると、ふわりとストールをかけられた。エルピスは目を見開く。ディルは眉根を寄せたまま溜息を吐いた。


「春とはいえまだ寒い。男の俺は良いがお前は冷える。風邪をひかれた困る」


 予想外の言葉にエルピスはたじろぎながら問う。


「ええっとその、困る……というのは……」

「勿論、パートナーとしてだ」


 きっぱりと言い捨てられて、だよなぁとエルピスは思う。少し何故か心が痛むことに首を傾げる。それよりもクレイとディルの対峙は剣呑としていた。


「兄上……何度執務を投げ出すのですか……? このまま私とシグナル公爵を過労死させる気で?」

「適材適所というやつだ。諦めろ」

「……いいですか、兄上。長兄である兄上しかできない事もあるのです」

「どうせ父上がその内帰ってくるんだ。今は俺しか決定権がないことでも、父上がいれば万事解決だ」

「その外交という名の旅行馬鹿の父上が帰ってこないから大変なんですよ……!」


 クレイの怒りが蓄積されていく。だがディルは全く気にした様子はなかった。


「案ずるなクレイ。俺はお前を信用している。家族という点を抜いてでもな。だからこそクレイ。俺はお前が決定した事に異議はない」

「……それが兄上の意に反するものでも?」


 真剣な眼差しでクレイが尋ねれば、ディルはふっと笑った。


「全幅の信頼を置いているからな。仮に意を反するものならお前を殺すさ」

「兄上、言っていることが矛盾しているように聞こえるのですが」

「決定権と個人的な感情は別だろう」


 意地悪く笑うディルにクレイは長い溜息を吐き出した。


「……まぁ良いでしょう。エルピスさん、今度また連絡しますね」

「はい、楽しみにしています」


 クレイを見送ると、ディルが酷く不満げにこちらを見ていた。相変わらずその目は氷点下のように冷たい。何かしてしまっただろうかとエルピスが考えていると、ディルは不機嫌を隠さないまま言う。


「エルピス。明日の夜、また社交界に出るぞ。目的は痲薬カヘン窟……カヘンの大規模なバーの摘発だ。そこからカヘンの流通先を調べる。俺たちの仕事はカヘン窟がどこにあるか、ロン侯爵がそれに関与しているかまでだ」

「私の役目は?」

「舞踏会の主催者であるロン侯爵に近づいて欲しい。一番にカヘンとの繋がりが怪しまれている。ロン侯爵はおそらく次の『顧客』を探すだろう。お前にはその痲薬に興味があるそぶりをしてほしい。ロン侯爵は女好きで有名だ。すぐにお前に食いつくだろうよ。俺の方からも違う人間で探ってみる」


 ここまで話してもディルの機嫌は一向に直らないままだった。

 耐えきれずにエルピスは口を開く。


「ディル、どうしたんですか? 何か私、悪いことしてしまいましたか?」

「……お前が……」


 ディルの満月の瞳が、何かの感情を含んで細められる。


「……いや何でも無い。忘れろ」


 だがディルは何も言わなかった。言い淀むなんて珍しい。けれどディルはそれ以上何も言わないようでだんまりだ。エルピスは仕方なくその場を去ることにした。


「それじゃあ明日頑張ります。今日はまた勉強に戻りますね」

「待て」


 何か言われるのか。思っているとディルが金色の瞳を気まずそうに彷徨わせて言う。


「俺も一緒に行く。調べ物ついでにお前の勉強も見てやる」

「え……いいんですか?」

「いい。ほら、行くぞ」


 ディルに手を取られ歩き出す。その手はエルピスとは対照的に冷たい。

 ふふ、と思わずエルピスは笑ってしまう、振り返ったディルが「何を笑っている」と言う。エルピスは答える。


「手が冷たい人って、心が温かいんですって。でも全然ディルと合ってないなぁと……すみません」


 反射的に謝る。殺気を帯びた目で見られる。──と思っていたのに、返ってきたのは微笑だった。


「よく理解しているじゃないか。お前をパートナーとして選んで正解だったな」


 そう言うとディルはエルピスの頭を軽く撫で再び歩き出す。自分より高い背を見ながら、エルピスは妙に落ち着かない気分でいた。胸が痛いような、むずがゆいような、歯痒いような。持っている単語を使っても、しっくりくるものが出てこない。組み合わさってくれない。

 ディルに聞こえないように、パートナーかぁ、とエルピスは呟く。

 エルピスとディルはパートナー。

 仕事の上での信頼関係に過ぎない。

 理解している。理解した上で、この命を預けた。

 ただ同じ空間で過ごす内に、妙に距離が縮まってしまった。目で追える範囲にディルがいる。会話できる。パートナー。分かっている。けれどこの時折、胸がちくりと痛むのは、何故だろう。エルピスは99回の人生を紐解いてみる。けれどそれに該当する言葉はない。


 それでもディルがふとした瞬間に見せる、小さな優しさや、微笑が、春風のようにエルピスの胸を震わせるのは確かだった。



ここまでお読み下さってありがとうございました。

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